俺の言い訳彼の理由16


 

 あの夜から一ヶ月が過ぎた。互いに多忙な日々を送りながら、その間、変わった事といえば……互いの自宅へ、着替えを置くようになったという事ぐらいかもしれない。
 会った日は別れが惜しくて、次の日の朝までを共にする事が多いという理由で、自然にそうなったのだ。最初の内は、出社に間に合うように早朝の電車で一度 帰宅していたが、その時間も勿体ない気がして、今は玖珂の家に泊まった際は、そのまま会社へ行くようになった。スーツはともかく、Yシャツとネクタイが同 じというのはまずいので、着替えをセットで玖珂の家へ置かせてもらっている。そんな小さな変化でさえ『付き合っている』という事を実感させるには十分だっ た。

 時々玖珂と出会ってから今日までの過去を振り返る事がある。それは帰宅時の電車の中であったり、眠る前であったりと色々だったが、決まって同じ事を最後 に思うのだ。あっという間だったという事と、これからもずっと一緒にいたいと言う事。玖珂と共に重ねる月日の流れの早さに驚くばかりである。
 移り変わろうとする季節の狭間だけが、渋谷にこれが現実の物だと感じさせていた。
 
 渋谷は社内のデスクで提出された書類に目を通していた。たまたま、朝に一件直行で行ったきり、顧客の所へ出向く用事もなかった為、午前中からずっとデス クワークになっている。パソコン画面から延々と放たれるブルーライトを両脇から浴びながら、途中重ねられた書類に手を伸ばす。集中力が散漫になるのを避け るために一度書類から目を放し、眼鏡を外す。疲れた目をしばらく閉じると乾いた目に軽く痛みを感じる。渋谷は、小さくため息をついた。

 金曜日の今日は、次の日が休日なのでゆっくりと会えるという理由で本来なら玖珂と会う事が多い曜日なのだ。今日も、仕事を終えたら連絡を入れる事になっ てはいるが、この分だと無理かも知れない……。パソコン画面のメール受信欄に未読が【16】と表示され、クリックしてみる。ざっと上からタイトルを見ただ けで16件中10件が「急ぎで申し訳ないのですが」または「至急」で始まっていたからだ。
 納期に追われることのないように、期限に余裕があっても先持って準備をするように心がけている物の、そううまくいかない。渋谷は1番新しいメールを開い て、眼鏡をかけ直すと眉を寄せた。夕方の今、初めて発注が来て、納期を見ると明日の朝でお願いしますと書いてある。珍しくもない事だが、さすがに発注を依 頼している業者に電話しづらいというものだ。
 渋々受話器を取り上げると、短縮に登録してある業者へと連絡を入れる。「かなり難しい。どうにか週明けにして欲しい」と難色をしめす相手を宥めてお願い し、何とか明日の朝一で先方へデータを送って貰えるように手配を済ませる。続いてもう一つのパソコンへ目を移し、来月オープンする商業施設のパンフレット データをチェックする。

 この調子で片付けていったとしても早くて十時を回ってしまうのは確実だった。そこから玖珂の家へ直行しても着くのは夜中になってしまいそうである。それ に、明日が休みなのは渋谷だけで、玖珂は休みなわけではない。そう考えるとやはり時間が無かった。渋谷は人知れず心の中で落胆する。
 夕焼けが社内の窓から眩しく差し込む中、渋谷は玖珂の事を考えていた。

 金曜日を楽しみに待つようになったのは玖珂と付き合うようになってからだ。以前は、帰宅して一人でいるより会社で残業をしている方がいいと思っていた し、現にそうやって日々を過ごしてきていた。休日は疲れているので何処も行かず、だらだらと無駄な時間を過ごしてまた月曜になる。その繰り返しだった。
 先日、玖珂に言われた事を思い出す。
 誰かの為とか会社の為とかではなく、自分の為に時間を使う事。今までそういう事に関心も無く、いつも自分の事は後回しにしていると言った渋谷に、玖珂は言ったのだ。自分の為に時間を使うのは悪い事じゃない、と。
 「好きな音楽を聞いたり、欲しい物を買ったり。たまには自分に褒美をあげないと可哀想だろう?」そう言いながら、もうちょっと自分にも優しくしてやれと頭を撫でられた。
 確かに振り返ってみると、自分の為に使った時間などほとんどない。そうした普通の事を玖珂は気付かせてくれる。
 それからは少し意識して、時間が空いた日は服を買いに行ったり、会社帰りに本屋によってずっと読みたかった小説を買って自宅で楽しんだりしている。小さ な事だが、そうして自分に使った時間うというのはやはり楽しい物であり、息抜きをしたぶん、次の日の仕事にも精が出るような気がした。だけど、今の渋谷に とって何より大切な時間は、やはり玖珂と会う事であった。

 先週は玖珂の方が忙しく結局は会えなかった。渋谷は名刺入れから玖珂の名刺を取り出して眺めてみる。『 LISK DRUG 』、玖珂がオーナーを勤めるホストクラブの名前である。六本木にあるというその店に出向いた事は勿論なかった。男の自分がホストクラブへ行くというのも気 が引けるし、行った所で仕事の邪魔になる事だけは避けたい。玖珂に変な噂が立ってしまうのも困る。様々な事を考えると、結局顔を見に行く事さえとても難し く感じた。
── 玖珂も会いたいと思ってくれているだろうか。
 時計の針が六時三十分を指し、渋谷は我に返って玖珂の事を一度頭の片隅へと追いやった。仕事中に恋人の事を考える等、学生気分か、と少し反省する。

 左に積まれている書類をとって確認をし、パソコン内の見積もりをそれぞれの社へと送信する。納期の間に合わなそうな物があれば、担当者へ連絡を入れる。 それらの単調な作業を暫く繰り返していると内線電話のランプが点灯した。 いつものように一呼吸おいてから受話器を取り上げる。

「はい、渋谷です」
『係長、ご家族の方からお電話が入っておりますが』
――え?

