俺の言い訳彼の理由15


 

――墓参りの後。
 玖珂は渋谷に、今日誘ってくれた事に礼を言い共に都内へと引き返した。途中の駅で地下鉄へと乗り換えれば、丁度定時あがりで仕事を終えた会社員で混み 合っている真っ只中で、座る席が無いどころか掴まる吊革もない有様だ。暫く開かない方の扉側へ立ち、玖珂は壁に手をつく。押された渋谷は丁度玖珂の目の前 に挟まる形になって身動きが取れなくなっていた。「随分混んでるな……」玖珂が小さくそう言うのを聞いて渋谷は困ったように「ほんとに……」と続ける。

 しかし、玖珂はあまり通勤ラッシュに慣れていないかもしれないが、渋谷はもう日課でもあるので、この程度の混雑具合はどうという事も無い。こういう混み 方の時は、流れに逆らうと疲れるので、押されたら押された方へ少し移動する方が楽に過ごせるのだ。そんなちょっとした小技を会得するほどには慣れてい る。……慣れてはいるのだが。
――後何駅だっけ……3駅?いや、4駅か?
早く着いて欲しいと心から願う。渋谷は俯きながら指折り到着駅までの駅数を数えていた。

 というのは、全て今のこの体勢が原因である。押された方へ流された結果、玖珂と座席の間に挟まれる状況となってしまったからだ。しかも向かい合った形 で。玖珂との距離は10cm。身長に差があるので顔を突き合わせる事態にはなっていない物の、俯いている渋谷の目先には玖珂の肩口が迫っている。混んでい る車内でなければ、抱き合ってる状態と言っても過言ではないこの状況に、渋谷は困惑すると共に早まる心音を隠すのに必死だった。意識すればするほど、耳ま で赤くなっているのが嫌でもわかってしまう。
 ひたすら下を向いて顔を上げようとしない渋谷に、玖珂が心配気に顔を覗き込む。
「何だか顔が赤いな、大丈夫か?」
 耳元に囁かれる玖珂の声が余計に渋谷を煽る。玖珂が聞いて来た意味での『大丈夫かどうか』に関しては全く問題ない。しかし、別の意味では全然大丈夫ではなかったので渋谷は中間を取って答えた。

「大丈夫……のような気がします」
「……ん?」

 渋谷の曖昧な返事に玖珂がもう一度顔を覗き込もうとした時、一際大きく電車が揺れた。思わずよろけそうになった渋谷を玖珂が咄嗟に支える。
「……す、すみません」
――最悪だ
渋谷は益々顔が熱くなるのを感じて居たたまれなくなり、何度か落ち着かせるために深呼吸をする。

 暫くして漸く目的地の都庁前駅へと着きドアが開かれると、ホームへ降り立ち渋谷は緊張を解くと共に溜息をついた。

「…………はぁ、……」
「ちょっと乗る時間が悪かったか……。こんなに混んでるとは思わなかったな」

 渋谷が混雑で疲れたと思っているらしい玖珂は、そう言って発車していった電車を目で追った後、渋谷に振り向く。ホームにもう次の電車の到着アナウンスが流れている。気付かれなかったのならそれに越した事は無いので、渋谷は気を取り直すと顔を上げた。

「……丁度帰りのラッシュ時間でしたからね」
「あぁ、そうみたいだな……。少し座ってから行くか?」
「いえ、大丈夫です。車内がちょっと暑かっただけですから……」
「そう?じゃぁ、行こうか」
「はい」

 地下鉄を上がって新宿の街へ出る。どこかで飯でも食べるかという事になり、歩きながら夕飯を食べる場所を探す事になった。まだ夕飯には少し早い時間でもあったので、並んでゆっくり歩きながら玖珂が渋谷に訊ねる。

「渋谷君は、何か食べたいものはあるのかい?」

 計画を立てて何処かへ食べに行くのもいいが、こうして行き当たりばったりで食べる店を探すのも楽しい気がして渋谷は通りにあるいくつかの店を眺めながら返事を返す。

「咄嗟に思いつきませんけど……、普段あまり行かない所がいいですね」
「……なるほど。じゃぁ、そこのファーストフードにするか?」

玖珂がすぐ先にある有名チェーン店のファーストフードをさす。

「え?本当に?」
「別に俺は構わないが?……君が一緒ならね」

 玖珂は別にふざけて言ったわけではないらしく、このままだと本当にファーストフードに入りそうな勢いだったので渋谷は慌てて訂正する。別にファースト フードが嫌なわけではない。だけど、折角こうして玖珂と一緒にいるのにファーストフードというのはあまりに味気ないのではと思ってしまう。

「いや、ファーストフードはやめておきましょう。俺たまに食べてますし」
「何だ、そうなのか……。それじゃ、つまらないな。他の店にするか」

 玖珂はどうやら渋谷がファーストフードに行った事が無い。と思ったらしく、たまに食べていると言った途端あっさりとその選択肢は却下された。暫く歩いて いると、丁度目の前によさそうな店を見つけた渋谷が「ここはどうですか?」と先に行って店の外へ出ているメニューを見る。小さな暖簾には【旬彩】と筆で書 いてあり、磨りガラスの引き戸の奥を覗いてみれば、店内もそう混んでいなそうである。

