scene5


 

 
 火事があったあの日から早い物で今日で一週間。 
二号店での営業も問題なく、すっかりいつもの日常が戻っていた。 
 
晶のいる一号店も、「来週には営業を再開する事が決まった」と先程坂下から連絡を貰った。枕に顎を乗せたまま、二日酔い気味で痛む頭に晶は眉を顰める。 原因は二つ。昨夜の酒の量が通常より多かった事、それと色々な酒を混ぜたせいだ。ある一定の酒量を超えると翌朝必ずこうして二日酔いになるのは長年の経験 でわかっている。 
では何故避けられなかったかというと、これにはちゃんと理由があった。火事のあった事が客にもすっかり知れ渡ってしまい、普段高い酒を入れる機会がない晶の客達がここぞとばかりに押し寄せ、お見舞いと称して高い酒をいれてくれたからである。 
折角入れてくれた酒を飲まないわけにはいかないし、他のホストがしているように途中で吐きに行くというのも自分のポリシーに反するのでしたくなかった。 ――だって勿体ないじゃん?――そんなポリシーと呼べるかどうか怪しいレベルの小さなこだわり。なのでここ一週間、晶の売り上げは断トツで跳ね上がってい ると同時に毎日二日酔いである。 
 
売り上げがあがって二号店に貢献出来ているのは勿論嬉しい事ではあるのだが、怪我のせいで当初予想していたよりずっと客に心配をかけている事に少し申し 訳ない気分にもなる。こういうのって『怪我の功名』って言うんだっけ。それとも『不幸中の幸い』?どっちでもいい事を考え、携帯のネットで意味を調べよう かと思ったがその動作さえ面倒くさくなってやめた。 
売り上げが上がって、気分も上々……といきたい所なのに、晶は引き続きベッドで布団を頭からかぶって浮かない気分でいた。二日酔いだからというだけではない。今日が診察日だという事の方が大きい。 
傷はもうそんなに痛む事もなく、大袈裟にグルグルと巻かれていた包帯も三日前に診察した際には、すっかり局所だけの包帯に代わり上に服を着ていればわからない程度になった。 
晶は枕から顔を上げるとベッドの横に置いてある大学ノートを視界にいれ「うぅー……」と小さく呻いた。 
 
 
三日前の事。 
消毒と傷の具合を診察して貰うため訪れた病院で、佐伯に会う事は無かった。 
喫煙所で話した時に言われた言葉、口に強引に挟み込まれた佐伯の煙草、そして触れる佐伯の指先の温度。 
あの夜から、煙草を吸う度に佐伯を思い出してしまっていた。これは佐伯の思うつぼなのだとわかっている。あぁやって人をからかって佐伯本人はきっとそれ をゲームのように楽しんでいるだけなのだ。特別な感情があっての行為ではないはず……。だって他に何があるというのか、晶はもう何度目かの自分の問いに自 分で答えを探す。 
 
滅多にないが、時々男の客に指名される事がある。下心があったとしても、なかったとしても客には違いないので勿論男の客にも変わらず接するわけだが、恋 愛対象として好意をよせてくれている場合は話していてわかるものである。佐伯にはそれもない、ような気がする。好意を寄せているなら普通もっと優しくする だろうし……。やはりわからない。佐伯もわからないが、自分が佐伯の事をこんなに考察している事もわからない。 
――気になる。 
どうして気になるんだ??その最終ゴールに辿り着く前に晶は考えをシャットアウトした。診察日の前の夜はそんな事をずっと考えていて睡眠時間がどんどん削られ、結局眠ったのは朝になってからだったのだ。 
そこまで考え抜いて睡眠を削ったというのに……。 
 
「佐伯先生は本日学会でお休みなので別のドクターの診察になります」 
「……はぁ」 
 
診察券を出した受付で笑顔でそう言われ間抜けな返事を思わず返してしまう。 
正直な所、晶は拍子抜けしていた。佐伯に会わずに済むというのは朗報なはずなのに、スッキリしない。会いたいわけでもないが、会いたくないわけでもない自分も居る。 
佐伯の代わりの医者は、かなり年配で佐伯と違ってとても優しかった。 
患者は怪我や病気で弱っているのだから、医者はこうでなくちゃいけない。佐伯のような医者が特別なのだ。そう思いながら処置を受け、その後診察室へ戻ると、思い出したように大学ノートを渡された。救急車で運ばれた際に病院に置き忘れていたあのノートだ。 
病院へ忘れ物が無かったかノートの件で連絡を入れた際に、診察した佐伯が保管しているから次の診察時に受け取って下さいと言われていたので、別に驚くことでは無かったのだけど。 
 
