俺の言い訳彼の理由1


 

外はうだるような暑さで、まだ午前中だというのに街ゆく人々の体力を容赦なく奪っている。

 しかし、MARKS Trading Co. Ltd 12階 にいたっては、真冬のごとく冷気が吐き出されていた。近未来を意識したかのようなコンクリート打ち出しの無機質な外観は隙の無い物で、ビ ルの内装もまた、合わせたように完璧なデザインと効率性を重視した作りだった。足元の床は磨き込まれ、差し込む夏の光りを静かに反射している。
 アメリカのエンパイアステイトビルをモデルにしたというこのビル群には、有名企業が数多く入っており、エリートと称されるような会社員が今日も忙しなく行き交っていた。

――渋谷 祐一朗(しぶや ゆういちろう)31歳

 神経質そうに見えてしまうので、あまり人のかけたがらない細い黒縁の眼鏡をかけ、仕立ては良いが決して華美ではないおとなしめの色のスーツを身に纏い、それに合わせた地味なネクタイをきつく首に絞めている。
 丁度真ん中で分けられた黒髪が左右対称に切り揃えられている。一糸の乱れもない。その言葉がぴったりくるような姿は空調のせいで汗一つかかず涼やかだ。
渋谷は部屋の中央端に配置された自分のデスクで難しい表情をして書類を眺めていた。

「係長、お茶です」
「あぁ、置いておいてくれ」

 女子社員の方を少しも見ないで書類の山の脇を指さし、そこに湯飲みをおくように命じる。そして再び書類に目を落とした。
 整理整頓された空間というのは時に息苦しさを人に与える事がある。50音順に並べられた取引先のリストがステンレスの棚に左からずらっと並んでいて。その横には会社の要とも言えるデータ検索用のパソコンが常に疲れたような光りをディスプレイに放っている。

 振り返ってフロアを見渡せば、役職順に並んだデスクが床の目に沿ってきちんと並べられていた。程よい温度に調整された室内に、空調の音、キーボードを打つ音、女性社員の丁寧な電話対応の声。それだけが今日も繰り返し響いている。
 しかし、渋谷にとって今いるこの空間の張りつめたような空気は居心地の良いものでもある。それぞれが自分の事以外気にする様子を見せず無関心。ただひたすらに仕事をこなしていく環境には、これほど適した場所はないと思っていた。

 書類をめくる手を止め 棚の資料に手を伸ばした所でデスクの内線電話が鳴り響いた。渋谷は一呼吸おくと点滅する緑のボタンを押し受話器を肩に挟む。

「はい 渋谷です」
「外線3番にCSアドバタイジングの絹川さんからお電話です」
「繋いでくれ」

 今度は赤く点滅しているボタンを指で押し外線に切り替える。話しながらも視線は資料の棚で目的の物を探していた。

「お電話変わりました。渋谷です、いつもお世話になっております」

 マニュアル通りの応答をし、渋谷は無表情な顔をして声だけに少し親しみを込めた。アンバランスに見えるこの対応の仕方はもう癖になってしまっている物である。どうせ相手からはこちらの表情等見えないのだから。

「はい、その件につきましては、午後にお伺いしたさいに資料をまとめてお持ち致しますので」

 最後に失礼しますと丁寧に返答をし、渋谷は受話器を元の位置に戻した。
 また静かな空気が流れる。
 職場の私語は禁止という規則があるわけではないが、誰一人として職務に関わる事以外は口にしない。少なくとも正規の就業時間が終わる6時過ぎになるまでは静かなものであった。

 一応区切りをつけた渋谷は胸ポケットにいれてある携帯が静かに光っているのに気付いた。バイブレーションにしているわけでもなくただのサイレントにして いるので、いつもなら見るまで気が付く事は少ない。社用の携帯はいつでもデスク上においてあるが胸ポケットのそれは個人的な私物だからである。
 渋谷は周りを少しだけ見渡すとそっと胸ポケットから携帯を取りだし、着信履歴を確認した。
小坂 藍子
 着信一件と書かれた下に名前が表示されている。渋谷はほんの少し険しい表情をし、デスクを立ち上がると部屋の外へと足早に出ていった。
小坂 藍子は1年ほど前から付き合っている渋谷の彼女の名前であった。
 
 
 
 部屋を出て廊下を歩き、エレベーター脇を通り抜け突き当たりまで進む。誰にも話しが聞こえないであろうその場所にきて、先程の携帯を胸ポケットから取り出し、短縮に登録してある番号にかけ直した。
 仕事時間中に藍子が電話をかけてきたのは初めてだったし、何より連絡を取るのは一ヶ月ぶりである。多忙を言い訳にデートを断り続けていた渋谷には若干の罪悪感があった。数回のコールの後、聞き慣れた声の相手が電話に出た。