「和食か、いいね。じゃぁ、ここにしようか」
「はい」
「あぁ、すまない。ちょっと先に入っててくれるかな。電話を入れる所があるから、それが済んだら行くよ」
「わかりました。じゃあ、中で待ってますね」

 携帯を取り出して操作する玖珂をその場に残し、渋谷は店の扉を開く。仕事の電話なのだろうか、話し出した玖珂を見て渋谷は忙しいのかと少し心配になっ た。玖珂が休日にどう過ごしているかはわからないが、たまの休みにはやりたい事があったのではないかと思うと、急な形で予定を押しつけてしまった気がして 申し訳ない気持ちになる。まだ誰かと電話している玖珂を横目で見ていると、「いらっしゃいませ」と店員に声を掛けられた。 店内は座敷になっており、入口 で靴を脱ぐ。その後通された席へと渋谷は向かった。席へと着いておしぼりとメニューが運ばれて来てもまだ玖珂は戻ってこない。連れがいるからと告げ、一人 で先にメニューを眺めていると暫くしてやっと玖珂が戻って来た。

「あの、もしかして、忙しいですか?」

顔をあげ心配そうに聞く渋谷に、玖珂は微笑んで違う違うと手を振る。

「あぁ、いや、ただの野暮用だ。気にしなくていいよ」
「そうですか?それなら良かった……。折角の休日なので何か本当は他の用事があったんじゃないかって思って……俺、結構強引に誘ってしまったので……」
「用事は何もなかったよ。それと、折角の休日だからこそデートをしてるんだ。渋谷君はそうじゃないのか?」
「あ……いや、俺もそうですけど」
「もし、他の用事があったとしても、君の誘いを蹴るほど魅力的な誘いは思いつかないな」

 そう言ってにっこり笑う玖珂にどう返していいかわからない。慣れないデートという言葉に戸惑いながら、言われてみればこれはデートと言うのかも知れない と渋谷は改めて思う。そう思うと急に恥ずかしくなり渋谷は顔を伏せてメニューを広げる。玖珂がクスリと笑うのを聞いて益々顔を上げられなくなった。頼んだ メニューが運ばれてきて食事を終えるまで、先程朝子の墓の前で交わした会話については互いに話すことはなかった。

 食事の後店を出るとすっかり辺りは暗くなっており、街は夜の様相に変わっていた。
 高いビルの窓から漏れる光と、行き交う車のヘッドライト。華やかなネオンと賑わう街の喧騒。足元を明るく照らす外灯は昼より眩しいほどである。すっかり 腹も満たされたので、何処か酒を飲めるところに移動しようという玖珂の提案で、渋谷達は店から離れた場所にあるホテルまでゆっくりと歩いた。
 玖珂が連れてきたホテルは都内でも屈指のラグジュアリーホテルである。海外からの来賓が宿泊する際によく使われているので、渋谷も名前は知っている。 「ここのスカイラウンジは景色がいいから」そう言って玖珂はホテルへ入り、エントランスを抜けて入り組む通路を迷いなく進んでいく。

 何度も来たことがあるのだろう。昔はホストをしていたと言っていたし、今だって夜の世界に住む人なのだ。誰と一緒に来たのか……。その時もこうして一緒 に並んで歩いたのだろうか……。自分の知らない玖珂の過去の相手に嫉妬しそうになる自分の狭量さを感じて、渋谷は聞こえないように小さく溜息をつく。
 幾つかエレベーターが並んでいる場所へ来ると一番右にあるエレベーターのボタンを玖珂が押した。隣に3基エレベーターが待機しているのにと不思議に思っ ていた渋谷は、玖珂が呼んだエレベーターに乗った所でその意味を知った。このエレベーターのみがスカイラウンジに直通なのである。一階か五十階のボタンし かないのを見てそれを理解する。
 直通だけあり間もなく五十階へ到着し、静かに扉が開く。少し廊下があり、その先が店であった。
店内へ入るとすぐにウェイターがやってきて丁寧に迎え入れてくれる。流石一流ホテルのバーだけあって店員の態度にも品格が感じられた。

「いらっしゃいませ。お食事とドリンクどちらになさいますか?」
「あぁ、食事は済ませて来たから、ドリンクで。カウンター席が空いてたらそこで頼めるかな」
「かしこまりました。ではこちらへどうぞ」

 洗練された店内は外の景色を堪能出来るように全体の照明が抑えられていて、紫のライトが足元を淡く照らしている。ゆるいスロープを昇り、玖珂の後ろにつ いて奥へ進む間、店内にいる客を見る。会社員や外国人客、ドレスアップした恋人達など客層は様々で、それぞれが楽しそうに食事や酒を楽しんでいる様子が見 てとれた。

