戀燈籠 第十六幕


 

 衣擦れの音が靜かな部屋に幾度となく響き
粟立つやうな愉悦が二人を絶え間なく苛んでゐる


「青人さん……」


名を呼ばれるたびに籠もつた熱が解放を求めて疼き
わづかな御樹の吐息でさへ咲坂に快樂を與へた
目を閉ぢてしまふと消えゆく御樹の姿を燒き附けるやうに刻み
言葉の代はりに視線で返す
高ぶつた感情のせゐか眦に浮かぶ泪が
額に浮かぶ汗とともになつてつうーつと疊へと落ちていく
もし、かうして交はう事で自分の命を御樹に與へることが出來るのだとしたら
今すぐに命が燃え盡きても構はないから、全てを與へたかつた

咲坂は霞むやうな意識の中で御樹を感じてゐた
何年も男娼として生きてきた自分は、御樹と出會ふためだけに存在の意味があつたのだと思ふ
凪いだ水面のやうに穩やかな御樹が咲坂にとつて全てでもあり
御樹がいなくなれば、もう自分は拔け殼のやうになつてしまふであらふ事は
今でも容易に想像出來た


「鈴音……」


譫言のやうに口をついてでる愛しい者の名前を咲坂は呼び續ける
互いが精を散らしたのはその後 すぐであつた
今まで押さへてゐたぶんを滿たすやうに交はつた御樹は
淺い呼吸を肩で繰り返しながらも組み敷いた咲坂の上から優しげな瞳で見つめてゐる
汗で額に絡まつた髮を拭ふやうにして細い指を滑らせてゐた
さつきから時間はさう經過してゐないはずなのに長い時が經つたやうな氣さへする
いまだ重く殘る感觸を感じながら咲坂はゆつくりと躯を起こした
いつもは冷たい御樹の體温も今は上昇してをり
咲坂は發熱してゐるのかと少し心配になつたりもしたが
もちろんさうではない
青白い肌に櫻色をさしたやうに淡く染まつてゐる御樹の顏を見て咲坂は手を伸ばした


「有り難う……鈴音」


御樹は微笑むと靜かに首を振つた
湯を借りてくると云つて咲坂が部屋をでたあと
姿が見えなくなるのを確認して御樹は部屋の鍵を閉めた


さつきまで上がつてゐた息はもうすつかり落ち着いてゐる
一人になつた部屋で御樹はまた窓の近くに腰を下ろしてゐた
咲坂は何も云はなかつたが露はになつた躯を見て驚いたに違ひない
御樹は前から細かつたが、勞咳になつてからは餘計に目方が落ちた

勞咳は病の元となる菌が體内に滲透していき
それが肺を犯せばその機能を弱め
胃腸にまで侵入する末期の頃には榮養も攝れなくなりしだいに痩せ細つていつてしまふのだ
以前と同じやうに食事を攝つてゐるのにかうして細くなつていく體を見ると
その症状が惡化の道を辿つてゐることがわかる
かうして少しでも小康状態が續ゐてゐるのは竒蹟のようにも思へた

さすがに精を放つたあとの今は、體が疲れてゐるのかとても重い
御樹は坐椅子の背へともたれ掛かりながら目を閉ぢた
咲坂が何も云つてこなくても、多分自分は同じやうに今日だけは彼の體を求めたに違ひない
咲坂は事が終はつた後 嬉しさうに御樹に有り難うと云つた
しかし、禮を云ふのは自分なのだと御樹は考へてゐた
病に冒された御樹を拒絶する所は微塵も見せず、こんな自分を欲してくれるのだから


──ヶホッ……‥ヶホッ…‥‥


御樹は空咳を少しだけ繰り返し
息苦しさを誤魔化すやうに窓を大きく開けた
咳をする度に痛む胸に掌を當て空を見上げれば
いつのまにかはつきりと見えてゐた滿月に傘が被つてゐた
 
 
 
 
*       *       *
 
 
 
