戀燈籠 第三幕


 

御樹が咲坂と會つたあの日から今日で一箇月が過ぎた
店に「戀燈籠」の續きを持つてきてくれた男が來た後
古書店へと訪ねてみたが、結局本の續きはどうしても見つからず
先のないまま、あの本は御樹の書棚へと竝べられてゐた
それでも、やはり時々無性にまた讀んでみたくなり棚から引つ張りだしては眺めてゐた


御樹は初めて咲坂と會つた街燈の下を通る度に彼を思ひ出しては
何處かでいつも咲坂を探してゐる自分に氣附ゐてゐた
そんなある日の夕方


御樹は明會座といふ街で一番洒落た映畫館に、向かつてゐた
明會座ではいつも、流行のの俳優や女優の作品が上映されてをり
人氣も高い映畫館だつた
見てみたい映畫があつたので、上映時間よりも少し早くついてゆつくりみようと
御樹は早めに家を出た
案の定、上映時間よりだいぶ早く附ゐたが
すでに映畫館の前には人が行列をなしてをり
御樹は輕くため息をついた


──……後1時間早く家をでてゐれば


竝んでまで見るのは面倒な氣がして、いつもならやめてしまふのだが
今日は別段後に用事もないし……
御樹は少し後ろに伸びた列の最後に竝んだ
今日は休みと云ふだけあつて、街は人で賑はつてゐた
デパアトメントに家族でいつたのか小さな子供が父親の手を嬉しさうに握つて
もう片方の手は母親と繋いでゐる
兩親の手には澤山の袋が提げられてをり、幸せさうな家族の休日を映してゐた
御樹は街をゆく人々をぼんやりと眺めてゐた
一瞬、風が強く吹き御樹の前にゐた男子學生のマントが ひらりと飜つた
マントの向かうに瞬間見えた男に御樹は目を見張る

──……あれは………………

少し離れてゐたので確實にはわからないが、咲坂に似てゐる
誰かと待ち合はせでもしてゐるのか、男は一人だつた
御樹は竝んでゐる列から拔けると男の側へ歩いていつた
近づくにつれ姿がはつきりみえるやうになると
御樹は間違ひがなかつた事を確信したのである

──……間違ひない 彼だ

御樹は立ち止まつて聲をかけるかどうか迷つてゐた
もし聲をかけても自分の事など覺えてゐないかもしれない
さう思ふとなんと云つて聲をかけたらいいものか…………
しばらく立ち止まつてゐるうちに咲坂に見知らぬ男が聲をかけてゐた
身なりの整つた紳士といつた風情の男は何か咲坂に一言、二言話し
その後、二人で歩き出してしまつた

御樹は無粹を承知で咲坂の後を遠卷きに附ゐていく事にした
男と咲坂は知り合ひといふわけではないのだらうか
御樹が見る限りでは一言も話さず、ただ歩いてゐると云つた感じに見えた

少し離れて歩いてゐたし、二人とも人目を氣にしてゐるやうにも見える
しばらく歩いて少し裏に入つた所で咲坂逹がきうに立ち止まつた
御樹は路地には入らず二人の見える位置で足を止めた
咲坂逹が立ち止まつた場所の上を見て御樹は息をのんだ

──……『宵夢』

表だつてはわからないがその場所は間違ひなく貸座敷であつた
娼妓解放令の後「遊郭」は「貸座敷」と名を變え
國家の暗默の諒解のもとの風俗習慣である

あまり數はないが女郎以外にも
かうした男娼專門の貸座敷業がある事は御樹も知つてゐたが
本當に實際を見たのは初めてであつた
咲坂は男にお辭儀をして中へ招き入れながら男の後に續ゐて入つていつた
御樹はその場でしばしその看板をみて立ちつくした


──咲坂は……ここで働いてゐるのだらうか


御樹は咲坂と會つたあの日の夜 彼の胸に情交の跡があつた事を思ひだしてゐた
咲坂の云つた臺詞は この事をさしてゐたのか
 
 
 
