戀燈籠 第十五幕


 

まるで、病が休憩をしてゐるやうに
御樹の體はここ數週間、惡化もせず普通の生活を送れてゐた
相變はらず咳は出たが、是と言つても喀血するわけでもなく
落ちてゐた體重もこれ以上は減つてゐないやうに見えた

先日、咲坂と計畫を立てた旅行の當日
早めに起きてゐた御樹はいつも通り庭へと向かひ
集まつた鳥たちに餌をあげるために縁側に腰を下ろしてゐた
しかし、かうして引き戸をあけた時點で待つてゐたかのやうに集まつてくる鳥逹は
何故か一羽もをらず
御樹は不思議に思ひ着物の前を片手で合はせ風が入つてこないやうにすると
一歩庭へと蹈み出してみた
空は穩やかに晴れてゐて、風が強いわけでもない
まはりにはいつもと變はらない景色が廣がつてゐたが
庭の木々に止まつてゐる鳥逹さへ今朝は姿が見えなかつた
どうしたのだらうと思ひ少し歩いて探してみてゐる所へ咲坂の聲が聞こえた


「鈴音 隨分早起きだね」
「あ 青人さん おはやうございます」
「おはやう で、どうしたんだい?
 そんな薄着で庭にゐたらまた工合が惡くなつてしまふよ」
「ええ 實は……」


鳥逹が今日は一羽もゐないのだと御樹が咲坂へと傳へる
少し寂しさうな御樹に咲坂も一緒に庭へと歩いてくると周りを見渡した
確かに一羽も姿が見えなかつたが咲坂は沈んでゐる御樹に氣にすることはないよと微笑んだ


「きつと 朝寢坊してゐるんだよ
 また旅行から歸つてきたら一杯集まつてくるに違ひない」
「さうでせうか…」
「ああ きつとさうだよ さあまう中へ入らう」
「…さうですね」


今までこんな事はなかつたのにと氣にしてゐる御樹を
無理矢理部屋へと連れて行くと咲坂は話題を變へるやうに促す
いつまで言つてゐても仕方がないと御樹もすぐに笑顏をとりもどした
輕く朝餉をとると昨日のうちにまとめておいた荷物を持つて二人は家を出た
誰も來ないとは思ひますけど、さう言つて御樹が臨時休業の貼り紙を店先へと貼り附ける


「ぢやあ 行かうか」
「ええ」


汽車の時刻に合はせて家を出たので
まだ朝が早く通りにもあまり人がゐなかつた
天氣はいいがやはり季節柄少し日陰に入ればひんやりとした空氣がそこにはあり
鞄を掴む御樹逹の手を冷やしてゐた

──周りに誰もゐないのだから手を繋いでしまはうか

御樹はふとさうも思つたが、やはり公衆の面前でさういふ行爲に及ぶのは躊躇はれ
咲坂もさう思つてくれてゐるのかな等と考へを巡らせた

驛の方へと歩いていく途中で咲坂の荷物を改めて見た御樹は
その荷物の大きさに氣附きくすくすと笑ひ出した
何がをかしいのか咲坂はまるでわからず
不思議さうな咲坂に御樹は笑ひながら理由を問ひかける


「何です?青人さんのその荷物は」
「え?何かをかしいかい?」
「ええ だつて、たつた2泊なのにその荷物ではまるで一週間ぐらゐ旅に出るやうですよ」
「ああ これのことだね?ちよつといいものが入つてゐるんだよ」
「いいもの?今は教へてくれないんですか?」
「まだ今は内緒だよ」


さう言つて咲坂は隱すやうに荷物を左手へと持ち替へる
咲坂は御樹に内緒で用意をしてきた物があつた
それは最初に考へてゐたより重くて自分でも少し驚いたのであつたが
どうしてもそれを旅先で見せたくてかうして運んできてゐるのだ
風呂敷へと包むのにもをかしな形で
昨日の夜はしまつて持つて行く用意をするのに偉く時間がかかつた
御樹はしばらくその荷物を眺めてゐたが
ふと、立ち止まつて酷くがつかりしたやうに肩を落とした


「どうしたんだい?」
「いえ、私も青人さんに何か驚かせるやうな仕掛けを作つてくればよかつたなあと思つて」


意外にさういふ子供つぽい所のある御樹は自分も何かを用意してこれば良かつたと思つてゐた
自分の體調の事などでそこまで氣が囘らなかつた事を悔やんでゐるのであつた


「いいぢやないか たまには俺の方がかういふ事をしても」
「ちよつと悔しいです」
「ははは 鈴音は負けず嫌ひだね」
「でも いいですよ 今囘は青人さんに讓つてあげます」
「それは 嬉しいね」


かうして、たわいのない事で笑へるのはとても幸せな事なのだと思ふ
咲坂は横を歩く御樹のほつそりとした長身が
いつまでも隣にゐてくれるやうに少しだけ距離を縮めた
視界の中に驛の姿が見えてをりあと何十歩かで到着する
咲坂は御樹に寄り添ひ荷物を持つてゐない方の手をそつと差し出して冷たい御樹の手を掴んだ
驚いたやうに御樹が咲坂を見る


