俺の男に手を出すな 3-6


 

 その次の日の当直の夜、椎堂はぼんやりと机に向かって頬杖をついていた。
さきほど自販機で買ってきたペットボトルのお茶を口に運んでそっとキャップを閉じる。時刻はまだ深夜3時、夜が明けるにはまだまだ時間が残っている。卓上カレンダーを引き寄せて、椎堂はその過去のページをめくって、ほんの少し前の出来事を思い出していた。澪が入院してきた日の事を……。

 ただ一本の斜線が引いてあるだけのカレンダーの印は、自分しかわからないように椎堂がつけたものだ。まだあの日からそんなに日にちは経っていない。
 
 
 
 
 
 系列の医院から紹介されて澪がこの病院へ来た日は、今日と同じくよく晴れた日だった。
いつも通り回診を終え医局へ戻った椎堂は、カルテを片付けた後その日入院してくる患者の表を手に取り「今日は少ないな」と思いながら眺めていた。特別何も変わらない一日の始まりだった。

 その日は朝一で一人、担当していた患者が退院する予定で、11時を過ぎた頃、看護師から連絡が入り準備が出来たとの知らせを受けて見送りの為に医局を出た。担当している患者が元気な姿で退院していくのを見送るのは椎堂の楽しみのひとつでもあり、エントランスへ向かう足取りもいつになく軽くなる。

 エレベーターを降りてエントランスに向かう途中、看護師達とすれ違った際に椎堂の耳にその会話が届いた。

「ねぇ、見た?今エントランスに入ってきた男の人達、すごいかっこよかったよね!」
「うん!見た。もしかして何かの撮影かな?私、若い方の人、雑誌か何かで見た事あるきがするのよね~」
「え?そうなの?俳優さん?」
「んー……どうだったかな。モデルさんだったかも?」

 所々聞き取れなかった物の、看護師達のはしゃぐ声のトーンで何となく察しはつく。敬愛会総合病院は場所柄なのか、ドラマや映画のロケが行われることもある。診療の邪魔にならない朝早くか、もしくは夕方から等。なので芸能人がいてもそうおかしくはないのだ。以前一度若い世代に人気のある俳優がドラマの撮影で一日来訪した際の騒ぎを思い出し、椎堂はやれやれという気分になりながら歩いていた。

 エントランスが視界に入ると、椎堂の姿を見つけた患者が会釈をするのが見え、椎堂も軽く会釈を返す。少し早足で向かうと、退院する患者の家族も揃っており、二人に再び頭を下げられた。

「椎堂先生、長い間父がお世話になりました」
「いえ、毎日のお見舞いも大変だったでしょう。お疲れ様でした」

退院する患者は50代の男性で、入院していた時も毎日見舞いに来ていた娘さんが付き添っている。

「良かったですね、本間さん。どうですか?お体の調子は」
「お陰様で、もうすっかり前に戻ったみたいですよ。先生達のおかげです」
「それは何よりです。あ、でもお酒はまだ暫く控えて下さいね?退院祝いはノンアルコールでお願いします」

 そう言って椎堂が笑うと、「参ったな」と男性が口にし隣にいる娘さんに早速お小言を貰っている。この瞬間は、自分が医者で良かったなと思う。完治して病院を出ていく姿は嬉しそうで、自分の足で歩ける事でさえ幸せに感じているように見えた。
 迎えに呼んだタクシーへと乗り込みその姿が見えなくなるまで見送った後、椎堂は再び医局へと戻った。こうして退院していく患者がいる一方、その逆もある。治療の甲斐なく無言の帰宅をする場合だ。葬儀屋が引き取りに来ることもあれば、一度自宅へ引き取る場合もあるが、その場合の見送りは何度経験しても慣れることはなかった。

 頭を下げている間中、その患者が生きていた頃の笑顔や声が思い出されやりきれない気分になる。それでも医者に成り立ての頃に比べれば、やはりどこか割り切れるようにはなっていると思っていた。いつまでも感傷に浸っているのは医師としてあってはならないし、そんな事では積み重なっていく記憶にいつか潰されてしまう。


