俺の言い訳彼の理由7


 

 週末に休養できたおかげで完全にとはいかない物の支障がない程度にはなった。体中が痛いのはもう仕方が無いとしてなるべく気にしないようにするしかな い。渋谷は朝の支度を済ませ洗面台の前で髪型を整えていた。もとからまったく癖のつかない直毛な為、軽く手櫛で整えればそれだけでセットは完了する。
 だいぶ伸びてきたので、少し短く切った方がいいか…。
 そんな事を考え、鏡に映る自分の前髪を引っ張り確かめる。俯くとすっかり目を隠す長さだ。ぼんやりと自分の顔を眺めていて思う。青白い肌に愛想の無い顔。男のくせに長い睫や、黒目がちな瞳、薄い唇。どれもが嫌いだった。
 
 渋谷はそれらを隠す仮面のように、家に置いてあったスペアの眼鏡をかける。先週壊れた眼鏡と同時期の視力検査で作ったはずなのにフレームのせいか、それ とも掛けなれていないせいか視界が少し歪んで見える。だが、そんな事は気にしていられない。見えないよりは全然ましだったし、外見に気を配るほど普段から お洒落に関心があるわけでもない。

 居間へと戻り、スーツのジャケットに袖を通す。玖珂に返す予定のジャケットは昨日クリーニングからあがってきたので、そのジャケットのしまってある紙袋 の中をもう一度確認する。借りていた物は日曜に新しく買ってきた。返す物にミスがない事をチェックすると鞄と共に持ち玄関へと向かった。
 
 
 
 渋谷はいつも朝のラッシュを避けるため、余裕のある時間に出勤する。いつものそれより、なお早い時間に今日はマンションを出た。自宅マンションから最寄 りの駅までは15分ほどかかるが、その道のりを渋谷は意外と好んでいた。ずっと続く大きな公園の脇を抜けて行くのだがその公園は常に整備され、計算し尽く されて仕上がった癒しの場という雰囲気が強い。色取り取りの季節の花が整列している花壇。らせん状のタイルが取り囲む小さな噴水。
 隙のない美しさは渋谷の好む所でもあり、その景色を見ながら通勤するというのは悪くなかった。

 9時始業の会社が多い中、渋谷の勤めるMARKS Trading Co. Ltdはフレックスの体制をとっている。しかし、まだ日本ではあまり馴染みがないからなのか、蓋を開いてみると結局9時頃にはほとんどの社員がすでに忙しなく働いているという状態だ。
 渋谷もだいたい8時過ぎ頃には社につくように計算している。少し早く家を出たせいで今日はまだ8時前だが、すでに渋谷は職場のある品川駅のホームを歩いていた。さすがに同じ社の人間はいないようで誰からも声を掛けられる事もなくビルまでたどり着く。

 エントランスを抜け、エレベーターへと乗り、フロアについた時点でやっと何人かと顔を合わせた。向こうから出勤してきた女子社員が通りすがりに話しかけてくる。渋谷は先週自分で勝手にした想像を思い出し、思わず避けたくなるのを我慢していつも通りに振る舞う。

「おはようございます」
「あ、あぁ……おはよう」
「係長、今日は早いんですね。お忙しいですか?」
「そうだな、水曜のプレゼンが控えてるから……」

 当然の事だが、先週の事を知らなそうな女子社員の態度に心から安堵する。出社した途端に哀れみの目で見られるという最悪のシナリオはどうやら免れたらしい。

「あ、そうですよね!あぁ、そういえば……」
「ん?」
「東谷さんも、今日はすごく早く来られたみたいですよ?」

 予想もしなかった人物の話題が振られて少し返事に詰まる。

「東谷が?」
「ええ、私が来た時にはもうPCとにらめっこされてましたから」
「……そうか」
「じゃぁ、頑張って下さいね」
「あぁ、有り難う」

 話を終えて渋谷は自分のデスクへと向かった。今女子社員から聞いた通り、フロアに入るとパーテーションの磨りガラスの向こうにすでに東谷の姿が見えた。東谷は渋谷の直属の部下なので、席はかなり近い場所にある。
 明るい性格と気さくな話し方のせいか実際の営業では成績も良い東谷が、持ち前の明るさを一切消し、思い詰めたように書類を見入っているのを見て、渋谷は声をかけるのを一瞬躊躇った。
 パーテーション越しに少し覗き込むと渋谷に気づいた東谷は書類から目を離し、いつもの表情に戻って渋谷に視線だけをうつす。
思い詰めたように見えたのは気のせいであったのかもしれない。やれやれといった様子で大きく伸びをすると椅子ごと渋谷に振り返った。