 
咲坂は部屋に一人御樹を殘して湯殿に向かつてゐた
築年數がかなり經つてゐる廊下は咲坂が足を床につける度に少しだけその重みで沈む
擦るやうにして足音をあまりたてないやうに氣をつけながら離れにある湯殿に辿り着いた
宿泊してゐる客はをらず咲坂は一人のやうであつた
着物を肌から離し洗ひ場への引き戸をあけると湯氣で曇つた視界が現れる

湯を汲み出し肩にかけて、そのまま咲坂は手を止めて力なく床へと膝ををつた

どうしても、あのまま御樹を見てゐることが出來なかつた
情交をかはしたあと、咲坂は見上げた御樹の頬に泪が一筋傳つたあとがあるのに氣附いてゐた
もしかしたら、それは汗の滴だつたのかもしれない
しかし、それが汗の滴であつても泪へと見えてしまふやうに御樹は寂しさうな表情をしてゐた
咲坂は目をとぢて、さきほどのその薄い笑みを浮かべた御樹の表情を思ひ浮かべた


「……すず……ね……どうして……」


咲坂は泣いた


御樹の前では絶對に泣いたりするのは避けてゐたのだが、かうして一人になつてみると
今まで押さへ續けてゐた泪がとめどもなく溢れた
服を取り去つた御樹の體は
出會つた頃に見た時よりだいぶ細く肌は透けるやうに白くなつてゐた
病に侵されてゐるといふ事實がその體の細さを物語つてゐる
抱きしめる腕の力が幾分頼りなげになつてゐる事も御樹は氣附いてゐるだらうか
誰よりも優しくて、いつも穩やかな笑みを絶やさない御樹が
何故、こんな病になつてしまつたのか
咲坂は掌に爪が食ひ込むほどに強く拳を握りしめた


──私はいやです…………どんなに過去の話しでも
──咲坂さんがそんな想ひをしたのは……いやなんです………


初めてちやんと話しをした あの「宵夢」で
咲坂が生ひ立ちを話した時に、まるで自分の事のやうに
そんなのはいやだ と云つてきかなかつた御樹は、その言葉だけではなく
本當に咲坂の人生を變へてきた


咲坂の瞳と同じ色だと嬉しさうに湯飮みを太陽に透かして見てゐる姿も
鳥逹に毎朝、餌をあげてゐる背中も
本を買ひすぎた事を窘められ肩をすくめる仕草も
そして、咲坂に與へられた數へ切れないほどの優しい言葉も
まるで昨日のやうに鮮明に思ひ出すことが出來る
そしてさきほど御樹が觸れた體は未だに熱が冷めやらなかつた
咲坂は御樹の指が辿つた場所に指を辿らせた
心にも體にも御樹の全てが狂ほしいほどに詰まつてゐる


「鈴音……」


冷えてきた體にもう一度湯をかけ咲坂は濡れた手で目元を覆つた
水滴のしたたり落ちる音だけが風呂場へと響き
咲坂は止まらない嗚咽をこらへて脣を噛みしめた
 
 
 
 
*        *        *
 
 
 
 
その晩、御樹逹は豫め二組用意されてあつた蒲團を竝べると早くに床についた
なかなか寢附けない咲坂が寢返りを打つた時
小さな聲で伺ふやうに御樹が話しかけてきた


「眠れないのですか?」
「……そんな事はないよ…ただちよつと考へ事をね…」

さう云つて振り向くと、御樹が自分の掛布を持ち上げて咲坂の腕を掴んだ

「一緒に寢て下さい 青人さん」


咲坂はひとつ頷くと御樹の蒲團へと移つた
蒲團の中は御樹の體温で暖かくなつてをり咲坂はだまつて御樹の胸に顏を埋めた
息をする度に微かに上下する胸に安堵を覺えてそつと目を閉ぢる
御樹はそんな咲坂を包むやうにして腕を廻した


「明日も、雨が降らないといいですね……」
「……ああ さうだね」


咲坂は廻された腕の温もりを感じながら眠りについた