御樹の願ひだけは叶つた
咲坂ともう一度會ゐたいといふ その願ひだけは……
何も考へられないまま御樹は、その後 街を彷徨つた
 
 
 
すつかり映畫の事などは忘れて御樹は家に歸つてからも
さきほどみた咲坂の姿を思ひ浮かべてゐた
引き出しから紅葉の葉を取りだして手のひらにそつとのせてみた
紅いその葉は一箇月前と變わらずに鮮明で色あせてゐない
色褪せてゐないのは紅葉の葉だけではなかつた
御樹の氣持ちもまた 一箇月前と寸分色褪せる事なく色づいてゐたのである
 
 
 
次の日 夜を待つて御樹は昨日の場所へ向かつてゐた
足取りは重く、まるで夜の闇の重さまでもを背負つてゐるやうな氣分であつた
店につくと御樹は一度大きく息を吸ひ込んで一度あたりを見渡すと
決心したやうに中へ吸ひ込まれていつた
店に入ると うやうやしく頭を下げて男がすぐに近寄つてきた

「いらつしやいまし 今日はご指名は如何いたしましようか?」

──指名…………

さうか咲坂の源氏名までは御樹も知つてゐるはずもなく
男になんといつたらいいか考へ込んでゐた
そこへちやうど咲坂が階段を下りてきた

「あ……」

小さく聲を漏らした御樹に咲坂は氣附ゐた風でもなく
そのまま通り過ぎて奧の座敷へと消えていつた

「今の方でお願ひします」
「青華 お客さんだ お通しして」

──青華……咲坂の源氏名なのだらう

男の大きな聲が奧の座敷に屆ゐて少しして咲坂が現れた
咲坂は御樹をちらりと見ても氣附ゐてゐないのか顏色ひとつかへなかつた

「いらつしやゐませ どうぞ こちらへ」
「あ、はい」

御樹は咲坂が昇る階段の後に續ゐた
階段を上りきつた所は部屋が個室でいくつもあつて
中からは淫猥な聲がかすかに聞こえてきてゐた

今更ながら御樹は
こんな所まできて自分はいつたい何がしたいのかわからなくなつてきてゐた
咲坂は自分にはきづいてゐないやうだし・・・
通された部屋は六疊くらゐの小さな疊の部屋で一組の蒲團が敷かれてゐた

「こちらへ」

入り口に立つてゐる御樹を咲坂が中へくるやうに促した
鍵をしめて部屋の中程まで進んだ所で御樹は咲坂に口を開いた

「咲坂……さん ですよね?」

咲坂はそれには答へず、ため息を附ゐた後腰を下ろした

「何しにきたの?冷やかしにでもきたのかい?」
「まさか」

御樹は慌ててさういふと自分も腰を下ろした
目の前の咲坂はあの日とは全然違つて見えた



「お體は……もう大丈夫なのですか?」
「ああ……おかげさまでこの通りだよ あの時は世話になつたね」



默つてゐる御樹の前で咲坂は自分の着物に手をかけて脱ぎはじめた
恥づかしがる事もなく淡々と……
咲坂は御樹の顏色何かどうでもいいとでもいふやうに仕事をしてゐるのだ
御樹はたまらなくなつて咲坂の腕を掴んだ

──こんな……こんな…………

「やめてください……」
「どうして? ここはさういふ事をする所だよ 知つててきたんだらう?
 それで俺を指名した 違ふのか?」
「違ひます……私はただ…………」

御樹は咲坂を掴んでゐた腕を放すと立ち上がつた

「…………歸ります……」

咲坂はふうと一つ息を吐いて御樹に聲をかけた

「ぢやあ 何もしない それでいいんだらう?」



弛めてゐた着物をまた整へると立つてゐる御樹もまた隣に腰を下ろした
こんな客は初めてだ と咲坂は笑つた
二人は窓から覗く秋の月を見上げてゐた



「今日は滿月か……」



さう呟いて月を見上げる咲坂はとても儚げで御樹の胸はきりりと痛んだ