俺の男に手を出すな 3-4


 

  回診を終えて、医局に戻る椎堂の足取りは重かった。先程服用した薬がやっと効いてきたのか気分は幾らか落ち着いてきたが、完璧にはほど遠い体調である。澪にも指摘されたが、きっと酷い顔色をしているのかもしれない。――こんな事じゃ、だめだな――椎堂は医師としての自分の自己管理の甘さに小さく溜息をつく。

 俯き加減で廊下を歩いていると、少し先の曲がり角から現れた誰かの白衣の裾が視界に入る。顔を上げてみると佐伯が歩いてくるのが見えた。佐伯は椎堂の姿を見つけると少し足早に距離を縮めてくる。その姿は颯爽としていて、くたびれた様子を見せているだろう自分が少し恥ずかしくなる。声が届く距離まで近づくと、佐伯は口を開いた。

「時間が出来たから来てみたんだが、回診は終えたのか?」
「あぁ。今終わった所だよ。後でそっちへ行こうと思っていたんだ。例の話しだろう?中で聞かせて貰うよ」
「ああ」

 佐伯は椎堂に続いて内科の医局に入る。外科と違い、内科は小児科とフロアで仕切っている間取りの医局なので、ぬいぐるみやら患者の子供が描いたクレヨン画などが飾ってあり、どこか和やかな雰囲気がある。その横に飾られている幾つかの写真の一枚に、佐伯も写っている物があった。この病院へ勤務してすぐの頃なので、だいぶ昔の写真である。

 当時、椎堂が担当していた患者が退院するときに撮影した物だ。花束を膝に抱え笑顔を向ける患者と、それを見守るように優しい笑みを浮かべて寄り添う椎堂、そしてその後ろに立っている自分と看護師達。たまたま撮影をしている時に通りかかってしまい、強引に撮られたのだ。無愛想な自分を見て、思わず当時を思い出して苦笑する。

 患者は小学生の女児で、小児癌を患っており、手術で腫瘍を取り除かない限り余命3年という診断だった。成功率のそう高くなかった手術を選択したのは椎堂だ。そしてそのオペを執刀したのは佐伯だった。結果手術は成功し、こうして無事退院の日を迎えたのである。もう今頃は中学生ぐらいになっているのかもしれない。

 佐伯は写真から離れると部屋の中へと進む。
 椎堂が近くのソファに腰掛けるように言った後、回診のカルテをしまっていると、佐伯はソファの方へは足を向けず、椎堂の側に来て机の上に視線を落とした。ポケットから片手を出し腕を伸ばすと、先程椎堂が飲んだ薬のからを摘みあげ、訝しげな顔をする。

「抗不安薬に、……こっちは睡眠薬か。お前が飲んでいるのか?」
「……あぁ、ちょっと、ね」

 佐伯はその薬のからをそのまま近くのゴミ箱へと投げ入れて、椎堂の様子を窺うように視線を送る。薬に頼るほど精神的に参っているという事なのか……。昨夜の電話で様子がおかしかったのもそのせいなのだろう。元々細身の椎堂の体が今は一回り小さく見える。色素の薄い緩やかな癖のある髪が青白い肌に影を落とし、儚さを感じるほどである。

「顔色が悪いな……、それに少し痩せたんじゃないのか?」

 佐伯は眉を顰める。付き合っていた頃から椎堂は食が細かった。しかも、何か心配事や緊張するような事があるといつにもまして何も口にしなくなるため、すぐに体力が落ちてしまうのだ。今もその傾向は続いている所を見ると、もうそれは椎堂の性格と割り切るしかないのかもしれない。
 何があったのか、今回そうなっている原因が椎堂が医者を辞めたいと言っている理由と関係があると佐伯は確信する。
 佐伯に指摘された事で、椎堂は逃げるように視線を泳がせた後小声で呟く。

「大丈夫だよ。……僕だって一応医者なんだし、自分の体ぐらいはわかってるつもりだよ」

 言いながら、全く説得力がないなと椎堂は心の中で自嘲した。佐伯は医者だ。見ただけで今の言葉がただの強がりだと言う事はすぐにわかってしまうだろう。しかし、佐伯はそれ以上体調については追求してこなかった。

