俺の男に手を出すな 3-8


 

 消灯時間が過ぎてすぐの時間帯は、まだ他のベッドでも小さなライトをつけて起きている様子がうかがえる。
 澪もまた寝付けないまま、手元のライトをつけると夕方に玖珂が買ってきた雑誌を布団の中に引っ張り込んで眺めていた。入院してから暫く経つが、長年昼と夜逆に近い生活を送ってきていたので、10時に消灯と言われてもとてもじゃないが眠る事など出来なかった。

 メンズファッション誌の中にある、いつもなら読まないコラムを読み、しまいには読者投稿の意見欄にまで目を通し時間を潰してはみるが、ちらっと時計を見ても大した時間が経過していない。
 澪は一人溜息をついて、雑誌を閉じると脇のテーブルへと重ねた。他の雑誌に換えようと腕を伸ばした瞬間、刺さっている点滴の針がおかしな角度になってチクリと腕が痛む。澪は面倒そうに手を逆に変えて伸ばし、積んである別の雑誌を手に取った。エリア情報誌の表紙には行列グルメ特集と、近日OPENする大型商業施設のプレオープン特集が載っている。グルメ特集の方は今は見る気分ではないので飛ばし、プレオープンする商業施設の特集ページを開く。

――……ぁ、……。

 よく知る顔を発見し、澪は少し目を細めた。施設を紹介するレポーター役で載っていた若手の女子アナ。彼女は澪の客だったのだ。元気そうなその姿に少し安心すると共に、ほんのこの前までの事が懐かしく感じる。

 そんな素振りも一切なく、突然店を辞めた形になってしまった為、一週間ぐらいは仕事用の携帯が鳴り止まないほどの騒ぎになってしまったのだ。体調を崩して退職したという事は言わないように店に頼んであったにも関わらず、この病院へ入院する前に検査等をしていた小規模な私立病院では、何処から情報を得たのか待ち伏せされていた事もあった。これはまずいと思い、入院する前に、客全員へ連絡を入れるはめになったのだ。

『暫く用事があって休むから会えないけど、またいつか店に出ることがあれば連絡する』たったこれだけの用件を伝えるのに相当な時間がかかってしまった。
 泣き出す客も少なくなくて、宥めるのが大変だったのを思い出す。紹介状を書いて貰いこの病院へ入院する際に、玖珂が様々な方面から手を回し、今は誰からの見舞いもお断りしている状態である。
 こんな姿は見られたくないので、正直ホッとしているというのが本音だった。

――もうみんな、俺の事なんか忘れたよな……。

 何人もの客の顔と、当時の店での自分を思い出す。何百件も登録されている客の番号、電話営業も毎日かかさずしていたし、店に出ている時以外でも暇な時間なんて少しもなかった……。『たまにはゆっくりしたい』そう思っていたはずなのに今こうしてそれに近い現実になったらなったで、ただ憂鬱な日々が待っているだけだった。

 伸びた前髪をひっぱり、もう髪型を気にする事もないのだとフと気付く。服を気にしたり、好きな香水を纏うこともない。鏡を見る回数も今ではもうほとんどなかった。パジャマ姿の自分は、ただの病人以外の何者でもない。

 やっとの思いで上り詰めたNo1の地位は砂上の城だったのだと改めて実感するばかりだ。悔しさと空虚さに今更気付いてみても、もうどうしようもないのだから……。ぽっかり空いた穴がどんどん広がり、いつしか自分の全てを飲み込んでしまうような気がして、澪は頭からその考えを追い払った。
 
 
 
 同部屋の残りの二人がいる方からは、だいぶ前からもう物音一つしない。起きているのは澪だけのようだ。
 澪は窓へ向く方のカーテンを細くあけてベッドから空を見上げた。中庭を挟んで向かいの病棟があるので空以外は何も見えない。灰色を濃くしたような空には月も出ておらず、視界にはただ切り取られた小さな空が広がるばかりだ。――夜の空ってこんな色だったか――そう思いながら時が過ぎるのを待つ。

