戀燈籠 第十三幕


 

 血を吐いたあの日から御樹は醫者を變えて別の病院へ行つて診て貰はうと何度も考へてゐたが
なかなか實行に移せないでゐた
眞實を聞くのはさすがに勇氣がいつたし
あれからは一度も痰に血が混じることもなかつたので
治つたのではないかと思つてゐたのであつた
しかし、輕い咳をすると胸が痛む事がありその度に不安になつた
そして、御樹は今日、つひにもう一度病院へ行くことを決めたのである
咲坂には學生時代の恩師がこつちへ出てきてゐるので會つてくると
もつともらしい嘘を用意した
微塵も疑はず咲坂は「ゆつくりしてくるといい」といい御樹を送り出した
そんな自分の嘘に少し罪惡感があつたが餘計な心配を掛けるよりは幾分氣が樂だつた


隣町の病院へと足を運んだ御樹は待合室の窓から通りを眺めてゐた
しばらくして名前が呼ばれ診察室に入る
隨分と古い病院のやうで壁のあちこちが痛んでゐた
六十を少し過ぎたぐらゐの醫者が御樹の顏と診察帳を交互に見る


「御樹……鈴音さんかね?」
「はい さうです」


嗄れた老人特有の聲で名前を確認した後
醫者は一通りの診察をし、難しい顏をして老眼鏡を鼻からずらして御樹を見た


「夜になると熱つぽくなつたりするかね?」
「毎日ではありませんが 時々」
「この前喀血した時は?熱はあつたかね?」
「いえ 多分ないと思ひます 少し熱つぽかつたのですが測つてゐないので…………」
「ふむ」


御樹の目の前で醫者は何度か顎を撫でた後 少し云ひにくさうに診察帳に目を落とした




「──勞咳だな……‥」




思つてゐた病名が醫者の口から發せられた


「……‥やはり……さうですか……」


俯いた御樹の後ろで看護婦逹が同情の視線を送つてくる
──まだお若いのに可哀想に
言葉にするときつとそんな感じなのだらうと御樹は思つた
そしてはつとなつて顏を上げる


「先生」
「なにかね?」
「勞咳は…感染しますか?」
「うーん………さうだねえ
 體力のある人は移らないけど用心するに越した事はないだらうねえ」
「……‥わかりました」


診察の禮を云つて立ち上がつた御樹に醫者は慰めのつもりなのか
藥を飮んで養生すれば大丈夫だと云つた
しかし、御樹はわかつてゐた
その大丈夫といふのは完治するといふ意味ではなく
少し長く生きてゐられるといふ程度の物なのだと


待合室に戻つた御樹は藥が出るのを待つため再び腰を降ろす
自分は今ひどい顏をしてゐるのではないかと思ふ
悲壯感が漂つてゐるのかも知れない
御樹は眉を一度寄せると輕く目を閉ぢた

晝の診療がもう終はりの時間に近づいてゐるので
待合室には一組の親子と御樹しか殘つてゐなかつた
母親に連れられてゐる、まだ年端もいかない男の子が
風邪でも引いてゐるのか鼻を啜りながら竹細工のおもちやで遊んでゐた
そのおもちやが御樹の方に轉がり足下へと當たつた
ちよこちよことおもちやを拾ひに來ようとする子供に御樹は屈んでそれを拾ひ、渡してあげた
おもちやを受け取つた男の子が御樹の顏を不思議さうにじつと眺めてゐた
何かあるのかと思ひ御樹は子供に微笑んだ




「どうしました?」

「お兄ちやん 死んぢやふの?」

「……‥……え?」

「だつて とても悲しさうだつたから」




言葉を失つた御樹に慌てて母親が子供にかけより男の子の頭を輕く叩いた


「何云つてるのつ  そんな失禮な事云つてはいけませんつ
 あの………本當にすみません 子供なんでよくわからなくてごめんなさいね」
「いいえ 氣にしてゐませんから」


御樹は母親にさう云ふともう一度男の子に向き直つた
何故、母親に怒られたのかもわからない風でその子は母親と御樹の顏を交互に見た



「僕。お兄さんはまだ死ねないんですよ‥‥‥宿題が澤山殘つてゐるんです」



さう云つた御樹の言葉に子供はパッと嬉しさうな顏をした



「そつか ぢやあ宿題しないとダメだね」
「ええ さうですね」





笑つて返す男の子に御樹もにつこり笑つて返した
すぐに藥の處方が出され御樹はそれを受け取ると親子に輕く會釋をして病院を後にした

病院で聞くまでもなく御樹は勞咳なのではないかと思つてゐたが
やはりかうして眞實を突きつけられると辛い物があつた
自分一人の時には思はなかつたが
咲坂と暮らすやうになつて御樹は先のことをよく考へるやうになつた
しかし、その未來は長い先の話である
突然途切れてしまつたそれに御樹は焦りを感じてゐた
どれだけ殘された瞬間が自分にあるのかわからない事も、その焦りに拍車をかける
さきほどの子供が云つた事を思ひだし御樹はため息を吐いた
宿題が終はるまで待つてゐてくれるといふなら永遠に手をつけない事も出來るのに
咲坂の待つ家へと歸るには時間が早すぎるやうな氣がして御樹は前に咲坂と行つて以來
足を運んでゐない神社裏の廣場へと歩を進めた