 一瞬、渋谷は耳を疑った。実家から会社に電話をかけてくるなど、ここ何年もない。急な何かがあったのだろうか?と流石に心配がよぎる。

「何番かな?」
『五番です』
「わかった。繋いでくれ」

渋谷は不安な気持ちを出さないように、それだけ言うと内線から外線のランプへと点灯を切り替えた。

「……お電話かわりました」
『祐一朗くん?』

 電話の相手は実家の母親だった。明るい口調で名を呼ばれたのを聞いて、とりあえず胸をなで下ろす。

「ご無沙汰しています。珍しいですね?職場に電話をくれるなんて」

 ほとんど一緒に暮らしたことのない父親の再婚相手を嫌っているわけではない。しかし、成人してから母親として新しい家族の一員になった彼女と接するには 共に過ごす時間が少なすぎたのだ。一緒に暮らしたのは2年程度のものなのでどこかぎこちない空気が漂ってしまう。妹の件で家を出てからは滅多に実家へと足 を向けることも無いので、渋谷と母親の関係はそのままの形で定着していた。
 なので、端から見たら違和感があるだろうが、渋谷にとってはこれが普通なのだ。母親の方が歩み寄ろうとしてくれているのはわかっているので、それを拒むような事は勿論ないのだが……。三十を過ぎて、今更母親として接するのも中々難しい物がある。

『何度も自宅へ連絡いれたのよ。全然出ないからお父さんも心配してるんだから』
「最近忙しくて……、すみません。何か、ありましたか?」

 言われてみると確かに最近家にいる事があまりない。平日は帰宅が遅いし、休日は玖珂と会っていて帰りが又遅くなる。そんな渋谷に、ご飯はちゃんと食べて いるのかとか体調を崩していないか等、心配してくる母親に申し訳ないような気持ちになる。 例の件があって中々顔を出せないのは自分の個人的な逃げでしかない。
── 今度、時間を作って一度顔をみせに行こうか。
 そう考えていると突然母親が声を弾ませ、今日電話した一番の理由であろう事を話し出す。それを聞いた渋谷の受話器を握る手に僅かに力が入った。

『あのね、祐子ちゃんが結婚する事になったのよ』
「……え?……祐子が?」

 祐子というのは渋谷の妹の名前である。妹が結婚する。それは以前ずっと渋谷が考えていた最悪な出来事の一つである。玖珂と出会う前の渋谷なら、今の言葉をきいただけで頭が真っ白になっていたはずだ。
 しかし、自分でも驚くほど今はその事をきいても動揺はなかった。自然にその事実を受け入れている自分が確かに存在する。

『もしもし?祐一朗くん?聞いてるの?』
「あ……あぁ、すみません……聞いてます。全然知りませんでした。それで、式とかはいつ頃なんですか?」
『それがね、お兄ちゃんにも参加して欲しいから、日取りは祐一朗くんに聞いてから決めたいんですって。お仕事忙しいだろうけど、一度、その話しも兼ねてこっちに顔出しにきてくれないかしら』
「え……。祐子が……そう言ったんですか?」
『ええ、そうよ。全然顔見せないから、寂しがっているのよ。きっと』

 何も知らない母親はそう言って、仲が良かったものねと無邪気に電話口で笑った。まさか、妹の方からそんな事を言われるとは想像していなかったので、渋谷はただ驚いていた。色々と決めたいことがあるというので明日の土曜に実家へ行くと約束して母親との電話を終える。

 受話器を置いたあと、久しく顔を見ていない妹の顔が浮かぶ。渋谷の中では妹はあの日のままで、幼さの残る印象でしかない。その妹が結婚するという。
 自分にも式に参加して欲しい。そう言ってくれた妹は、いつのまにか自分よりもずっと大人になっていたのかもしれない。大人になって恋をして、愛する人と 新しい家族を作る。妹の幸せを兄として祝福してあげたい。何年ぶりかで妹と会う事に、不安が一切無いかと言えば嘘になるが、やっと兄としての役目を果たせ る事に心から良かったと思う気持ちの方が強く、渋谷の胸の中に安堵の気持ちが湧く。

 明日の土曜日に実家へ行く約束をした以上、やはり今日玖珂と会うのは無理そうである。渋谷は仕方無く携帯を取り出すと玖珂へとメールを打つ事にした。残業なので今夜は都合がつかない事、明日も用事があるので会えない事を手短に告げる。
 妹が結婚するという事を教えようかと思ったが、余計な心配をかけるといけないのでその事には触れずに言葉を選んだ。
 送信ボタンを押す際、指先がわずかに躊躇する。甘えかも知れないが、本当はこんな日は余計に玖珂に傍にいて欲しくなる。玖珂に会いたい。少しで良いから 顔が見たい……。渋谷は、躊躇う親指を動かし送信ボタンをタッチする。液晶画面から送信済みのメロディが流れたのを確認して電源を落とした。
── これでまた当分は会えなくなる。
消えた画面を見ながら渋谷は今日何度目かの溜息をついた。
 
 
 
 仕事が全部片づき、渋谷は凝った首を軽く回すと帰り支度を整えていた。椅子に掛けてあったスーツの上着を羽織り書類の入ったアタッシュケースを手に持つ。時刻は十一時を少し過ぎたところである。
 やはり、玖珂に早めにメールを打っておいて良かったと思いながら席をたった。月末でもある今日は渋谷以外にも残って仕事をしている社員が数人残っている。その中には、東谷も混じっており、渋谷は彼の席へまわって声を掛けた。