「そうか……。まぁ、医者の不養生とも言うからな。気をつける事だな」
「あぁ、わかってる」
「それで、早速なんだがいいか?」

 佐伯は壁際のソファへと腰を下ろし、テーブルに患者のカルテをバサリと置いた。閉じていないファイルから中の資料が顔を出す。椎堂も向かいに腰を下ろし、そのカルテに手を伸ばし中身を確認する。
 その中には今さっき診察してきた澪のカルテがレントゲンや検査の画像と一緒に入っており、もう一つのファイルには過去に澪と同じステージで拡大手術を行った症例の資料が纏められていた。

――何故佐伯が彼の事を……。

 動揺を隠し、椎堂は冷静を装って続きのカルテを見る。澪のカルテに記載されている事は、当然だがどれも見慣れた物ばかりだ。そして、同症例の患者の過去資料の約半数に記載されている文字に目がとまる。死亡時刻と『永眠』という文字。理由は様々であり、手術をせずに化学療法のみで延命したが結果的に死亡した例、手術には成功したが、残留した腫瘍によって死亡した例、術後すぐの再発で死亡した例等、容赦のない現実がそこには存在し、生存率の低さを物語る。その文字は椎堂のカルテを持つ指先を冷たくしていった。

「その患者、お前の担当なんだろう?」
 佐伯の言葉で現実に引き戻され、椎堂は一度ファイルをテーブルへと戻し口を開く。
「……あぁ。……そうだけど……、何かあるのか?」
「何故オペに踏み切らないんだ。可能性は0じゃないはずだが?」
「それは……」
 佐伯に射られるように見つめられ、椎堂は思わず語尾を呑み込み。その後言い訳を口にする。
「上がきめた事で……オペが難しいという結論に達しているから……」

 佐伯は椎堂の言葉に一度溜息をつき、無言で立ち上がると側にあるシャウカステンのスイッチを入れ中に入っているフィルムを順番に挟み込んだ。眩しいくらいの光度を持つディスプレイが青白い光を放つ。椎堂は握りしめている手が震えるのを何とか押さえようとしていた。
 ディスプレイの前に立ち、その隣にあるホワイトボードにマジックで図を描きながら佐伯は淡々と説明を始める。

「噴門部のここの部分はまだ4cmといった所だが、場所が悪い。手術をするなら全切除になるだろう。それも今すぐオペをした場合だ。化学療法が仮に効果が出るとしても、その前に間違いなく漿膜に達する可能性が高い」

 椎堂が見上げるホワイトボードに、佐伯は今後広がるであろう周辺の臓器に大きく×印を描く。

「今はリンパ節一カ所でとどまっているが、このままだと確実に他の臓器と離れた場所のリンパ節にも転移して手に負えなくなる」
「………………」
「なるべく早い内にオペをした方が生存率は高い。化学療法はその後だ。違うか?」

 そう言って手に持つマジックをホワイトボードに置いた。
 佐伯の言っている事は間違っていなかった。化学療法での腫瘍の縮小にも限界がある。しかも、効果が出るかどうかは個々の体質によって違うので、最悪の場合全く意味がない可能性もある。澪は若いため今はまだ体力があるが、この先体力はみるみるうちに落ちていき、もうその頃には長時間の手術に耐えられるかどうかさえ怪しくなるのは目に見えていた。

「しかし……」

 椎堂は指を何度も組み替え、目を閉じて考え込む。頭の中に先程見た『永眠』の文字が繰り返し浮かんでは消えていく。

「オペは俺が執刀する。俺からも上にかけやってやる。お前がオペに踏み切ると提案すればまだ間に合うだろう?」

 確かにそうなのかもしれない。外科医長と話した時、手術に消極的な態度を椎堂が提示した事もあって結論は手術をしない化学療法での治療を行う事になったのだ。理由は拡大手術をしても、全部のがん細胞を取り切れない可能性がある事、そしてその手術の成功率の低さである。付け加えて成功率の低い手術は誰も執刀したがらないのだ。それは互いに口にはしなかったが、暗黙の了解である。
 しかし、今こうして佐伯は自分が執刀してもいいとまで言っている……。少し前の椎堂なら迷わずこの案を受け入れたはずだ。