「あぁ、これね。佐伯先生から預かっていた物を渡しておくよ」 
そう言って渡されたノートは、丸めていたはずなのに綺麗にまっすぐに直っており、汚れないように丁寧に透明なビニールの袋に入れられていた。 
「とても大切な物だって聞いたよ?良かったね、佐伯先生が拾ってくれてて」 
老眼鏡をずらして晶の顔を見てニッコリと微笑まれる。ノートに視線を落とし、神妙な面持ちで黙っていた晶はその笑顔に慌てて返事を返し、笑顔を呼び戻す。 
 
「え……あ、いや。どうも有難うございます……こんな丁寧に保管して貰っちゃって」 
「ん?あぁ、佐伯先生がしたんじゃないかな。僕はただ渡してくれって言われただけだから」 
「そう……なんですか。助かりました」 
 
目を細める医者にお礼を言いノートを受け取って思う。ノートの件で電話を入れた際に、特にこのノートが自分にとって大切な物だという事等は言わなかったはずだ。佐伯にとってはただの薄汚れたノート、それだけのはずだ。 
几帳面に閉じられたセロテープに爪を立てる。てっきりまた馬鹿にしてくると思っていたのに……。『大切な物』晶にとってのそれを佐伯も大切にしてくれていた。思わぬ所で知りたくなかった佐伯の優しさを知ってしまい、もやもやする。 
――口は悪いけど……もしかして……結構……。 
もしかして、何?うっすらと『実はいい人説』が浮かび上がってきて晶は首を振った。 
いや、それはない。もし仮にほんの少しいい人成分があったとしても相性は多分、最悪な相手だ。 
 
受け取ったノートを手に持ち、病院を出て店へ戻る道すがら、喫煙所の前を通りかかる。喫煙所には誰もいなかった。 
あの日並んで腰掛けたステンレス製の柵の前にひとつだけ置いてある水を張った大きな灰皿。何種類もの煙草の吸い殻が濁った水に浮かぶ、その中に落ちてい く自分の吸った煙草、そして佐伯の吸った煙草。水に落ちた瞬間、火種がジュッっと音を立てて消え沈んでいく。たった数分で終わってしまう煙草のように消え てくれたらどんなにいいいか……。 
未だ燻る佐伯が寄こした小さな火種は晶の中では消えてくれなかった。晶は足を止めて無人の喫煙所へもう一度目を向ける。 
 
――それが俺の味……か……。 
 
勝手な行動と、人を拒んでいるような雰囲気を持つ佐伯。佐伯は男で、勿論自分も男である。考えた事の無い感情が晶の知らない奥底で静かに揺れる。味わっ たGITANES BLONDESの味と共に忘れられない存在として刻まれていた。火種に囲いを作って、その火が消えないようにしているのが自分だという事に気付きたくな かった。 
 
 
いつまでもベッドでダラダラしているわけにはいかない。時間はどんどん過ぎてもう出掛けるギリギリの時間になっていた。今日は抜糸をするって言ってたっ け……。夜型の生活をしている晶にとって昼に出かけるというのはなかなか辛く、行動力が格段に落ちている。大きくのびをした後、ベッドから起き上がると出 掛ける支度を始めた。 
ベッドから出るとさすがに裸では寒く、晶は肩をすくめ脱ぎ捨ててあるシャツを拾って羽織る。とりあえず煙草を咥えて火を点け、咥えながら重いカーテンを 開けると、ネオンに焼けた目に痛いほどの日差しが射し込んできた。ふぅと煙を吐き出すと、窓から見える雲と煙が混ざっていくような気がする。 
太陽に目を細め、この先もずっとこんな日差しの中に入っていく事はないだろうなとそんな事を考え、薄い方のカーテンを閉め直す。 
 