「お疲れ、まだかかりそうなのか?」
渋谷に気付いた東谷が椅子ごと振り返る。
「まぁ、あと一時間ってとこかな……一時間が長いのなんのって……」

 そう言って、わざと疲れ切ったような顔を見せる東谷に苦笑する。渋谷は東谷のデスクにあるデジタル時計をわざと東谷から見えないように裏返した。

「これで時間を気にしなくてよくなると思う」
「お気遣いどうも」
「どういたしまして」

 東谷は、笑いながらまた書類へと目を向けた。小さく「お先に」と言い残して渋谷はフロアを後にする。
 突き当たりのエレベーターホールにある窓からは、すっかり暗くなった夜の景色が見えていた。すぐに到着したエレベーターに乗り込み一階を押すと渋谷は壁に寄りかかった。胸元から携帯を取り出し、落としていた電源を入れる。
── もしかして、玖珂から返信が届いているかもしれない。
 渋谷の淡い期待は、期待のままで終わった。いつもと変わらない画面が鈍い光を放っているだけだった。メールの受信も、留守電へのメッセージもない。がっかりしながら携帯をしまうと、エレベーターが一階へと到着した。
 さすがにこの時間にもなると、エントランスホールは人が誰もおらずひっそりとしている。廊下の突き当たりを警備員が巡回している背中がチラリと見えたが、すぐに角を曲がっていって見えなくなった。
 自分の足音だけが磨かれた床に音を立て、その音がやけに大きく響いている。渋谷は足早に自動ドアを抜けると駅の方へと足を向けた。


 少し前までの猛暑は影を潜め、涼しいと感じられるくらいの風が心地よく吹いている。もう秋なんだなと、その風を感じながら歩き出した。その時だった。
 歩道を歩く渋谷の背後から控えめにクラクションがならされた。自分に向けられているはずはないので渋谷はそのまま歩き続ける。しかし、クラクションはも う一度鳴らされる。何だろうと思い、渋谷がゆっくりと振り向くと、見慣れた車が視界に飛び込んで来て、渋谷は小さく「あっ」と声を漏らした。

「……玖珂さん?」

 まさかとは思いながらも渋谷は腰を屈めてフロント硝子を覗き込む。徐行運転で隣へと寄せた車内に玖珂の姿が見え、続いておろされたウィンドウが開ききると玖珂の声が車内から聞こえた。

「お客さん、家までお送りしましょうか?」

 顔を覗かせた玖珂が冗談を言う。運転席から手を伸ばし片手で助手席のドアを開けた玖珂に、渋谷は嬉しい驚きを隠せなかった。助手席へ回り込み、そのドアを開き中へと入る。何故?どうして?、先程までの落胆からの浮上に気持ちが追いつかない。

「急にどうしたんですか!?今日は会えないと思ってました。あ……いつからここに?随分待ちましたか?」

 続けざまに質問する渋谷に玖珂は苦笑して再びアクセルをゆっくり踏むと車を発進させた。

「どれから答えればいいかな?」

 つい嬉しさのあまり、矢継ぎ早に話してしまった自分が恥ずかしくなり渋谷は照れたように眼鏡を押し上げた。玖珂がかけていた音楽のボリュームを絞りながら返事を返す。

「来たのは一時間くらい前になるかな」
「そんなに前から……?連絡くれれば良かったのに……」
「いや、俺が勝手に来ただけだからね。仕事の邪魔をする訳にはいかないだろう?それに、渋谷君が夕方にメールを送ってくれた時から顔を見に来ようと決めていたんだよ。待つ事になるかもしれないって予想はしていたから」
「そう……だったんですか。驚きました」

 渋谷はその後、聞こえないくらいの声で「……嬉しいです」と付け加えた。玖珂も、そんな渋谷を見て、良かったと微笑む。足元に置いていたアタッシュケースを後部座席へと置かせてもらい、渋谷が振り返ると玖珂が口を開く。

「仕事、大変そうだな。明日も会えないってメールに書いてあったが、もしかして休日出勤なのか?」
「いえ、明日は……」
「ん?」
「仕事は……休みです」
「そうなのか……、何か用事が?」

玖珂は渋谷の歯切れの悪い答えに気付きさりげなく答えを促す。

「……特にたいした用事じゃないんですけど、午後からちょっと出かける予定で……」
渋谷は、妹の結婚のことを玖珂に話そうか迷っていた。
「そうか。じゃぁ、今日はこのまま家まで送るだけにしよう」
「……すみません……。折角来てくれたのに……」
「なに、気にする事はない。顔が見れただけで、十分だよ」

 昼間に、渋谷が考えた事と同じ事を玖珂が言う。顔を見るだけでいいからと……。自分と同じ事を思っていてくれたのだと思うと、渋谷はそれだけで甘い感覚 に満たされる。しかし、実際会ってしまうと、今度は次の期待をしてしまう。渋谷は隣にいる玖珂が、道を間違えてくれないだろうかと考えていた。
 渋滞に巻き込まれるか、玖珂が道を間違えれば……少しだけでも長く一緒にいる事が出来るのではないか。そんな子供じみた考えをする自分に思わず苦笑いが浮かぶ。

 窓の外を見れば、渋谷の願いも空しく車道は空いていて玖珂の車は時速を落とすことなく進んでいる。もちろん、玖珂が道を間違える可能性もない。渋谷は軽 くため息をついた。そうそう上手くはいかない物なのだ。この分だと、あと二十分もすれば自宅に到着してしまうのは確実だった。

「玖珂さんは?明日は……何か用事があるんですか?」
「俺は、昼から少しだけ出かけるが」
「前に話してた新店舗の件ですか?」
「あぁ、そうだよ。今はもう工事に入っているから様子を見に、ね」
「……そうですか。じゃぁ忙しい……ですね」

 玖珂に明日用事がなければ、今日は、もう少し一緒にいてくれないだろうかと思って聞いてみたのだが、どうやら玖珂も用事があるらしい。

「どうした?明日、何かあるのか?」
「いえ、全然……何も……」
「そう?……何もないって顔には見えないが……?」

 ミラー越しに玖珂と目が合う。玖珂がハンドルを右手だけで持つと、運転しながら空いている左手を渋谷の右手にそっと重ねる。
 前方を見ながら玖珂の手は少し力をいれて渋谷の手を掴んだ。何もそれ以上は聞いてこないが、重ねられた手が少し心配げに渋谷の手を包む。渋谷は、重ねられた手に視線を落とす。流れる時間はあっという間に玖珂の車を運び、見慣れた自宅付近の路地が目の前に見えてきた。

