俺の男に手を出すな 3-7


 

 医局へと戻り、自分の机の椅子へと力なく腰を下ろした椎堂は外から差し込む薄い朝日を背中に浴びたまま独り言のように呟いた。吸い込まれていく空間からは何の返事も返ってこない。

「もう……無理なのか……」

 頭から一時も離れない澪の苦痛に歪む表情、たったひとつの笑顔の記憶を塗り替えるように、その表情が次々と重なっては唯一の記憶を消し去ろうとしてくる。

 椎堂は自らの掌をみて、先程澪から伝わった温もりを思い出してその掌をぎゅっと握りしめた。どんなに力を入れても、嘲笑うようにその温もりが全てこぼれ落ちていくように感じて必死で拳を握り続ける。力を入れた指先の爪が白くなり、爪が食い込む掌に爪痕がくっきりと残る。

――…………なくならないで……。

 声に出したつもりはないのに、その言葉が小さく自身の耳に届きハッとする。椎堂の視界に涙のベールが薄くかかり、滲みだす。それが溢れる前に堪え、ぼやける視界を誤魔化すように、椎堂は眼鏡を外した。白衣の袖で目を覆い、深く息を吸って落ち着かせるために深呼吸をする。目を閉じて視界を遮断すると、ズキリと頭が痛んだ。

 もう効かない睡眠薬を卓上から手探りで取り出し、口に含む。舌下錠の苦みが口に広がり少しずつ溶け出していく。ただの気休めであったし、服用していても何かあればすぐに起きることは出来る。だけど、1時間だけでもいいから眠りたかった。眠っている間だけ忘れてしまいたかった。
 白衣を着たまま机に伏せる椎堂が漸く浅い眠りに入った頃、時計の針は朝の6時を足早に通り過ぎた。
 
 
 
 
    *     *     *
 
 
 
 
 午前中はあんなに天気の良かった外はいつしか小雨が降り出しており、椎堂は置き傘がロッカーにあったかどうか考えていた。連日の夜勤ではあるが、今朝の夜勤明けからは一応休みだったので一度帰宅したのだ。

 シャワーを浴びている間に溜まった洗濯を仕掛け、レトルトで買ってあった賞味期限の近い卵粥を湯煎する。食欲がない時のために買ってあるそれを無理矢理胃に流し込む。味も何も感じない。半分ほど食べたところで、椎堂はスプーンをテーブルへ置いた。
 まだ残っているが、もう喉を通らなかった。――これじゃ、まるで病人だな……――自分の弱さに辟易しつつ、流しのダストボックスへと残った粥を捨てる。最近自宅で自炊をすることがほとんどないので、シンクは乾ききっていた。必要最低限の家事だけを済ませるともう夜勤に向かう時刻になっており、椎堂は着替えて家を出た。
 その時にはまだ雨は降り出しておらず傘を持って出なかったのだ。

 医局の窓から、降り続く雨を眺め――まぁ、帰るときに降っていたら走って帰れば良いか……、と思い直す。
 椎堂の住むマンションは勤務先のこの病院からは5分もかからない場所にある。通勤が面倒なのと、丁度病院の側のマンションが入居者を募集していたのもあってそこへ入居したのだ。築年数は結構古そうであったが、どうせ寝に帰るだけなのでさほど気にするほどでもなかった。
 
 
 
 
 まだ交代の時間ではなかったが、澪の様子が気になり椎堂は5階のナースステーションへ足を向けて廊下を歩いていた。院内の窓は全部閉まっており空調も効いているはずなのに、やはり外の湿気が入ってくるのか少し空気が重い。
 階段を降りて、5階へ通じる扉を開くとすぐ隣に公衆電話が二台並んでいる。その向かいが談話室である。つけっぱなしになっているテレビの前に数人の患者がいるのが視界へ入る。そろそろ夕食の時間なのでそれまで寛いでいるのだろう。

 そこを通り過ぎようとして椎堂は足をゆっくりと止めた。病室のある廊下へと曲がる角にワゴン等が置かれている場所があるのだが、その奥に澪の姿が見えたのだ。大きなガラス窓に向かって外を見ている様子である。
 立って動けるくらいには吐き気も治まったようで、椎堂はほっと胸をなで下ろしつつ澪に歩み寄った。

