Sexual photography film2


 

 須賀は何を最初に話せばいいのか分からず、最後まで言葉を伝えることも出来ず、口を噤んだ。聞きたいことが山ほどあるにも関わらず何も言葉が出てこない。
付き合っていた頃、一度も健介を束縛したことはない。何処へ行こうが、誰と行こうが、それは健介の自由であり、また同時に自分も束縛されるのを嫌っていた。
しかし、今は思うのだ。
 家を出て行った健介が、半年間何処で誰と何をしていたのかを知りたいと……。
 淡い期待。健介が戻って来てくれるのではないか。その期待を裏切られるのが怖くて須賀は、必死で希望を持とうとする気持ちを押さえつける。何とか落ち着かせようと浅く呼吸をした時、躊躇いがちに健介が言葉を続けた。

「……あのさ、今日の夜空いてる?」
「……何だよ…急に」
「見せたい物があるんだ……それと、来る時は、カメラを持ってきて欲しい」
「健介……俺はもう、写真は……」

 今更会ったところで、自分はどんな顔をして健介に会いに行けばいいのか。混乱する須賀をよそに健介はいつになく強引だった。
どうしても今夜がいいという健介を不思議に思い、須賀は携帯を握ったまま、もう一度カレンダーへ目を向ける。半年前から時の止まったカレンダーを右目を眇めて見ると、今日と同じ日付だった。健介が出て行って丁度半年後の二十三日。
 それに意味があるのかはわからなかったが、須賀は健介の言う待ち合わせ場所をメモすると、そのまま携帯を置く。最後にちゃんと話をすれば、諦めがつくのかも知れない。そう思っていた。

 健介の事も、写真の事も、須賀は何一つ諦め切れていない中途半端な自分を思い知る。もう一度カメラを持ってみる。
 レンズに積もった埃が、カーテンから差し込む光に静かに舞っていた。  
 
 
 
     *     *     *
 
 
 
 
 健介が待ち合わせ場所に指定してきたのは、付き合っていた頃よく二人で待ち合わせをした公園だった。児童公園にしては遊具もほとんどなく、錆びたブランコと小さな砂場があるだけである。
待ち合わせの時間より少し早くに着いた須賀は、言われるがままに持ってきたカメラケースを横に置くと、ポケットから煙草を取り出して火を点けた。少ない街灯のせいで煙草の火がやけに赤く見える。

 小さく灯ったその明かりは須賀の吸う息と共に赤さを増し、その後くたびれたように真っ白な煙を吐き出した。足下の吸い殻が五本になった所で、公園の反対側に車が一台停車するのが見えた。付き合っていた頃から乗っている健介の愛車に懐かしさが溢れ出す。

須賀が腰を浮かせて立ち上がろうとした所で、運転席から健介が姿を現し、須賀を見つけ駆け寄ってきた。

「ごめん 待った?」

そう言いながら近づいてくる健介は、半年前と何も変わっていなかった。
長身を屈めるように少し猫背で歩く癖も、右側だけ髪を耳にかける仕草も…。

「あぁ、少し」
「……ちょっと渋滞にはまってた、じゃぁ行こうか」
「……どこ行くんだよ」
「いい所、行ってからのお楽しみ」

 すぐに踵を返し車へと戻る健介は、わざと須賀を見ないようにしているように見えた。須賀も健介の後を追う。
 車の運転席に乗り込んだ健介はアクセルを踏み込む、それから暫くは口を開かなかった。以前は何でもなかった沈黙が、今は息苦しいほどに空気を重くさせ、流れるFMラジオのDJの声だけが、場違いにも楽しそうに車内に響き渡る。
その沈黙を最初に破ったのは、須賀だった。

「お前……仕事の方は順調なのか?」

ハンドルを握ったまま、健介は少し肩を竦めた。

「会社は、辞めたよ。今はフリーでやってる」
「…え?どうして…」
「俺さ、どうしてもやりたい事があってさ。あ、もちろん仕事はしてるけど」
「……映像関係…か?」
「うん、まぁね…前の仕事先で知り合った先輩がいてさ、そこで世話になってるんだ」
「……そうか」