「あぁ、係長おはようございます」
「おはよう、今日は随分早いんだな。さっき廊下で聞いたよ。早くから仕事してたって」
「早いんじゃなくて実は徹夜ってやつです。おかげで朝から眠くって仕方ないですよ、参ったな~」
「日曜にも休日出勤してたのか?それに徹夜?どうしたんだ、何か問題でも?」
「あー、まぁ俺自身のミスですからね~仕方がないっていうか」
「……?」
「昨日やり残してた仕事があって出てきてたんだけど、その時、間違ってデータを削除しちゃったんですよね、で、やり直しって感じで」
「……そうだったのか、災難だったな。目処はつきそうなのか?」
「とりあえずはね、後はチェックするだけですね」
「良かった、じゃぁ一安心だな」
「まぁ一応」

 少し砕けた口調で話すのは、他にまだ人がいないせいなのだろう。渋谷としては昔と同じく、もっと普通に話してくれた方がやりやすいのにと心の中で思う。

「水曜日のプレゼン、頼むよ。一緒に頑張ろう」

 いつもの渋谷ならあまり口にすることの無いその台詞に東谷が驚いて渋谷を見る。まさか一緒に頑張ろう等と励ましの言葉を言ってくるとは思いもしなかったのだ。東谷は心の中でそんな渋谷に舌打ちをしつつ、さも今思い出したように誘いを掛けた。

「あ、そうだ明日時間があったら久しぶりに飲みにでも行きませんか?」
「明日は……前日だし……、行く暇ないんじゃないか?多分」
「んー、そうですかね。やっぱり。じゃぁここで仕事終わったら一杯やるっていうのは?次の日の成功を願掛けて」

 本当はそういう気分でもなかったが、東谷から誘ってくる事自体久しい。それに、仕事上円滑に過ごすのにはこういう付き合いも必要なのかも知れないと思い直し、渋谷はOKをだした。

「そうだな、それくらいなら……」
「じゃ、決まりで」
「あぁ、わかった」

 東谷のPCに軽く手を置き、出社してくる社員と挨拶を交わす。自分のデスクへと向かう渋谷が後ろを向いた途端に東谷の笑顔がすっと消えていった事を渋谷 は知る術も無い。細められた東谷の目に映り込むのは決して隙を見せない渋谷の背中。入社してから隣を歩いていた数年の間、常に負けたくないと思っていた相 手だ。世渡りは自分で言うのも何だが明らかに渋谷より上手だという自信があった。要領もいいと思う。しかし、そんな東谷を軽く飛び越えて、渋谷は昇進し た。東谷は奥歯をギリッと噛みしめると苛立ったようにマウスを握りしめた。
 
 
 
 
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 渋谷が仕事を終えたのは9時半を回った頃であった。もう少し早く終わるはずだったのにと溜息をついて腕時計を見る。今日は帰りに玖珂の家に上着を返しに 行く予定なのだ。こんな遅くに突然訪問してもいいものか渋谷は会社を出て駅への道を歩きながら考えていた。連絡先を聞いておけばよかったと今更どうにもな らない事を後悔する。もし玖珂が家にいなかった場合は宅配ボックスがあったので、そこへ入れておけばいいのかもしれないが、それも失礼な気もする。やはり 直接顔を合わせて礼を言うのが筋という物だろう。どうか、彼と会うことが出来るようにと願いつつ、急いで電車に乗り込む。

 京王新線の初台駅まではしばらく時間がかかる。渋谷は乗り込んだ車両のドアの片側に行き背を預けると持ってきていた小説を鞄から取り出した。もう何度も 読んでいるその本は、中でも気に入っている小説の一つだ。内容は全部覚えているが、それでも何度も読み返したくなる小説なのだ。しかし、そんな気に入りの 小説だというのに、気がつくとさっきから同じ部分を繰り返し読んでいる事に気付く。全く頭にも入ってこない。