「渋谷君は、こういう場所はあまりこない?」
「えぇ……初めてです。何だか少し緊張します……」
「大丈夫。普通のバーと同じだからね」

 丁度カウンターの一番端へと通され、ハイチェアーに腰掛ける。カウンターは全席磨かれたガラス窓へと向いており、目の前には目映いばかりの夜景が広がっていた。
 新宿の夜景を一望できるのが売りというだけあり、コンセプトに偽りのない摩天楼のような景色を見ることが出来る。店内には生演奏のJAZZが静かに流れ、贅沢な時間を満喫できるようになっていた。その景色に見蕩れているとバーテンダーが注文をとりにくる。
「……俺はタリスカーをダブルで。渋谷君はどうする?」玖珂はメニューを見ないでそう注文すると煙草を取り出す。渋谷はメニューのなかで目に入ったジントニックを注文する。間もなくしてチェイサーと共に酒が運ばれてきてカウンターへと置かれた。

「玖珂さんはウィスキーがお好きなんですか?」
「そうだな。他も飲むけど、ウィスキーが一番頻度が高いかな……。これは少し癖があるが、俺は結構気に入ってるんだ。渋谷君も飲んでみるかい?」

 玖珂がグラスを渋谷へと渡す。渋谷もウィスキーはたまに飲む事はある。しかし、いつも飲む時は水割りでしかなくストレートでウィスキーを飲むのは初めて だった。折角玖珂が勧めてくれたので、少しだけ味わってみることにし、渋谷はグラスを受け取る。フッと香りたつスパイシーさは確かに今まで飲んだ事のある 物とは違う。琥珀色のそれを口に含み、少し飲むと咽せそうになるほど強いアルコールに喉が痛くなった。チェイサーの水で喉を馴染ませやっと落ち着く。正 直、美味しいかどうかの判別はつかなかった。

「っ……これ……何度ですか?結構きついですよね」
「んー、45度くらいじゃないか?ストレートだから少しきつく感じるが……」
「……45度……ですか……。多分これ一杯飲んだら、俺帰れなくなりますよ」
「それは危険だな」

 二人で顔を見合わせて笑う。小さな灰皿に灰を落とすと、玖珂はゆっくりと煙を吐き出した。大きな手に挟まれた煙草を薫らせる玖珂の横顔に思わず見蕩れて しまう。通った鼻筋に切れ長の目、煙草を咥える厚い唇、それら全てが大人の男の色気を放っている。そんな玖珂に告白され、こうして共に時間を過ごしている のが平凡な自分だというのが未だに信じがたい。

「そんなにじっと見て、どうかしたのか?」

 視線に気付いていたらしい玖珂がそう言って微笑む。渋谷は慌てて視線を外し手元のグラスへと移す。グラスの表面にも夜景が映り込み、トニックウォーターの小さな気泡が弾ける様が、夜の街に舞う粉雪のように見えた。
 渋谷はその目映い景色を見下ろしながらカクテルグラスを傾ける。グラスをそっと揺らすとライムが静かにグラスの底へ沈んでいった。

「……まるで日本じゃないみたいな夜景ですね……」
「あぁ、そうだな……」
「玖珂さんは……よくここに来られるんですか?」
「最近はあまり来てないが、昔はね。結構気に入って来てたかな……。でも、ここに誰かを連れてきたのは、渋谷君が初めてだよ」
「……え」
「特別な場所には、特別な相手と来たいからな……」
「…………」

 隣にいる玖珂はカウンターの下の足を窮屈そうに組みながら静かにそう呟く。玖珂のたった一言で嬉しくなってしまう自分がいる。カウンターの下、周りから 見えない場所で玖珂の手がそっと渋谷の手を握る。絡めるように指を回され、渋谷も指を交わらせる。ただそれだけの繋がりでも渋谷の胸の鼓動は早まってい く。ミネラルウォーターのグラスを空いた方の手に取れば、グラスの中の氷が軽い音を立てて水面を揺らした。

「もうすぐ……夏も終わりになるな……」

 玖珂はそう言うと、少し目を伏せる。静かに過ぎる時間はとても贅沢で甘い。傍目には男二人で飲んでいるからと言って恋人同士とは思われないかもしれない。しかし、隣で囁いている恋人同士を横目で見て、自分達も同じなのだと思うと途端に意識してしまう。
 玖珂がグラスを持ち上げるたびに渋谷の鼻孔に甘い香水の香りが微かに漂ってくる。出会った日からずっと同じ、落ち着く玖珂の匂い。安堵と胸が疼くような その感覚に渋谷は何度か瞼を閉じた。こんなにも意識してしまうのは、自分の気持ちを打ち明けたからだろうか。それとも、重ねている手のせいか。そのどちら も合っているのかも知れない。
 一曲二曲と移り変わる演奏を聴きながら、時々玖珂と会話する。玖珂は酒の種類にも詳しくて、簡単なカクテルなら一通り作れるらしい。今度渋谷君にも作っ てあげようか、そう言う玖珂に渋谷は「楽しみにしています」と返す。次の約束が出来るという事、手を伸ばせば触れることが出来る場所に玖珂が存在するとい う事、そんな小さな事が幸せに感じる。

