Last scene


 

 
 二号店での仕事を終えた後、久しぶりに晶と玖珂は一緒に茜の店に来ていた。 
晶の怪我の完治祝いと、茜の店の再開を祝してという名目だが、本当は別に理由は特にない。まだ玖珂と一緒に働いていた頃は、たまに客がはけた後で茜の店に遊びに行ったものである。玖珂は茜の店のママとも随分長い付き合いなのだ。 
 
茜の店の被害は少なく一昨日から営業を開始しているので、晶と玖珂の他にも今夜は常連客で賑わっていた。奇抜な色合いの賑やかな店内の中、茜を交えて さっきから他愛もない世間話をしている。いつもなら他に数人卓へつくのに今夜は忙しいらしく、玖珂も「こっちは気にしなくて良い」と最初に言ったせいで、 一緒に飲んでいるのは3人だけだった。最初挨拶で来ていたママが他の卓へ移動したので、今は晶を挟んで両隣に玖珂と茜が座っている。 
 
そして、さっきから妙に茜の様子がおかしい事に晶は気付いていた。 
普段なら一緒に卓へついている他のホステスとふざけたり、かなり騒がしくしているのに、今夜はどうだ。やけに大人しくないだろうか?先程なんて茜の十八 番であるカラオケソングが流れたのに、それすらスルーである。席に座ったかと思うと落ち着かない様子でグラスや灰皿を替えに行ったりしているし……。 
何度目かの灰皿を替えて戻って来た茜に晶は思い切って聞いてみる。 
 
「なんか、茜姉さん。今日おかしくないっすか?」 
 
晶が不思議そうに訪ねると茜は慌てた様子で大袈裟に顔の前で手を振って見せた。熱いのか顔が真っ赤である。そこまでまだ飲んでないし、噂によると茜の酒の強さは相当なものらしいから酔っているとも考えづらい。 
 
「やだ~!晶ちゃんの気のせいじゃないのぉ?私はいつもと一緒よ。あ、ちょっと熱いわね!今夜!そのせいかも」 
「あ、そう?ならいいけどさ。俺はてっきり……茜姉さん、玖珂さん狙ってるのかな~って」 
 
面白半分でからかうように玖珂の名前を晶が出した途端に茜は『やだやだ』とするように晶をバシバシ叩いてきた。夕方抜糸したばかりの場所に直撃である。 
 
「痛っ!何するんっすか。俺、怪我人なのに、酷いっすよ~。ってか図星!?」 
晶が笑いながら腕を庇うと茜が慌てて心配そうに覗き込む。玖珂がその横で晶達のやりとりを微笑ましく見ていた。 
「あら、やだ違うわよ!ごめんね、晶ちゃん、痛かった??いやぁーね~もう。私ったら」 
早口でまくし立てた後、謎のジェスチャーつきおまじない「痛い痛いの飛んでいけ」まで頂いてしまった。 
 
茜は明らかに態度がおかしかった。晶は玖珂の方を向くとこっそりと耳打ちする。耳打ちといってもその声はちゃんと茜に聞こえる程度には大きい所がポイントだ。 
 
「先輩、茜姉さん、マジっぽいっすよ?どうします?」 
 
茜が晶を軽く睨んで口を尖らせているのを見て、晶は苦笑する。茜のこういう所が本当に可愛いらしいと思う。玖珂が、吸っていた煙草をテーブルの灰皿で消すと茜に視線を投げて微笑む。 
 
「そうなの?じゃぁ、レディには優しくしないといけないね」 
玖珂がそういってテーブルを回り茜の隣に腰を下ろす。茜の顔はもう誰が見ても誤魔化せないほどに真っ赤になった。 
「玖珂さんったら、レディーだなんて。もう~、お上手なんだから!」 
 
玖珂よりは少し背の低い茜が玖珂の肩にしなだれかかる。その顔が本当に幸せそうで、晶も笑ってグラスの酒に手を伸ばす。玖珂はしなだれかかってきた茜の肩に手を回して優しく顔を覗き込んだ。 
 