 もう少しだけ、勇気があれば……。 あと三分。……あと一分。渋谷は、視線を落としたままブレーキがかかるまでをカウントする。自宅マンションの前に玖珂が車を寄せ、サイドブレーキを引き上げる。渋谷はシートベルトをぎゅっと掴むと思い切って口を開いた。

「あの、うちに寄って行きませんか?折角だし、少しだけ……」
「俺は構わないが……、渋谷君は明日は早いんじゃないのか?」
「用意とかないから……、平気です」
「そう?……じゃぁ、少し寄らせてもらおうか」

 玖珂の答えを聞き、渋谷はもう少しだけ一緒にいられる事に安堵の息を漏らした。玖珂が再びエンジンをかけ、自宅近くのパーキングへ移動する。車を駐車させ二人で降りた後、マンションまでを歩く。渋谷の持つアタッシュケースが玖珂との間に微妙な距離を作っていた。
── このアタッシュケースを右手に持ち替えれば……もう少し側にいける。
 そう渋谷は思いながら、まるでそれが自分と玖珂の距離に思えて、それを握る手を見つめた。いつも与えられるだけではなく、自分から素直になることも大切な事なんじゃないか。渋谷は思いきってアタッシュケースを逆の手に持ち替えて玖珂との距離を一歩縮めた。
 たった数十センチのその距離は、渋谷にとって意味のある物で……。側に寄った渋谷の腰に玖珂の腕がそっと回される。街灯に照らされる二人の影がアスファルトに一つになって伸びたのを見て安心する自分が居た。

 マンションへつき、部屋の中へあがると渋谷は籠もっていた空気を入れ換えるために窓を開いた。外は涼しくなってきたとはいえ、朝から閉めきりになってい た部屋はやはり蒸し暑いような空気がたまっている。部屋のカーテンがひらりと舞い、涼しい風を部屋へと届けてくれる。ソファに座っている玖珂の前に灰皿を 出し再び立ち上がろうとする渋谷の腕を玖珂が掴んだ。

「何か飲み物でも……」

 玖珂は喉が乾いていないからとそれを断り、渋谷にも座るように言い少し脇へとずれる。スーツの上着だけを脱いだ格好のまま、渋谷は玖珂の隣へと腰を下ろした。向かい側ではなく、隣りに座るというのは何処か恥ずかしいものがある。
 玖珂は顔を覗き込むようにし。その後突然、渋谷の眉間に指をすっと伸ばして軽く押し当てた。渋谷は驚いて思わず玖珂の顔を見る。

「な、何ですか?」
「いや、会社から出てきた時、随分ここに皺が寄ってたなと思ってね」

  玖珂がそう言って笑う。玖珂が会いに来てくれている事を知らず、会えない事に落胆していたから……。渋谷は咄嗟に自分でも眉間に指を当てる。意識していなかったが、玖珂が言うならそうなのだろう。

「そ、そうですか?」
「あぁ、随分険しい顔をしてたよ。綺麗な顔が台無しになってしまうぞ?」
「また……そんな事いって、綺麗とかないですから……」

 恥ずかしいことをサラリと言ってのける玖珂に、渋谷は戸惑いながらもやっと言葉を返す。玖珂はそんな渋谷を気にとめた様子もなく、持ってきた煙草に火を点けた。空いている窓へと紫煙が吸い込まれては消えていく。
 玖珂とは今は恋人同士としてそういう関係にある。会う回数は少ないが、それでも十分に会話をし、互いの事も知ってきた。これ以上何かを望むというのは贅沢なのだろう。玖珂はとても優しくて、大切にしてくれる。

 だけど、時々フとした瞬間に感じてしまうのだ。玖珂が越えてこない線がある事に……。そして、その線は渋谷自身が張ってしまっている事にも……。
 多分それは玖珂も気付いていて、渋谷が自分でその線を消してくれるのを待っている。あの暑い夏の悪夢の日から続くその線を消すのが恐くて、怖くて、不安 で……。それでもその線を消したくて、自分の臆病さが恨めしい。玖珂の優しさに甘えて、与えられる事が当然だと思うようにだけはなりたくなかった。
 こうしていても、隣に座る玖珂との間には見えない線がまだ引かれている。今夜は余計にそう感じて、渋谷は唾を飲み込むと、膝の上で拳を握りしめる。こんなにも愛しているのだから……。何度も自分の心の中でそう呟く。
 玖珂が吸い終わった煙草を灰皿で揉み消すのを見ながら、一度大きく息を吸い込む。

「……玖珂さん」
「ん?」
「実は……妹が、結婚する事になったんです……」
「……え?」

 玖珂が少し驚いたように渋谷へと振り向き、眉が心配そうに心持ち顰められる。渋谷はそれに気付いて、安心させるようにすぐに次の言葉を続けた。

「だから……明日、実家へ行くんです。妹が、俺にも式に出て欲しいから、予定を聞きたいらしくて……」
「……そうだったのか。じゃぁ、明日は日取りを決めに?」
「ええ……。だいぶ実家にも顔を出していないので……。でも、……正直驚きました……。妹からそんな事を言ってくるとは思ってなかったので……」
「……妹さんの結婚は……やはりショックなのか……?」
「いえ、そうじゃないんです。前の俺なら、相当ショックだったんでしょうけど、今は……兄として、妹の幸せを願ってます」
「……そうか」
「……今は、もう大切な人がいるから」
「それは……、俺の事だと思ってもいいのかな?」

 渋谷は一度大きく息を吸い込みゆっくり吐くと、首元にきちんと絞められていたネクタイを指で緩めてほどき、スッとYシャツから引き抜いた。 かけている眼鏡も外し、テーブルへと置くとまっすぐに玖珂の方へ体を向ける。どうしたのかと渋谷を見つめる玖珂に、渋谷はそっと長い睫を伏せた。

「玖珂さん」
「…………、どうした?」
「……あの、……」
「うん?」
「俺の事、……抱いて下さい……最後まで……」
「…………渋谷君」

 いつまでも過去に捕らわれているのは、自分にそれを振り切るだけの勇気がなかったからだ。あの日の忌まわしい出来事も、乗り越えなくては前に進めない……。
 玖珂とは未だちゃんとSEXをした事が無かった。覚悟はしたものの、わずかに握りしめた指が震えてしまう。玖珂は渋谷の握った拳を見て、「……いいのか?」と一言呟く。だまって頷いた渋谷に玖珂は静かに腕を伸ばした。