「驛に着くまでだけ」
「……はい」


御樹が嬉しさうに咲坂の手を握り返す
わざとゆつくりと時間をかけて歩くすぐそこまでの道のりは
旅の始まりを優しく導いてゐるやうであつた
 
 
 
 
      *         *          *
 
 
 
 
鐵道を乘り繼ぎ、目的の場所に到着した頃にはもう夕刻近くになつてゐた
長時間搖られて少し疲勞した體をやつと解放でき、御樹逹は驛へと降り立つとホッと息をつく
少ない街燈の光であつたが僅かに照らされて見える範圍にも櫻がすでに滿開に咲き誇つてゐた
甘いやうな櫻の香りが漂つて鼻孔をくすぐる
夜櫻は何處か儚く淡い櫻色の花びらを風になびかせては切なげに枝を搖らしてゐた


「もう こんなに咲いてゐるのですね とても綺麗でいい香りがします」
「ああ さうだね 櫻の香りがここまでよくわかるのは空氣が綺麗だからなのかな」
「さうかもしれませんね……」
「明日 またゆつくり見ればいい」
「ええ では宿に向かひませうか」
「さうしやう」


驛からほど近い宿に向かふ道すがらも櫻並木になつてをり
その通りに面して旅館が建ち竝んでゐる
御樹逹はその中の一つにと足を運び
豫め宿泊の豫約をしてゐた旨を告げた
旅館はさほど大きなものではなくこぢんまりとした趣のある建物で
客室も六から七室くらゐではないかといふ感じである
部屋へと通された御樹逹は漸く落ち着いて疊へと腰を下ろした

宿自體が通りに面してゐるため窓からは櫻が一望出來る
御樹は窓際へと立ち上がつて近づくと細く窓をあけた
冷たい空氣と一緒にさきほどの櫻の香りが屆く
側にきた咲坂が御樹の後ろから窓の外を覗き込んだ



「鈴音 偶然かな……氣附いてゐるかい?」

「ええ 氣附いてゐますよ……」



櫻の枝の先に視線を移せば滿月が綺麗に空に浮かんでゐた
思ひ出に殘る日と同じ變はらぬ優しい光が窓に差し込んでくる
「宵夢」で咲坂と初めて語つてから御樹はづつと月に願ひをかけてきた
咲坂との思ひでは滿月の日と重なることが多く
月を見ればその日のことを思ひ出した
今夜も綺麗な滿月である
御樹は外の景色に目を細めた

しばらく、さうして眺めてゐたが、つと結はゐてゐる髮に咲坂が指を觸れたのが傳はる
振り返らうとした御樹に咲坂はそのままでと言つて御樹の結び目を解いた
眠るとき以外は髮を下ろすことのない御樹の髮は紐から逃れるやうに背中へと舞つた


「青人さん?」
「これ」


咲坂が手のひらに乘せた櫻の花びらを見せる


「髮に入つてゐたんだよ」
「ここに來るときに舞つて落ちてきたんですね きつと…」
「さうだね」


咲坂の手にのせた花びらが窓から入つてきた風ではらりと零れる
御樹は靜かに咲坂の腰に手を廻すと、その體を引き寄せた
咲坂が安心したやうに御樹の腕に體を預けた
芝翫茶の淡い色の髮に御樹は指を絡ませる
ふと顏を上げた咲坂が御樹の脣に接吻をした
病が移るのを危惧してほとんど交はすことのなかつた接吻は
咲坂から與へられると御樹はもう拒むことが出來なくなつてゐた
今は幸ひ病状も落ち着いてをり咳き込む事もあまりない

──今日だけは……

そんな言ひ譯を唱へながら御樹は咲坂を抱きしめる腕に力を込めた
濡れた舌が互いの口腔を淫らに行き來しては蠢く
その濡れた感觸に醉ひしれたやうに御樹逹は時を忘れて何度も接吻をした
咲坂の口角から溢れた唾液が顎につたふ


「……青人さん…」
「今日だけは……二人で夢路を……鈴音……」


震へてくるほどに疼く躯を止める事など出來るはずもなく
御樹は咲坂に薄く微笑んだ


「ええ……今日だけは……貴方と一緒に……」


これで最後になるかもしれないと互いにわかつてゐるが
それを口にすることはなかつた
花びらが風にのつてひとひら入つてくる
御樹は部屋の中へ咲坂ともどると、さきほどより情熱的な接吻を落とした
毎日のやうに觸れてゐたかつた咲坂の躯を確かめるやうに指で辿る
甘い吐息が漏れ出すのに、さう時間はかからなかつた
宿に泊まる他の客に聞こえる事のないやうに喘ぎをおさへ噛み殺す咲坂が餘計に煽情的で
御樹は高鳴る胸を持てあましながらその淫靡な誘惑へと誘はれていつた