 ここ二日、思い出したように時々咳が出る。これも薬の副作用なのか、それとも風邪でも引いてしまったのだろうか……。あまり物を食べられていないから抵抗力が弱っているのかもしれないと自分で考える。すぐに治まるので多分たいした事はないのだろうけど……。
 脇に置いてある時計に手を伸ばして見てみると、まだ1時半を回ったばかりだった。

 澪は天井に向かって溜息をつき、時々痛む背中を庇うようにして体勢を変えてみる。ベッドにいる時間が長いからなのか腰も背中にも鈍い痛みが常にあった。新たに増えた点滴の袋から、一滴づつゆっくり落ちてくる薬剤をぼんやりと数えてみる。

――3……12……40……56………。

 途中でいくつまで数えたかわからなくなってくる。少しも減っている様子のない下げられた点滴の袋を見て、もう数えるのをやめた。夜はまだまだ明けそうになかった。


 その時、隣の患者のベッドから急に激しく咳き込む声が響いてきて澪は驚いてビクッと身体を震わせた。二度、三度咳が続き、その後苦しそうな呼吸音が届く。隣のベッドがギシリと揺れる音がし、澪は思わず身体を起こした。
 先程まで物音一つせず静かだったのに、何かあったのだろうか。急な発作のようなそれに澪の心臓が跳ねる。

──ヤバいんじゃないのか。

 同室にいるもう一人は、この異変に気付いていないようである。薄いカーテンを隔てた向こうで苦しんでいる姿を想像して、澪の心臓が早鐘を打ち出す。確か隣のベッドの患者も結構若かったはずだ。

──まさか……死んだりしないよな……。

 そう考えると手のひらに嫌な汗が出てきた。澪は隣のカーテン越しに小さく声をかけてみる。
「あの……大丈夫か?」
 聞こえていないわけではないと思うが、隣の患者は返事も出来ないのか何も返してこない。咳は胸から押し出されるように濁っておりヒューヒューと音をたてている。とても普通の状態ではない気がし、澪は思いきってナースコールに手を伸ばした。強くボタンを押すとすぐに頭上から声がかかる。

「どうしました?」
「俺じゃないけど、隣のやつが何か様子が変なんだ」
「わかりました。すぐに向かいます」

 ブツッと切れる音がして2分もしないうちに廊下をバタバタとかける何人かの足音が聞こえ、部屋に入ってきた。看護師が隣の患者の名を何度も呼び、わかりますか?と尋ねているようだがやはり患者からの返答はなかった。「意識レベル300、早く先生を呼んできて」声をかけられた一人の看護師が慌てた様子で出て行き、その後二人の足音が戻ってくる。

 カーテン越しに聞き耳を立てていると、今出て行った看護師ともう一人は医者のようで廊下から会話が聞こえてくる。

「頭痛薬?何時に服用したんだ」
「消灯の直前だったので10時ぐらいです。以前も同じ薬を飲んでるから大丈夫と仰って、他の病院で処方されている物を服用されたようなのですが……」

 声が近づいてきて、すぐそこで足音が止まる。何か処置をしているのか金属がこすれる音が聞こえてきた後、患者の呻くような声が聞こえた。

「チアノーゼが出てるな。この患者さんはアスピリン喘息があるんだ。以前何でもなくても発作が誘発される時もあるから、覚えておいて」

――この声……。

「……すみません。私……ちゃんと確認しなくて……」
「大丈夫、まだ間に合うから、落ち着いて。君はすぐ戻って呼吸器科の先生に連絡を」
「……はい」

 指示を受けた看護師が一人急いで部屋を出て行く。その後残っている看護師へ医者が引き続き指示を出した。

「首の裂傷が広がるから、そっちの手を押さえて」
「はい」

 ベッドの明かりが眩しいほどに強められ、その後ストレッチャーが部屋へと入ってきた。ガラガラと響く車輪の音、患者をストレッチャーに移しながら指示を出す医者の声。

「このままICUにすぐ運んで、酸素投与と挿管をするから人工呼吸器の準備。呼吸器科の先生がまだ来ていなかったら僕がやります。急いで」
「はい!」 

 慌ただしくストレッチャーが病室を出ていくのと同時に部屋に静寂が戻る。
いつも澪に話しかけているのと全く違ったが、間違いない。医者はどうやら椎堂のようだった。当直医だったのだろうか……。
看護師達に的確な指示を出す椎堂はいつもの穏やかな声色とは違い、医師としての頼もしさを感じさせる物だった。