 暫くして渋谷は、腕時計を見る。夕食後、場所を変えてここにきてからそれなりの時間が経過していた。時間が進む速さに溜息が出そうになるのを我慢する。腕時計を見る渋谷に玖珂が気付き確かめるように自分も時刻を確認すると口を開いた。

「あぁ……もう、こんな時間か……渋谷君は、今日の予定はもうないのか?」
「ええ、あとは家に帰るだけです」
「そうか……。じゃぁ、そろそろ……」
「……そうですね」

――そろそろ。
その後に「帰ろうか」と玖珂は言わなかったが、その言葉が続くのだろう。
 名残惜しいような気分を振り払うように残った酒を飲むと、重ねた手をほどく。渋谷が席を立ち、玖珂もその後に続く。会計を済ませると二人でエレベーター までの廊下を歩いた。途中、ホテルへ宿泊しているのであろう客が何人か通り過ぎ、丁度きていたエレベーターに乗り込むと二人の視界から消える。柔らかな絨 毯が敷き詰められている廊下は足音を吸収して静まりかえっていた。

 行き止まったエレーベーター前の空間からは、吹き抜けになっているホール真下のロビーが見渡せる。外人客やホテルマンなどが今も忙しなく行き来してお り、渋谷は、はめ込まれた硝子越しにその様子を眺めていた。二次会でも行われていたのか、カクテルドレスに身を包んだ女性の周りでは仲間が祝福の花束を差 し出している様子が見える。
 そんなロビーの景色を上から見つつ、ゆっくり昇ってくるエレベーターを二人で待つ。
 先程の客が一階へと下りていったばかりなので、ここへエレベーターが戻って来るにはもう少し時間がかかりそうである。隣にいる玖珂がフと一つ息を吐くのが聞こえ、渋谷の腕に玖珂の体が触れる。

「……渋谷君」

 囁かれるように耳元で名前を呼ばれ、渋谷の胸がドクンと音を立てる。見上げた玖珂の顔が思っていたより近くにあり、渋谷は慌てて見上げた顔を元に戻し言葉を返す。

「はい……何か……?」
「……今日は君を帰したくない。そう言ったら、困るかな……?」

 玖珂の台詞をきいた途端、酒のせいではなく顔が紅潮するのが渋谷自身もわかった。無理強いをしない玖珂は「帰さない」と強引に押しつけてくるわけではな い。渋谷はもうすぐ来るエレベーターのランプを視界の隅に置きながらもう一度、玖珂と目を合わせた。断る理由はひとつもなかった。うるさい程の自分の心音 が玖珂にも聞こえているのではないかと心配しつつ小声で返す。

「……大丈夫…です…」

 渋谷がそう言うと同時にエレベーターが五十階へと到着する。
軽いチャイムのような到着を知らせる音が鳴り、開かれた扉の中には人が誰も乗っていなかった。エレベーターに乗り込み一階へ到着すると、玖珂にロビーで少 し待っててくれと言われ、渋谷はロビーのソファへと腰掛ける。頭上の大きなシャンデリアがキラキラと輝き、フロアを照らしている。チェックインカウンター で話している玖珂の背中を見ながら、少し緊張して待つ。
「お待たせ」
 すぐに戻って来た玖珂の後に着いて再びエレベーターホールへと向かう。先程とは別のエレベーターへと乗り換え、扉が静かに閉まると玖珂は行き先表示のボタンの前に立つ渋谷の後ろから手を伸ばして四十八階を押した。

「部屋……よく空いてましたね。もうこんな時間なのに」
「あぁ……先に連絡を入れておいたからな」
「……え?」
「二部屋空いていたから予約しておいたんだ。もう今は満室だって言ってたから、タイミングが良かった」

 玖珂はそう言って優しく微笑む。もし断られたら、この事は渋谷には内緒にしておくつもりだったのだと玖珂は付け加えて少し笑った。いつホテルへ連絡を入れて予約をとったのか。フと渋谷は考え、先程夕飯を食べる前に玖珂が野暮用だと言って電話をかけていた事を思い出す。
 ビジネスホテルには出張等でよく泊まるが、こういったホテルに宿泊した事はない。エレベーターが四十八階に到着し廊下に出た所で渋谷は長く続く廊下に並ぶドアの数があまりに少ない事に驚く。それはこの階に位置する客室の広さを物語っていた。

 丁度エレベーターを降りてから数えて二つ目のドアの前で玖珂は胸ポケットからカードキーを取り出す。それを差し込むと音もなくドアは開いた。「どうぞ」 と言う玖珂に促されて部屋へと足を踏み入れ渋谷は想像していた以上の広さに足を止めた。100㎡はざっと見渡しただけであるようだ。自宅マンションがすっ ぽり入ってしまうようなその広さの部屋はリビングや簡易なキッチンまでついている。大きなテーブルの上には南国の鮮やかなフルーツが置いてあった。所謂ス イートルームという部屋なのだろう。立ち止まっている渋谷に玖珂が背後から伺うように話しかける。

