俺の言い訳彼の理由14


 

 夏が暑いのは当然と言える。しかし、今年の夏は殊更気温が高く、幾重にも重なって途切れることもなく声を響かせる蝉さえ、暑さに辟易しているように聞こ えてくるほどだ。昼をとうに過ぎた現在も、外はちょっとしたサウナ状態だった。渋谷は額に浮かぶ汗をハンカチで軽く抑え、花屋の扉を開いた。
 開けた途端、涼しい風と様々な花の香りが店中に広がっており、渋谷の鼻腔をくすぐる。奥から店員が出てくるのを待ち、その間、店の中をぐるりと見渡す。 原色の花から淡い色の花、観葉植物に至るまで、手入れの行き届いたそれらが瑞々しく咲き誇っている。香しいそれらを眺めていると、奥から「いらっしゃいま せ」という声と共に店員が現れた。
 用途と希望を話し、財布から千円札を数枚出し店員へと手渡す。店員は手慣れた様子で、店内に並ぶ色取り取りの花から用途に合う数本を取り出し見繕うと、こちらへ向けてそれを見せた。

「こちらで如何でしょうか?仰ったご希望に叶うかと思いますよ」
「あ……綺麗ですね。それでお願いします」
「畏まりました。花粉を落としてから包装しますので少しお待ち頂けますか」
「はい」

 店員は渋谷の目の前で丁寧に作業を進め、あっというまに花束を二つ仕上げた。花に詳しくない渋谷は花束に使われている花の名前こそわからないものの、その綺麗さは理解できる。
花束を受け取って「有難うございます」と微笑むと店員もにっこりと笑顔を返した。

 受け取った花束を抱えて店を出て、腕時計をみる。まだ時間には少し早いようで、ゆっくりと歩きながら空をあおいだ。高い空はどんなに手を伸ばしても自分の届く場所にはない。だけど、それでも手を伸ばさなければ可能性は0になってしまうのだ。
 入道雲の隙間からのぞく太陽があまりに眩しくて目を細める。花束をアスファルトへと向けて渋谷は駅へと向かった。店からは駅まで歩いてすぐ。昨日の夜、玖珂にメールした際、待ち合わせは改札でという事になったのだ。
 
 
 
 今は待ち合わせの20分前である。
 駅の前は噴水広場になっており、小学生くらいの児童が水に手を浸しては笑いあっている。何をしていても楽しそうなその様子に過去の自分を少し思い出す。 自分にもあんな時代があったのだ。夏になると友達と遠くの川へ自転車で走っていき、服がビショビショに濡れるのも構わず遊んでいた。大した距離では無かっ たのだろうが、まるで冒険にいったかのように自慢気に家族に話していた事まで思い出される。

 今では夏はただ暑くて不快という事しか感じた事が無い。大人になってからの夏はそれぐらいの記憶しかなかった。ただ、今年の夏は違う。最悪な出来事も同時に起こったが、それでも、その事がきっかけで玖珂と出会った。
 数年先、夏の思い出をもし自分が振り返ることがあるとするなら、玖珂との出会いを思い出すのだろうか。
 ぼんやりとそんな事を考えていると、改札の奥に玖珂が歩いてくるのが見えた。電車から降りてきた人波に混じっていたとしても、頭ひとつぶん高い場所にある玖珂は決して埋もれることはない。まだ少し遠くにしか見えない玖珂に、渋谷は素直に思う。会えて良かったと。

 初めて降り立つ駅なのだろう。改札付近で玖珂は少し辺りを見渡し、渋谷を見つけると胸元に手をあげて少し振って見せた。渋谷も軽く会釈をする。

「待たせてすまなかったね」
「いえ、そんなに待ってないですから」

 そう言うと玖珂は安心したように微笑んだ。急いできたのか額にうっすらと汗が滲んでいる。その後、玖珂は渋谷の持つ花束を見て、少し尋ねるような視線を向けた。

「ちょっと不便な場所なんです。ここからバスに乗るんですけど、いいですか?」
「あぁ、勿論構わないよ」
「じゃぁ、行きましょうか。こっちです」

 渋谷はその玖珂の視線にはわざと気付かないフリをしてバス亭の方へと歩く。玖珂とこうして一緒に歩く時はいつも隣か、玖珂の方が少し先を歩いている事が 多い。いつもと逆の位置に不思議な感覚がすると共に落ち着かない。それは今から行く場所を告げていないと言うのもあるが、やはり視界に玖珂がいないという のが一番の要因だろう。