 小説を読んでいる形をとっているだけで、初台が近づいてくると渋谷は玖珂の事で頭が一杯になっていた。あの日、ろくに礼も言わずに去った事を渋谷は後悔 していた。後々考えて、きっと彼も、随分失礼な男だったと腹を立てているかも知れない。動揺していたとはいえ、もっと大人の態度を取るべきだったのだ。
 そうこう考えているうちに電車が初台の駅に到着し、渋谷は手に持っている小説を鞄にしまうと駅へと降り立った。仕事で初台を通った事はあるが駅へと降り たのは初めてである。周辺の地理には詳しくないが、住所は先日メモをしておいたのでそのメモを頼りに歩き出した。駅前のファーストフード店の前の信号を渡 りしばらく歩いていると住宅街になり、まわりにはかなり敷地のある戸建てや億ションとでも言うべき豪奢なマンションが建ち並んでいた。新宿からほど近い初 台に大きな自宅を所有しているというだけで、そうとうに裕福な証拠でもある。

 そういえば玖珂のマンションも立派なものだった。あまり覚えてはいないが12階の窓から見た新宿の夜景だけは覚えている。一面が硝子張りの窓から見える 夜景がまるで絵画のようだっだ。そろそろ番地が同じになり渋谷は一度立ち止まるとあたりにそれらしき建物がないかを見渡す。似たようなマンションはどれも 広いエントランスがあり、明々とライトを灯している。立ち止まって上を見上げた渋谷に、ふいに後ろから声がかかった。

「あれ?…………君は」

 ここで声がかかるとしたら玖珂意外は考えられないが、そんな偶然がある事にも驚きである。今日渋谷がここへ来る事を玖珂は知らないのだから。声のする方 へと振り向くと、やはり予想通り、帰宅途中なのか玖珂が立っていた。あの日はプライベートだったのか、少しラフなスーツ姿だったが、今日は髪を後ろへと流 し、スーツもきちんと着こなしている。あの日は気付かなかったがかなりの長身でモデルなのかと見紛うほどだ。途端に何を話して良いか頭が真っ白になった渋 谷は、慌てて言葉を選んだ。

「あ……えぇと、先日はどうも。今丁度お礼にお伺いする所だったんです」
「そうか、偶然だな。俺も今、帰りなんだ」

 そう言った玖珂は、あの日と同じように優しく笑いかけた。もし玖珂がどんなに冷たい態度で接してきても、それは仕方無いことだと覚悟してきたが、その覚悟は一瞬で必要ない物となる。
 渋谷は玖珂の穏和そうなその笑みにどう返していいのかわからなかった。そんな優しい顔を向けてもらえるような人間ではない事を見透かされそうで目線を少し逸らす。

「あの、お借りしていた物を渡そうと思って……」
「それでわざわざ?返って悪かったね……。えぇと……渋谷君……でよかったかな?」
「はい」
「名刺有難う。おかげで君の名前を知ることができたよ」
「いえ……本来ならちゃんとあの時に名乗るべきだったのですが……」
「そう?結果俺は君の名前を今知っている。それで十分じゃないか?」

 玖珂はそう言って目を細める。玖珂は渋谷の事をなに一つ知らない。そういう人間と一緒にいるのは悪くないと思った。会うのは2回目だというのに不思議と一緒にいて落ち着く雰囲気を玖珂が持っているせいかもしれない。

「渋谷君、ここで立ち話もなんだし、もし時間があるなら……うちに寄っていかないか?」
「え?」
「いや、急いでいるなら無理にとは言わないが、夕飯がまだだったりしないだろうか?一緒にどうかな?」
「……えぇと、急いではいないですが……」
「うん、じゃぁ。決まりだな。おいで」

 玖珂は渋谷の返事を肯定と捉えたらしく、手招きをして着いてくるように促す。渋谷は玖珂の申し出を断ろうかとも思ったが、ここで上着を返して帰るという のも気が引けたし……。それと何より……これで二度と会う事もないのかと思うと残念な気がしたというのが本当だ。玖珂は、了承して着いてきた渋谷に嬉しそ うな顔をしているのを見て何故か胸が痛くなる。

