戀燈籠 第七幕


 

御樹は、はやる氣持ちを抑へて、いつもの手紙の場所に向かつてゐた
あれから何度か手紙を通はせ、かうして會う約束までたどり着いたのである
こんなに夜遲くに街を歩くのもあまりない事だつた

行き交ふ人は全くをらず通りのざわめきも聞こえない靜寂な街
しかし、御樹には晝間よりも明るくうつるそれらは目を細めたくなるほどであつた
咲坂の仕事が終はつてから拔け出すといふ約束はだいたいの時間しかわからない
だけど、何時間待つことにならうとも、そんな事は今の御樹には問題ではなかつた

一つ

二つ

角を曲がつて近づくたびに咲坂の顏を思ひ浮かべた
 
 
 
何時間か待つ事になるだらうといふ御樹の考へは杞憂にすぎず
約束の場所が目にはゐると、そこには咲坂の姿がすでにあつた
御樹は足を早めてその場所へ近づいた


「青人さん」


振り向ゐた咲坂は微笑むと少し恥づかしさうに前髮を掻き上げた

「待たせてしまつたでせうか? これでも早く出てきたつもりだつたのですが」
「いや 待つてはゐないよ 俺も今きたばかりだから」
「さうですか 良かつたです」

咲坂の微笑んだ顏を見てゐるだけで御樹は
かうして會えて本當に良かつたと
心から思ふのであつた
今の時間から逢瀬をすると云ふことは何處か店へいくにも
時間が遲すぎる
御樹は少し考へた末
ゆつくり話が出來るであらう場所を探した


「青人さん 少し場所を變えて話をしませんか?」
「ああ さうだね」


御樹に連れ立つて咲坂も後へ續く
街を拔ける間はたわいもない事を話しながら御樹逹がたどり着いたのは
街のはづれにある小さな神社であつた
古くからあるだらう、その神社は街燈ももちろんとどかず
夜の闇にすつかり溶け込んでゐた

「青人さん こちらへ來てください」

御樹の呼ぶ方からかすかに光がさしてゐるやうに見える
咲坂は足下に氣を附けて御樹のゐる方へ向かつた
砂利を蹈みしめる音がさくさくと響く
たどり着いた咲坂はそこから見える景色に息を呑んだ
 
 
 
「ここは……」
 
 
 
街から少し高臺にあるその神社の裏は
見渡す限りの廣場で視界を遮る物は何もない
空を見上げてみると今宵は滿月で
青白い光が一面に射し込んでゐた
とても明るい
月明かりとは思へないほどであつた



「綺麗でせう?春にはここから街の染井吉野が見えてとても美しいのですよ」
「ああ 本当に綺麗だね それに今宵は滿月のやうだ……
 さういへば最初に店であつた日も滿月だつたね」
「さうでしたね……」



滿足さうに御樹は微笑むと月を見上げた
最初に會つた時から感じてゐたのだが御樹はとても綺麗だ
咲坂は月をみあげる御樹をみつめてゐた
姿形だけでなく、御樹には何處か靜寂な空氣を思はせる所がある
どこまでも透明で色をつける事さへ出來ないやうなそんな感じがしてゐた
ふと振り返つた御樹は自分の着てゐた外套をさつと脱いだ


「青人さん 寒いでせう? これを着てゐて下さい」


一度は大丈夫だからと云つて斷つたものの 
いいから といふ御樹の言葉に負けて
咲坂は外套を肩に羽織つた

今まで御樹がきてゐたからだらうが
暖かいそれは咲坂の心根までをも暖めた
ふはりと掛けられたそれは何だか御樹に肩を抱かれてゐるやうだ
さう考へては咲坂は外套の襟をそつとかき合はせた

「あつちに坐るところがありますから」

御樹は先に立つて歩き出す
少しいつた所に忘れられたやうに一對のベンチがおかれてゐた
二人はそこに腰を下ろす
ベンチに坐つた御樹が輕く咳をする
咲坂は覗き込むやうに心配げな目線をむけた


「君こそ風邪をひいてしまふ 平氣なのかい?」
「いえ 大丈夫ですよ」


につこり微笑むと御樹は心配ないとでもいふやうに頷いた
東屋にもなつてゐるここは後ろにそびえ立つ大木のせゐもあつて
風もそんなにあたる事はなかつた
何から話せばいい物かこふいうのは互いにはじめてで、
しばし二人は言葉を發せないでゐた


「青人さん 私はとても嬉しかつたのです
 かうしてもう一度貴方と話が出きるなんて
 思つてなかつたですから……」
「それは俺も同じだよ さんざん君には嫌はれるやうな物云ひをしてきたからね」


少し後悔をするやうに咲坂は俯いた


「私が勝手な事をしたまでです
 青人さん、私の我が儘をききとどけてくださつて……
 有り難うございます」
「いや……そんな禮を云はれることは何もないんぢやないかな……」


咲坂はふと顏をあげると決意をしたやうに話し出す


「今日だけの戲れ言だと笑つてくれても構はないが
 少し本當の氣持ちを話さうと思ふ 聞いてくれるかい?」
「ええ もちろん」


御樹は少しだけ咲坂に向き直ると話をきくやうに姿勢をただした
 
 
 
