俺の男に手を出すな2-8


 

――次の日の朝

 隣でかすかに動く気配を感じて、佐伯は浅くなっていた眠りから目を覚ました。
 一人で寝慣れているせいか、起きた瞬間側に人がいると一瞬驚くが、すぐに状況を思い出し納得する。昨夜は3人で寝たのだと……。
 ベッドサイドへと置いてある眼鏡を手探りで取り、それをかけて目覚まし時計を引き寄せてみる。時刻は丁度朝の7時になった所であった。
 自分のすぐ側で眠っている拓也はまだ夢の中なのか、目を覚ます気配は全くない。特別早く起こす必要も無いので、佐伯は起こさぬようにそっとベッドから降り、そこでやっと晶の姿が見えない事に気付いた。

 トイレにでも行っているのだろう思いながら寝室を出て居間へと向かい、全てのカーテンをあける。朝の日差しが眩しいほどに部屋に差し込んで来て薄暗かった部屋を一気に明るくする。佐伯は眩しさに目を細め、換気のために一度窓を開いた。レースの薄いカーテンを揺らす風は真冬と比べるとそう冷たくもなく、徐々に春に移行している季節の移り目を感じさせる。窓はそのままにして身支度を整えるために洗面へと向かった。
 歯を磨きながら、風呂場の横のトイレをちらっと見てみたが、明かりがついている様子もなく物音も一つもしない。

「晶、いるのか?」

 声をかけてみたが、やはり返事は返ってこなかった。
 おかしく思い、再び寝室へ戻り静かにドアを開けてみるが部屋にいるのはさっきと同じ状態の拓也だけである。一応隣の書斎へも顔を出してみる。しかし、やはり晶の姿は何処にもなかった。
 朝にはめっぽう弱い晶が、こんな早朝から起きて一体何処へ行ったのか。訝しく思いながら居間へと戻ると昨夜のままの位置に晶の携帯が3台とも置かれているし、外したアクセサリーも全てテーブルへ置いてあるのが確認出来る。帰ったという訳でもないらしく、ますます疑問が募るばかりである。

――あいつ……、何処へ行ったんだ?

 電話をかけようにも、携帯が置いたままなので意味が無い。フと思い立って玄関へ向かい靴を見るとなんと晶の靴もそのまま残されていた。靴を間違えて外へ行くとも思えないし、裸足で出掛ける事もありえない。
謎が膨らむばかりだが、探しようがないので佐伯は仕方無く居間へと引き戻った。

 そのうち帰ってくるだろうと思い、先に用事を済ませる事にする。昨夜医局の方へは緊急連絡用のメールで休む旨の連絡を入れてあるが、念のためもう一度連絡を入れておく事にし自宅の電話から連絡を入れる。まだ院内に居るのは夜勤の職員だけなはずだ。
 直接医局へとコールをし、今日の夜勤の医師は誰だったかと思い出しつつ呼び出し音を聞いているとすぐに繋がった。

 佐伯が急に休む事等今までにないので、多少の心配をにじませつつも何かあったのかと問われたが、それには親戚の不幸があったと嘘をつく。聞いてみるとやはり昨晩美佐子からも一度病院へ電話があったらしい。美佐子は特になにも詳細を口にしなかったようなので、親戚の不幸でまとめて片付ける事が出来たのが幸いだ。

 職場に嘘の休暇を申し出る際によく使われる『親戚の不幸』であるが、まさか自分が使うことになるとは思ってもおらず、それを使っている自分に苦笑いが浮かぶ。
 その後、担当している患者や、様態の気になる患者の様子を聞き、代わりの処置をする事になる医師へ礼を述べて通話を終えた。  
 
 
 