「魅力的な女性はレディと呼ぶことにしているんだが、構わないかな?」 
「やだ!!そんな勿論よ……あの……玖珂さん、もう一杯如何?愛を込めてお作りするわ」 
「それは嬉しいね。是非、お願い出来るかな。今夜はご一緒できて幸せですよ」 
 
茜の目はもうすでにハート型といっても差し支えないほどである。玖珂はホストをやめた後でも、やはりホストだった。晶はチラリと腕時計を見て時刻を確認し、飲みかけのウィスキーを流し込むと立ち上がる。 
 
「んじゃ、俺はお邪魔みたいだから~。消えるとしますかね」 
「なぁに?晶ちゃん、今日は随分気が利くじゃないの」 
「何言ってんの、俺はいつでも気が利くっしょ?」 
「そうね、晶ちゃんもとーっても気が利くいい男よね」 
「そうそ!」 
茜と玖珂が笑い、晶も笑う。 
 
「晶、気を付けて帰れよ?もう遅いからな。ちゃんとタクシーを拾って」 
 
まるで保護者のようにそういい、タクシー代を心配そうに晶へ渡してくる玖珂に思わず苦笑してしまう。玖珂はみかけによらず心配性なのだ。こうして一緒に 飲みに行くといつも必ず帰りのタクシー代まで気遣ってくれる。まだ晶が全然稼ぎがなかった頃はともかくナンバー1になった現在もそれは変わっていなかっ た。何だか昔に戻ったようで懐かしくなりつつ、玖珂の好意を素直に受け取る。 
 
「いつもすみません。せいぜい襲われないように気を付けて帰ります」 
 
冗談でそういうと、玖珂は好意を受け取ってくれた事が嬉しいのか、優しい笑みで頷いた。 
茜が「また来てね」と入り口まで見送りに来てくれる。扉があいた途端に外気の冷たい風が入り込んできた。相当外は冷え込んでいそうだ。 
 
「茜姉さん、報告楽しみにしてっからさ。うまくやりなよ?」 
「もう!晶ちゃんったら」 
 
最後にもう一度からかうと茜にふざけ半分のげんこつをお見舞いされる。茜の店の一階下の一号店は、まだ営業していないので真っ暗である。晶は店の前を黙って通り過ぎて階段を降りて外に出た。 
 
 
通りに出ると強い風が吹いており晶はコートの襟を無意識にかきあわせる。随分遅い時間のせいか通りにはあまり人も通っておらずひっそりと静まっていた。白い息を長く吐き、ぼんやりと一日を振り返りながら、ポケットに手を突っ込んで歩き出す。 
コツコツとアスファルトに自分の足音が響き、足元からもひんやりとした冷気がのぼってくる。基本的に厚着が嫌いなのだが、今夜はもう少し暖かい格好をしてくるべきだったかもと若干後悔しつつ肩を震わせる。 
 
――……佐伯は今頃何をしているのだろうか。 
 
昨日のくちづけを思い出し晶はポケットから手を出すと唇に軽く手をあてて空に浮かぶ満月をみあげた。日中いい天気だったせいで月は雲もかかっておらずくっきりとその姿を空に浮かべている。澄んだ空気を胸一杯に吸い込む。耳を澄ませると小さな足音が近づいていた。 
 
「遅かったな、待ちくたびれたぞ」 
 
ふいに背後から声がかかる。佐伯とのくちづけを思い出していたら本人が登場とは、こんな偶然ってあるんだなと驚きつつ晶はゆっくり後ろを確認するために振り向く。強い風にコートの裾を揺らし、真っ直ぐに自分を見る佐伯は当然だが本物だった。 
「……、要?」 
確かめるように名を呼べば、佐伯は少し満足そうに頬を緩めた。――会いたかった、夕方探したんだぜ?――あえて口にしない気持ちを心の中で呟く。まだ始まったばかりだけど一応恋人になったのだから、素直に言ってしまってもいいのに中々難しい。 
 