「……俺は、あまり人を信じない性質でね いつからかうなつたのかは
 わからないんだが、氣附ゐたらそんなつまらない人間になつてゐた……
 君が……いや……御樹くんと云つたはうがいいかな……
 最初に俺に會いに來たときは 冷やかしだとさう思つてゐたよ……
 それでも話をきいたりしてゐるうちに
 今まで感じたことのない感情を抱くやうになつてゐた
 そして御樹くんが手紙を俺に屆けるやうになつてからは
 その氣持ちはますます強くなつていつたんだよ
 それと同時に…………怖かつたんだ」

咲坂は思ひ詰めたやうに息を吐いた

「怖い……とは?」
「もし……この氣持ちを自分が認めてしまつたら
 もう誤魔化しがきかないんぢやないかつてね
 認めなければ……御樹くんがこのまま消えても
 自分を納得させるだけど云ひ譯が用意できるだらう?
 俺は……臆病なんだ……」
「でも……かうして會つてくれてゐるといふ事は
 青人さんがご自分の氣持ちを認めたという風にとつてもいいのでせうか?」
「ああ さうだね……少しだけ自分を認めてやる事にしたんだよ」

御樹はとても嬉しさうだつた

「私は幸せ者です……本當に…………青人さんがさうやつて自分を認めてくれただけで
 もう充分です……私も……私も氣持ちを傳えてもいいでせうか?」

咲坂は何もいはずにただ一度御樹の目をみた



「私は…………貴方を……青人さんを愛しいと思つてゐます
 一目見たその時から私の心は奪はれてゐたのかもしれません」


「御樹くん……」

「鈴音……と」

咲坂は少し躊躇つた後

「鈴音……」

と名前を呼んだ
 
 
 
「青人さんに觸れても……いいですか?」
 
 
 
御樹は咲坂に問ひかける

「ああ…………」

御樹の腕が靜かに咲坂の肩を引き寄せる
少し垂らした黒髮が咲坂の鎖骨を撫でた



「とても……暖かいよ 鈴音……」
「私もです……」



御樹は腕の中の咲坂を確かめるやうに力を込める



「こんな臆病な俺で……構はないのかい?……」
「私は青人さんだから、愛しいのです 貴方以外の人はいらない……」



咲坂ははじめて心から觸れた言葉に心を打たれてゐた
ややもすると溢れてきさうな泪をせき止めるやうに目を閉ぢる
滿月が二人を祝福するやうに優しく包み込む
耳元にかかる御樹の息をききながら咲坂は現實を忘れさうになつてゐた


──このまま……明日がこなくても構はない


さう願はずにゐられないほどに
甘いそれは二人の中を滿たしていつた
時は早く過ぎ時間は流れ續けた
 
 
 
 
       *       *       *
 
 
 
 
御樹はそれからも咲坂の知らない街の事や流行つてゐる事
咲坂がきけばだいたい何でも答へがかへつてきた
その博識ぶりに咲坂も感心してゐた

「さうだ 青人さんは繪は興味がありますか?」
「それは見るはうかい? それとも繪心があるかといふ意味でかい?」
「見る方です 私も自分でかくのは全くだめですよ」
「見るのは好きだが……あまりさういふ機會もなかつたけどね……」
「來週の日の曜日に私の好きな畫家の個展があるのですが 一緒にいきませんか?」
「個展? それは晝の時間で?」
「ええ 夕刻近くで」
「さうだね ぢやあ豫定を調整してもらへるやうに頼んでみるよ」
「では 豫定がもし空いたらご一緒しませう」
「ああ さうだね  ところで、鈴音が好きだといふ、その繪はどんな繪なんだい?」
「さうですね……道徳觀念に捕らはれることのない
 自由畫奬勵を最初に唱へた畫家なのですよ
 兒童雜誌もよく發行なされてゐるのですよ 元は教育者らしいです
 繪はさまざまですね のびのびとしてゐて見てゐて氣持ちいい繪ですよ」
「さうか それは見てみたいものだね 樂しみだよ」

咲坂は嬉しさうに話をする御樹に目を細めた
自分も普通に生活を送つてゐれば
御樹みたいに興味のある事柄を調べたり
目で見、耳で聞き
教養を深めることができたのかもしれない
思ひ返せば、たださうしなかつたのは環境のせゐだけとも云へなかつた


「鈴音、ひとつ頼み事があるのだけど いいかい?」
「はい 何でせう?」
「その……俺は見ての通り世間の事……いや他のことも知らない事が澤山ある
 もし君さへよければ 空いてゐる時間に樣々な事を勉強させてもらへないかな?」
「私で宜しければ 喜んで」
「いいのかい?」
「斷らなければいけない理由を見つける事の方が難しいですよ 嬉しいくらゐです」
「さうか ぢやあ 宜しく頼むよ」


今からでも遲くはないのではないか
御樹と一緒にゐるとこれからの人生も學ぶべき事は澤山あるのだと思ひ出された



それからしばらくして二人は名殘惜しい想ひを殘して別れた
 
 
 
 
「青人さん 今日はとても素敵な時間をご一緒できて嬉しかつたです」
「ああ 俺も樂しかつたよ 有り難う」
「手紙……また屆けにいきます」
「返事をかくよ」
 
 
 
 
神社をでて街に出ると少しだけ空が明るくなつてゐた

二人は別の方向へ歩き出す

次の約束を待ちながら……