「玖珂くん」

 驚かさないよう小さく声をかけた椎堂に、澪は一度ちらっと椎堂を振り返ったがまた黙って窓の外へ目を向けた。

「何か、そこから見える?」
「……別に」

 椎堂は隣に並ぶと澪が見ている景色を一緒に眺めた。こうして立って隣に並ぶと澪と自分の身長差が顕著になる。
窓の外の景色は特にかわったような所もなく、時々傘を差した人が通り過ぎるだけである。
 澪は隣に居る椎堂を見る事もなく、溜息をつくと呆れたように口を開いた。

「何だよ……何か用事?」
「いや……別に用事じゃないんだけど、一緒に見たらだめかな?」
「……勝手にすれば」

 澪はそっけなくそう言うと、邪魔そうに点滴を引っぱって後ろを向く。病室とは逆方向に歩き出そうとする澪に、椎堂は思わず引き留める言葉をかけた。

「病室には戻らないのかい?もうすぐ夕飯の時間だよ?」
 小さく舌打ちする音が聞こえ、振り返らないまま澪が呟く。
「食えるわけないだろ……。水飲んだだけで吐いちまうのに……」
「……そうか……。で、でもね。今は薬を変えたからちょっとそうなってるだけで、もしほんの少しでも食べられそうな物があったら食べて、体力をつけておいたほうが、」

 そういう椎堂の言葉を遮るようにようにして苛立った澪の言葉が被せられる。

「うるせぇな……いいから、ほっといてくれよ」

 乱暴に言い放つと澪はそのまま立ち去ろうとした。その時、澪を窘めるような声が背後から届く。病室へ向かう途中で見つけたのだろう、澪の目の前には丁度面会にきた玖珂が立っていた。

「先生にそんな言い方するやつがあるか。ちゃんと謝るんだ、澪」
「……兄貴」
 澪に謝るように促す玖珂に椎堂は慌ててそれを制した。
「いいんです。そんな、気にしないで下さい」
「いや、しかし」
「玖珂くん、良かったね。お兄さんがみえて」
「…………」

 椎堂がにっこり微笑んでそう言っても澪は何も返さない所か視線すら向けなかった。澪にとって、自分は何の価値もないと言われているようで胸が痛くなる。こんな場所で出会わなければ……、医者と患者という立場じゃなければ……、普通の会話ぐらいは交わせたかもしれないのに……。

「それじゃぁ、僕はこれで、失礼します」
「あぁ、本当にすみません。先生、これからも弟のこと宜しくお願いします」

 丁寧に頭をさげる玖珂に椎堂も礼を返すとそのままその場を後にした。
 玖珂に窘められて澪はバツが悪そうに下を向いて歩き出す。後ろから玖珂がコートを脱ぎながら続き、二人は病室へと向かった。
 
 
 
 
 病室ではすでに他の患者が食事を始めていた。昨夜は酷い吐き気でどうなるかと思ったが、今朝目を覚ますと吐き気は夜よりはマシになっていた。深夜に椎堂が来て介抱してくれていたのを途中までは覚えているが、最後の方の記憶がない。目覚めると吐いた後の処理はいつのまにかされていて、新しい容器が枕元に置いてあったのだ。椎堂がいつまでここにいたのかさえわからなかった。

 しかし、昨夜よりはマシというだけで朝食も昼食も一切口に出来ていない。朝に薬だけはと思い、水で一気に飲み込んでみたが、数分後駆け込んだトイレでそれも全部戻してしまった。まだ溶けきってないカプセルや錠剤がそのまま出てきて、全く胃が受け付けていないのを思い知る。

 結果、点滴の種類が2種類増やされてしまった。今も他人が食事をしているのを見るのでさえ気分が悪くなってくるので病室から離れた場所へ逃げてきていたのだ。澪は周りを見ないようにして仕方なくベッドに戻ると腰を降ろした。隣が目に入らぬようにカーテンを引っ張って視界を塞ぐ。

 玖珂は細々した物を買ってきているようで、スーツの上着を脱いでベッドの足下へとかけると買い物袋からそれらを取り出し早速様々な場所へと仕舞い込みながら澪へと声をかけた。

「澪、どうなんだ?調子は」
「変わらないけど……それより今日は来ないはずだろ?打ち合わせはどうしたんだよ」
「少し打ち合わせの時間が遅くなったから時間が出来たんだ。折角だから、お前の顔を見に行こうと思ってな」
「忙しい時は来なくてもいいっていってんだろ」
「来たくて来てるんだ。俺にまで気を遣うな」