「何でここにいんの?よくわかったじゃん。俺がいる場所」 
「俺の勘を甘く見るなよ」 
 
すでに横に並んだ佐伯が同じようにポケットに手を入れる。佐伯も、晶を探すために唯一聞いていた二号店から、この場所を探すまでに相当歩いた事を言うつもりはなかった。何時間待つ事になっても、会いに行くと決めたのは佐伯自身だからだ。 
 
「何の勘だっつーの」 
「お前が、今日会いたいんじゃないかと思ってな。わざわざ来てやったんだ。もっと嬉しそうにしたらどうだ」 
 
相変わらずの上からの物言いだが、もう慣れてしまったのか、それとも関係に変化があったからなのか佐伯の台詞から嫌味は感じられない。寧ろ……。 
――嬉しいよ、めちゃくちゃ。こんなに喜んでるって事は教えてやらねーけど。 
なんて思っている自分が居たりするわけで……。 
 
「そりゃー、ご足労かけました」 
 
佐伯が歩くスピードを緩めたのをみて晶が佐伯へ顔を向ける。吹き抜けていく風が二人の間を流れて行った瞬間。 
 
「間に合ったか……俺は」 
 
晶の心臓がドクンと跳ねた。佐伯は気付いているのだろうか。だからこんな時間に逢いに来てくれた? 
晶は傍へ距離を詰めて佐伯のコートのポケットに一瞬手を入れ、すでに入っている佐伯の手を掴む。男二人の手を収納できるように作られていないポケットの中では二人の手が窮屈に重なる。急な晶の行動に佐伯も足を止めた。 
 
「何だ、手を繋ぎたいのか?結構ロマンチックなのが好きなんだな」 
馬鹿にしたように笑う佐伯と視線が絡む。 
「ばーか、ちげーよ」 
 
すぐに晶が手をポケットから出し、自分のポケットへと手を戻す。――冷たかった、とても――ポケットの中に隠された佐伯の手は氷のように冷え切っていた。どれだけ長い時間、晶を探しまわり外で待っていたのかがわかってしまう。 
 
「要……悪かったな、待たせちゃって。まさか今日待ってると思ってなかったからさ……手、すげー冷たくなってんじゃん」 
 
そう言うと佐伯は平然と「元々俺は体温が低いんだ」と言い、再び歩き出した。 
佐伯の言う【勘】とやらの正体を知り、想われているという実感にくすぐったくなる。こんな気持ちは久しぶりだった。 
 
「風邪を引いたら責任とれよ?」 
「何だよそれ、医者が言う台詞?」 
 
少し歩いた所で、佐伯は晶の肩を引き寄せると、脇にあるビルの隙間へと連れ込む。外灯も届かない暗い場所で佐伯の冷たい手がポケットから出され、晶の頬 を撫でた後顎を持ち上げ軽く口付けをした。強引な行動に翻弄されつつ、気分はとてもいい。交わる唾液もやっぱり冷たくて、まるでメンソールの煙草を吸い込 んだ時のようだった。 
 
「いいんだ?……俺に風邪うつしたら……看病してやれないぜ?」 
「……風邪などひかん」 
 
軽い口付けから角度を変えて深いものへと変わっていく過程に気が急く。 
 
「要、言ってることがめちゃく、」 
 
晶の言葉を途中で佐伯の唇が塞ぐ。繰り返される口付け。誰も通らない路地で二人は時を忘れて互いの唇を舌を味わう。 
強い風さえも互いの中には入り込めなかった。甘い疼きだけが互いの胸をかき乱す。佐伯の唇は何故こんなにも心地よいのか……。一度口付けされるともっともっとと求めてしまう。瞬間離れる唇を貪欲に追ってしまう。終わりのない口付けが漸く解かれると佐伯が後ろを指さした。 
 