 驚いた事に玖珂のマンションはすぐ隣にあり何故気付かなかったのかと渋谷は一人苦笑する。あの日と同じマンションの入り口を入ると見覚えのある光景が目に映る。鍵を入れたポスト。エントランス横の多目的ルームに置かれている大きな花瓶。
 先を歩く玖珂の後ろについてエレベーターに乗り込む。狭いエレベーターの中では借りていた上着と同じ香水の香りが微かに渋谷の鼻孔をくすぐった。ラストノートになっているのか甘さを抑えた官能的な香りがする。
 12階について廊下に出ると風が強く吹いており暑い空気をいくらか涼しく感じさせた。部屋までの廊下を二人で歩く。玖珂は特に話しかけては来なかったが、こうして並んで歩いているのはとても不思議に思えた。
 玄関ドアを開けると玖珂は先に入りドアをあけて渋谷に部屋に入るように促してくる。

「それにしても今日は暑いな。こんな日にまでスーツを着なくてはいけないなんて、つくづく転職したくなるよ」
「確かに今日は蒸してますよね」
「そうだろう?あぁ、渋谷君も暑いだろうから。上着を脱いでそこのハンガーにかけておいて構わないから」

 部屋に入った途端に玖珂は冷房のスイッチを入れた。大型の冷房がモーター音を響かせて一気に冷たい風が部屋を満たしていく。渋谷は後ろ手で鍵をしめる と、お邪魔しますと言って部屋へと上がり込んだ。またこうして、この部屋に足を踏み入れることになるとは思っていなかった。あの日と同じ部屋。自分が書き 置きをしておいた電話付近をチラリとみると、もうそのメモは片付けられていた。

 玖珂は上着だけを脱いでYシャツを腕まくりすると、早速オープンカウンターになっているキッチンへと入って行く。部屋の入り口に立っている渋谷に適当に 座ってくつろぐように言うと夕飯の用意をしているようだった。自分だけ座っているのも申し訳ない気がして渋谷はキッチンへと向かう。

「何か手伝いましょうか?」
「あぁ、いや大丈夫。作る訳じゃないからね、コレ」

 そう言って玖珂はさっきから持っていた紙袋から重箱のような物を取り出した。蓋をあけてみるとまるでおせち料理のような見事な懐石料理が詰まっており、大きな伊勢エビが頭を突き出している。渋谷が驚いて中身を見ていると玖珂が困ったように渋谷に話しかけた。

「店に来ている客が土産にくれたんだが、この量は一人前じゃないだろう?渋谷君が来てくれて助かったよ」
「確かにこれは……一人前ではなさそうですね」
「そうだろう?」

 玖珂はテーブルへとその重箱を運ぶと冷蔵庫からビールを何本か取り出してグラスと一緒に持ってきた。何かの祝いでもしているような光景だ。グラスが一気に曇って冷たい汗をかく。

「渋谷君はビールで良かったかな?」
「ええ、俺は何でも。すみません。何だかこんなご馳走まで戴く事になってしまって……」
「気にしない気にしない。俺を助けるとでも思って食べてくれれば良いから」

玖珂がそう言って笑い、箸と取り皿を配る。向かい側に座って渋谷にビールを注ぎ自分へも注ぐ。

「じゃぁ、食べようか」
「はい、いただきます」

 玖珂と向かい合って夕飯を食べているのは凄く不思議な気がしたが玖珂はあまり気にしていないようだった。懐石料理は見栄えだけでなく味も良く、どこかの 料亭のものなのだろうと察しが付く。土産にとこんな豪奢な物を貰うとは一体どんな客商売なのか謎がますます深まるばかりだ。
 箸を進めつつ、ちゃんと礼を言っていなかったので、玖珂にもう一度世話になった礼をいい頭を下げる。玖珂は「気にしなくていい」と言ってあの日の事には 特に触れては来なかった。他愛も無い世間話をしながら渋谷は思う。こうして仕事絡み以外で誰かと夕食を取るのは本当に久々なのだ。深い意味を考えずに出来 る会話、味わいながら食べる食事。忘れていた普通の日常が今ここには確かに存在する。
 暫くし、玖珂が箸を休めて渋谷に話しかけた。