 一端受話器を置いて、佐伯は腕を組んでそのまま暫く考え込んでいた。流石にずっと開けっ放しでは部屋が冷えるので一度窓を閉める。そして、隣に並ぶ電話帳に指を伸ばした。
 上から順番に並ぶアルファベットのMの部分を押すと、ぱらぱらとページがめくれ、美佐子の名前の所でページが止まった。見慣れた数字の羅列。
 美佐子の自宅電話番号は見なくても覚えている。
 結婚した際に新居として建て、最初は自分も住んでいた自宅なのだ。離婚する際に家は美佐子に渡し、佐伯が家を出る形をとったのである。
 当時何度もかけたその電話番号を忘れるわけがなかった。

 佐伯は暫く迷ったが、指が覚えているままに数字を押して受話器を再び持ち上げた。数回のコール音がなった後、美佐子が電話口へと出た。

 酷く疲れたような声に、佐伯が名を告げると一瞬沈黙が流れる。この沈黙が別れてから今までの間に出来てしまった距離なのだろう。その後、昨夜の手紙通りの事を美佐子が話し、『急に、ごめんなさい……』と謝罪の言葉を口にした。それには言葉を返さず、体調はどうなのか?と問うと、自身には感染していなかったと結果を告げられる。

 早く知りたかったので検査の結果を研究機関でもある勤務先で待って、先程帰宅したのだという。
 拓也にも感染の兆候はみられない事を教えると、美佐子はとても安心したようで『良かった……』と小さく溜息を漏らすのが受話器越しに聞こえた。

『もう大丈夫だから、用意をしたらすぐ迎えに行きます』
「寝ていないんじゃないのか……、無理をするな」
『でも……今日、病院は……?』
「……今日は丁度連休で休みだから、問題ない。……夕方頃、拓也を送って行くから、それまで休んでいろ」
『……要』

 美佐子の口から自分の名が呼ばれるのを聞くのは、それこそ別れて以来である。咄嗟に休み取った事を隠し嘘をついた。以前ならそのまま休みを取ったと言っていたかも知れない、しかし思ったのだ。晶ならきっとこう言うのではないかと……。

 佐伯は自身の携帯の番号を教えたあと、受話器を置く。管理人を巻き込んでまでの勝手な行動は許される事ではないとは思うが、電話口に出た美佐子の疲れ切った声を聞いてしまうと、苦言を施す気にはなれなかった。拓也を想う美佐子はもうすっかり母親なのだと当然の事を目の当たりにした気がする。

 キッチンへと向かい、一服しながらコーヒーメーカーをセットする。二杯分の水を注いだ所で玄関がカチャリと開く音が聞こえた。どうやら晶が帰ってきたらしい。
 ばたばたと足音が近づき、少しして居間のドアが開かれる。

「あーー。寒かった~」

 そう言いながら入ってきた晶はコートも着ずに外へ行っていたらしい。

「何処へ行っていたんだ、こんなに朝早く」
「ん?ちょっとね。雑誌とか買いにコンビニ行ってた」
「コンビニ?」
「そ。まぁ、いいからいいから。あ、これ拓也のジュースな」

 何種類かの子供が好きそうなジュースや菓子類、それと雑誌が袋から顔を覗かせている。拓也が起きたら、一緒に連れて行って好きな物を選ばせようかと思っていたが、その必要はなくなった。しかし、気を利かせて拓也の飲み物を買ってきてくれたのは有難いが、どうもそれが本来の目的ではないらしい口ぶりである。雑誌が目的かと思えば、それも違うようだ。
 晶はそれを手に取ることもなく、袋ごとテーブルへと置いたままテレビのリモコンを手に取ると朝の番組を観始めた。

 礼を言って受け取り、佐伯が冷蔵庫へとそれをしまっていると晶がキッチンへと入ってくる。佐伯と同じく換気扇の下で煙草を取り出すと火を点けた。

「あぁ、そうだ。ベランダにあったサンダルかりたからさ、靴履くの面倒だったから」

 なるほど、だから晶の靴が玄関へと置いたままになっていたのかと一つ疑問符が消える。晶は煙草を吸いながら大きな欠伸をすると二、三度目を擦り、「拓也は?」と佐伯に振り向いた。