 例えば、こういう時にどんな言葉を選べば相手に自分の気持ちを伝えることが出来るのだろうか。渋谷は、玖珂の伸ばされた腕が震える拳をさするように包むのを見て様々な言葉を思い浮かべていた。しかし、それらは浮かんでは消え言葉になることはない。
 渋谷は玖珂にそっと抱きつき、その胸へと顔を埋める。……暖かい。それは、一番落ち着く場所でもあり、求めている温度でもある。聞こえる確かな鼓動まで 自分の中へ溶けていくようにさえ感じる。玖珂の大きな手が背中へ回され、渋谷の背中をゆっくり摩る。暫くそのままでいると、玖珂が耳元で囁く。

「……何か、潤滑剤になるような物はあるのか?君に痛い思いをさせたくないからな……」
「潤滑剤……ですか……」

 男同士の行為ではそういう物が必要なのだろう。特に初めてとなればその重要性は一層増すのかもしれない。しかし、そういった物は渋谷の自宅にはなかった。色々と代案を考え、渋谷は思いつく。

「えぇと……ハンドクリームならあります、それじゃ無理ですか?」
「あぁ……、何もないよりはいいかな。それでいいよ。持っておいで」
「……はい」

 玖珂に言われるまま棚からハンドクリームを探して渡し、二人で寝室へと移動する。ドアを開けベッドへ辿り着くまで玖珂は何も喋らなかった。
 ベッドへ腰掛け、何か考えるように俯いている玖珂の横に自分も腰を下ろす。少しして玖珂が静かに問いかけた。

「……本当に、いいのか?無理しているなら……、まだ引き戻せるが」
「……、大丈夫です」
「そうか……、わかった」

 玖珂が渋谷の肩にそっと手をかけ、その背中をベッドへと倒す。見慣れた自分の寝室の天井が視界に映る。寝室に玖珂が来たのは初めてである。いつも一人で 寝ているベッドにこうして二人でいるという事実が不思議な感覚をもたらす。仰向けになると渋谷は蛍光灯の眩しさに目を眇めた。

「明かり……少し落としてもいいですか……?」
「……構わないよ」

 渋谷は枕元のリモコンを手に取ると照明を最小まで落とす。玖珂は黙って渋谷を見つめた後、優しく微笑み、渋谷のYシャツのボタンに手をかける。前を開い た後、すぐに深い口付けを落とした。隙間を塞ぐように重ねられた唇に意識をとられていると、玖珂の指が渋谷の乳首の輪郭をなぞり、つまみ上げるように転が される。
 申し訳程度に袖に残るYシャツから腕を抜き、自ら脱ぎ去ると、渋谷も口付けを返す。口内に差し込まれる玖珂の舌の感触に慣れてはいるのに、その口付けだけで堪らなくなる。甘い痺れが徐々に伝わり、渋谷の思考を停止させていく。
 塞がれた唇から飲み下せない唾液が溢れて口角から伝い落ち、息苦しさに酸素を求めて首を動かせば、玖珂の唇が追うように重なる。
「……、っ……ふ、……ぁ」
 うまく息が出来ないのは上がった心拍数のせいもあるのだろうが、それ以上に玖珂の口付けが深いというのもある。溺れていく。その言葉が当てはまるような噛みつくような口付けに追い立てられながら改めて思う。いつもと違うと言う事に。

「…っぁ……、玖珂さ……、……っ」

 情熱的な始まりに渋谷は身じろぎながらも、自分を欲してくれているというその事に満たされていくのをはっきりと感じていた。言葉も態度もいつも穏やかな玖珂は、本来ならばこんなに情熱的な抱き方をするのだ……。
 奪うような口付けが繰り返されるほどに渋谷の体から力が抜けて、ベッドの底へ沈んでいく気さえする。くすぐるように耳殻を舌で弄られ、濡れた箇所に玖珂 の息がかかる。冷たいのに熱いような感覚が押し寄せ、思わず小さく声を漏らす。周りをゆっくりと辿った舌先が少しずつ中へ侵入すると、渋谷の鼓膜に卑猥な 音が届き、下肢の布地を窮屈にさせる。渋谷の胸に掌を当てたまま、玖珂は初めて、吐息と共に渋谷の名を呼んだ。

「……祐一朗……」
「…………」

 今まで生きてきて、様々な人から呼ばれ続けてきた自分の名前。それなのに渋谷にはその自分の名前さえ甘い囁きになって届く。

「……玖珂…さ、ん……」

 このまま玖珂の口付けで窒息しても構わないとさえ思う。渋谷は、玖珂へと自分から唇を合わせる。時々あたる歯が軽い音をたて、ざらりとした舌を絡め合う。乱れた黒髪が額からはらりと横に流れていく。渋谷は前をはだけさせたままの玖珂のシャツのボタンに手を伸ばした。
 シャツ一枚でさえ遮る物は欲しくなかった。玖珂の熱い体に触れたくて、指先が焦る。ボタンを全てはずしたシャツの中へと渋谷も手を差し入れ背中へと回す。締まった筋肉と滑らかな肌を覚え込むように掌に刻み、玖珂の腰骨をなぞれば玖珂の口から微かに吐息が漏れる。

 渋谷のスラックスの中では容積を増した屹立が痛いほどに猛り、その布地を張らせている。ひんやりと冷たくはりつくのは、すでに自身が昂ぶっているせいだ。
 玖珂は渋谷のファスナーをすっと下げると布越しに渋谷の屹立をさすり、そのあと濡れたアウターを取り去った。
 体が動くとふわりと空気にのって玖珂の匂いがする。渋谷は香水をつける習慣がないが、その香りが移り香として自分に残る事が嬉しかった。
 玖珂の愛撫が辿っていくその後を追いかけるように熱が動いて体が疼く。時間を掛けて慈しむように繰り返されるそれに渋谷は漏れそうになる声を堪える。