「どうかしたのか?」
「あ……いえ、あまりに広くて……」
「確かに、広いな……独りで寝る事になってたら、寂しい所だったよ」

 いつものように冗談交じりで言った玖珂のその言葉に渋谷は再び胸が騒ぐのを感じていた。ホテルの部屋まで来たと言う事の意味も勿論わかっている。玖珂は キーをローテーブルへ置くと、そのまま窓際へと歩み寄り薄いカーテンを開く。四十八階から見下ろす夜景は先程バーで見た物と又違う。渋谷も同じように玖珂 の側へと寄ると窓から外を眺めた。

「何度見ても……綺麗だな……」

 景色を見ながら玖珂がそう言うので、渋谷も「本当に…綺麗ですよね」と返す。バーから見えた夜景はあの中にいる全員の物かも知れなかったが、今、目の前 にある景色は自分と玖珂しか見ることが出来ないのだ。行き交う車がとても小さく見え、ネオンは星のように見えた。フワフワした感覚はアルコールだけのせい ではなく、特別な夜に現実感が湧かなくなる……。
 玖珂が振り向き、渋谷の首筋に指を伸ばし襟足をなでる。耳元に玖珂の息がかかり、渋谷は息を呑んだ。

「景色も勿論綺麗だが……。俺は、渋谷君の事を言ったんだよ……」
「………え?」
「……窓の外より君の方がずっと……綺麗だって、……」

 玖珂は台詞を途中で止め、少し俯いている渋谷の顎を片手で持ち上げると自分の唇を重ねた。肉感的な玖珂の唇に覆われ渋谷は目を閉じる。自ら望んでいた玖珂の隣りにいられる事を確認するように渋谷も玖珂の腰へと手を添える。
 この前、雨の日に交わした口付けよりもっと深く……。玖珂は薄く開いた渋谷の口腔へ舌を差し入れる。濡れた感触の舌は渋谷の歯列の裏側をなであげてその まま口内を絡むように動いた。甘いような気がするのはさっきまで玖珂が飲んでいたウィスキーのせいなのだろうか。その味を味わいながら渋谷も玖珂へと舌を 返す。

「っふ、……珂…さん……」

 立っている膝から力が抜けていく。渋谷が側にあるテーブルに思わず手を伸ばし支えようとした所で、玖珂は一度唇を離した。少し腰を落として渋谷のかけて いる眼鏡を片手で取り去る。急にはずされると一気に視界がぼんやりと滲んでしまう。それでも徐々に目が慣れてくると目の前の玖珂が優しい瞳で自分をとらえ ているのがわかる。玖珂は渋谷の額にかかる前髪をそっと掻き上げると額に軽く口付けをした。

「渋谷君は、相当目が悪いのか?」
「ええ……でも、大丈夫ですよ。眼鏡がなくても……」
「ん?」
「……玖珂さんの顔くらいは……見えます」

 眼鏡を取り去った渋谷の顔。玖珂は以前にも一度見たことはある。頬を少し紅潮させてそう言った渋谷は、とても綺麗であった。真っ黒な髪は染めたりした事 がないのだろう、艶やかで指先で辿れば滑らかな感触を伝えてくる。アルコールのせいか少し潤んでいるように見える瞳も本人の意思とは関係なく、まるで誘っ ているかのように見える。最初の頃に比べ、今はよく見せてくれる笑顔や意外に照れ屋で可愛い部分も……。何事にも真面目で一生懸命な所も、彼を造るすべて のものが愛しく感じる。

 広いリビングから続くベッドルームへ移動するとキングサイズはあろうかと思われるベッドに玖珂は腰を下ろした。糊の利いた真っ白なリネンが綺麗に張りつ めている場所へ渋谷も隣へ腰を下ろす。もうすでに走ってきたかのように心音が高鳴っており、渋谷は何度も胸に手を当て落ち着けと自分に言い聞かせた。
 玖珂はどうなのだろう?自分のようにこんなにドキドキしているようには全く見えない。自分だけなのだろうか?渋谷がそう思っていると、手がそっと掴まれた。隣りに座る玖珂の胸へと自分の手がもっていかれ、そして心臓の真上でその手を押し当てられる。

「……聞こえるかい?君と一緒だよ」

 渋谷の手には玖珂の心音が伝わってくる。自分のソレと同じように玖珂の心音も僅かに早くなっているのを感じて渋谷は小さく「……そうですね」と答える。
 玖珂は手を離すと腰掛けたまま横を向き、渋谷のシャツのボタンへ手をかけた。慣れた手つきでゆっくりとシャツの前を開くと、その内側へと指を滑らせる。 癖のある持ち方でいつも煙草を掴んでいる指先が今は、自分の体を愛でるように辿っている。そう思うと、渋谷は息苦しいような感覚に襲われた。
 渋谷の滑らかな肌からシャツがふわりと脱げ玖珂の前にその肌を晒す。ゆっくりとベッドへと倒されるとスプリングが僅かに軋む音が聞こえてくる。玖珂が被 さるように首筋へと口付けをし一度離れ渋谷を見つめた。見下ろす形で自分を見る玖珂の瞳から目を離せなくなる。玖珂は優しく渋谷の髪を梳くと囁いた。