 バス亭につき時刻表を見ると、運良くもうすぐバスが来る事がわかり、数人が並ぶ最後尾に玖珂と共に並ぶ。日傘をさしている若い女性が後ろにいる玖珂を何 度か見上げては少し恥ずかしそうに傘で顔を隠した。玖珂と一緒にいる時、何度かこういう視線を感じる事がある。どこにいても目立ってしまう外見なのは渋谷 も毎回会うたびに痛感している。しかし、玖珂のそれは外見だけの事ではないのだろう。滲み出る優しい雰囲気も深く関係しているのだと思う。そう思ってしま うのは自分が玖珂をそういう目でみてるからに違いないのだけど……。
 すぐにバスが目の前に到着し、空気の抜けたような音とともに扉が開く。渋谷は小銭を入り口で二人分払うと後ろから玖珂もバスに乗り込んだ。乗り口を昇った所で慌てて玖珂が財布を取り出すのを渋谷は静かに制した。

「誘ったのは俺ですからいいですよ」
「いや、しかし……」
「大した額じゃないし、ほんと、気にしないで下さい」
「そう?……じゃぁ、お言葉に甘えさせて貰おうかな」
「はい。そうして下さい」
「有難う」

 幾つか途中空いている席があったが、前から順に座っていっているので二人並んで座れるのは後部座席だけのようだ。渋谷は一番後ろの座席へと向かうと玖珂 と並んで座り、花束を脇の座席へと置いた。出口は中央なので一番後ろに座っていても特に問題は無い。冷え切っている車内に汗も引き、渋谷がポケットへハン カチをしまっていると、玖珂が少し困ったように話しだした。

「……恥ずかしい話しだが、バスはほとんど乗った事がなくてね。入口で料金を払うという事を忘れていたよ」
「都内ではあまり必要ないですもんね。俺も滅多に乗らないです」
「どうしても、車か電車か、タクシーかのどれかになってしまうからな」
「そうですね。一緒です」

 玖珂は目的の場所を聞いてこない。渋谷も場所が近づくにつれ緊張しているせいで互いに話す言葉はいつもよりずっと少なかった。時々止まるバスが開閉する 度に客が入れ替わっていくのを横目で見つつ、窓から陽炎で僅かに歪む景色をただ眺める。3つのバス停を通り過ぎた所で、あらかじめセットされている女性ア ナウンスの声で次の停留場の名称が呼ばれた。渋谷が腕を伸ばして柱にあるボタンを押すと一斉にボタンは点滅して『次おります』との文字が浮かび上がった。

「次のバス停なのかい?」
「ええ、そうです。降りてすぐですから着いてきて下さい」
「あぁ、わかった」

 間もなくバスは停車し設置してある扉がゆっくりと開く。どうやらここで降りるのは自分達だけらしい。二人を降ろしたバスが発車すると、渋谷は益々緊張の 色を濃くした。今まで涼しい場所にいたせいで途端に汗ばんでくる。渋谷は黙って歩きながら、花束を握る手にぎゅっと力を込めた。玖珂はどんな顔をするだろ うか。ちゃんと考えてきた事を言えるのか……。辺りは駅前と少ししか離れていないのに一気に何もない風景が広がっている。行き交う人もおらず、目の前の畑 では日焼け防止の麦わら帽子を深くかぶった初老の男が畑仕事をしていた。

 玖珂は馴染みのない場所を渋谷の後ろについて歩きながら、この近くにあるのであろう渋谷が一緒に来て欲しいという場所を考えた。渋谷は、普段と変わらな いように装っているが、無理をしているのか時々思い詰めたような表情をしている。渋谷から誘った事の意味を知るためにも、余計な事は詮索しない方がいいの だろう……。

少しして、渋谷は後ろにいる玖珂に振り向かずに足をゆっくりと止めた。

「……ここです」

 玖珂は墓石の並ぶ目の前の景色を視界に映しながら、渋谷の背中を見る。背中を向けたままの渋谷がどんな表情で言葉を続けているのか玖珂には見えなかった。少しだけ渋谷との距離を縮めた玖珂に渋谷はゆっくりと振り向く。

「……明日は母の命日なんです。年に一度しか、俺はこないんですけど……」
「……朝子さんの……でも、明日?今日じゃないのか?」
「明日は、父と妹が来ると思うので……俺はいつも先に一人で来てるんです」

 渋谷の持っている花束の意味を漸く知る。墓に供える為の物だったのだ。菊やユリ・リンドウ等をあしらった仏花ではなかったので気付く事が出来なかった。玖珂は霊園の門をくぐり、砂利の敷かれた通路をゆっくり歩く。

「……その花束はお供えの物だったんだな」
「……はい。本当は、定番の菊とかがいいんでしょうけど……。母は白が好きだったので……、墓に供えてもいい物で作って貰ったんです」
「……そうだったのか」
「あ、俺ちょっと挨拶してきますね。ここで待っていて下さい」
「あぁ、わかった」