晶が病院についたのは予約をしていた10分前だった。 
思っていたより早く到着する事が出来たのは電車の乗り継ぎが良かったからかもしれない。自動ドアを抜けて外科の受付のある二階へと向かう。昼が近いからな のか、入院している患者の中でも食事制限のない患者が途中の売店で昼食を買っていたり、院内のテラスで見舞客と共にランチを食べている姿が見受けられる。 
二階へ到着し、小児科、循環器科を通り過ぎ、外科とかかれた受付に診察券と保険証を提出する。 
3日前に来た時と同じ看護師に「おかけになってお待ち下さい」と言われ、目の前の椅子の一番窓際へと腰を下ろす。聴いてきたMP3プレーヤーの電源を落 とし、イヤホンを耳から外し、何気なく受付の横に目をやると、受付の隣に壁掛けのホワイトボードがあり、一週間それぞれの曜日の担当医の名前のマグネット が貼られていた。今日の日付の所には『佐伯』ともう一人知らない医者の名前があった。どうやら今日は学会とやらはないらしい。 
今頃、中で別の患者が佐伯の診察を受けているのだろう。今日の予約は午前中の最後の枠にしたので、晶の他に待っている患者は数人で、椅子が並ぶ廊下は閑散としている。 
 
10分程して少し離れて座っていた会社員らしき男が呼ばれて診察室に入っていった。時間的にはもう予約の時間になっているが、総合病院というのは得てし て時間がずれ込む事が多いのでこうなるのは覚悟している。晶は手持ちぶさたに辺りを見回して、手近にある週刊誌を手に取って読み始めた。 
週刊誌の嘘か本当かわからない芸能ゴシップにも飽きてきて、もう一冊の別の雑誌を手に取った所で、階段の方から話し声が聞こえてくる。一度だけ振り向い て声の主を確認した後、晶はすぐに元の位置へと身体を向け、誤魔化すように雑誌の適当なページを開いて俯いた。てっきり診察室にいると思っていたのに、こ ちらに向かってきているのはどうやら佐伯のようだ。 
どんどん声が近づいてくる。全く読んでもいない雑誌の開いているページが川柳のページだったが、そんな事を気にかける余裕も無かった。印刷されている文 字をひたすら眺めて見るが、頭の中には言葉がカタコトで抜けて行くだけである。ドクシャトウコウ オオサカザイジュウ ペンネームキノウノバンゴハンサ ン……。 
 
「502号室の渡部さんが、16時からの手術の前にもう一度説明を聞きたいと仰っていますがどうしますか?」 
「あぁ……そう、本人が言ってるのか?それとも御家族の人?」 
「ご家族の方です」 
「じゃぁ……昼の診察が終わったら時間作るから、カウンセリングルームに呼んでおいてくれ。あぁ、それと506の金井さんだったかな。一昨日、内視鏡の手術をした60代の……」 
「はい、金井さんですね」 
「その患者はもう、午後から一般病棟に移していいから」 
「はい、わかりました」 
 
別に聞き耳を立てているわけではないが、静かな院内での会話は結構響く。当然だが看護師に対しての佐伯は普通の話し方である。ゆっくりとした口調の低く 通る声。さっき一度振り向いて見た仕事中の佐伯は、やはり白衣がとてもしっくりきている。悔しいけど男からみても働いている佐伯は魅力的にうつった。 
 
「じゃぁ、そういう事で頼んだよ」 
 
最後に看護師にそういって佐伯は晶の方に近づいてきた。 
――何でこっちに来るんだよ……。 
晶はひたすら佐伯に気付かない振りをしていた。このまま通り過ぎて診察室へ入ってくれ。晶のその願いは叶えられるはずもなく、通り過ぎていったのは看護 師だけである。遠ざかる看護師の背中に助けを求める視線を送るが、勿論気付いて貰えない。佐伯は晶の前でぴたりと足を止めた。 
 
「三上さん、今日は抜糸ですね」 
 
佐伯が頭上から話しかける。人がいないと「お前」等と不躾に呼んでくるくせに、取り澄まして名字を呼んでくる事にすでに遊ばれている気分になってしまう。 
――なにが……「三上さん」だよ……!という心の声をグッっと我慢して、晶は顔をあげるとわざとにっこりと微笑んだ。完璧。全く気にしていない自分を多分演出できている、はず。 
 
