戀燈籠 第十四幕


 

それから二月ほど過ぎた頃から御樹は時々、高熱を出しては床につく事が多くなつた
伏せつてゐない時でも微熱は續き
やはり病には勝てないのかと今日も苦い藥を口に含んでは天井を見上げてゐた
まだ幼かつた頃 かうして風邪などを引いて床についてゐた際に
天井が迫つてくるやうな氣がして怖くて見上げれなかつたのをふと思ひだした
今は怖くはなかつたが、それでもずつと上を見上げてゐるのは息苦しくもあつた
このまま自分の見てゐるこの景色がいつか失はれるのだとしたら
さう思つては御樹は横を向ゐて目を閉ぢ、考へる


咲坂には病名は云つてゐないものの薄々感ずゐてゐるかも知れないと御樹は思つてゐた
一度咲坂を抱いてから今まで病が傳染るのを危惧して性交渉はしてゐない
それどころか接吻さへもなるべく避けるやうにしてゐた
そんな御樹に咲坂は不滿をひとつもいはずかうして御樹が工合が惡ければ
甲斐甲斐しく看病をし、店の方も 何かあつたら呼ぶから休んでゐてくれ 
と一人で何でもこなした
そんな咲坂に御樹は嘘を吐いてゐるのが心苦しかつたが
本當のことをいふのはやはり躊躇はれた
言葉にしてしまへば咲坂を失つてしまふ氣がして御樹は口を閉ざすしかなかつたのである


「鈴音 起きてゐるかい?」


咲坂の聲が襖越しにきこえ御樹は閉ぢてゐた目を開けた


「ええ 起きてゐますよ どうぞ」


さきほど咲坂が額にのせていつた濡れた手拭ひを片手で取り去ると御樹は半身を床からあげた
熱い身體が蒲團から露出した事で一氣に冷氣にあたり思はず僅かに震へてしまふ
そんな御樹に慌てたやうに咲坂は腕を伸ばすと心配氣に御樹の顏を覗き込んだ


「まだよくなつたわけぢやあないんだから 起きあがつてはいけないよ」
「大丈夫ですよ それに今日は氣分がいいのです」
「しかし」
「ずつと寢てゐるのも もう飽きてしまひましたから」


さう云つて笑ふ御樹を咲坂は困つた顏をして見返した
柱の時計にふと目をやるとちやうど晝の時間をさしてゐた
かうして時間に關係なく床についてゐると長いやうでいつのまにか時計の針は進んでゐた
店も少しの間 晝休みになる
その用意を濟ませてから來たのだといふ咲坂は御樹の手をふいに掴んだ
包むやうに置かれた咲坂の掌が火照つた肌にひんやりと心地がよい
重ねた手を放さない咲坂に御樹は問ひかけた


「……青人さん?」
「鈴音 少し痩せたんぢやないのかい?」
「──え?」


御樹は自分の身體に何氣なく視線を落とす
目方を量つたわけではないが、自分でも腕が細くなつたのには氣附ゐてゐたのだ
しかし、着物をきてゐればさほど顯著にわかるわけではない
と、さう思つてゐた


「そんな事ありませんつて ちやんと食事もしてゐますし」


誤魔化すやうに御樹は咲坂の手をそつと外すと視線を逸らした
咲坂はそれ以上は云つてこなかつたが、默り込んでしまつた
少しの間の氣まづい空氣が部屋を滿たし、御樹は話題を振るやうに話しかけた


「どうです?お店のはうは」
「………ああ 大丈夫だよ 鈴音が心配するやうなことはないよ」
「さうですか 良かつた でもすみません いつもまかせつきりにしてしまつて」
「それは構はないけど………鈴音……」


變えた話題の甲斐もなく咲坂は思ひ詰めたやうに疊をじつと見てゐた
次にくる咲坂の言葉が御樹は豫想できるだけに自分からも何と云つていいものか逡巡する
自分の青白い手だけが妙に生々しく視界に映り込むのが嫌で御樹は靜かに蒲團に手を隱した


「本當は………」
「……………」
「風邪ではないんぢやないのかい?」
「……どうしてですか?」
「俺は醫者ぢやあないから何ともいへないけど……でも本當の事をききたいよ
 鈴音は俺に何も云はない。でも自分では知つてゐるんだらう?」


云つてしまはうか
咲坂の思ひ詰めた表情を見て御樹の氣持ちはぐらりと搖れた
不安な氣持ちも全て咲坂に話してしまへば
しかし、喉元まででかかつた言葉は口から出たときには全く違ふ言葉になつてゐた