 墓の管理人がいる休憩室に渋谷は歩いていくとドアをひいて中に入っていった。玖珂は、予想もしていなかった場所で、灰色や黒の墓石を見ながら朝子を思い出していた。白い花束は清楚でいて可憐だった。渋谷がどうして自分を朝子の墓へ連れてきたのかはまだわからない。
 朝子が事故で他界した事を知ってはいたが、こうして墓を目の前にすると、それが余計に冷たい事実となって玖珂の胸に響く。記憶の中の明るい笑顔の彼女 が、冷たい土の中で骨だけになっているというのはやはり想像がつかない。しかし、死んだという事はこういう事なのだと改めて思う。

 玖珂も母親を亡くしているので、こういう場所に慣れていないというわけではない。火葬場で、今まで人間の形をしていた母親が何分かで真っ白で小さな骨に なってしまったのも自分の目で見た。片親だったので、母親の時は大学生だった自分が喪主であり、普段会ったこともないような親戚と共に忙しく葬式の準備に 追われていた。それでも堪えた涙を流せない分とても悲しかったのを覚えている。
 人前で泣くのを我慢している弟に「泣いても恥ずかしくないんだから我慢するな」と頭をなで、葬式の後、泣きやむまで付き合ってやったのも昨日の事のようである。
 渋谷も朝子が亡くなった時には同じように悲しみに包まれたのだろう。そんな事を思いながら目の前の墓に目を向けていた。

「お待たせしました」

 渋谷が水を汲んだ水色のバケツを手に戻ってきて玖珂はそれを変わりに持ってやる。片手に花束と線香をもって、渋谷は入り組んだ賽の目上の路地を進み、幾度か曲がると足を止めた。
【渋谷家】
そうかかれた横置きの墓石を前に玖珂は墓に向かって黙礼をした。石碑は新しい物で墓誌には朝子の戒名しか刻まれていない。

「普段は、さっき挨拶した管理人さんに任せてあるんです」

 そう言いながら、渋谷は自身の袖を軽く捲る。バケツに汲んできた水を石碑へとかけて軽く磨ていく。「手伝っても構わない?」そう聞く玖珂に渋谷は「有難うございます」と微笑む。
 その後は互いに黙ったまま手を動かした。墓誌や水鉢を綺麗にし、周りの目立った雑草を抜き、花を入れる場所の水を汲み替える。渋谷の持ってきた真っ白な一対の花束が供えられると一気に華やかさが増した。
 暑い日差しと高い気温は御影石にかけた水をすぐに乾かしてしまう。まだらに濡れて色の変わった石碑の下、香炉を軽くはたくと渋谷はマッチをすって線香の束に火を点けた。
 もくもくと煙が立ち上る中、何処か懐かしいような線香の匂いが辺りへとたなびいていく。

「だいぶ綺麗になったな」
「はい、お陰様で……。母も喜んでいると思います」
「あぁ、そうだね」
「……じゃ、お先に俺から失礼します」

 目を閉じた渋谷が静かに合掌するのを少し脇へと退いて見る。夕方にさしかかった日が、淡いオレンジ色に渋谷の横顔を照らす。暫くした後、渋谷は目を開けると隣の玖珂へとその場所を譲った。

「どうぞ」
「……じゃぁ失礼して」

 玖珂も渋谷の後に続いて墓に手を合わせた。目を閉じると蝉の声だけが騒がしいほどに耳に響く。こんな形で、朝子とこうしてもう一度会う事になるとは思ってもいなかった。じっとりとした暑さが遮るもののない首筋へ絡みついてくる。玖珂は暫くして目を開けた。

 一気に眩しくなった中、隣にいる渋谷を見れば、卒塔婆に視線をむけたまま何かを考え込んでいた。「渋谷君のお陰でこうして墓参りが出来て本当に良かっ た……」そう声をかけると渋谷は「……いえ」と小さく返し、下を向く。額にかかった前髪を後ろへと掻き上げ、汗を拭うと徐に口を開いた。渋谷の黒髪が橙に 染まっているを見ながら、玖珂は渋谷の声に耳を傾けた。

「……玖珂さん」
「ん?」
「俺は、母が大好きでした」
「……」
「優しくて、時々怖かったりもしたけど、凛とした所のある人で……」
「……あぁ」
「だけど……一度だけ、思った事があるんです」
「……思った、事?」
「はい……一度だけ、母がいなければよかったと思った事があります」