 医局へ戻ると再び内線で呼ばれ、今日付で入院してくる患者が部屋へついたとの連絡だった。患者は25歳で、ステージⅢの胃癌だった。カルテを見る限り、手術も難しそうであり、今後の治療方針の選択肢は限られている。――まだ若いのに……――椎堂は、軽く溜息をついて、病室へと向かう。
 5階へ到着し、目的の病室に足を踏み入れると一番奥の窓際のベッドに新しい患者とその付き添いの男性が立っていた。

「他に買い忘れている物はないだろうな……。着替えと歯ブラシはしまったし……タオルは棚にいれたしな」
「平気だって。売店とかもあるから買えばいいから。それにそんなに長く居ないし」
「…………。まぁ、そうだが。何か必要な物があったら、ちゃんとメールするんだぞ?夕方に来る時に用意してくるからな」
「はいはい。ていうか、夕方また来るのかよ」
「そのつもりだが」
「言っとくけど毎日見舞いとかくんなよ?」
「どうしてだ。毎日来るに決まってるだろう」
「本気かよ、大した病気じゃないんだし心配しすぎ」

 椎堂は一番奥のベッドに腰掛ける患者をみて立ち尽くしていた。先程看護師達がしていた会話が瞬時に思い浮かび、騒ぐのも仕方がないなと納得せざるを得ない。付き添いの男性は会話からすると兄弟のようだが、長身で穏やかそうな紳士で、それと同時に目を引く色男である。そして患者である弟の方も兄に負けず劣らず色男で、噂通り今まで見てきたどの芸能人より格好よく華があった。とても病人とは思えないその姿に、椎堂の中で時が止まる。

 一目惚れなんて一生自分には縁のない物だと思っていたのに、澪の姿から目を離せない自分が確かに存在した。
そして、同時に胸が締め付けられるように痛んだ。元気そうに見える彼の体の中には……。

 立ち止まっている椎堂に気付き、付き添いの男性が挨拶をしてくる。椎堂は咄嗟に、頭の中に渦巻く様々な感情を停止させ笑みを浮かべた。

「あ、すみません。挨拶をしに来たのに、ぼーっとしちゃって……。あの……今日から主治医をさせて頂く椎堂です。どうぞ宜しくお願いします」
「こちらこそ、弟が世話になりますが、どうぞ宜しくお願いします」

 深々と頭を下げた後、隣にいる弟にも挨拶をするように促す。
「……宜しくお願いします」

 言われたから仕方なくと言った感じで軽く頭を下げるのを見て、椎堂は思わず苦笑した。「ご兄弟、仲がいいんですね」と言った椎堂に澪は少し恥ずかしそうに小さく笑った。吸い込まれそうな澪の瞳が幾分細められる。一瞥すると冷たい印象のする澪の優しい笑顔。――眩しいと思った。

 そして、それが椎堂が見た澪の最後の笑顔だった。あの日以来、澪が笑顔を見せることは一度もない。
 
 
 
 
 
 椎堂はカレンダーを現在の日付まで戻し、あの日の澪の姿を思い浮かべる。そして、いつかまたあの笑顔を見ることが出来るのだろうかと考えていた。
 時計の針が深夜3時半を回った所で徐々に疲労が襲ってくる。安定剤や栄養剤で誤魔化しながら過ごしているが、こんな日が続けばさすがにまずいと思っていた。しかも、先日無断欠勤した際の穴埋めで今日と明日連続で当直なのである。自業自得なので、そこは仕方がない。先程仮眠室で少し眠ろうかと試みてみた物の、ただでさえ寝具が変わっただけで寝付けない性質なのに眠れるはずもなく、数度目を閉じては結局意味がないと思い、こうして起きているはめになっている。
 少しでも疲れを取ろうと机に伏せた所で呼び出しのコールが鳴り響き、椎堂は飛び起きた。

「はい、椎堂です。何かありました?」
 外していた眼鏡をかけて、椎堂は呼びかけに答える。
「椎堂先生、316号室の室伏さんが腰の痛みを訴えているのですが」
「室伏さんが?……わかった。すぐに行くよ」

 通話を切ってすぐに椎堂は椅子にかけていた白衣を羽織り医局を出た。非常灯の明かりのみの暗い廊下を自分の足音が追いかけてくる。316号室に到着すると何人かの看護師が背中をさすったり対処をしていた。