 片付け終えた玖珂がそういって笑うと、病室を見渡す。

「あ……夕飯の時間なのか?……。よし、俺が持ってきてやろう。ちょっと待ってろよ」
「待って、飯は……いらない」
「何、我が儘言ってるんだ。先生にもさっき言われてただろう?ちゃんと食べないと治るものも治らなくなるぞ」

 そう言い置くと玖珂は食事を受け取りにいってしまった。廊下の配膳カートには病室と対になっている番号があり澪のぶんだけが取り残されている。玖珂はそれを引き出すと病室に戻ってきた。一度トレイを椅子へと置き、澪のベッドの上にテーブルを取り付けてその上にトレイを並べた。澪は食事を目の前に顔を顰める。

「ほら、少しでもいいから何か食べられそうな物はないのか?」

 トレイに乗せられた食器の蓋を外すと匂いがあたりに漂った。澪の食事は今の体調に合わせて、のどごしの良い物や消化の良い食材のみで作られており、流動食のようなそれは見ためからして普通の人間でも食欲が失せるような献立だった。澪は食膳から思わず顔を背ける。玖珂がそんな澪の様子に心配そうに顔を覗き込んだ。

「……どうした?少しも食べられそうにないのか?」
「ごめん、マジで……吐きそうなんだ……」
「…………澪」

 澪は漂ってくる食事の匂いに胃液がこみ上げ、思わず口元を強く手で覆って下を向く。玖珂は慌てて背中を摩り、タオルを口元へ持って行って澪の手に重ねた。

「大丈夫か?我慢しないでここに吐いていいぞ、俺が片付けるから」

 玖珂はベッドへ腰掛けると自身の腕が汚れるかもしれないのを全く気にせず腕を差し出す。こみ上げる胃液が喉を焼くのを何とか堪えて澪が口を開く。

「平気……だから……」

 今ここで吐いたら、玖珂に心配をかけてしまう。澪は鼻を塞ぎ匂いを感じないようにして何とか吐き気の波をやり過ごす。玖珂は素早く全ての食器に再び蓋をして澪から遠ざける。澪に見えないように背を向けると一瞬辛そうに目を閉じた。

 ほんの少し前までは文句は言っていたが食事はきちんと食べれていたはずだった。薬の副作用とはいえ、玖珂には澪の症状がすすんでいるように見えてショックを受けていた。

 昨夜はどうしても外せない用事が重なって面会時間内に顔を出せなかったので、病院へと空いた時間に電話を入れ様子を聞いたのだ。その際、抗がん剤の副作用で発熱と嘔吐があるという事は聞いていた。だが言葉で聞くのと目の前でその現実を見るのとでは大きな違いがある。涙目で吐き気を堪えながら「平気だから」と嘘をつく澪を見ると、昨日5分でもいいから顔を見に来てやれば良かったと激しい後悔が押し寄せる。

「じゃ、もうこのトレイは廊下へ置いてくるな」
「……うん」

 何も手を付けていないままのトレイを持って玖珂は廊下へ出る。空になったトレイが収まっているのをみて、溜息をつきその中へ澪のトレイを戻す。澪が自分に遠慮をして体調を隠すのは、それだけ心配をかけたくないからである。せめてもっとこんな時ぐらいは甘えてくれたら……。それには、自分が落ち込んでいる素振りを見せるわけにはいかない。
 玖珂は廊下で気持ちを切り替えると、再び病室へと戻った。

「少しは落ち着いたか?ごめんな……。お前がそんな気分が悪い時に勝手な事をして」
「いや、別に。大丈夫だよ……。もう治まったし」
「……そうか。辛かったら横になってていいんだぞ?」
「平気だって。寝過ぎて腰がいてーんだよ。起きてる方が楽だから」
「……そうか?無理はするなよ」
「うん」

 玖珂はベッドの横の椅子に腰掛けると優しい笑みを浮かべ澪の顔を見る。

「なぁ、澪」
「なに?」
「何か食べられそうな物はないのか?お前、俺が作った卵のサンドウィッチ好きだっただろう?明日作ってきてやろうか。まぁ……、先生に食べていいか聞いてからだけどな」 
「え……いいって……。別に気にしなくて」
「少しでも口に出来る物があるなら食べた方がいい。好きな物ならもしかしたら食べられるかもしれないだろう、どうだ?」
「……じゃぁ……少しだけ……」

 玖珂はホッとしたように息を吐くと澪の手をそっと握った。澪は血管が細いらしく、注射針がうまく入らないと以前に看護師に聞いた事があった。その為、何度も点滴の針を差し替えているせいで所々、紫色になっている。手の甲にまでその跡があり、それを隠すように玖珂が両手で包む。