──こんな話し方もするのか……。

 澪は自分には向けられたことのない、やや厳しさを含む椎堂の初めて聞く声を意外な気持ちで聞いていた。とても長く感じたが実際の時間は少ししか経っていない。
 部屋に戻った静寂とは裏腹に、澪の心音は治まる所か余計に早くなっていく。

――あの患者は平気だろうか……。

 入院してからこんな事は初めてだった。今もまだ緊迫したような空気がすぐそこへ残っていて身体から緊張が解けない。

──怖い……。

 ほんの数分前までは何事もなく眠っていたようなのに、突然あんな状態に陥る事もあるのだ。自分もいつか同じようになるのではないか……。そう思うと澪に不安が押し寄せる。
 まるで走ってきたかのように早鐘を打つ心臓を宥めるように澪は手を胸に当てる。しかし、それは何の慰めにもならなかった。

 カーテンに手を伸ばしそっと開けると、いなくなった患者の寝ていたベッドが目に飛び込む。苦しかった際にもがいたのかシーツはぐしゃぐしゃになっており、抜けた点滴針から少し血が滲んでシーツに染みている。壁から伸びた酸素マスクは無造作に枕元へと転がっていた。

――…………。

 以前にも同じ光景を見た事があったのをこんな時に思い出してしまう。
 母親が死んだ時の事だ。昨日までは話をきいて叱ったり笑ったりしていた母は次の日にはもう澪が何を話しかけても答える事はなかった。死の意味がわからないほどに子供ではなかったが、蝋人形のように動かない母に玖珂が「母さん、まだ温かいな……」と言って触れているのを見ても、澪は母に触れることが出来なかったのだ。

 突然だった母の死を受け入れるにはあまりに時間が足りなかった。
 その時、最期を看取った医師がそっと酸素マスクを外し、母親の枕元にそれを置いていたのを澪は思い出す。鮮明に浮かぶそのシーンは澪の身体に『不安』を強く刻みつける。

「……っ…………」

 澪は記憶を消すようにきつく目を閉じた。隣との間のカーテンを素早く閉じ、ベッドに腰掛け暫くそのままじっとしていたが、思い出したくなかったその光景は澪の身体にも浸食してきた。鳩尾の辺りがキリキリと痛み、酷く喉が渇く。

「……くっ……っ……」

 シーツを強く握りしめて痛みを耐えてみる物の、一向に治まる気配がない。息を吸うたびに痛みが増すようで息を止めてみる。すると今度は止めている事も痛みを増長させるような気がしてきた。
 どうやってもさし込む痛みは増していくばかりで澪は歯を食いしばる。

「……痛っ……、……」

 その痛みは『痛い』というより段々『苦しい』と言う表現の方が当てはまる様になってきていた。自分の吐く息がやけに熱い。
 澪は身体を折るように伏せると肩で浅く息を繰り返す。死の恐怖に比例するようなそれにうっすらと目尻に涙が滲み、こめかみから冷たい汗が流れてくる。呼吸の仕方を忘れたかのようにうまく息が出来ない。苦しくて……痛くて、誰かに助けを求めたくなる。渇いた喉に何かが絡みついたようで噎せながら、澪は右手で胃の辺りをぎゅっと掴んだ。

「……っは、ァ……ッ……何で……………」

 目を閉じたまま、身体を強ばらせ、シーツを掴む指が血の気を失っていく。永遠に続くかと思われた痛みを必死で堪えている澪の耳に自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がして。澪は震える呼気を吐きながら顔を上げる。誰もいないはずのベッドの側にいつ来たのか椎堂が立っていた。