「あぁ、俺だけど電話した?」

 我ながら久しぶりの恋人に対する言葉じゃないなと思い、微かに苦笑いが浮かぶ。

「ごめんなさい、お仕事中に」
「それで、何か用?」
「えぇ、実は……」

 藍子は言いづらそうに間をおいたあと、実家の母親が倒れ、病院に来ている旨を告げた。動揺しているようなその声が電話越しに聞こえてくる。女はこういう 時に時として煩わしい。心配より先にそう考えてしまう自分に、藍子への愛情が全くないことを思い知らされる。渋谷はうんざりしながらも、一応心配気な声を 滲ませてみた。

「お母さんが……大丈夫なのか?」
「……今は意識がなくて緊急手術をしなければいけなくなったの。多分今晩は病院に泊まる事になるから、一人じゃ不安なの…。祐一朗仕事が終わったら来てくれない?」
「そうか……じゃぁ終わり次第そちらへ向かうよ。遅くなるかも知れないけど」
「有難う。あ、でも病院の場所がわかりづらい場所なの、だから近くでまで迎えに行くわね。待ち合わせしましょう」
「わかった。じゃぁ仕事が終わったらまた連絡するから」

用件を済ませ、すぐに携帯をしまうと部屋から同僚が歩いてくるのが見えた。話しを聞かれてはいないだろうが、タイミングの悪さに少しドキリとする。

「お疲れ様」

渋谷がそう言って少しの作り笑いを浮かべると、相手は大股で近寄ってきて渋谷の目の前で足を止めた。

「お疲れ様です。係長」

 係長の部分にアクセントを置くのは、嫌味が混じっているからだとわかっている。
 自分より随分上背もある目の前の男は、同期で入社した東谷康明という。係長になる前はデスクも隣で、それなりに付き合いもしてきた仲間だったが、一年前、渋谷が昇進したと同時にその関係は終わっていた。

 特別に親しい間柄でもなく、ただ同期というだけで時々会社の愚痴を酒の場で言い合うくらいだったので、その関係が終わったとしても何も困る事はなかっ た。最初の頃は気を遣い、直属の部下としてではなく、今まで通りに接するように心がけていた。しかし、東谷の方はやはりそうもいかなかったらしい。

 渋谷を名前で呼ばなくなり、飲みに誘ってくる事も全くなくなった。
社内での仕事に関しては全く問題なくこなしてくれるが、こうして顔を合わせてもよそよそしい態度をとるようになり今に至っている。正直、今は苦手な相手でもあった。

「これから外回り?」

後ろに一歩だけ下がって渋谷は東谷を見上げる。

「そうですよ。今日は茅ヶ崎の方まで行くので直帰で」
「あぁ、そうなのか。茅ヶ崎って言うと…今度の企画の?」
「えぇ、ちゃんと大きな仕事獲ってきますから。安心して下さい」
「期待してるよ。僕も近いうちに顔出すから、宜しく言っておいてくれ」
「了解」

「じゃぁ」と最後に言葉を交わし、渋谷は部屋へ向かう廊下を歩きながら、先程の藍子との会話を思い出していた。

 東谷と会った事で一瞬気が逸れたが、電話の後、少しの違和感を抱いていたのだ。
 藍子の母親とは勿論面識はない。藍子は結婚をしたいような素振りを見せてはいるが、渋谷にはその気が全くなかった。なので、相手の両親に会う必要も今ま でなかったのだ。そんな渋谷を頼ってくる前に他に身内はいないのだろうか……。そう考えると益々おかしな話しな気がしてくる。

 わかりづらい場所だと言ってもタクシーで病院名を告げれば容易く辿り着けそうなのに、何故他の場所で待ち合わせを……。色々と腑に落ちない事が多かったが、もう一度連絡をするのも酷く億劫に思え、渋谷はどうでもいいか、と頭を切り換え来た廊下を戻っていた。
 部屋へ戻る渋谷の背中を未だに東谷が見ている。その表情からは笑みは一切消え、暗く差し込んだ闇が一筋瞳に映り込んでいた。
 
 
 
デスクに戻り時計を確認するともう十一時半を回っている。暢気に昼食をとる時間はなさそうで、渋谷は午後に向かうはずのCSアドバタイジングへそのまま向かう事にし、鞄を持つとエレベーターへと向かった。
 
 
 
 渋谷の勤務するMARKS Trading Co. Ltdは香港に本社がある外資系商社で、東京と名古屋に日本支社があり、部署によって様々な輸入品を先駆けて日本市場に排出している。
 その中で、渋谷のいるのは広告企画営業部で、輸入した商品の市場への宣伝や販売ルートの確保等全てを担っていた。一般の会社の企画部と営業部を合わせたような部署であり会社の中心の部署でもある。