「んっ……、っぅ……」

 トロリと溢れる蜜が玖珂の指に絡んでいやらしい音を部屋に響かせる。それが耳に届くと、渋谷はそれだけで益々射精感に蜜を零れさせた。
 自分は特別快楽に弱いわけでもないと思う。それなのに、玖珂にかかれば、こんなに容易く陥落してしまうのは、やはり相手が玖珂だからなのだろうか。そう思ってしまうほどに渋谷の躯は玖珂の指や舌先の動きを敏感に感じ取ってしまう。
 早くも達しそうになり渋谷は下腹部に力を入れて耐えようとするが玖珂の大きな掌に包まれた屹立はどんどん上り詰める一方だった。
 忙しなく吐き出される甘い吐息が一瞬にして喘ぎに変わる。玖珂が手を放し、渋谷の屹立を口に含んだからだ。

「あっ、ぁっ……、玖、珂さ……っ…や、め……」
「……どうして?」

 そんな事をされたらすぐに達してしまう。玖珂は渋谷を見上げる視線を送ったまま、熱い唇を再びかぶせる。熱い口内に包まれ、舌先で鈴口を割られる。焦ら すように付け根から先へと舐められ、優しく蜜を吸われれば、渋谷の口から細く嬌声が漏れる。渋谷はとっくに越えている我慢の限界を僅かに残る理性で抑え、 玖珂の方へ腕を伸ばす。

「玖……さんっ、……ぁッ……もう、……っ…離し……、……」
 玖珂の口から屹立をはなそうとする渋谷の手を玖珂が片手で掴む。
「……ここでやめて、本当にいいのか?こんなになってるのに?」
「……で、も……、っぁ……俺、もう」

 玖珂は遮る渋谷の手をやんわりと遠ざけて、再び奥へと含む。渋谷の熱を煽るように喉奥へと誘い、根元を指で扱く。苦しくて、……苦しくて、上り詰める欲望が早く果てたいと渋谷を急き立てる。

「……、ダ、メ……玖珂さ……っ、ぁっ、…んンッ……」

 玖珂の口の中で射精をする事に羞恥を感じ、きつく目を閉じる。玖珂は、口内で渋谷の屹立がビクンと脈打ち硬くなるのを感じて添えた指先に少し力を入れて上へと押し上げた。

「ぁッ、ぁっっ……、ッっ……、んんっ!!」

 一気に勢いよく放熱した渋谷の屹立は玖珂の口の中でビクビクと痙攣し何度も連続して震え続けた。漸く解放された渋谷の屹立は達したばかりとは思えないほ ど硬度を保ったままで、淫らに溢れさせた精液が竿を伝って滴り落ちていた。玖珂がそれを飲み下すのを見て、羞恥に顔が赤く染まる。
 玖珂は一度手の甲で口を拭うと未だ敏感な渋谷の屹立を指で撫で、「……沢山出たな」と少し笑う。
「……、っ…………」
 恥ずかしいのと返事に困るのとで渋谷は曖昧に少しだけ笑みを浮かべた。玖珂の躯を少し離し、起き上がると玖珂の首筋に唇を寄せる。玖珂がしてくれたのと同じように耳へ舌先を這わせて舐めると玖珂が小さく息を漏らす。

「……、……ん」
「……俺も、……玖珂さんに、気持ち悦くなって欲しいです……」
「……俺は、君に触れているだけで、気持ち悦いよ……」
「……、……もっと、……」

 渋谷は玖珂の下腹部に腕を伸ばし、同じように張り詰めている屹立を衣服から解放する。男の物を咥えるのは初めてだった。その大きさに圧倒されたが、玖珂 の物だと思うと何の抵抗も感じなかった。自分でする時のように握り込み優しく手を動かし、幾度か扱いたあと、玖珂の屹立を口に含む。茂みに指を潜らせ、根 元を支えながら唾液で濡らした舌先で滲む先走りを絡め取る。竿を濡らしながら筋をなぞり、その味を味わう。少しずつ硬度を増していくのが嬉しくて、もっと 感じて欲しいと思ってしまう。

「……、……ん」

 咥えながら玖珂に視線を移せば、玖珂が眉を顰めているのが見えた。切なげに歪められたその表情に、自分で感じてくれているという事に躯が疼く。再び玖珂の屹立を口に含んだ所で名を呼ばれ、渋谷は顔を上げた。

「……っ、……祐一郎、もう、いいよ……」
「……、でも」
「俺も、そろそろ我慢出来なくなりそうだ……。君の中で、イきたい……」

 玖珂がそう言って渋谷の躯を引き上げ軽く口付ける。「気持ち悦かったよ……」耳元でそう囁かれ、渋谷は言葉を返す代わりに玖珂に口付けを返す。抱き寄せ られた後、玖珂の上へと座る形で向かい合う。背骨を撫でられ、玖珂の指先が腰に伸びる。徐々に下りていく指先にくすぐったいような感覚がする。指先は渋谷 の蕾まで降ろされ、確認するように軽く触れられた。
 ベッドサイドへと用意してあるクリームを手に取ると、玖珂が指先へそれを絡める。渋谷の緊張を宥めるように、逆の手で腰を摩られる。

「……力を抜いて、腰を上げて」
「…………はい」

 玖珂の肩に手を置き目を伏せる。浮かせた腰の下、触れられたことのない敏感な部分を円を描くようになぞって動かし襞を少しずつ開くように玖珂の指先が丁 寧にほぐしていく。クリームでまみれた玖珂の指が少しだけ中へと進むと、玖珂の肩を掴む渋谷の指先に力が入ったのがわかった。
 浅い部分で抜き差しされる指先はクリームのせいでぬるぬるとしていて、簡単に中へと滑り込んでくる。自分でも弄ったことのない孔は固く閉じており、指先 の感覚だけで今まで知ることのなかった感覚を敏感に感じ取っていた。次第に奥へと進む指が根元まで入る頃には、その感覚に快楽の色が滲み出す。