「玖珂くん?どうしたの?」

 腕を伸ばして背中にあてる椎堂の手が澪の強張る身体を支える。一瞬、何故ここに椎堂がいるのかとも思ったが、今はそんな事はどうでもよく、とにかくこの苦しみから早く解放されたくて……澪は椎堂の手に縋った。

 その瞬間椎堂が少し驚いたような気配を見せる。しかしそれはすぐに消え、細い指で的確な場所を愛撫するように触って確認すると納得したように頷いている。澪にはいったい椎堂が何に納得したのかわからない。

 こんなに痛がっているのに、しごく落ち着いた様子の椎堂は背後からそっと腕を回し、澪の身体をぎゅっと抱きしめた。

──え……何……?……医者ってこんな事したりするのか……?

 あまりに意外な椎堂の対処に驚いたが、それを払うほどの余裕はなかった。後ろから伸ばされた椎堂の手がゆっくりと澪の痛む場所を撫で、柔らかな椎堂の髪が肩へと触れる。

「大丈夫……ゆっくり息を吐いて……。そう、もう一回。大丈夫……痛くない……」

 呪文のように繰り返す椎堂の言葉を耳元で聞きながら目を閉じる。暫くするとさっきまでの痛みが嘘のようにすっと引いていった。別に特別な治療をしたわけでもないのにゆっくりと呼吸を繰り返すと、暗示をかけられたかのように身体が元に戻っていくのを感じる。

「…………、……」

 澪が落ち着いたのを確認すると、背中に感じていた椎堂の温もりがすっと離れていく。澪が顔を上げると椎堂がいつもの優しい眼差しでみつめており、こんな姿を椎堂に見られた事による羞恥が澪を俯かせた。

「……もう……治まったから」
「……そうだね……良かった」

 椎堂は澪の背中をベッドにそっと横にならせ布団を引き上げる。痛みだけでなく、先程まで感じていた恐怖からも気付けば解放されていた。安心したように椎堂がほっとしたのが暗い中でも感じ取れる。

「さっきの患者さんの発作を連絡してくれたのは玖珂くんなんだってね……。処置が早くできて助かったよ。有難う」
「……別に」
「玖珂くんはまだ起きていたのかな?」
「……眠れ、ないから」

 消灯時間をとうに過ぎていたのに寝ていなかったのを咎められるかと澪は思ったが、実際に起きていたのだから嘘はつけない。しかし椎堂は咎めるどころか意外な事を言ってきた。

「眠れないときは無理しなくてもいいよ。眠ろうとすると余計に眠れなくなるからね……。人間は本当にやっかいだね……」
「なんだよ……それ……」

 何処に患者が「眠れない」と聞き「無理をしなくてもいい」等と呑気な事を言う医者がいるのだろうか。
だけど、今ここで説教をされるよりはずっと良い気がした。そんな事を考えていると、椎堂が付け加えるように言葉を続ける。

「それと……、今の痛みは別に玖珂くんの病気のせいじゃない。精神的な物だから。急に隣であんな事があってちょっと身体が反応して驚いちゃっただけでね、よくある事だから心配いらないよ」

 こういう事があると伝染するように同室の患者が具合を悪くするのは珍しくないのだと椎堂は言う。だから、椎堂は落ち着いていたのだ。いつも椎堂に対して取っている態度が態度なだけに、いくら辛かったからとしても、その椎堂に縋ってしまった事に居たたまれない気分になる。

「……あのさ」
「ん?」
「何で、ここに急にきたわけ?」
「あぁ……。いや、看護師から、教えてくれたのが玖珂くんだって聞いてね。眠れないのかなと思ってちょっと様子を見に来てみたんだ。でも、来てみて良かった」
「……そう」

 椎堂が来なかったら……。あのまま長い時間あの状態が続いていたのかもしれないと思うとぞっとする、偶然であっても椎堂がいてくれた事に感謝するべきだと頭ではわかっている。だけど、言葉には出来なかった。