「あぁ、先生。多分、今日抜糸したらもう、ここにくる事もないと思います。お世話になりました」 
軽く頭を下げるオプションもつけてみる。 
「そう。それは残念だ…………。おっと不謹慎だったかな?」 
 
佐伯はわざとらしく笑うと晶の持っている雑誌を片手で取り上げた。頭上の佐伯を見ようと首をあげると、その高さに首が痛くなる。佐伯は取り上げた雑誌をつまらなそうにパラパラとめくった後閉じて片手で持つと、表紙を晶に向かって見せた。 
 
「月刊・俳句と川柳……ホストっていうのは何でも読むんだな」 
 
別に読んでいたわけではないが晶は雑誌を取り返すと溜息をつく。大人の態度で接してやっているというのに、佐伯はそれに合わせてくれる気はないらしい。 受付をチラリとみるとさっきまでいた人影はなく、待合室にいるのも自分だけだった。佐伯と二人きりになった事で、もう逃げ場はない。 
 
「……別に何読んでたって関係ねぇだろ」 
小声で返すと佐伯は心外だとでも言うように大袈裟に首を振った。 
「関係あるさ。君のことは何でも知りたい。そう言ったらどうする?」 
 
今周りに誰もいないからと言っても佐伯の声はよく通る。それなのに佐伯は平然とそういう事を言ってくる。晶は雑誌を隣のラックへと突っ込み、立ち上がると佐伯の肩を叩き耳元で低く囁いた。 
 
「ちょっと…………こっち来いよ」 
 
晶は佐伯を連れて非常階段の踊り場まで足を運んだ。ほとんどの診察が終わって昼休みの今の時間はとても静かだったし、足音が近づけばすぐにわかる。とりあえず、すぐには晶達の所に人が来る気配もない。 
薄暗い蛍光灯が淡い光を放っている中、晶は佐伯に向き直ると壁に背を預け溜息をついて視線をむけた。白衣のポケットに手を入れたまま、佐伯は何も言わず 晶を見下ろしている。自分も身長はそれなりにある方だと思ってはいるが、佐伯はそんな晶よりずっと長身である。じっと視線を送られれば、何だかその視線に 責められている気がしてくる。こんな所で二人きりになるように自分から仕向けるのは、もしかして間違いだったのかも。ちょっとだけ後悔が押し寄せたが、そ れを気付かせないようにわざと呆れた口調を滲ませて佐伯へと口を開く。 
 
「いいかげんにしろよ。あんた、どういうつもりだよ」 
「何がだ?」 
「何がだ?じゃねぇだろ。何で俺にそんなに絡んでくんの?理由を聞かせろよ」 
 
晶も佐伯から視線を外さないでいたからなのか、いつも自信家で余裕を見せている佐伯が一瞬ほんの少し表情を陰らせたのを晶は見逃さなかった。 
――……何だよ……そんな顔しやがって……。 
すぐに元の佐伯に戻っていたので、もしかしたら見間違いなのかもしれない。ふてぶてしくて冷静で、いつも人をからかうような皮肉ばかり言っている。そんな佐伯が見せた寂しそうな表情……これさえも、佐伯の策略の内なのだろうか。 
晶は、そう思いながらも次の言葉を躊躇って飲み込んだ。乾いた唇を舌で濡らす。 
 
佐伯は軽くため息をついた後、晶の目の前に指を一本差し出した。何が始まるのかと佐伯の指に視線をとめる。綺麗に整えられた爪と長い指。3本出されたその指を折りながら佐伯は言葉を続けた。 
 
「教えてやるよ。お前に構う理由は大きく分けて3つある。1、医者として患者のお前の身を案じている。2、ホストに興味がある。3、……お前に惚れた」 
――って……え? 
佐伯の説明はわかりやすかった。だけど、わかりやすいのと理解できるのとはまた話が別である。晶は自分の耳を疑った。 
「……は?今なんて言った?1と2はともかく、3は何だよ。俺は真面目に聞いてやってんのによ」 
「俺も至って真面目だが?冗談は苦手でな」 
 