「その……一つだけ聞いても構わないかな?」
「はい、何か?」
「渋谷君は何歳?」
「俺は三十一です。玖珂さんは?」
「三十一か、じゃぁ、俺とあまり変わらないな…、俺は三十三だから」
「え?三十三?」
「もっと上かと思ったかな?」
「すみません……もう少し上かなと」
「……参ったな……、結構これでも気にしているんだが、どうも老けて見られがちでね」

 そう言って玖珂が苦笑したので渋谷は慌ててフォローしたが「冗談だよ」と玖珂は笑っていた。フォローはしたものの実際、渋谷は少し驚いていた。容姿が老 けているなどといった事はなかったが玖珂が持つ雰囲気はとても落ち着いており、自分とそう歳が変わらないという事に驚いたのだ。初めて会った時から感じて いた。人を許す事が出来るおおらかさ、聞き上手で場の雰囲気を和ませることが出来る社交性、自分の待っていない物を持つ玖珂はどんな人生を歩んできたのだ ろうか。何も残ってない自分の歩んできた過去が惨めに思え、渋谷は思わず心の内を吐露する。

「でもいいじゃないですか……」
「うん?」
「それだけ意味のある人生を送ってきたって証拠ですよね……。俺は…、見た目も童顔だし、こんな歳になってもちっとも余裕が無くて……」

 渋谷は童顔を隠すように俯くと、確かめるように眼鏡を押し上げた。長めの前髪が隠してくれるのは、顔ではなく、自分の弱い部分と汚れた過去。仮面をつけているからクールに振る舞うことが出来るのだ。
 玖珂は俯き気味になった渋谷をじっと見つめたあと静かに口を開く。

「他人に、隙はみせられない?」
「……え?」

 玖珂の言った事は的を得ていた。出来るだけ年相応に見せるために選ぶ服の趣味も…。そして、取り繕っているクールさも全ては他人に隙をみせないためなのだ。まるでお見通しのような台詞に渋谷は一瞬どきりとした。
先日も感じた事だが、玖珂は人の本質を見抜く力があるのかもしれない。渋谷は自分が裸にされているような感覚に陥り動揺する。いつもならこんな風に思われていると知っただけで距離を取りたくなるが、そういうわけではない。
 玖珂相手なら本当の自分を少し出しても平気かもしれないなどと、とりとめもなく考えていた。知られているならもう取り繕う事もしなくていいのではないか とも……。それと同時に、まだ出会って間もない玖珂を相手にこんな事を思うなんてどうかしていると自分にも呆れてしまう。黙ってしまった渋谷に玖珂は優し く語りかける。

「気を悪くしたかな?……すまない。職業柄つい気になってしまってね……」
「いえ……大丈夫です……。でも……俺、そんなに……無理して気を張ってるように見えますか?」
「いや、そう言うわけじゃないんだが……ただ……」
「…………」

玖珂は言い淀み、一度グラスのビールを仰ぐ。少し間を置くと渋谷の方へまっすぐと向きなおった。

「君は、どうしてそんな寂しそうな顔をしているんだ……?」
「…………え」

 そう問いかけたあと、心配そうな顔をして眉を寄せた。まだ2回しか会った事のない男に向けるにしては、その視線はあまりに優しくて……。渋谷は返す言葉さえ思いつかずただ俯いたまま顔をあげれずにいた。
 他人には自分がそんなに寂しい人間に見えてしまうという事もショックだった。心配そうな声でこんな事を言われたのも、こんな優しい視線で見つめられた事も今まで一度もない。馴染みのない感情は渋谷の中のどこにも居場所がなくて宙を彷徨う。俯いた渋谷に玖珂が話を続ける。

「この話はここでやめよう。ただ、君の話を聞いてくれる人間がいるって事は覚えていて欲しいかな」

――同情?あんな事があったから?
渋谷はゆっくりと顔を上げる。まっすぐ見つめてくる玖珂の瞳には、同情や哀れみといった感情は感じられなかった。
――じゃぁ、何故?
どうして、こんなにも他人の自分を気に掛けてくれるのか。混乱する気持ちの整理の着かないまま、渋谷は口を開いた。
「…………玖珂さんは……」
「ん?」
「自分の居場所がありますか?」
「居場所?それはどういう……」