「……んぅ、……っ、ァ……」
「……痛く、ないか?」
「へい……き、です」

 玖珂が見上げれば、伏せた渋谷の睫が僅かに震えているのが見える。指を二本に増やし、渋谷の中へと入れて開くように動かす。

「ぁっ……、……ッ」

 渋谷の中が無意識に玖珂の指を締め付ける。内壁をぐるりと撫で、指先をまげて快楽の在処を探ると、渋谷は躯をびくりとさせその場所を伝えた。同じ箇所を何度か中で擦られる度に快楽が突き上げて来て、渋谷の躯の中の熱をどんどん煽っていく。
 指を引き抜き、垂れるクリームを自身の屹立へとのばすと玖珂は渋谷の腰に手を添えた。真っ直ぐにそそり立つ玖珂の屹立が渋谷の蕾の入口へとあてられる。
「ゆっくりでいいから、……そのまま腰をおとして」
 渋谷は震える息を吐き出すと、自らの腰を落とし玖珂を受け入れる。十分に広げられた蕾に玖珂の屹立が飲み込まれていく。

「……は、ぁッ、……んっ……ッく」
「……、……」

 きつい渋谷の中に、玖珂も僅かに眉を寄せる。時間を掛けて迎え入れた玖珂の屹立をすっかり飲み込み、渋谷は息を吐いた。腹の中まで貫かれているような圧 迫感に軽い目眩を覚える。全く痛みがないとは言えば嘘になる。それでも、玖珂と繋がれた事への喜びが大きくて、その痛みを上書きしていく。自分の中に玖珂 がいるという事。苦しくて、愛しくて、嬉しくて……。
 玖珂との間に見えていた線、自ら張っていたその線が目の前でほころび、ほどけていく。飛散していくその線の欠片が宙を舞って、そして……。消えた。

「……ちゃんと入ったな、少し、このままでいようか……」
「……、はぃ……」

 玖珂が渋谷を見つめ優しく微笑む。

「祐一郎、……愛してるよ」
「俺も……、愛、して、います」

 言葉にして確かめ合うのは初めてで、少し照れがある。渋谷はそのまま玖珂に甘えるように躯を預けた。繋がった部分が熱くて、これから感じていくそれを知りたいと願う。先程まで自分が咥えていた玖珂の物が、躯の中へいると思うとそれだけで嬉しかった。
 快感に貪欲になった躯はこうしている間にも玖珂を求めて、その存在の全てを受け入れたくて震えていく。
「じゃぁ、動くぞ……」玖珂がそう告げて腰を掴む。
 渋谷は黙って頷き、躯の力を抜くように長く息を吐いた。

 玖珂がゆっくりと動きだし、渋谷の奥を抉るように進んでくる。浅い部分まで抜かれると追うように渋谷の中がうごめく。最奥へ届く玖珂の屹立が渋谷の中で 太くなっていく。ぴったりとはまった中で玖珂が移動すれば、その度に渋谷の思考は途切れ途切れになり、いつのまにか声が漏れ出す。

「はァッ、っ、っ……んく、ぁ、……ぁ」
「っ、祐一郎……、もっと顔を見せて」

 玖珂の声に視線を合わせる。忙しなく吐き出す隠微な息づかいと、乱れて落ちる柔らかな黒髪。白いのど仏が玖珂が動く度に上下し、快楽に瞳が潤む。そんな渋谷の様子を見てしまえば、玖珂も抑えが効かなくなる。もっと乱して、縋る渋谷を見たくて堪らない。

「……、祐一郎、」

 玖珂は、渋谷の感じているその声をさらに高めるように力強く突き上げる。激しく抱かれているうちに痛みは薄れ、その代わりに渋谷を喜悦が支配する。ズルリと抜かれ、再び差し込まれる瞬間渋谷は腰を揺らせて啼いた。
 玖珂の屹立をしっかりと咥えこんだ蕾は何度も収縮を繰り返し、内壁は絡みつくように溶けていく。

「……、あぁ、ッッ、……んっ……つ、ッ」

 玖珂のこめかみから汗がひとしずく顎を伝ってポタリと落ちる。先程玖珂が探り当てた場所を何度も先でこすられ、愉悦で視界が滲む。掴んでいる玖珂の肩に 爪を立て、渋谷はあっという間に二度目の射精感に喘いだ。玖珂の躯に擦れる渋谷の屹立からは次々に蜜が溢れ零れては零れ落ちる。
 互いの熱が絡み合って、繋がるような錯覚を覚え、渋谷は経験したことのない強烈な快感に身を委ねた。蹂躙するように激しく重く突き上げながら、玖珂もまた射精感に息を乱す。

「一緒に……イこうか……」
「……ァッ…ハァっ……、……は、い、……」

 ガクガクと震える腰を強く掴まれ玖珂が一際奥へと侵入してきた瞬間。渋谷と玖珂はほぼ同時に熱を散らし、渋谷の白濁が玖珂の胸まで飛散する。イった瞬間 薄れていく意識の中、玖珂が自分にむける愛しい眼差しが渋谷の脳裏に焼き付く。これ以上無い幸福感を感じながら、渋谷はぐったりと玖珂へ躯を預けた。
 
 
 
 
*   *   *
 
 
 
 
「……ん?」

 うっすらと視界が開けてくると渋谷は自分の置かれている状況が飲み込めずに再び少し目を閉じる。何か夢を見ていた気がするが、どんな夢だったかは何故か 思い出せない。いつのまにか眠ってしまったのかとぼんやりと考え、再び目を開けてみると玖珂が覗き込むように自分を見ているのが視界に飛び込んだ。

「あ、あの……あれ?」

 慌てて起きようとすると玖珂がそれを制止する。徐々に記憶が蘇り今置かれている状況を理解する。渋谷は玖珂に抱かれてイった後、気を失い、そのまま眠っ てしまったらしい自分に気付いた。しかも、ずっとそうしてくれていたのか玖珂の膝枕で眠っていたらしい。かけられている肌掛けの中を覗くと下着だけを穿い ていた。