「車で来てる。ちょっと離れた所に止めてある、こいよ」 
 
晶は佐伯と一緒に車が止めてあるという方へ歩き出す。3分ほど歩いた所に一台車が停車していた。佐伯らしい黒の国産高級車である。「駐禁きられるぜ?こんな所に停めてたら」晶が小声でそう言いながら助手席のドアに手を掛ける。 
「問題ない」 
何が問題ないのかさっぱりわからない。佐伯の根拠の無い自信は一体何処からくるのか不思議である。佐伯は晶が助手席に乗りこんだのを確認し、自分も運転席へと乗り込んだ。 
高級車なだけはあり、シートもゆったりとしている。晶は足をのばすと隣の佐伯をチラリとみた。誰かの助手席に乗るなんて随分久々である。すぐに発車したが、行き先については佐伯は何も言わなかった。外が寒かったせいか車内の暖房に身体の緊張がじわじわとけてくる。 
 
「なぁ、俺ら何処行くわけ?」 
「すぐに着く」 
 
相変わらず無愛想なんだか何なのか。余計な事をあまり口にしない佐伯らしい言い種に思わず苦笑する。行き先をそれ以上聞くのはやめた。諦めたわけではなく、佐伯となら別に何処へ行ってもいいと思っているからだ。 
暫く走り続ける車の中で晶はシートを少し倒してよりかかると外の景色に目をおとし、ノートの礼を言っていないことを思い出して佐伯へと顔を向けた。 
 
「そうだ、俺の忘れ物のノートさ。ありがとな、何か綺麗に保管してくれてたみたいだからさ」 
「あぁ、あれか」 
「中身、みた?」 
「最初の方だけな。内容は見てないが」 
「そっか、まぁ別に?見られても困るもんじゃないんだけどさ、ないと仕事上困るっていうか」 
「一生懸命書き込んであったみたいだからな。大切な物なんだろうと思ったまでだ」 
「あぁ、うん。マジ大切なんだ。……だからさ……すげー嬉しかった……」 
「……そうか」 
 
佐伯は顔をこちらに向けないまま話している。どんな顔をして言っているのかみたい気もするが、自分も少し照れくさいのでお互い様って事でみないでいてや ることにした。きっと佐伯は誤解を受けやすい性格?というか口調?なだけで、根は良い奴なんだなと思っていると、今まで前を向いていた佐伯が赤信号で停車 したと同時に晶へと振り向いた。 
 
「一つ言っておく。さっき内容を見ていないといったが、厳密に言えばあれは嘘だ」 
「はい?」 
「字が汚くて読む気が失せただけだ。もっと綺麗に書け」 
「…………なっ!」 
 
――こういう所!こういう所がだめな所なんじゃねーの!? 
 
晶は、もうすでに発車してこちらを見ようともしない佐伯に小さく舌打ちする。余計な事を言わなければ、折角見直してたのにやはり佐伯は一言多い。少し怒っている晶に気付いたのか、佐伯がミラー越しに視線を投げてきて愉快そうに小さく笑う。 
 
「何だ、怒ったのか?」 
「べっつにー、あんたが一言多い嫌な性格だって知ってるしー」 
「ほう、そこまでわかっていて付き合う気になれるとはな……晶、お前マゾなのか?」 
「ちげーよ!あーもう!ほんっと性格歪んでるな」 
「慣れるように努力したらどうだ」 
「絶対しねーし!」 
 
口を尖らせて文句をいいながらも、笑っている佐伯にどうでもよくなって釣られて笑ってしまう。佐伯のペースに乗せられまくりである。友人とも店の仲間と も違うこの感じ、最初の出会いからして険悪だったから取り繕う必要がないのは居心地が良かった。相手に合わせて自分を変える事をしなくていい相手。悪態を つこうが、文句を言おうが、佐伯は多分何でも無い風に笑ってくれるんだ。そう思うと、新たな居場所を見つけた気さえする。 
 