「澪……、早く元気になれよ」

 そう言った後で自分の言葉が胸に刺さった。元気になる事などもう多分二度とないのかもしれない。玖珂はわかっている事実を時々、夢なのではないかと思う事があった。自分と同じくらい大きくなった澪の手を重ねてフと昔を思い出す。
 
 
 
 
 
 母親が亡くなった後暫くして、澪が中学3年の頃。当時の澪は酷く荒れていた。地元のよくない噂のあるグループに出入りするようになり、学校もさぼり気味で家に明け方帰ってくる事もあった。補導されて警察から呼び出され、店を抜け出して澪を迎えに行ったのも一度や二度ではなかった。そんな澪に玖珂も何度か手をあげた事もある。

 大学を中退した自分は、まだ苦労をしらない仲間がコンパだ飲み会だと遊んでいる時期に自分は必死で澪を養っている事に若かった自分は不満を感じる事もあった。表には出さないように努めていたが、心の中では、何故自分だけがこんな辛い目に……何度かそう思っていたものだ。

 しかし、その考えは大人になった今振り返ると自分の事しか考えていなかったのだと思う。自分だけが大変で、自分だけが苦労していると思っていた。家族を失った悲しみは大人になっていた自分より、まだ子供であった澪の方が何倍も大きかったに違いない。精一杯虚勢をはって大人ぶっていた澪の内面の寂しさに、あの当時の自分は中々気付いてやる事が出来なかった。

 結局澪は一人でそれを乗り越え、高校に入る頃にはすっかり落ち着いて学校にもちゃんと通い普通の高校生活を送っていた。同じ年代の友人と出かける時に恥を掻かぬよう、小遣いを渡そうとしても、澪はそれを受け取らず。小遣いは自分で稼ぐからと放課後や休みは様々なバイトをしていたのを思い出す。

 そんな澪は高校を卒業しても進学はしないと言い、進路の話し合いをした際にホストになると言出したのだ。勿論考え直すように何度も説得したが澪はそれを聞き入れてくれなかった。最初は右も左もわからず、とにかく金が欲しくて飛び込んだホストの世界は澪が思っている以上に大変で、弟にそんな苦労はして欲しくなかった。

 しかし澪は、『兄貴に出来て俺に出来ないはずはない』と言い張り結局同じ道を選んでしまった。いつから興味があったのか前からホストをしてみたかったのだと言う。

 未成年のうちはボーイをし、成人して澪ははれてホストになった。辛い事もあっただろうが玖珂には一切それを見せず、泣き言一つ言わなかった。そして、ホストになってから初めて澪が給料を貰った日、深夜に帰宅した澪は玖珂へとプレゼントを買ってきたのだ。

「安物だけど、これやるよ」

 照れ隠しでぶっきらぼうにそれだけ言うとテーブルへと置いてさっさと部屋を出て行ってしまった澪の後ろ姿を今でも覚えている。中を開けてみると安物なんかではなく高級なブランド品のネクタイが箱に入っていた。多分澪の初月給のほとんどを使って買った物である事は想像がついた。そして、ネクタイの箱の入っていた袋の中に一枚のメモが入っていた。

 便箋でもなく、勿論封筒にも入っていない。どこかの電話帳の側から千切ってきたような紙切れである。

『今まで色々ありがとう。俺、もう一人で大丈夫だから。心配すんなよ』

 それを読んでやっとわかったのである。澪が大学に行きたいと言えば兄である玖珂はもちろん賛成する。しかし、それではまた負担をかける事になってしまう――澪がホストになった本当の理由。

 早く自立して玖珂を解放してやりたかったのだ。そんな不器用な弟の優しさが玖珂の胸に痛いほどに響いた。今でもそのネクタイを見ては懐かしく思い出すし、その時のメモもちゃんととってある。

 それから澪は家を出て別々に暮らすようになり、いつしか澪はNo1にまで昇り詰めた。最近では仕事の事も一緒に話せるようになり酒を酌み交わすこともあった。今でもだいぶ生意気で言う事を聞かないが、たった一人の家族でもある澪は玖珂にはかけがえのない大切な弟だった。
 
 
 
 
 
「なぁ、兄貴」
 澪に声をかけられ玖珂は考えていた過去の思い出をそっと隅に押し込めた。
「ん?どうした?」
「いっつも迷惑かけて……わりぃ……」
「…………何だ、急に。お前がそんなしおらしい事を言うなんて、雪でも降るぞ」
「だってよ……」

