戀燈籠 第十九幕


 

旅から歸り着いた御樹は緊張の絲が解けたのかそのまま何日か床に伏せつてしまつてゐた
わづかに小康状態を保つてゐたかに見えた體調は
最後になる旅を天が贈つてくれただけだつたのかもしれない
しかし、咲坂にもう何も隱し事はしてゐない
それは氣分的には樂でもあり、殘りの時間をどう過ごすか
二人で話すのは自然にそのひとつになつていつた
寢込んでゐる御樹の變はりに最近は咲坂が庭の鳥逹へと餌をやつてゐる
障子越しに庭へと目を向けて横を向けば咲坂が御樹にも見えるやうに少し屈んで鳥逹を呼んだ


「良かつたぢやあないか 鈴音 やつぱり行く前の日はたまたまだつたんだねえ」
「ええ そのやうですね」


旅に行く前に姿をいつさいみせなかつた鳥逹は今は前と變はらず
庭の枝に何羽もとまつてをり、咲坂が餌をまくと地上に降りて小さなくちばしでそれを啄んだ
そんな鳥逹と咲坂の背中に御樹は目を細める

咲坂は御樹が考へてゐるほど弱くはなかつた
穩やかな中にも強い精神力があり、御樹が勞咳を患つてゐるとわかつてからも
その態度は變はることもない

そして、御樹が何より有り難いと思つてゐる事がある
咲坂は御樹に一度も云つた事がない
「死なないでくれ」
と。

愛しい者がこの世から去ることは誰でも等しく悲しい事には違ひない
しかし、咲坂は御樹のいいようにしたらいいと
さう云ふのだ
その事は悲しみに打ちひしがれて時間を過ごす事よりづつと御樹には有り難かつた
何も變はらない日常を送れること
最後まで望む小さな想ひは、それだけだつたのだから

晝になつて御樹は咲坂がくれたラヂオを枕元でかけて讀みかけの本を眺めてゐた
寒くないやうにと用意された上着に手は通さず肩にかけるだけにして半身を起こしてゐる
しばらくさうしてゐたが御樹はそつと膝へと本を置いた
咲坂がそろそろ店番からあがつてくるはずである
さう思つてゐるところへ咲坂がちやうど顏を出した


「青人さん」
「ああ 鈴音  ん??讀書かい?」
「はい もうすぐ讀み終へますけど」

さう云つて隣りに腰を下ろした咲坂に殘り少なくなつた本にしをりを挾んでみせる

「あれ?その本は」
「ええ わかりますか?」
「そりやあね」


御樹が讀んでゐた本は咲坂が御樹の家に來る時に持つてきた本で、一番好きな本なのだ
咲坂はさう讀書を好むはうではなかつたが何故かこの本だけは氣に入つてゐるらしい
先日、御樹とその話しになりかうして貸してもらつてゐるのだ
本の蟲でもある御樹はたちまちその本を讀み始め、のこり僅かとなつてゐる
空咳を繰り返す御樹の背に手を當てると咲坂はその本を御樹の膝から降ろす

御樹は咳をしながらもそんな咲坂に薄く微笑んだ
何も云はなくてもわかりあへるやうな空氣は酷く心地がよい物でもある
咲坂のゆつくりと動く手の温もりの中で御樹は窓の外へと目を向けた
こちらでは櫻の季節はもう終はつてをり、もう少ししたら初夏の兆しが見える
移りゆく季節をともに過ごせることに感謝をしながら御樹は淺い眠氣に誘はれた
眠つては目が覺め それの繰り返しでもあるが
そのうち目覺めることはないのだらうとフと考へる
御樹は眠氣を覺ますやうに咲坂の腕を掴んで引き寄せ、胸に咲坂の頭を抱き寄せた
かうして近くに咲坂の體温を感じられる事が嬉しいのだ


「どうしたんだい?」
「いいえ 別に」


だまつて御樹の胸に體を預ける咲坂が少し甘えるやうにその鼻をすりつける
側にゐれば御樹の匂ひがする事が咲坂にとつても嬉しいことなのである


「青人さん」
「ん?」
「私がづつと綴つてゐる日記があるのを知つてゐますか?」
「いいや 知らないよ」
「日記といふか本當は物語だつたんですけどね……不思議なことに先がないのですよ」

咲坂は そりやあまたどうしてだい? さう云ひながら御樹の體から離れて顏を見上げる

「さあ 私もよくわからないのですが最初からなかつたやうです
 それで、私がその續きから言葉を綴つてゐるのです」
「へえ さうなのかい ぢやあその物語は鈴音の物語になるねえ」
「さうかもしれませんね」


さう云つて御樹はクスッと笑ふと咲坂の髮へと指を絡ませた
出會つた頃よりだいぶ伸びた髮は、今は後ろで一つに結べるほどになつてゐる
柔らかなその髮質を指先で感じるやうに觸れたあと
御樹は呟いた


「その本 私がいなくなつたら見て頂けませんか……」
「……鈴音?」
「云はなくても青人さんなら わかる場所へ置いておきます でも…」
「うん?」
「今は見ないで下さいね 約束して下さい」
「ああ わかつたよ」


御樹が差し出した小指に咲坂も指をさしだし約束する
安心したやうに御樹が頷き、疲れたから少し休むとそのまま横になつた
咲坂は 上掛けをかけてやると おやすみと云ひ殘して靜かに襖をしめた
 
 
 
 
      *       *       *
 
 
 
 
その晩
御樹は咲坂が深い眠りについたのを見計らつてそつと部屋を出た
廊下を壁に手をつきながら自室へと足を運ぶ
數歩歩いただけで息が苦しくなる體を何とか支へながら部屋へ辿り着いた
最近は、自室にゐる事はほとんどないが
咲坂が風を通してくれてゐるのか埃つぽい匂ひが籠もつてゐることはなかつた
机の引き出しをそつと開けるとニシキギの葉に埋もれた戀燈籠の本を取り出して卓上にのせる
そして、御樹はこれまでさうしてきたやうに言葉を綴つた



──筆はこんなにも重かつたのだらうか……



やせ細つた腕は見た目同樣、筋力も衰へてゐる
握つてゐる筆は鉛のやうに重かつたのだ
筆を持つ手が小刻みに震へてしまひ御樹の書く字が僅かにゆがむ
それでも御樹は取り附かれたかのやうに書き續けた
多分これでもうこの本には觸れることが出來なくなるのを
何處かでわかつてゐたからかもしれない



──最後のペイジ

──眞つ白なペイジを前に御樹は一つ咳をした



一度出だすと止まらなくなる咳は、肺を軋ませる
わづかに口の中に血の味が廣がり
左手で口元を押さへながら御樹は一文字づつに想ひをこめて綴る
指の間からポタリと血がこぼれ落ちても筆を止める事はしない
漸く書き終へた御樹の着物の胸元は、あまりに赤い鮮血で眞つ赤に染まつてゐる
氣を拔くと離れていきさうな意識を必死でつなぎ止めて
御樹は本を閉ぢ、手に持つと立ち上がる
ある場所まで持つて行くとホッと安堵したやうにその場所へしまひ込んだ
そのまま洗ひ場に行くと口をゆすぎ胸元の血を拭ひ咲坂の眠る部屋へと戻つた



起こさないやうに再び蒲團へと體を忍ばせると、咲坂が寢返りを打つ
その横顏をしばらく見つめた後
咲坂の背中を抱くやうに腕を廻して御樹もまた眠りについた