「渋谷君……、俺は君だけを見てる。他の誰とも重ねたりはしない……今も、これからも……約束するよ」
「…………玖珂さん……」

 渋谷は、玖珂が朝子の事を言っているのだとすぐにわかった。飾らないその言葉は渋谷の中へと染みこんで確かな物となっていく。何より聞きたかったその台 詞は渋谷の瞳に薄い涙のベールをかけた。玖珂は目を細めると溢れる直前の雫を指でぬぐい去る。そのまま自身の着衣を脱いで脇へ寄せると渋谷の瞼へ口付けが 落とされた。
 初めて見る玖珂の躯は男らしく絞まっていて、厚い胸板や逞しく長い腕等そのどれもが自分とは違う。熱い肌に触れる度に、体が疼いていく。同性との経験は ないというのに、その情熱的な愛撫をずっと望んでいたかのように躯が貪欲に求めていく。まるで自分の躯ではないようで気持ちが追いつかない……。

 今まで知る事のなかった快感が背骨をのぼって全身を巡る。決して強く触れられているわけではないのに玖珂の指が辿ったあとを熱い感覚が追従していく。
 玖珂の愛撫が渋谷の胸の突起まで下り乳首を口に含まれる。舌先で転がされれば、思わずあがってしまいそうになる声を渋谷は途中で噛み殺した。

「…んっ……、っ……」

 何度も繰り返し弄られ感覚がなくなってくる突起は腫れたような感覚を伴い疼く。柔らかなベッドが玖珂が場所をかえて愛撫をするたびに深く沈み揺れる。
 
 玖珂の愛撫は優しい物である。しかし、快感を得ると同時に、渋谷に忌まわしいあの日の記憶が蘇ってきた。気絶しそうな痛みと吐き気がするほどの屈辱を味 わった渋谷の体は、記憶よりもずっと確かにその感覚を記憶している。躯と気持ちが対極に別れていき渋谷は自分でも戸惑いながら玖珂を見上げた。玖珂に申し 訳ないという思いが強すぎて口には出来ず、僅かに躯を強ばらせる。前方へ乱れた髪が玖珂の顔に影を落としている。
渋谷の視線に気付くと、玖珂は手を止め静かに問いかけた。

「……どうした?……怖いか?」
「……いえ……あの……」

 玖珂はあの日の出来事をもちろん知っている。渋谷が見上げた視線の意味も、こうなるかもしれないというのも予想はしていた。一度躯に刻まれた記憶はそう やすやすと消える物ではないのだから、焦る理由は何ひとつない。彼の傷を治せるのは自分だけだという自負もあった。玖珂は宥めるように渋谷に口付けを繰り 返しながら囁く。

「渋谷君が、気持ちよくなる事だけしようか……。嫌だったら何もしないよ……」
「……俺……すみません。こんな時に……わかっているのに……」
「君が謝るような事は、何もない。……俺の前では我慢するのは禁止だ、いいね?」
「…………、……はぃ」

 ここまで来て躊躇いを見せる渋谷に玖珂は嫌な顔ひとつしない。全てを包み込むような優しい表情を向けられて、渋谷は胸が詰まった。あの事が無ければ玖珂にこんな思いをさせずに済んだのに、そう思うと悔しさが溢れ、うまくコントロール出来ない自身の未熟さに泣きたくなる。

「大丈夫……怖くないだろう?……」

 玖珂はそう言ってゆっくりと愛撫を続ける。時間を掛けて徐々に繰り返されるそれに渋谷も段々、不安が静まってくるのを感じていた。愛されているという感 覚……。渋谷が今まで生きてきた中で初めてそう感じた瞬間だった。玖珂の体温、囁かれる声、優しい指先、それらに触れる度に不安が消えていき愛しさが凌駕 する。
 ゆっくりと下に降りていく玖珂の手が、渋谷の穿いているズボンのファスナーをそっと降ろした。全てを脱がされ、もう何も渋谷の躯を隠すものがなくなる。幼いような色気のない自分の躯が恥ずかしくもあり、渋谷は少し隠すようにシーツを引き寄せた。
「……恥ずかしい?」
玖珂は優しく微笑むとシーツを掴む渋谷の手を握る。はい、ともいいえとも言えず、渋谷は睫を伏せる。

「綺麗な躯だ……君の全ての場所に、口付けをしたくなるね……」

 玖珂が掌を動かし、渋谷の躯のラインを刻むように下へと降りていく。肌の白い渋谷の躯は空調がきいているにもかかわらず火照っている。柔らかな茂みの中 へ玖珂の指が入り、張りつめた渋谷の屹立を掌でそっと包むと親指で鈴口をなでる。柔らかな双玉を揉みしだけば、直接的なその刺激にさっきまで何とか堪えて いた声が漏れてしまう。