 玖珂は澪の頭に手を置くと笑った。多分それはうまく笑えていたか自信がなかったのだが……。

「そんな事気にしなくていいから、自分の身体の事だけ心配してろ。元気になったらいっぱい兄孝行させてやるからな。覚悟しておけよ?」
「……兄貴」

 澪が少しだけ微笑む。しかし玖珂にはそれは澪が泣いているように見えた。

「……そうだ、澪」
 玖珂は話題を変えるべく、この前晶に話した件を澪に話して聞かせた。
「え?どうゆうこと?それ」
「今の治療が終わったら、少し休みがあるだろう?その間うちの店に入ってくれないか?」
「俺が?」
「あぁ、先生もこの前その時に状態が安定していたら何日か外泊していいって言ってたしな。まぁ……、店に出るといってもサポート程度で1.2時間だけ店に出るだけになると思うが、少しは気分転換になるだろう?」
「いいけど……別に。でも、他の店にいた俺なんかが行ったら周りのやつらと気まずいんじゃないの?」
「それは心配ない。ほら、晶って知ってるだろう?」
「あぁ、兄貴が可愛がってる後輩だっけ?」
「そうだ。彼もOKしてくれている。今度一度見舞いにも来てくれるそうだ」
「そうなんだ」
「お前は態度がでかいから、気を付けろよ?晶はお前より先輩なんだからな」
「はいはい、わかってるよ」
「でも、まぁ……それには少し体力つけないとな。今のままじゃ店で倒れるぞ」
「馬鹿、倒れねぇよ」

 澪はまだいつときまったわけではないこの話しに嬉しそうな顔をした。これが最後のホストの仕事になる事は本人は知らないのだから……。
 玖珂は澪の嬉しそうな顔を見て目を細め、心の中で晶に感謝をしていた。こんな個人的な事を受け入れてくれたのは相手が晶だったからである。彼になら澪をまかせてもきっと巧くやってくれるだろう。

 玖珂は腕時計をちらりと見る。面会に来てから時間は結構経っておりそろそろ打ち合わせの為に店に向かわなければいけない時間になっていた。

「じゃぁ、そろそろ俺はいくけど。お前はゆっくりしてろ」
「暇だから、そこまで送ってやるよ」
「いいから、横になってろ」
「病人扱いすんなよな」
「……じゃぁ、そこまでな」
「あぁ」

 玖珂を見送るため澪はエレベーターの前まで一緒に歩く。回数を知らせるランプが5階につき、扉があくと玖珂だけが乗り込んだ。

「じゃぁ、明日サンドウィッチ作ってくるからな。楽しみにしてろよ」
「バカ、大きい声で言うなよ。恥ずかしいだろっ」

 澪が照れたようにふてくされたが玖珂は気にした様子もなく片手をあげるとエレベーターが静かにその姿を隠した。口にしては言えないけど、こんなに優しい兄がいて自分は幸せ者だと思っていた。この時だけは優しい気持ちになることが出来る。

 澪は一人で来た廊下を戻る途中、さっき椎堂と見た窓に足を運んだ。外はいくらか小降りになっていたが依然として雨が降り続いている。しとしととと降り続く雨をみているとまた気分が滅入ってくる。特にどうという事もない景色だ。少し先に見える信号が何度か点滅し赤から青へと変わる。そしてまた暫くすると青から赤へ……。その信号の光が濡れたアスファルトに長く伸びている。

 窓のすぐ側の大通りには、さっきと違い通勤帰りなのか、沢山の色とりどりの傘が行き交っていた。自分もあの傘の中の誰かだったんだ。ほんの少し前までは……。澪は常に横にある点滴スタンドをみて、目を伏せる。


 そして、ふと椎堂の事を思い出していた。椎堂はいつも優しく自分に話しかけてくる。いくら乱暴な物言いをしても怒った様子もなく、そう……いつも穏やかな笑みを浮かべ、自分を優しく見守る椎堂の視線が嫌なわけではなかった。

 澪自身もわかっているのだ。椎堂は医者で自分の病気は別に彼のせいではない事も。本当はもっと穏やかでいたいのにどうしても行き場のない苛立ちをぶつけてしまう。こんなに平気で人に八つ当たりをするほど余裕をなくした事なんかなかったのに……。澪はそんな今の自分が嫌いだった。