 昨年、渋谷のマネージメントした商品が日本でブームになり、その功績を認められて渋谷は三十歳という若さで係長になった。周りの年輩者の嫉妬を物ともせず、常に隙をみせない渋谷は社内で自分がどう思われているかも知っていた。
 どうせすぐ根を上げる。
そう思われているだろうと。はっきりと耳にした訳ではないが、嫌な噂というのは聞こえてしまう物でもある。渋谷はそれに対して反論しようとも思わないが、そう簡単に根を上げて堪るかという意地があった。
 激しい変化の流れを見せる日本市場に常に目を向け、先取って需要に敏感に耳を傾けるようにしないとあっという間にライバル社に抜かれてしまうような業界だ。
 足元を掬われぬよう仕事中は集中力を切らさないようにしているし、必要があれば日帰りでも海外に商談に出向いた。ほとんど家に帰らない週もあったが、それが苦痛だと感じた事は一度もない。

 エレベーターのランプを見るともなしに眺めて、一階に到着すると渋谷はエレベーターを降りる。最先端の機器で管理されているIDカード認識装置に社員証を翳すと「認識しました」という機械音声と共に自動ドアが音もなく開かれた。

 渋谷のいるのは東京支社だが、名古屋支社で2年前、社用の内部機密を記したデータが盗まれた事件があり、それ以来、社員が一緒でないとビルのロビー以降には入れないシステムになっていた。
 そこを過ぎるとセキュリティーは甘くなる。目まぐるしく変わる受付嬢が静かに微笑みを湛えて二人並んで座っていた。女性達は特定の社員と噂がたつ事も少なくない。いい男探しをするには、渋谷のいる会社は最高の条件なのだろう。

 ビルを出ると高く昇った陽が眩しく降り注ぎ渋谷は目を手で軽く隠す。目の前の大通りを走るTAXIに手を挙げて止めると日差しを避けるように乗り込んだ。
 
 
 
 
   * * *
 
 
 
 
 CSアドバタイジングを出たのは、もう三時を回っていた。当初予定していたより話し合いに時間がかかってしまったというのもあるが、本当の理由は他にあ る。CSアドバタイジングの担当者でもある絹川は女性キャリアだが未婚でもあり、交際を迫られる程に渋谷は気に入られていた。
交際は丁重にお断りしたものの、絹川は事あるごとに渋谷を食事に誘ったりと未だに諦める様子がなかった。

CSアドバタイジングは渋谷の会社の取引先の中でも有数の大手であり、あまり邪険にするわけにもいかず、渋々付き合っているうちに、いつしか二人きりで出 掛ける事への抵抗もなくなった。端から見れば、デートをしているように見えるかもしれないと気にしていたのも最初だけだ。

 あまり目立つ方ではない渋谷が相手だからなのか、絹川とのプライベートでの関係は今のところ周りには知られていないように思えた。
 そんな訳で、時間がおした理由は、仕事の話し合いというよりは絹川の話しに付き合わされていたと言った方がいいのかもしれない。

 渋谷はタブレットを開き、今日の予定を書いてある画面をスクロールして少し考え込んでいた。
回る予定の会社があと2件残っている。腕時計を見ながら、ざっと予定の狂った時間をどう割り振るかを計算し、この後行くはずだった1件を今から直接向かう事にした。

 幸い今いる場所からさほど遠くなく地下鉄で二駅といった距離だ。渋谷は予定を変えると駅へと歩き出した。
少し歩くだけで汗が滲んできてYシャツが肌に張りついてくる。首元まできちんとしめたネクタイのせいで上昇した体温の逃げ場がなくなり、余計に不快さが増す。渋谷は指で少しだけネクタイを緩め、小さく息を吐いた。

 駅までの道は平日の昼間だというのに結構な人がおり、洒落たランチを提供しているカフェには人が並んでいる。
渋谷はその様子を横目で見つつ早足で歩きながら、何気なく向かい通りにある店の中に目を向けた。

──藍子…?

道路を挟んだその店内に目をこらす。距離が離れていたので確実とは言えないが、藍子によく似た女性の横顔が店内に見えた。
しかし、今頃は病院にいるはずでこんな場所にいるはずはない。影になっていてよくは見えなかったが、誰かと話しているようである。もう一人と話しこんでいるその背中に「まさかな」と心の中で呟き、また歩き出す。次の瞬間にはもうすっかりその事は頭から消えていた。
 
 
 
 
   * * *
 
 
 
 
店の中では渋谷が通った事に気付かず、藍子が目の前の男に楽しげに話しかけていた。いつものナチュラルメイクではなくきつめに塗った口紅が歪んだ笑みを湛えている。

「平気よ、きっとうまくいくわ」

そう言って自信ありげに微笑む藍子の向かいに座った男も業務的な薄い笑みを零し、鞄から厚みのある茶封筒を指しだした。
「コレ、この前の報酬な。少し色をつけてあるから今回も宜しく頼むよ」
「任せて、今までだって一度も失敗した事ないでしょ?安心してよ」
「あぁ、勿論。安心して成果を待ってるよ」
「ふふ」
「それじゃ、俺は本当の仕事に戻るから。また」
「えぇ、さよなら」

立ち上がった男がレシートを取り、女に背を向ける。
胸元にMARKS Trading Co. Ltdの社員バッジが鈍く光っていた事を渋谷は知る術もなかった。
藍子の口に運んだカップにはいやらしい紅が跡を残していた。