 玖珂は静かに先を促す。墓に向かって続ける渋谷の次に出された言葉に玖珂は静かに隣を振り返った。煩いほどの蝉の声が一瞬にして聞こえなくなる。

「先日、貴方に……玖珂さんに愛されていたと聞いた時です……」
「……渋谷…君」
「母さえいなければ、重ねられることはなかったはずなのにって……。俺は母に嫉妬していたのかもしれません」
「それは……」
「わかってます」
「…………」
「玖珂さんは、俺が母親似じゃなければ、きっとこんな風に好意を抱いてくれなかったって」
「渋谷君、それは違う」

 被せるようにすぐに否定をした玖珂に渋谷も顔をあげて玖珂へと視線を合わせる。その表情に儚い笑みを浮かべているのを見て、玖珂は胸が痛くなった。玖珂 が告げた真実で傷つき、何度も繰り返し考えたのだろう、自分の気持ちに整理を付けたかのように迷いなく次の言葉を続ける渋谷に、咄嗟に返す言葉を失う。

「いいんです………。玖珂さん、それでも……俺は」
「……」
「俺は……貴方が好きです」
「……渋谷君……」
「……前に言ってくれましたよね?俺が妹を愛していたと言った時、自分の気持ちに責任を持った方がいい。後悔すると言うことは、自分を裏切っている事になる……って。だから、俺は……後悔しない……。今も玖珂さんが好きだから……」

 渋谷はそう言った後、笑って見せた。すっかり落ちた夕日が渋谷を取り囲むように降り注ぐ。どんな気持ちで自分に話してくれたのかを思うと今すぐ腕の中に抱き締めたくなる。 母親の墓の前で素直な気持ちを晒けだした渋谷は、話し終えた後とても優しい顔をしていた。
── あぁ、良かったのだ。
 玖珂は目の前の渋谷を見て、自分が話した事が間違っていなかった事に安堵する。そして、フと息を吐くと力なく墓の前にしゃがみこんだ。

「玖珂さん!?どうしたんですか?」

驚いて渋谷も隣へとしゃがむ。

「いや……渋谷君の今の言葉を聞いたら、気が抜けちゃってね……俺も、相当参っていたらしい」

 冗談っぽくそう言ってみせた後、玖珂は渋谷を見つめた。隣にいる渋谷が玖珂の視線に少し恥ずかしそうに微笑み返す。遠かった渋谷との距離が今はこんなに 近い。座ったまま手を伸ばし、渋谷の手へと重ねると、渋谷も玖珂の手にもう片方をそっと乗せた。届く指先から浸食していく互いの想いはどこまでも真っ直ぐ で……。交わったそれは一本の道筋を照らしているように思えた。
 冗談で口にした言葉以上に玖珂は自分が渋谷の事を想っていた事を改めて感じていた。まるで、初恋の相手と両思いになったかのような新鮮な気持ちを、この 歳になってから得る事ができるとは思ってもいなかった。こんなにも余裕がなくなっていた自分に気付き、そう思えることに感謝しながら渋谷の重ねた手を ぎゅっと握る。

「渋谷君、君の気持ちはちゃんと届いたよ……有難う」
「……玖珂さん」

 ゆっくりと立ち上がった玖珂が視線に気付き振り向くと、管理人が訝しげに此方を見ているのに気づいた。別に見られて困る事をしていたわけではないが、居心地が悪い。玖珂は小声で渋谷の耳元に囁いた。

「今度は……俺の話もきいてくれるかい?」
「……はい」
「場所を……変えようか。管理人がこっちを見てる」
「え、本当ですか!?」

 慌てた様子で管理室の方へ視線を向け渋谷は「そうですね」と赤面する。玖珂に触れられた掌にまだ温もりが残っている気がする。渋谷は想いが零れないようにそっと手を握った。

 玖珂は帰る前、もう一度朝子の墓へ手を合わせ、心の中で礼を言う。そして改めて、朝子と、渋谷に出会えて良かったと思っていた。供えてある花が風もないのにゆらりと揺れる。目をあけた瞬間、朝子が自分に笑いかけたような気がした。
 あの頃と変わらない笑顔で、それは暑さで歪んで見える陽炎のせいかもしれなかったが……。
心からの感謝を捧げ、最後に玖珂は、朝子に「有難う」と呟いた。

「じゃぁ、行こうか」
「……はい」

 暑さはいまだ、収まる事はなかったが太陽が半分以上沈んだ事で来た時よりは和らいでいる。霊園を出てバス亭に行くまでの短い間、周りに誰もいないのを見 届け、玖珂は黙って渋谷の肩に腕を回す。腕の中には確かに、渋谷の温もりを感じている。その温もりが消えないように、玖珂は回した腕に力を込めた。