「まだ寝ている。お前も眠そうだな、二度寝してきてもいいぞ」
「いや、大丈夫だって。朝は俺いつもこんなだから」

 そう言った矢先にまた欠伸をしている。普段の生活リズムと違うのだろうから無理もない。一度ずれた体内時計を元に戻すのは中々に難しいのだ。無防備な晶の背後に回り、重力に逆らうように跳ねている寝癖を摘んでひっぱると、晶は「何すんだよ」と佐伯から身体を離した。

「お前、このまま出掛けたのか?」
「いーの、別に。店に出るわけじゃねーんだから」

 そう返しながらも、指摘されるとやはり気になるようで、晶は食器棚にはめ込まれた硝子にうつる自分の姿を見ながら髪の毛を手櫛で整えている。どうやっても跳ねてしまう毛先についには面倒になったのか、キッチンの蛇口から水を出して手を濡らすと、跳ねる場所をぎゅっと握って抑えつけていた。
 その様子がおかしくて、佐伯は思わず苦笑する。

「安心しろ、毛先がどっちを向いていても大して変わらん」
「何それ?どーいう意味だよ」
「そのまんまの意味だ」

 どんなに寝癖がついていようと、お前は可愛いから安心しろ。そういう訳が字幕で出ない限り、その意味に気付かない晶は、案外自分の事に関しては鈍感である。漸く落ち着いた髪型に納得した晶は、吸い終わった煙草を消すとダイニングテーブルへと移動して腰を下ろした。

 コーヒーメーカーが出来上がりのランプを点滅させているのを見て、佐伯が二人分のコーヒーをカップへと注ぐ。「サンキュ」と言って受け取った晶の向かいに座ろうとして、今朝はまだ新聞を取ってきていない事に気付き、佐伯はカップをテーブルへと置くと再び腰を上げた。

「新聞を取ってくる」
「お?いってらっしゃ~い」



 佐伯が居間を出て、玄関の開く音がする。いなくなったのを確かめると、晶はすぐに席を立った。晶の予想では戻ってきたらまだ佐伯は起きておらず、色々と準備をする予定だったのだ。しかし、予想に反して晶が帰宅するともう佐伯は起きていたので予定が狂ってしまった。

 足早にバスルームへ行き、とりあえず隠しておいたコンビニの袋から中身を取り出して急いで予定の場所へとしまう。もう一つの物も取り出して、少し迷ったがキッチンの引き出しを開けてそこへと放り込んでおいた。その後、何事もなかったかのように椅子へと戻ると、買ってきていた雑誌を取り出して目の前で広げる。
 「俺はこの雑誌が読みたくてコンビニに行きました」というアピールのつもりである。

 ほどなくして戻ってきた佐伯は、新聞と、昨夜拓也の件があって受け取り忘れていた郵便物をまとめて手に持っている。それらをテーブルへドサッと置くと、黙ってコーヒーを一口飲み、郵便物をチェックしている。

 計画はとりあえずバレていないらしい。雑誌を読んでいる晶をちらりと見ていたが特に何も言ってはこなかった。晶は安心して自分も雑誌の続きに視線を落とした。

 雑誌を読みながら旅行当日の朝を思い出し、これから30分は佐伯は新聞に夢中だなと思っていると、意外な事に10分も経過しないうちに佐伯は新聞を閉じて脇へと寄せた。

「あれ?もういいの?新聞」
「あぁ、今日はやる事が多いからな。続きは暇になったら読む」

 コーヒーの残りを飲み干すと、佐伯は再びキッチンへと戻る。冷蔵庫に向かう佐伯を視線の端にとらえると晶が慌てた様子で声をかけた。

「な、何するつもり?」
「・・・・・・?何って、朝食の準備をしようと思っているが、何でだ?」
「いや……、えーっと、そうだ!俺手伝ってやるよ」
「お前が?何か出来るのか?」