「…ぁ、……ッ」
「まだ……緊張する?」
「……っ……」
「……躯だけじゃなくて……ここも、だいぶ熱くなってるな……」

 玖珂が滲む先走りに指を滑らせながら渋谷を見る。声がうわずってしまいそうで、渋谷は『大丈夫』という風に首を振って見せた。玖珂が自身の着衣を脱いで 肌を重ねれば、玖珂のそそり立った屹立が足を曲げている渋谷の内腿に時々擦れる。それさえも堪らない刺激になって渋谷は白い喉仏を上下させた。
 玖珂の指が裏筋へもまわり、緩急をつけて巧に扱けば、渋谷はすでに射精感に苦しくなってくる。こんなに早くに達してしまうのは躊躇われ意識をそらそうとするが、すでに全身の感覚がその場所へと集中していてそうもいかない。

「玖珂…さ……ん……っ…」

 手を止めて欲しい。
そう思いながら玖珂の名を呼ぶ。しかし、手は止められることもなく、すでに濡れた音がクチュクチュと部屋へと響いている。堪えている渋谷の唇に玖珂は口付 けをして渋谷の唇を濡らしながら舌で輪郭を辿る。渋谷の溢れる吐息までもを絡め取るように繰り返される口付けで心も体も翻弄されていく。「渋谷君は……耳 は感じる?」耳朶を甘噛みされ、囁かれる。「……っん、……」玖珂の熱い吐息が届けばわずかに残っている理性が消えそうになる。

「……声、我慢してるのか?」
「…………、……ん」
「俺しか聞いてないんだから、我慢しなくていいのに」
「…………でも、……、恥ずか、い、です……」
「……恥じらう君も、……そそられるけどね……」

 玖珂はそう言いながら深く角度を変えて口付けを繰り返す。息苦しさと屹立への刺激で渋谷の口から少しずつ声が漏れ出す。何とか抑えようとするものの一度漏れだした喘ぎは抑えが中々きかず……。玖珂の手が動く度に小さく震える。

「ぁッぁッ……、……っ」

理性が愉悦に押されて渋谷の目には快楽への涙がたまっていく。溢れる蜜を絡めた指で鈴口を割られ、卑猥な音がひそやかに響く。かりの部分を指の腹でひっかけられ、何度かぎゅっと押されればその度にじわりと溢れ出す。

「ここが……気持ち悦いのか?」
「…んっ……ぁっあ……、っふ………」

我慢出来ない快楽が渋谷の腰を僅かに浮かせる。

「……ぁ…玖珂さ……もうっ……んん…手…を……」
「そのまま、イっていいよ……」
「……っぁあッ、……っ……んんっ!、……っ」

 屹立が膨らみ硬直する、渋谷は玖珂の背中へと腕を回し固く目を瞑って欲望を吐き出した。とても手だけで達したとは思えないほど快感は長く続き、ビクビク と脈打ちながら玖珂の手と渋谷の腹に白濁した欲望を散らす。残滓を絡め取るように玖珂がゆっくりと搾れば、それさえも耐えがたい刺激へと変わって更に追い 打ちを掛ける。ハァハァと忙しなく吐き出される渋谷の濡れた吐息は扇情的で、潤んだ瞳が玖珂を誘う。
 誘われるままに玖珂も口付けを寄せる。呼吸が落ち着いてくる頃、渋谷は少し半身を起こして自分から玖珂の首に腕を回して口付けをした。

「俺だけ……じゃなくて……玖珂さんも」

 渋谷は玖珂の首筋へ顔を埋めると耳元でそう囁く。渋谷の掠れた声に玖珂の屹立が一層硬くなる。本当は今夜はここまでで止めるつもりだったのだ。安心した ように玖珂へ躯を預ける渋谷の背中にぎゅっと腕を回し引き寄せる。汗ばんだ躯をもっと近くへと抱き締めれば、乱れた心音が重なりひとつに溶け合っていく。

「……じゃぁ、もう少しだけ……進んでみようか……」

 玖珂は渋谷の躯を再びベッドへ横たえると「ちょっと待っててくれ」と軽く口付けて浴室へと向かう。アメニティのボディローションを手に取ると、それを 持って戻って来た。掌にローションをトロトロと垂らすと玖珂は渋谷の内ももにそれをたっぷり滑らせた。冷たいローションに一瞬躯がビクリとなる。思ってい たのと違う場所に垂らされたそれに渋谷が不思議に思っていると、玖珂はその内股の隙間へと自身を滑り込ませた。

「玖珂、さん……?」
「……少しそのままで、足を閉じててくれ……これなら痛くないだろう?」

 渋谷の躯に負担を掛けないようにしてくれている玖珂の優しさが痛いほどで渋谷は閉じた足に力を入れる。肌にきつく擦れる圧倒的な硬さを保っている玖珂の屹立が焼けるように熱い。互いの体温で溶け出すローションが辺りを甘い匂いで包んでいく。
 玖珂がゆっくりと腰を動かすと、今達したばかりの渋谷の屹立とその度に擦れあう。まだ敏感な場所は、それだけで再び頭をもたげていく。シーツに爪を立 て、追い立てられるように身を委ねれば沸き上がる愉悦がじわじわと渋谷を浸食していく。渋谷の屹立から蜜がポタリと腹に落ち、流れ落ちるローションと混ざ り合う。
 直接手で触られてもいないのにどんどん射精感がつのる。玖珂の屹立と擦れあう度に震える呼気を吐き出す事しか出来なくなって、滲む視界が快楽に染まる。弾む息づかいの合間に玖珂のこめかみから汗が一筋流れて顎をつたい落ちていく……。