「大丈夫か?」

 起きるのを制止した玖珂が心配そうに覗き込むのを見て、渋谷は羞恥で顔が染まるのを感じた。

「だ、大丈夫です。すみません。何か俺、迷惑かけたみたいで……」
「迷惑?逆に、君の寝顔が見られて役得だったよ」
「それは……」

 照れ隠しですぐに眼鏡をかけると渋谷はゆっくり起きあがり、手櫛で髪を整えた。

「服を着せようかと思ったんだが、起こすと可哀想かと思ってね。早く何か着たほうがいい。身体が冷えるぞ」
「そうですね、すみません」

 玖珂はそう言ったが下着だけは穿かされている。玖珂にそれを穿かせてもらったかと思うと、渋谷はどうしようもなく恥ずかしくなった。こんな醜態を晒して しまう事になるなんて予想外だった。セックスで意識を飛ばした経験もない。しかも、疲れていたとはいえそのまま寝てしまうとは……。渋谷は慌ててベッド立 ち上がろうとして、痛みに思わず途中で動きを止めた。
「……っ」
 そのまま床へとしゃがむと玖珂の腕がそれを支えるように伸ばされる。

「すまない……、ちょっと激しくしすぎたか……立てるか?」
「いえ……あの……」

 確かにそうなのかもしれない。しかし、玖珂が心配するといけないので、渋谷は「平気です」と微笑み再びベッドへと腰を下ろした。とりあえず、玖珂が畳んで置いてくれてある自分の脱いだシャツを羽織り一息つく。
そしてフと以前から聞こうと思っていたことを思い出した。

「……そういえば」
「うん?」
「玖珂さんの名前って、何と読むんですか?」
「あれ?言った事がなかったか……名前は『りょう』だよ」
「やっぱり。そうかなとは思っていたんですけど、人の名前は色々読み方があるので……」
「急にどうした?名前で呼んでくれるのか?」

 渋谷は自分が玖珂のことを名前で呼ぶのを想像する。人の呼び名を変えるというのは、なかなかに難しいものである。「そのうち……慣れたら……」
 今すぐには絶対無理だと渋谷は思う。でもいつか名前で呼んでみたいと思っていた。玖珂が渋谷の肩を抱いて引き寄せる。

「渋谷君は名前で呼ばれるのは嫌か?」
「いえ、全然………その……嬉しいです……」
「じゃぁ、そうだな……、渋谷君と呼ぶのは今日で終わりにしようか」
「……はい」

 玖珂の低い声が耳元で名前を囁く
祐一朗、と。
 いつまでも残る玖珂の声音が渋谷の中に静かに響いた。玖珂が寝室へと置かれている目覚まし時計に目をやると、時刻はもう三時近くになっている。名残惜し いがそろそろ帰らなくてはいけない時間だった。玖珂が立ち上がると着衣を整え振り向く。言葉にはしないが、少し寂しそうに自分を見上げる渋谷に気持ちを 引っ張られそうになってしまう。一度軽く口付けをし、渋谷の側を離れる。
 シャツを羽織った姿で玄関まで見送りにきた渋谷に玖珂は微笑んだ。

「明日、終わったら夜にでも電話をするよ」
「……はい」
「祐一郎」
「……?」
「そのままの君で、大丈夫だよ。頑張ってこいよ」
「……はい、そうですね。有難うございます」
「じゃぁ、また」
「気を付けて」

 子供にするように優しく渋谷の頭をなでる玖珂の目が細められ、明日の不安はいつのまにかすっかり消え去り、渋谷は安心して微笑んで玖珂を見送った。
 
 
 
 
 玖珂はマンションを出て深夜の首都高を運転しながら渋谷を想っていた。こうして何度も思い出し、その度に恋心は色とりどりの想いで染まっていくのかもしれない。新しい恋の始まりを象っていくように言葉にしながら、そんな事を思う。
 流れる景色は一瞬にして過去の物になっていってしまう。一秒も一分も絶え間なく過去の時間に飲み込まれていくのだから。しかし、自分達には流れる過去の倍以上の想い出を作る事が出来る。
 ハンドルを握る手にさっきまで腕の中にいた渋谷の感触が残っている気がして玖珂は僅かに視線を落とした。いつでも渋谷を感じられる。その事は玖珂にとって一番大切な真実になった。
 つけているラジオが丁度三時半から始まる番組へと移行している。見慣れた深夜の景色のBGMに相応しいその曲は、聞いた事がないはずなのに、何処か懐かしいような感じがして……、玖珂は腕を伸ばしてボリュームを少し上げアクセルを踏み込んだ。
 
 
 
 
 玖珂が帰った後、軽くシャワーを浴び濡れた髪を拭きながら渋谷はベッドへ腰掛けていた。ベッドサイドの明かりだけをつけて眼鏡を外す。視界がぼやける 中、腕を伸ばし手探りでオーディオのスイッチを入れた。ほのかな暖色系の明かりの中、オーディオのランプが青い人工的な光を点滅させる。浮かび上がったデ ジタル時計の文字は三時三十五分をさしている。
 いつも聴いているCDが静かな空間にシュルシュルと回転する音を響かせ始めた。深夜なので落とし気味にしたボリュームのつまみを気持ちだけ上げて、渋谷はベッドへと仰向けに体を沈め、静かに目を閉じた。
 体に残る鈍い痛みはあったが、疲れた身体がまどろみの中で眠りへと少しずつ誘う。瞑った目の上に腕を翳せば隣りに掛けてあるシャツに移った玖珂の匂いが鼻孔を微かにくすぐり、閉じた瞼の暗闇の中には、さっきまで隣にいた玖珂の姿がくっきりと浮かび上がった。
──祐一朗
 玖珂の声が耳元で包むように聞こえ、渋谷はゆっくり息を吐くとそのまま眠りへと落ちた。細く開けたままになっている出窓のカーテンが秋の風に揺れて影を落とす。寝室には渋谷の穏やかな寝息とオーディオから流れる曲が響いていた。
 
 
 
 
──同じ曲が玖珂の車の中でも流れていることを渋谷は知らないまま……。