 急いで駆け寄って、冷蔵庫が開かないように全身でさりげなくガードする。佐伯は以前、晶が目玉焼きでさえろくに作れないと言っていた事を知っているので、「何か出来るのか?」と聞く声は非常に訝しげだ。はっきり言おう。――何も出来ない――だがしかし、今ここでそれは禁句なのだ。

「で、出来るに決まってるっしょ。野菜洗ったりちぎったり、あと、パン焼いたり!」
「……、パンはトースターが勝手に焼くと思うが」
「じゃぁ……トースターにパン入れたり……」

 自分で言いながら、情けない気分になってくる。『パン入れたり』って幼児かよ!と言われる前に自分で言って佐伯の直球を受け取る覚悟を決める。しかし、佐伯は一度笑っただけで、いつものグサッと投げ込んでくる球は直撃してこなかった。

「何だかよくわからんが、じゃぁ、手伝ってくれ」
「お、おう!任せろって」

 佐伯は材料を出すために冷蔵庫へと手をかける。まだ大丈夫。取り出したのは卵数個とバターである。しかし、晶は予想をつけていた。絶対にサラダか野菜のつけそえがあるはずだと。

「や、野菜はいいの?俺洗おうか?」
「そうだな、じゃぁ、レタスを取り出して3枚程洗って拭いておけ」
「レタスな!OKOK!」

 晶は 素早く野菜室を開くと、すぐにレタスを発見し取り出す。目にも留まらぬ早業である。ちらりと背後の佐伯を確認してみたが、何も気づいていない様子だ。晶はそのままレタスをシンクへ置くと、指示通りに3枚取り出して、残りは再び素早く元あった場所へとしまう。

「あぁ、トマトも切っておくか」

 不意打ちで佐伯が野菜室へ手を伸ばしたのをみて晶はその腕をがしっと掴んだ。
「なんだ?」とでも言いたそうな佐伯に、「トマトも。俺が洗うから。トマトはマジで任せて」と告げる。

「……お前がそんなに野菜を洗うのが好きだったとはな」

 そう言って晶を見る佐伯は、全て気づいているような気がする。そして次の言葉で、『気がする』が『全て気づかれていた』に変わった。

「わかったわかった。野菜室を俺が開けなければいいんだろう?」
「……うぅ」
「お前はもっと演技を訓練した方がいいんじゃないか」
「……う、うるせーな。とにかく野菜室あけるのしばらく禁止な!」

 明らかに馬鹿にしたような笑みを浮かべ、佐伯は引き続き調理に取り掛かる。晶もシンクのかごへと入れた野菜を水道で丁寧に洗い、キッチンタオルを広げてくれた上に野菜を置く。隣の佐伯は手際よくオムレツを3人分作っており、香ばしいバターの匂いと卵の焼ける美味しそうな匂いがキッチンに漂っていた。こうして佐伯と一緒に朝食を作るのは案外楽しい。まるで前からずっとこうして一緒に同棲しているかのような空気である。

 真っ白な皿にオムレツがそれぞれ乗せられ、その横に晶が洗った野菜が盛り付けられる。黄色と緑と赤と、見た目も綺麗である。声に出すと即否定されるのがわかっているので、心の中で少し自慢する。
――野菜の飾り方、完璧すぎるだろ、俺――勿論そんな事は誰も言ってくれないわけではあるが・・・・・・。


 続いてベーコンを取り出した佐伯は晶に火の様子を任せて、焦がさないように焼いたら火を止めろと指示を出す。

「え?それって何分後?」
「見ていればわかるだろう?正確な時間など知らん」

 キッチンタイマーという便利な物を全否定の佐伯に、冷蔵庫にマグネットで張り付いているそれが使われているのか疑問がわく。「焦がすなよ」と少し心配そうに言い残し、佐伯は拓也を起こすべく寝室へと向かった。晶はフライパンの上のベーコンをまるで観察日記でもつけそうな真剣な眼差しで見つめていた。