「は……、……、……渋谷君」
「んー、……んっ、ぁ、ぁ、俺、……また……っぅ」

玖珂を見つめ限界が近いことを瞳で伝えれば玖珂が優しい視線で渋谷をみつめ返す。

「玖珂、さ……っ、ぁ、もぅ……で、る……っっ」
「あぁ、俺も、……、そろそろイきそうだ……」

 荒い息を繰り返す玖珂の律動が激しくなる。玖珂は一度低く呻くと動きを止め、詰めていた息を吐きだした。渋谷の腹へと熱い白濁がドッとこぼれ渋谷の屹立 にもかかる。玖珂の濡れた屹立が渋谷のそれをずるりと移動した瞬間、渋谷も小さく声を漏らし二度目の精を散らした。乱れた玖珂の前髪を汗の滴が伝い、渋谷 の躯へポタリと落ちる。
 二度の吐精により力の抜けた躯は未だ昂ぶりを芯に残したまま甘く疼く。籠もった熱を逃がすように渋谷は呼吸を繰り返し、玖珂の首に腕を回すと唇をそっと重ねた。
 
 
 
   * * *
 
 
 
 先にシャワーを浴びた玖珂は、渋谷がバスルームから出るとリビングのソファに座ってビールを飲みながら煙草を燻らせていた。洗ったばかりの玖珂の髪もまだ濡れていて、無造作におろされた毛先に小さな滴がついている。
渋谷もバスタオルで自分の髪を拭きながら玖珂の隣りに腰を下ろした。

「渋谷君も喉が渇かないか?一本どうかな?」
「そうですね、いただきます」

 確かに玖珂が言うとおり、喉が渇いている。ホテルの部屋は乾燥しがちなのでそのせいもあるのだろう。玖珂から受け取った冷えたビールを喉に流し込むと、 乾いた喉に染み渡る。半分程を一気にあけるとテーブルへとそれを置き一息つく。今日は一日結構な距離を歩いたというのもあり疲れてはいたが、その疲れも心 地よい物である。満たされている感覚を身体に感じながらソファの背もたれへと身体を預け目を閉じる。あまりの心地よさにこのまま目を閉じていたら眠ってし まいそうだったが、玖珂の視線を感じ、ゆっくり目を開けた。玖珂が渋谷の肩にかけているバスタオルを取り、渋谷の濡れた頭へとかける。

「眠ってもいいが、ちゃんと拭かないと風邪を引くぞ」

そう言って、子供にするように渋谷の頭をバスタオルごとかき混ぜて小さく笑う。

「引きませんよ。子供じゃないんですから」
「何言ってるんだ。大人だって風邪は引くだろう」

 結構強く頭を拭かれた後、玖珂の手がフと止まる。バスタオルをかぶったまま顔を上げると玖珂が愛しそうに渋谷を見つめていた。「君は、本当に魅力的だ な……」そう囁いて、軽い口付けを落とす。煙草の味がするその口付けはもうすっかり渋谷の中で馴染みのある物となっている。
「玖珂さんだけですよ……。そんな事を言うのは……」渋谷が恥ずかしそうにそう返せば玖珂は渋谷の腰をぐいと引き寄せ距離を縮める。

「他の誰かに君の魅力がばれたら大変だ。俺以外には、隠すように努力してくれよ?」
「……何ですか、それ」

 渋谷も笑って返す。二人でこうして笑い合っている時間がずっと続けば良いのに……。渋谷は心の中でそう願う。玖珂が二本目の煙草をケースから抜き出すのをみて、渋谷はつい先日のことを思い出していた。残っていたビールを飲み、目の前の灰皿に視線を向けてぽつりと言う。

「そういえば……この前、俺も煙草を買ったんですよ」
「煙草?」
「ええ、玖珂さんの吸っている銘柄と同じ物を……」

玖珂が、吸っていた煙草をゆっくりとおろし渋谷を見る。

「何だか……その煙草を吸っている間だけ玖珂さんが傍にいる気がして……」

 渋谷がそういって微笑むのを見て玖珂は目を細めた。隣の渋谷の顔を覗き込むようにして軽くキスをし、腕を回す。 玖珂の濡れた髪が頬にあたり、湯上がりで火照った顔にひんやりとした感触を伝えた。耳元で玖珂が囁く。

「今度、煙草の味が恋しくなったら……俺を呼んでくれないか」
「……玖珂さん」
「俺はいつでも傍にいるよ……君が望んでくれるなら」

 もう一度重ねられた玖珂の口付けはKOOLの微かなミントの味がして、渋谷はそのままそっと目を閉じた。