――佐伯が執刀してくれれば……――そう考えた事も一度や二度ではなかったのだから……。椎堂はひとつ息を吐くと顔を上げる。

「佐伯……オペの成功率は何%なんだ……」
「……よくて40%って所か」

 佐伯の腕を持ってしても、たったの40%……。他の外科医ならさらにその数字は低く叩き出されるのだろう。それに仮に手術が成功しても全部のがん細胞をとりきれなかった場合、澪の5年生存率は限りなく低い。
 どこの扉を開いても、見える未来は真っ暗で、椎堂はもう扉にかけた手を動かせないでいた。佐伯が目の前に用意した扉でさえ、開くのが怖くてその先の景色を見る勇気がない。

「40%……。だったら……、僕は今のまま化学療法を続けて、苦痛がなく余生を過ごした方がいいと思ってるんだよ……」
「しかし、40%の確率で完全に治癒する事が出来るかもしれないんだぞ」

佐伯が真っ直ぐに椎堂と目線を交える。その視線の迷いのなさは、以前椎堂が憧れ続け、でも今でも結局手に入れる事が出来ていない物だった。

「…………だったら……」
「ん?」
「残りの60%になった場合は……、どうしたらいい?ただでさえ短い最期をより早めてしまう可能性もあるじゃないか。彼はまだ25年しか……生きてないのに……」

 思わず声を詰まらせる椎堂に佐伯は黙って首を振ると、向かいに再び腰を降ろした。確かにオペは成功率が高いとは言えない。しかし、今までの椎堂なら、患者側の意向で手術はしないと言わない限り最初から諦めるような事はなかった。その少ない確率でも完治する方法を優先してきたはずだった。
 痛々しいほどに参っている様子の椎堂に、佐伯はゆっくりと問う。

「椎堂……、ひとつ聞いてもいいか?」
「……あぁ、何?」
「これが、別の患者でも、お前は同じ選択をするのか?」
「……、……」
「答えがYESなら、俺はこれ以上はもう何も言わない」
「……何が言いたいんだ。僕がこの患者を特別な目で見ているとでも?」
「その通りだ」
「そんな事はない!ただ、……ただ僕は、ベストな治療法を探して選択しただけで……」

――ベストな方法……。澪にとってじゃない、自分にとってだ……。

 佐伯に突きつけられた言葉が鋭く椎堂に突き刺さる。手術が失敗して、澪が消えてしまうのが堪らなく怖い自分のエゴなのだ。僅かな可能性にかけて化学療法で治療を行う方針を選んだのも全て……。そんな事、自分で嫌という程わかっている。
 追い打ちをかけるように佐伯は言葉を続けた。

「じゃぁ聞くが、何故さっきから手が震えているんだ?お前は、昔から何か不安があるとよく手が震える癖があった。今のそれはどうしてそうなっているか、俺が納得出来るように説明してみせろ」
「……それは」

 押さえていたはずの微かな震えさえ佐伯に見透かされ、椎堂は咄嗟に手を隠す。口では佐伯には叶った試しがない。だからといって、今ここで抱えている不安を全て佐伯に吐露する勇気もなかった。いち患者として以上の感情を自分が持っているという事を……。

「どうした、図星か?」
 佐伯が少し呆れたように言い、テーブルの上のカルテを書類袋へと戻す。椎堂は力なく首を振り、その後佐伯を静かに見上げた。

「……佐伯は、何かを失う事が怖いと感じる事はないのか……?」
「勿論あるさ。だが、恐れていては手に入れられない物もあるからな」

 酷く簡単に言ってのける佐伯の言葉は、昔と何も変わっていなかった。人の命を扱う現場で、選択するという『怖さ』。それが全くない医者など多分いない。佐伯にはその『怖さ』がないわけではない。その『怖さ』から逃避せずに向かい合える強さがあるだけなのだ。