 須賀は、自分を棚に上げて健介が未だ夢を諦めていないことに、何故かホッとした。何気なく後部座席を見てみると、使い古した機材が雑然と積まれている。舗装されていない裏道に入るたびに、それらの機材がガチャガチャと音を立てる。
自分の時間が止まった後も、健介は前に進んでいる。何処か遠い存在になってしまった気がして須賀は今の自分を恥じ、目を伏せた。三十分ほど走った所で、健介は「着いた」と小さく呟き、サイドブレーキを引き上げた。
連れて来られた場所には、勿論覚えがない。

「……ここは?」
「俺が昨日まで借りてたスタジオ、兼寝床。といっても、もう明後日には取り壊されるんだけど」
「スタジオ?」
「真っ直ぐいって右側に入り口あるから、そこでちょっと待ってて」

 健介は車から降りるとトランクから何かを探している。須賀も助手席から降り、入り口へと向かって歩いた。
 明後日には取り壊されるのだという目の前の建物は、確かに年代を感じるもので、アスファルトの壁の所々にひびが入っている。夜目にはよくわからないが、日中はもっと寂れた姿を見せるのだろう。
寝床と言うくらいだからもっと家屋らしいのかと思ったが、どちらかといえば倉庫のようでもある。須賀と別れてから半年間ここに住んでいたのか。そう思いつつ歩を進める。

 言われた通りすぐに入り口があり、須賀は取っ手を軽く押してみた。手応えもなく扉が開いたのは、鍵がかかっていなかったからである。真っ暗なスタジオの中は、嗅ぎ慣れた乾いた匂いがする。
 少しの懐かしさと、忘れたままでいたかったという気持ちと、ないまぜになりながら一歩を踏み出した所で、大きな荷物をもった健介が背中越しに声を掛けてきた。

「中入って、あんまり綺麗とは言えないけど」
「……あぁ」

 そんなに広くない屋内は、本当にここで生活をしていたのかと疑う程に何もなかった。地面はアスファルトのままで、見渡すと奥に簡易ベッドと小さな冷蔵庫 があり、その近くにバスタブらしきものがあった。しかし、風呂として使っているわけではなく、撮影で使用したのだろう。バスタブには水が張ったままになっ ている。
ベッドサイドの壁に目を向ければ、昔から健介が気に入っている洋画のポスターが貼ってある。その横のコルクボードには須賀が撮った写真も並んでいた。
その光景に居たたまれない気分になる。部屋の中央まで進んだ所で、須賀は足を止めた。

「もしかして、よくこんな場所に住んでたなって思ってる?」

横に並んだ健介に的確に心の中を見透かされ、須賀は苦笑した。
健介は昔から勘がよく、言葉の足りない須賀が言わずとも理解してくれる事が多かった。不器用な自分が自然体でいられたのは、健介のおかげだと言っても過言ではない。

「最初はさ、アパートでも借りようかと思ってたんだ」

 担いできた大きな荷物を床へ降ろし、その中から小さなモニターを出し設置しながら健介が言葉を続ける。

「だけど、ここを俺の個人的な撮影で借りられる事になってさ。仕事から帰って、ここに来てって繰り返すのも時間が勿体ないじゃん?じゃぁここに泊まってればいいかなって思ってさ。もう取り壊しが決まってたから格安だったしね」

そう言って笑いながら慣れた手つきでフィルムをセットし、「金ないからなぁ、俺も」と続け恥ずかしそうに頭を掻いた。

「よし、これで準備完了っと」

セッティングを終え、壁際に重なっている折りたたみ式のパイプ椅子を二脚もってくると、須賀に座るように促す。

「毎晩少しずつ作った映像なんだ。時間が足りなくて完全に仕上がってないし……まだ、誰にも観せてないけど……」
「……俺が、観てもいいのか?」
「あぁ……勇人に観せたくて撮ったから……」
「……健介」

 須賀に観せたくて撮ったという健介の言葉。それはどういう意味を含んでいるのか、暗くてよく見えない隣の健介の表情に目をこらす。
健介は視線を感じて、僅かに目を伏せた。
その表情の裏に、思い詰めたような部分が時々顔を覗かせる。健介の伏せた長い睫が影を落とし、須賀の胸は締め付けられた。