――まてまてまて。何この状況。 
 
晶の中で、今、佐伯が言った言葉が何度もリプレイされる。――俺に……惚れてるだって?――出会った日に売り言葉に買い言葉で自分が佐伯に言った台詞 だ。全く予想していなかったといえば嘘にはなるが、男同士な上に、少なくとも今この場でこんな事を言われるとは思っていなかった。全然ムードもへったくれ もないけど、これは間違いなく愛の告白である。 
告白、それは相手に自分の好きという気持ちを告げる事。そうだよな?晶は全世界の誰でもない誰かに答えを求める。告白相手を目前にし、躊躇いもなく説明 口調で淡々と言ってのける佐伯は心臓に針金でも生えているのではないかと疑ってしまう。──晶の胸がドクンと音を立てて跳ね上がった。 
 
佐伯は折り曲げた指を晶の耳元にもっていき耳にかかる晶の髪を指ですくうように絡ませる。長い指が晶の髪に触れ、耳朶のピアスを指先が掠める。晶は全身が途端に熱くなるのを感じて咄嗟に佐伯の手を払いのけた。早まる心音が煩くて自分の声が反響する。 
「…………触んな……よ……」 
やっとの思いでそれだけ言うと、晶は佐伯から視線を外した。佐伯の指を払ったのは……、これ以上触れられると自分が自分でなくなってしまいそうだったか らだ。色恋事には慣れているつもりでいた。指先から伝わった感情。そんな優しい触れ方をするなんて……卑怯だ。これじゃ、まるで……。 
佐伯は払いのけられた手を見て自嘲するように呟いた。 
 
「手に入れたい物は……こうして滑り落ちていくばかりか……」 
「…………」 
 
それ以上は何も言わずに晶に背を向ける。咄嗟に言葉が出てこなかった。「悪かったな、忘れてくれ」静かにそう言って歩き出そうとする佐伯の背中に晶は言 葉より先に反射的に腕を伸ばした。そうしなきゃ後悔する気がしたからだ。あと少し届かない白衣に一歩を踏み出す勇気を探す。 
リノリウムの壁が佐伯の背中を青白く照らし佐伯が遠ざかる。佐伯の背中で揺れる長い髪、出会った日からずっと晶の中で存在し続けた佐伯の存在。苦手で腹が立って、会いたくなくて、話しだって全然噛み合わない。吸ってる煙草も、つけている香水も、住む世界だって違う。 
それでも、忘れられなくて、毎日思い出しては気になっていた自分の本当の理由……。 
晶は辿り着けないようにロックしていた心の鍵を自分の手で壊した。 
 
「……待てよ」 
一歩を踏み出した晶の指が佐伯の白衣に届き、ぎゅっと掴む。引き留める言葉を呟き、そのまま佐伯の背中に壊した鍵を投げつけた。 
「勝手な事言ってんなよ……散々人のこと煽っておいてさ……」 
「…………」 
「忘れろってそりゃねーだろ!俺は……、俺はあんたと会ってから何かもう、色々めちゃくちゃなんだよ!考えたくないのに、あんたの事思い出したりして、こっちは散々な日々を送ってんの。このまま逃げんのかよ……あんた男だろ」 
 
言ってしまった。思っていたこと全てを佐伯にぶつけた事で今まで胸に淀んでいた物がすっと消えていくのを感じる。 
佐伯の足が静かに止まる。ゆっくりと振り返った佐伯が晶を見つめて薄く笑った。 
――燃える。そう思った。佐伯の残していった火種から静かに炎が揺らめき出す。 
 
「晶……俺の本気が見たいか?」 
 
佐伯に初めて名前を呼ばれ、自分の中での佐伯の存在の意味を確信する。もう……目をそらす必要は無かった。名前を呼ばれただけで疼く胸の内をもう誤魔化せない。 
――これって……マジ恋ってやつ、なのかも……。 
男を好きになった事なんてない。まして、佐伯みたいにでかくて可愛くもなく愛想もない相手を好きになってしまうなんて、自分はどうかしていると今でも思う。だけどもっと佐伯の事が知りたかった。甘いだけの恋愛感情じゃなくてもいいから。 
晶も真っ直ぐに佐伯を見つめる。佐伯のゲームに乗るのも悪くない。今はそう思っている。 
 