「あ、椎堂先生」
 看護師達が脇によけると椎堂はカーテンをしめてベッドの横へと腰掛ける。
「どうしました?どこらへんが痛いですか?」
 身体に負担にならないようにベッドを少し起こすと患者の示す場所を触診する。
「さっきから急にさし込むように痛くて……」
「それは辛かったですね……。ここはどうですか?」

 椎堂が強く押し込む指先に患者が痛みに顔を顰める。原因がわかったので、椎堂は振り向くと手近に居る看護師に指示を出して再び患者に向き直った。

「大丈夫ですよ。点滴に痛み止めをいれるので、少ししたら効いてきて痛みも和らぐと思います」
「先生、すみませんねぇ。こんな夜中に」
「室伏さんが一番辛いんですから、そんな事気にしなくていいんですよ」

 椎堂はそう言って微笑み、ベッドを元に戻し患者の腰と背中をゆっくりとマッサージする。そうすると少し痛みが軽減されるのか患者の苦痛の表情が徐々に消えていく。看護師が用意してきた点滴を追加すると椎堂は再び手を動かした。

「薬が効いてくるまで、僕が少しこうしていますから、ゆっくり力を抜いて楽にしてて下さい」
「ありがとう、先生」
「いえ……早く痛みが引くといいですね」

 目を閉じる患者の側で椎堂は点滴が刺されている患者の腕に視線を落とし、早く痛みが引くように願いを込める。医者の中には薬剤の指示を出して終わりという者もいるが、椎堂は時間が許す限りこうして自ら患者と向き合うようにしていた。
 そうする事で少しでも患者が安心出来るのなら、それは何物にもかえられない物だと思っているからである。室伏という患者はかなりの高齢で椎堂の事を孫のようだと言ってくれる。自分の祖母は、早くに亡くなっていたので、もし生きていたらこんな感じなのだろうかと思うことも度々あった。暫くそうしていると患者の身体からゆっくり強ばりが解けていくのが伝わってくる。

「もう、痛くなくなってきましたよ。先生のおかげね……」
「そうですか?じゃぁ、ゆっくり眠れそうですね」
「先生」
「はい、何でしょう?」
「私はね、先生みたいなお医者様に主治医になって頂けて本当に幸せ者ですよ」
「そんな……。買いかぶりすぎです……」
「そうかしらね」

 優しく微笑む患者に、椎堂も笑みを浮かべ、かけていた布団を引きあげるとそっと摩っていた手を外す。

「それじゃあ、お大事に……。また何かあったら呼んでください」
「ありがとう、おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」

 椎堂は周りの患者を起こさないように静かに立ち上がると、カーテンをあけて病室を後にする。折角こうして出てきたので、そのまま五階までいきナースステーションに入る。一昨日手術をした患者の様子を聞くためである。
 患者の様態を看護師に聞きカルテをチェックすると特に問題はないようであった。医局へ戻ろうとナースステーションから出たその時、奥にいた夜勤の看護師が困ったように椎堂に声をかけてきた。

「椎堂先生、あの……」
「ん?」
 何かあったのかと椎堂も足を止め振り向く。
「503号室の玖珂さんの事なんですけど」
「……彼がどうかしたのかい?」
「今日の夕方から微熱があって、吐き気が酷いみたいなのですが……」
「そう……。抗ガン剤の種類を今日から変えたから初日は仕方が無いけど……。うん、わかった。ちょっと様子を見て来るよ」
「お願いします。玖珂さん、中々ナースコールとかしてくれないので……」

 初回の化学療法で抗ガン剤により腫瘍の縮小が認められるのは約半分と言われている。しかも、患者それぞれに効用のあるものは違いこればかりは試してみない事にはわからないのだ。澪の場合、がんの進行を抑える為に行っていた初回の化学療法は効果が認められなかった。なので今日の昼から抗ガン剤の種類を変えたのだ。副作用があるのは承知の上での投与ではあるが、澪に関してはまだ正式に癌を告知していないため余計に不安を煽る結果になっているのは想像に容易い。精神的な要素も副作用の症状に結びつく事は少なくないからである。


 椎堂が澪のいる病室へ足を運んで様子を窺うと、窓際の一番奥の澪のいるベッドはうっすらと明かりが付いていた。静かに病室へと足へ踏み入れると、苦しそうな呼吸音が僅かに椎堂の耳に届く。