 手元のスイッチを押し込むと、同時に静寂は消え去り、砂嵐の後に画面が映し出された。モノクロで始まったその映像の合間には、所々ブルーのノイズが織り 込まれている。金属の質感を舐めるように下から写しあげたカメラアングルは次第に明度を上げ、画面に水が流れると共に、観客のざわざわとした声や、チュー ニング中のギターの音、軽くテンポを刻むピアノの音が聞こえてくる。ライブ前の高揚した空気は須賀も慣れ親しんだ物だ。
 それらが左右から覆い被さるように流れ画面が一転した。目映い点滅を繰り返し、次に現れた画面に須賀は息をのんだ。

「……これ…は」

思わず隣にいる健介を振り返る。
 画面には、須賀がずっと追い続け、そして賞を受賞した際に撮影したブルースバンド【ZACKS】のライブの様子が収められていたのだ。カメラを捨ててか らは縁の無くなった世界。当時の須賀は、制止した瞬間を捉える写真に躍動感を写し込みたくてこのバンドを追い続けていた。

 映像は流れ続け、ライブ映像と交互に、昔、須賀が撮った写真がカットインされている。楽曲のクリップというよりは、短い映画のように仕上げられているその映像は健介が半年間で作り上げた作品である。
須賀は、当時追いかけ続けたその光景に、言葉を失った。圧倒的な迫力をもって迫る健介の作った映像が須賀の中にどんどん浸透してくる。

すっかり忘れたつもりだった。
 そう思っていたのに、映像と耳に届く音は須賀の奥に未だ燻り続ける感情に揺さぶりをかける。
健介が出て行ってから半年間の、ただ時間が過ぎるのを日々待っていただけの自分。しかし、健介は違ったのだ。須賀に何かを伝える手段を模索し、行き着いたのがこの作品を作るという事だったのだろう。

鳴り続ける音楽。
流れ続ける映像。

 いつのまにか握りしめていた拳が僅かに震えてしまう。右手の人差し指、シャッターに馴染んだ指先が熱くなる。見えないはずの左目の裏にも、痛みを感じるほどの目映い光景が波のように流れ込み、須賀は握った拳をとくと、左目に強く押し当てた。

 俯いた顔に長くなった前髪がバサリとかかる。押し寄せてくるのは、健介の想いと、ノイズ混じりの動揺した自分の感情。
 健介は静かに須賀の前に歩み寄り、しゃがむと視線を真っ直ぐ向けてきた。フワリと動く空気に健介がいつもつけている微かな香水の香りが須賀の鼻腔をくすぐる。

「……勇人、見えるだろ?」

 ブルースハープの悲しげな音色が続く中、須賀の左目に押し当てた手に健介は自分の右手を添えた。体温の低い健介の手は、熱くなった須賀の指先と左目を静かに冷やしてくれる。
痛むのは、自分が捨てたくないと思っているから。見たくない訳じゃなく、見るのが怖くて逃げていたのだ。
 手を添えてくれる健介の事も、今まで全てだった写真の事も。疼く左目の奥が、どんどん熱くなって……。今まで壊せなかった高い壁をゆっくりと溶かしていく。
須賀は、失ってから初めて左目で涙を流した。冷たい雫は自らの指の隙間からこぼれ落ち、健介の指につたう。

「……健介……お前、このフィルムを撮るために…」
「そうじゃないよ。……これは俺が自分でしたかった事だから、俺は……」
「……」
「もう一度、勇人の写真が見たい……それだけ……」

 須賀はゆっくりと左目を押さえていた手を下ろす。
 健介が須賀の髪をかきあげると、涙で濡れた目の上から真っ直ぐに刻まれた傷が露わになった。傷は今ではもう痛むわけではなく、赤く伸びたただの爪痕のようにも見える。二度と光を映さない瞳を閉じさせ、健介はそっと瞼に指を這わせた。
 撫でるように動かした健介の指先が、今までの苦痛をわかっていると語っている。

「勇人……俺の写真、撮ってよ。そのカメラでさ……」
「……え…」

 健介は、途中で止まっているフィルムを停止させると静かに立ち上がった。須賀の横に置いてあるカメラを取り出し目の前にゆっくりと差し出す。

「……忘れてないよ。勇人が忘れたくても……俺も、こいつも…」

 須賀は少しの躊躇いを振り払うと健介の差し出すカメラにまっすぐに手を伸ばした。カメラを受け取ると、馴染んだ感覚が蘇ってくる。この重さも全て、身体の一部だった頃が確かにあったのだ。
レンズをシャツの袖で拭うと、須賀はカメラを首にかけて静かに立ち上がった。