「いいぜ、見せて見ろよ」 
 
そう返すと佐伯は晶に近づき、壁に押しつけると覗き込むようにして長身をかがめた。佐伯の吐息がかかるほどに近い。まさか自分が壁ドンをされる側になる日が来るとは思ってもいなかった。結び目からこぼれ落ちる佐伯の髪の一束が晶の頬をかすめ、サラリと落下する。 
ゆっくり接近した佐伯の唇が晶の唇に重なり、晶は睫を僅かに伏せる。佐伯の着ている白衣からエタノールのような消毒の匂いがした。 
急な展開についていけない身体を目覚めさせるように唇に神経を集中させる。女とは全く違う、互いが奪い合う口付け。唇から伝う熱は互いを痺れさせ、晶の薄い唇をなぞるように舌が動き歯列を割って侵入してくる。 
 
「…………佐、伯……」 
「要って呼べよ…………」 
 
「…………かな、め……」下の名前で呼び直すと佐伯は再び口を塞いでくる。繰り返される口付けは次第に深くなっていく。貪るような力強いそれは、晶の今ま で味わった事のないものだった。情熱的なその口付けに晶も舌をかえす。絡み合う舌先から佐伯の想いが伝わってくる。一気に受け取れないほどの想い。佐伯の 舌は言葉よりも饒舌だった。 
濡れた唇から溢れた唾液が一筋つぅーっと顎をつたいこぼれ落ちる。 
 
「晶……お前が欲しい……」 
 
囁くように与えられたその言葉が晶の中に響いた。二人は何度も確認をするように口付けを繰り返す。壁に背を預けていないと力が抜けていきそうだ。そう思った瞬間、口付けはあっさりと解かれた。佐伯の唇がすっと離れたのは、頭上から足音が聞こえてきたからだ。 
誰かが階段を降りてくる。まだ小さくしか聞こえない足音はだいぶ上の階からの物なのだろう。晶も現実に引き戻される。足りなくなった酸素を求めて乱れた 呼吸を整えるように深く息を吸う。ここは病院で、まだ昼間である。自分がこんな場所に佐伯を引っ張ってきたのだ。佐伯はそっと身を離すとまたいつもの冷た そうな笑みをこぼす。しかし、その笑みの中に今は少しだけ佐伯の愛情を見つける事が出来た。 
 
「さすがはホストだな……キスのテクニックは上々だ」 
「そりゃどーも……あんたも医者のくせに結構いい感じだったぜ」 
「当然だ」 
 
佐伯は少し乱れた長い髪を軽く整えると何も言わずにまた非常階段の重いドアをあけて出て行った。 
──何の約束もしない。 
──次にいつ会うのかさえも……。 
しかし、それは二人にとっては酷く意味のない物だった。 
 
晶が待合室に戻った時にはすでに受付がしまっていた。まぁ、当然である。とっくに名前を呼ばれたはずだ。佐伯がきっとうまい事話しをつけてくれるだろう。抜糸をする日が延びてしまう事になるが仕方無い。晶は病院を後にした。 
 
外にでると途端に都会の喧噪が耳に流れてくる。ゆっくりと歩き出した晶の背中に昼の日差しが照りつける。笑ってしまうくらいのいい天気だ。病院へ向かう時の悶々とした気分が嘘のように晴れ渡っていて、いつもと同じ景色が少し違って見えた。 
今度あったらちゃんとノートのお礼を言おう。そして、次の約束をするのも悪くない。青空に向かって顔をあげてそう思いながら歩く。 
胸元の煙草を取り出そうとして晶はふとその手を止めた。近くに煙草の自販機がある。晶は小銭をさぐって自販機に投入する。軽い音を立てて小銭が吸い込ま れた後、自販機には赤いランプがずらっと点滅する。ボタンに指を滑らせ、止めた先にあるのは青いパッケージのGITANES BLONDES。 
コトリと音を立てて煙草が取りだし口におちる。歩きながら吸うことは出来ないが、晶は封を切って一本口に咥えてみる。 
 
──煙草は……要の味がした……。 
 
 
その頃、病院の横の自販機では佐伯が煙草を買っていた。昼休みの間に吸う煙草を補充しにきたのだ。小銭を投入し迷いもなく一カ所のボタンを押す。まっすぐに押したその先には赤いパッケージのMallboroがあった。