「玖珂くん?起きてるかな?」
 小さな声で尋ねると、カーテン越しに澪が動いた気配がする。
「カーテンあけるよ?」

 小さく声を掛けながら薄いカーテンを開くと、ベッドに腰掛けて俯く澪がいた。再びカーテンをそっと閉め、隣に腰掛けると澪の忙しなく吐き出される浅い呼吸音が今度ははっきりと耳に届く。先程看護師からうけた報告の現状が今椎堂の目の前で起きていた。治まらない吐き気に苦しんでいる澪の額には汗が浮かび、柔らかな前髪がじっとりと張り付いている。

「……何、……こんな、時間に」

 椎堂を敵対視するような視線を向けて、澪が顔を上げる。ゆっくり立ち上がって、椎堂は澪の背中にそっと手を当てる。

「吐き気止めも混ぜてあるんだけど、気持ち悪いのまだ治まらないみたいだね……。さっき看護師さんから玖珂くんの様子を聞いてね……。心配で来てみたんだ」

 澪の汗ばんだ背中にあてた手から体温が伝わってくる。報告通りか、今は少し上がったのか、やはり平熱よりだいぶ熱い。
「辛かったらナースコールしてくれていいのに……」
「別に……、ナースコールしたからって、何も変わらないだろ。吐き気が止まるって……わけでも、ない」
「それはそうだけど……。あんまり頑張り屋さんだと僕は心配だな……」
「あんた……馬鹿にしてんのかよ……。それより……、この点滴、毒でも入ってるんじゃないの?これに変わってから、すげぇ体調悪いんだけど……、……」

 そう言って澪は忌々しそうに点滴から落ちてくる抗がん剤を睨み、唇を噛んだ。胃潰瘍の治療薬だと言ってあるが、もう本人は気付いているのかもしれない。明後日家族と話し合う事になっており、その時に本人に告知をする事を決める予定なのだ。それまでは自分の口から余計な事を言うわけにはいかない。澪の言うとおり、抗がん剤は毒で毒を殺すようなもので、身体が自身を守ろうとして抵抗するのは防ぎようがない。

 椎堂がずっと背中を摩っている手を退けるようにして背中を向けると、澪は吐き気に体を強張らせる。点滴を刺していない方の腕でガーグルベースをつかみ、幾度か空嘔吐きを繰り返す。吐く物がないため苦しそうに咳き込む澪に椎堂はかける言葉を見つけられないでいた。だまって容器を支えるように腕を伸ばすと、その腕が力なく払いのけられる。

「……いつまでここ、にいるんだよ。吐いてる所見られるの、……嫌、なんだけど」

 誰だって自分が吐いている姿をみられているのは気分が良くないだろう。しかし、椎堂はその言葉を無視して背中に当てる手を動かし続けた。もう椎堂の手を退ける気力もなく、絞り出すように吐き出す胃液さえも、もう少量しか出てこない様子で空嘔吐きが続く。澪の目尻に嘔吐による涙が浮かぶのを見て、椎堂から思わず声が漏れた。

「…………ごめんね」

 医者として言うべき台詞ではないのはわかっている。だけど……。

 澪はもう何も言葉を返してこなかった。乱れた呼吸の中、時々苦しげに息が止まる。暫く辛抱強く摩っていると、ぐったりとした澪の身体から力が抜けて椎堂の方へ大きくぐらりと揺れた。

「玖珂くん?」

 慌てて身体を支え、澪の手からガーグルベースを取り上げて脇へとのける。体力が限界になったのか、吐き疲れたまま意識を失うように澪は眠っていた。椎堂に寄りかかるように身体を預ける澪の重みに椎堂は震える手をそっと添える。僅かな時間でも苦痛から解放された澪を起こさぬように、静かにベッドへと寝かせ汗を側に置いてあったタオルで拭ってやる。吐瀉物を処理して新しい容器へと変えて隣に置いておいた。澪の寝顔を見ていると、出会った日の澪の姿が脳裏に浮かぶ。

 椎堂は深く息を吐き、「おやすみ」と心の中で呟く。
 カーテンをあけると、うっすらと明るくなった空が目に入った。