晶は流れて行く窓の風景に視線をうつし、長く息を吐いた。東京は眠らない街とよくいわれるだけあって、確かにどんな時間でもネオンが完全に絶える事はな い。しかし、晶の目には眠らないのではなくて 眠れない街というふうに見えた。派手な蛍光色で彩られたネオンが自分の存在とリンクする。 
目を閉じてしまうと取り残されてしまうような、そんな感じ。だから街は起き続けているんじゃないかと思う。ゆっくりと流れる町並みも、いつか眠れるようになればいいのに。そう思って晶は目を細めた。 
 
 
5分ほどして車が停車し、晶は見知らぬ場所に辺りを見渡す。佐伯がサイドブレーキを引き上げシートベルトを外した場所は真っ暗なビルの前だった。一体何 のためにわざわざこんな寂れた場所へ来たのか意図が掴めない。車のシートを元に戻してドアに手をかけた晶の腕を佐伯が掴んだ。 
 
「……晶」 
「……ん?どしたの?」 
 
佐伯は長い髪を一度後ろに流すとその指で晶の髪を梳く。そっと触れる優しい感触。 
 
「……お前の生まれた日を一緒に祝ってやる」 
 
晶が今日誕生日である事をやはり佐伯は知っていたのだ。だから、逢いに来てくれた。佐伯がいった「間に合ったか」は、やはりそういう事だったのだ。ハンドルに片手をかけたままで佐伯が軽く唇を重ねる。 
 
「……よく知ってたじゃん?」 
「カルテに書いてあるからな」 
「職権乱用じゃね?」 
ふざけて返す晶に佐伯が苦笑する。 
 
二人で車から降りると佐伯が前を歩きながらビルの中に入っていく。どうやら今は使われていないが元は病院だったようだ。 
佐伯の説明に寄れば、この病院の医院長が知り合いで、廃院した際に鍵をもらったらしい。病院自体は一昨年移転して今は別の場所にあるという事だった。ビ ルに入る前に病院の名前を書いた看板があったが肝心の名称部分の塗装が剥げ落ちており確認は出来なかった。エレベーターは勿論止まっているので階段を歩い て昇り、そのまま屋上へと出た。 
 
重い鉄製のドアは少し錆びていて、佐伯が片手で扉をおすと鈍い軋みをあげた。晶も佐伯の後に続く。屋上には照明が一つも無く、月明かりを頼りに進むしか ない。下にいた時より風が凄く、体感温度が随分違うので酷く寒く感じる。晶は一度肩を震わせたあと顔を上げ、目の前の景色に息を飲んだ。 
佐伯がいる屋上の手摺りへと歩み寄り、眼下を見下ろす。 
 
ビルの乱立するコンクリートジャングルの中に小さく煌めく無数の光。行き交う車両のヘッドライト、まさに都会を凝縮したジグソーパズルのようだ。少し高 い位置にある建物の屋上だからなのか、見える景色の光がこちらまで届く事は無い。自分達のいる場所は真っ暗で、それが一層夜景を際立たせていた。展望台で もないただのビルの屋上にしておくには勿体ないほどの極上の景色だった。 
 
「……凄いなここ。めっちゃいい眺めじゃん」 
「気に入ったか?」 
「うんうん、誕生日に廃病院に連れてこられるとかありえねーって思ったし。ここ来るまでは、ちょっと不気味だったけどな」 
「何で不気味なんだ」 
「だってほら、幽霊とかそういうの良く話しに聞くっしょ?廃病院なんて肝試しの定番だし」 
「あぁ……そういう事か。信じる奴がいる事が驚きだがな」 
 
佐伯が遠くを見ながら少し笑う。珍しい柔らかな表情。その横顔は淡い月明かりが半分を照らし、佐伯の端正な顔立ちをより際立たせていた。クールな印象の佐伯のこんな珍しい表情を見られるのは自分だけだったらいいなと晶は思う。そしてもっと色々な佐伯の表情が見たかった。 
 