そんなに離れてゐなかつたのですぐに辿り着いた廣場は
晝の眩しい日差しを受けて輝いて見えた
以前はたまに春の暖かい日などには氣に入りの本を持つて讀書をしにきたりしたものだつた
そんな事を思ひだし邊りを見渡すと
ちやうどあの日と同じベンチが空いてゐたのでそこに腰を降ろす
持つてゐる藥を脇において 御樹は息を吐いた
今はこんなに元氣だといふのに病魔はいつたい何處からやつてきたのだらうか
比較的、丈夫なはうだと思つてゐた御樹は
まさか自分が死の病とされる勞咳にかかるなど未だに信じられない思ひであつた
寄りによつて咲坂との暮らしを手に入れた今、こんな状況になるなんて

──神は自分の何を試さうといふのか

御樹は萬の神を信じてゐる方ではなかつたがこの時初めて見えない神に縋つた
背もたれに寄りかかると目を閉ぢる
冷たい風が頬を撫でては靜かに通り過ぎていつた
 
 
 
 
しばらく時間を潰して御樹は家へと戻つた
ひとつついた嘘は膨らんでいく物で御樹は歸つて何と咲坂に話さうかと頭の中で考へてゐた
家の前までくると曲がり角から店の中が少し覗ける
店番をしてゐる咲坂の後ろ姿がちらりと見える
骨董品をひとつづつ手に取り、誇りを拭つてゐる樣子だ
御樹はゆつくりと歩いて店の扉をあけた
扉についてゐる鈴がチャリンと音を鳴らす
その音に反應したやうに咲坂が振り向ゐた


「いらつしやゐませ……‥つて鈴音だつたのかい おかへり」
「少し早めに別れた物ですから 歸つてきました」
「さう 久しぶりにあつたんだから募る話しもあつただらう」
「ええ 樂しい時間でしたよ」
「それは良かつた さういへば今日は驛の方で何か騷ぎがあつたさうだね………
 さつききた客が話してくれたんだけど 卷き込まれなかつたかい?」
「え?……‥ええ 大丈夫でしたよ」
「それならいいけど、心配してたんだよ」


咲坂が安心したやうに微笑んだ
驛前で何があつたのかは知らないが
この話題を續けると嘘を吐いてゐることがばれてしまひさうで
御樹はさりげなく話題を變えた



「珍しいですね 客がくるなんて 日古座さんでした?それとも草壁さん?」
「いや 初めて來た客だつたやうだよ
 ほら そこにあつたラムプ それを買つていつたんだけどね」
「さうなのですか あのラムプを」


御樹は壁に掛かつてゐる柱時計を見上げる


「青人さん 少し早いですがもう今日は店を閉めませうか」
「さうだね」



閉店時間より30分ほど早い店じまひだが御樹は店の鍵を閉めた
店には鍵は入り口に一つだけあるだけでレジスタァにも御樹は鍵をかけない
どうせたいして盜まれるやうな物はないからだと不用心この上なかつた
二人して店から上がる扉へ續くと御樹は着替へるために一度部屋へと戻つた
咲坂がその間に茶を入れると茶葉の香ばしい香りが居間に漂つた
着替へを濟ませた御樹が戻つてくると湯飮み出す
そして咲坂は中を覗き込んで驚いたやうな顏をした



「どうしました?」
「鈴音 見て御覽 茶柱が二本もたつてゐるよ」
「本當ですね 何だか良いことがありさうですね」
「さうだね ぢやあこれは鈴音に」


咲坂が茶柱の二本たつたお茶を御樹に指しだした


「本當に良い事があるといいのですけど……」

「鈴音?」

「──ああ………いえ 何でもありません」


御樹は咲坂の入れたお茶を一口飮んで寂しげな表情で微笑んだ


「青人さんの煎れたお茶は、とても美味しいです とても……」



湯飮みの中に立つてゐた茶柱が靜かに沈んでいくのを
御樹はだまつて見てゐるしかなかつた