 渋谷は自分で言った言葉に驚いていた。まだ何も知らない他人に向かって自分は何を言っているのか。酒のせいにしてしまうには、あまりに酒の量が少なく、 言ったそばから激しい後悔が押し寄せる。何処かで期待している自分を認めたくなかった。玖珂の優しさに揺れてしまうのが怖い。渋谷は「ご馳走様でした」と 小さく告げ、箸を揃えてテーブルへと置く。

「……すみません。今言ったことは忘れて下さい。何でもありませんから」
「……渋谷君」
「俺……帰ります。今回の事は本当に有り難うございました」

 渋谷はすぐに立ち上がると鞄を持って玄関へと急いだ。玖珂と視線を合わせたくなかった。まるで逃げて帰るようで心苦しいが……。今、玖珂から離れないと自分が自分でいられなくなりそうな気がしていた。
 玖珂は突然帰ると言い出した渋谷に、そう慌てるわけでもなく玄関へ姿を現した。手に何か小さな袋を持っているようだが、渋谷は振り向くことが出来なかった。

「渋谷君、ちょっと待ってくれないか」
「…………」
「これ、この前渡し忘れたんだ。君の眼鏡。落ちていたから」
「…………有り難うございます。じゃぁ俺はこれで。ご馳走様でした」
「あぁ、気をつけて……今日は君と話が出来て……良かった」

 袋を受け取り、一度軽く頭を下げて挨拶をすると渋谷は玄関のドアを閉めた。エレベーターに乗りマンションを出て駅に着くまで渋谷は一度も振り返らずに歩いた。
 
 
 
 
 電車に乗って最寄りの駅に着いたのは、もう12時半を回っていた。帰路を歩きながら渋谷は先程渡された袋から何気なく眼鏡を取りだしてみた。わざわざ拾って持っていてくれた物だ。
その時、眼鏡と一緒に入っていたメモが一枚アスファルトに音もなく落ちた。
拾い上げてみるとそれは玖珂の自宅と携帯の電話番号のメモだった。眼鏡はフレームだけになっていたが綺麗に洗ってハンカチで包んである。

――君の話を聞いてくれる人間がいるって事は覚えていて欲しいかな。

玖珂の台詞が脳裏に浮かび消えていく。真剣な眼差しで自分を受け入れてくれようとする玖珂の表情が頭から離れない。
 渋谷は目を閉じて深く溜息をついた。ここ数日で様々な事が起きた。その事で、少しずつ自分が変わってきているのを嫌でも実感している。ずっと変わらない ままでいたかった。何も見ず、気付かず、誰とも深く関わらないで過ぎて行くのが自分の生き方だと思っていた。変わって行くのが怖かったから…。

 眼鏡のフレームを袋へ戻すと再び歩き出し、公園の横を通り過ぎる。
いつも雰囲気が気に入っている公園の景色。朝と変わらないはずなのに、外灯に照らされた景色は今の渋谷にはとても寂しく映った。今の自分と重なって見えるその景色を目に入れたくなくて渋谷は自宅までの道を駆け出した。
 
 
 
 
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 玖珂は渋谷が帰ったあと、閉じられた玄関のドアの前で暫く立ちつくしていた。背後には先程渋谷が返しに来た紙袋がおかれている。クリーニングに出してあ るジャケット、新しく用意された下着やタオル。真面目な渋谷らしいそれらに視線を落とす。どうして自分は無理にでも彼を引き留めなかったのか。
 渋谷が立ち上がった時、手を伸ばそうと思った。彼の腕を掴んで引き寄せて……それから……。
 渋谷との突然の再会に気持ちの整理がついていなかったというのもある。余計な事を言って、彼を追い詰めたのではないか、そう思うと自分のとった行動が間違っていたかもしれないと思わざるを得ない。

朝子の写真をみて確信した時から何度も自分に言い聞かせた言葉は何の意味ももたなかったのだろうか。

「…………俺の腕は、誰を抱きしめたいんだ……」

 答えの返ってこない宙にポツリと呟いてみる。そのままネクタイを指で下げて息を飲む。会っている間、一度だけ少し微笑んだ渋谷の顔が浮かんでは消えて、まるで自分を責めているように感じる。
歳を重ねるたびにストレートには感情を現せなくなる自分がいる。失いたくない物や手に入れたい物が近くにあるのに、それを掴む勇気が無い。何処かで気持ちを誤魔化しているそんな自分の臆病さを感じ、玖珂は溜息をついた。