「いやだなあ ただの風邪ですよ
 私ももう若くないのに夜遲くまで本なんか讀んでゐるからかもしれませんね」
「──さう……」
「青人さん そんなに心配しないで下さい 明日にはもう治つてゐますから ね?」
「ああ、わかつたよ」


とても納得をしたやうな表情ではなかつたが
咲坂は眞實を打ち明けない御樹に諦めたやうであつた
こんなに心配をしてくれる咲坂に餘計な心配を上乘せするわけにはいかない
御樹は蒲團から出ると咲坂の身體を包むやうに腕を廻して抱きしめた
熱い自分の身體とは對照的なひんやりとした咲坂の身體を確かめるやうに力を込める

──愛しくて何處にもいかせたくない

もし自分が死んでしまつても、この身體も心も誰にも手を觸れさせたくなかつた

──閉ぢこめて……そして……いつまでも側に……

靜かにわき上がる獨占慾を感じながら御樹は咲坂のうなじに顏を埋めた 


「………青人さん 少しだけこのままで……」
「………ああ」


降ろしてゐる御樹の髮が咲坂の肩へと流れ落ちる
漆黒のそれは濡れたやうな艷を放つて光りを纏つてゐる
咲坂は御樹の背中をあやすやうにさすり熱い體を優しく包む
御樹が風邪ではない事もわかつてゐるが
本人の口から告げられる時まではもう聞かない事に決めた
細くなつた身體がこれ以上影を落とさないやうに
それだけを祈りながら何度も背中をさすつた


「鈴音 何處か……工合が良い時に旅にでもいかうか」
「……旅に?」
「ああ、少し遠くに足を伸ばして櫻を見に行かう」
「…………… まだ見ぬ櫻に思ひを馳せて二人はしばし目を閉ぢてみる
浮かび上がる櫻の花びらはとても綺麗で目映いばかりに咲き亂れてゐる
なのに、御樹は何故だか泪が出てきた
見咎められないやうに咲坂の肩でその泪を隱し通した
 
 
 
 
         *         *            *
 
 
 
 
夜になつて御樹は咲坂が眠りについたのを見計らつて部屋を出た
自室に籠もると本棚から「戀燈籠」の本を取り出す
暇を見つけては日記のやうに記してゐるため
もう最初と比べてかなり厚い本になりつつあつた
最初の頃に書いた頁はインクが滲み少し黄色かかつた色味の紙にぼんやりと寫つてゐた
讀み返しながら咲坂と過ごしてきた日々を思ひ出す
共に過ごしてきた時間が長ければ長いほど忘却への整理はつかなくなる

最後の頁を開くと御樹は筆をとつた
一緒に櫻を見に行く約束をしたこと
そして、自分がどれほどそれを樂しみにしてゐるか
今日の思ひの丈を書き綴る
夢中でかいてゐるうちに何頁にもなつていつた
そこで御樹はふと筆をとめた

──もし、この本の通りに現實がなるとしたら………

今までは起きた事を綴つてきたが、未來を綴るとどうなるのだらうか
御樹は恐る恐るもう一度筆をとり最後の一行に未來の出來事を書いてみる
すると今まで何ともなく書けてゐたといふのに何度書いて文字は紙に寫らなかつた

──そんな………

インクがなくなつたのかと思ひ
他の紙に惡戲に筆を走らせればスルスルと筆のあとを文字がついてくる
しかし、一度本に向かつて筆をおろせば、やはり書くことが出來なかつた
夢でも見てゐるのだらうか
それとも、病で氣でもをかしくなつたのか
かすかな希望は蝋燭が消えゆくやうに靜かに消えていつた
筆を持つ手が震へてきて御樹の手からぽとりと落ち音もなく轉がつた

──あと、どれくらゐ……

せめて自分に殘された時間がどれくらゐなのか知りたかつた
身體が冷えてきたのか、また咳が出始める
御樹は本をそつと閉ぢながら指を組み合はせて祈つた
力強く組んだ指が色を失つてもそれを解く事はしない
誰からも答へを聞けない
 
 
 
 
──それでも………

「もう少し………夢を見させて下さい………
 ……何も他のものはいらないから………だから……
 後少し……私を連れて行かないで………」
 
 
 
 
一人で呟いた言葉は誰にも屆かないまま宙に消えた