「ダメだなー、要は!あのな、自分で見えない物は信じないとかそういうのつまんねーだろ?俺は見えないけど、見えてる奴もいるって事で認めるのも大事なわけ。その方が知らない世界が広がってわくわくするじゃん?」 
「……そういうもんか?」 
「そういうもんなの」 
「じゃぁ、今度幽霊にあったら挨拶ぐらいはしてやるよ」 
「そうそう……って、え?何?要そういうの見えちゃう人?やっぱ、やめようぜ!この話、ここでストップな」 
慌てて背後を確かめる晶に、佐伯が呆れたように溜息をつく。 
「お前が話し始めたんだろう。おかしな奴だな」 
 
晶が話しを強引にきって煙草を取り出すのをみて佐伯が苦笑する。風が強いので火を掻き消さないように囲いを作って慎重に火をつける。小さく灯った赤い火種は、晶が息を吸い込むとその赤さをくっきりと浮かび上がらせた。佐伯も煙草を取り出し口に咥え火を点ける。 
暗闇に二つ並んだ火種から白い煙が流れて風にのって消えていく。 
 
冷たくなっている手摺りに腕をのせて、暫く黙って目の前の景色と煙草を味わっていた。もう少ししたら夜が明けてくるだろう。晶にとって一日の終わりである。水平線の向こうから、眩しい朝日が顔を出すまでの後少しの時間を愉しむ。 
佐伯の腕が晶を引き寄せ、肩を抱いた。寒くないか?等、そんな言葉は一切無く、黙って伸ばされた腕に晶も少し寄り添う。佐伯と重なった身体には服越しでもその体温が伝わって来て、強い風が吹いているのに寒いというのも忘れてしまいそうだった。 
短くなった煙草を最後に深く吸い込んで、晶は静かに口を開いた。 
 
「要、俺の誕生日祝ってくれんだろ?」 
「あぁ、何か欲しい物があるのか?」 
「……別に物はいらねーけどさ」 
「じゃぁ、なんだ。言って見ろ」 
 
晶は佐伯の腕から離れると景色に背を向け、佐伯と向かい合う。背中に冷たい手摺りの感触。誰もいない、佐伯と二人きりの時間。 
佐伯も吸い終わった煙草を足元に落とすと晶の方に視線を向ける。 
たったひとつ、目の前のこの男から欲しいものがあった。きっと他の誰でもなく、佐伯にしか与えることが出来ない物だ。小さな火種はもういらない。だから……。 
 
 
「俺に、……俺に火を灯せよ……」  
 
 
晶の髪から乱れて落ちる毛先が風にのって舞い、佐伯の瞳の中に晶の姿が映りこむ。目映い背後の夜景と晶が重なり佐伯を誘うようにゆっくりと揺れた。 
 
 
「あぁ、いくらでも……」  
 
 
ゾクリとするような低音で囁かれ、その言葉通り晶の身体を焚きつけるように首筋に佐伯の熱い吐息がかかる。焦らすように口付けの場所を移動し、耳朶を甘噛みしたあと、掴んだ晶の手指にも口付けが降る。 
一度揺らめいた炎は、多少の風では消える事が無い。指先を口に含まれるその感触さえ堪らず、欲望に溺れていく。濡れた感触が唇にも欲しくて薄く唇を開け ば、佐伯の唇がすっと重なり、互いのさっきまで吸っていた煙草の味が交わった。漏れ出す吐息も唇の感触も、全て、佐伯と混ざり合っていく。高揚した身体と 続く熱い口付けに心地よい目眩を感じ、晶は背中の手摺りに掴まる手に力をこめた。 
 
吸う煙草が同じじゃなくても、住む世界が違っても、今夜は同じ景色を映しているという事。それが一番の事実だった。  
 
晶はそっと目を閉じる。 
 
──素晴らしき今夜の為に……。