「少し……、考える時間をくれないかな……。今すぐには答えを出せそうもない……」
「あぁ、わかってる」
 佐伯は用件が済むとソファから腰を上げた。
「話はそれだけだ。じゃぁ、俺はもう行く」
「……うん。わざわざ有難う……」

 医局のドアに向かう佐伯を、椎堂はまともに見る事が出来なかった。背中を向けたまま座り込む椎堂の背後で、佐伯の足音が一度止まる。ゆっくりと振り向くと、佐伯はこちらに背を向けたまま医局のドアノブへ手をかけ、椎堂に告げた。

「……椎堂、俺だってこの患者を救いたいと思ってる。ただ、俺はその先にある物を見たいだけだ……」

 一言そう言い残してドアが音を発てて閉まった。
 椎堂はソファの背もたれへと体を沈め長く息を吐くと目を閉じる。今佐伯が言った事を頭の中で反芻していた。
 佐伯がこんなにこだわって話をしにくるのは、その患者を救いたいからである。選ぶ手段が違っても、自分と同じ願いを心に秘めているのだ。それは椎堂もわかっていた。それに比べて臆病で、壁を壊せない自分を恨めしく思って、椎堂はやりきれない気分で今日何度目かの疲れ切った溜息をついた。  
 
 
 
   *   *   *
 
 
 
 
 佐伯は外科の医局へ戻りながら、先程の椎堂の様子を思い出し表情を曇らせていた。
 薬を飲まざるを得ない程椎堂を追いつめているのは、この件だと考えて間違いないようである。理由など聞かなくてもだいたいの察しはつく。
 あの患者を救う事は、すなわち椎堂も助ける事にも繋がるわけだ。ここ毎日繰り返している手術のシミュレーションを無意識に脳裏で浮かばせながら、計画を立ててみる。あまり悠長にしている暇はないのだから。

 椎堂のあの様子だとまた何日か悩み、すぐには結論を出せるとは到底思えない。そして椎堂が答えを出した時、やっと時間が動き出すのだ。
――椎堂は必ず手術を行う選択肢を選んでくる。
 佐伯はそう信じていた。
 
 
 
 
 医局へ戻る前に腕時計を見て、晶の事をフと考える。夜は店へ出ていて繋がらないのでかける事はないが、昼の今ならまだ店へも出ていないだろう。何となく外の空気が吸いたくて、佐伯は一階へと向かい、そのまま病院を出る。
 赤色灯が消えている救急搬送の入り口の横を抜けて、ほとんど人が来ない裏庭へと足を運ぶ。その場所には案の定誰の姿もなかった。病棟の高い建物の影になっている裏庭はどこか薄暗く、病院内の死と影を彷彿とさせる。湿気の多い場所の壁にはうっすらと苔が生えており、見ているだけで憂鬱な気分になった。

 佐伯はポケットから携帯を取り出すと電源を入れ、履歴から晶の番号を探し出して電話をかける。
別に用事は特にない。ただ、明るい晶の声を聞けば、いくらか気が晴れるだろうと思ったのだ。
 一度、二度、三度、呼び出し音が鳴っても晶は電話に出なかった。

――あいつ……、まだ寝ているのか?

 佐伯は五度目のコール音の途中で通話を切ると、携帯の電源を落として再びそれを仕舞った。戻ろうと歩き出した所で、目の前に真っ白なボタンが落下する。白衣の袖のボタンである。
 昨日の朝、とれかかっている事には気付いていたが、その事をすっかり失念していた。どうやら完全に糸が切れてしまったらしい。佐伯は屈んでそれを拾い上げると、まるで人間のようだなと思う。生命の糸がこうして切れれば、人間だってこのボタンと同じ末路を辿る。

 どの糸を使用するか、どんな手法で糸を繋ぐか、再び糸を繋ぐまでが医療の役目であり、自分が出来る唯一の事なのだ。
 佐伯はボタンをポケットへいれ、歩き出す。
 澪の事が晶の口から出される事を、まだこの時、佐伯は知らなかった。