「まだ眠くならなそう?」
「…………まぁ……」
「じゃぁ、ちょっと付き合ってくれるかな」
「……は?付き合うって、なんだよ」
「僕も眠れなくてね……。少し眠る前に玖珂くんに話しに付き合って欲しいんだ」

 医者のくせにこんな夜更けに患者を連れ出していいのだろうか、澪はそうも思ったが、今の礼も兼ねて一度くらいは付き合ってもいいかと思い直した。それにこうしていても実際眠れないのだし……。

「……別にいいけど」
「有難う。じゃぁ、ちょっとだけ……。寒くないように上を羽織って行こう」

 椎堂は嬉しそうに微笑んでそう言うと澪の身体を抱き起こすように腕を伸ばす。椅子にかけてあった上着を手に取ると澪にふわりとかけた。他の患者を起こさないようにかなり小声で話していた椎堂が囁くように「じゃぁ、こっそり行こうか」と一言耳元で囁く。まるで悪戯をする子供のような言い種である。澪は心の中で少し苦笑すると共に椎堂の新たな一面を知る。

 椎堂について廊下へと出ると、廊下は静まりかえっていた。昼間は開け放たれている各病室のドアが全て閉まっているせいもあるのだろう。巡回の時間を把握している椎堂は「今は誰も来ないはずだから」と小さく呟き、廊下を澪の歩幅に合わせて歩きだした。

 静かな廊下に小さく二人の足音と点滴スタンドを引きずる音だけが響く。澪は隣にいる椎堂を横目でちらりと見る。改めて椎堂を見ると自分より随分小柄な事がわかる。身長はそれなりにありそうだが、華奢なせいか実際より小柄に見えた。顔も所謂女顔という部類で、少し伏せ気味の睫が眼鏡越しに寸分の隙間もなく影を落としている。これでは、どっちが患者なのかわからないような儚さが椎堂にはあり、結構がたいのいい澪は椎堂を見ながらそんな事を思っていた。

 椎堂が連れて行った場所は、同じ階の突き当たりの廊下を曲がった所だった。いつも逆側のエレベーターを使用しているのでここには来たことがない。椎堂が鍵をあけると部屋の中へ入っていくのに続いて澪も部屋へ足を踏み入れ、そっとドアを閉めた。澪の病室とは別の向きにあるこの部屋は機材室のような部屋で普段は使われていないと椎堂は言う。冷たい空気に、少し埃っぽいような匂いがする。

 椎堂は暗くて視界が曖昧な中で澪の手を引くと窓の近くまで進む。何処からか椅子を持ってくると澪の目の前に置いて座るように促した。明かりを付けないのはバレるといけないからだというのはわかるが、せめてカーテンを開けた方がいいのではないかと疑問に思いつつ目の前の椎堂に口を開いた。

「あんたは?」
「椅子はあいにく一脚しかないんだ。僕のことは気にしないでいいから、玖珂くんは座っていて」

 澪は椅子の位置を確認して腰を下ろした。軽く幾度か咳をすると、椎堂が慌てたように顔を覗き込み「大丈夫?寒くない?」と心配げに眉を寄せる。「ちょっと喉が詰まっただけだ」と説明すると安心したように息を一つ吐いた。澪が座ったのを見届けて、椎堂は窓へと歩み寄る。機材室だというこの部屋のカーテンは病室の物と違い、厚手の物のようである。椎堂がカーテンに手をかけてゆっくりとそれをあける。澪は徐々に視界に入ってくる景色に息をのんだ。

 いつのまにか雨は止んでいて、穏やかな空に変わっており、真夜中とは思えないほどに月の灯りが部屋へとさし込み椎堂と澪を照らす。月の下には懐かしい都会のネオンが遠くまで広がっている。航空障害灯の小さな赤い光がきらきらと点滅しているのが部屋からもよく見えた。
 それは澪にも馴染みのある、今まで生きてきた夜の都会そのものであった。その景色に目を奪われたまま遠くを見ていると、椎堂が隣へ並ぶ。

「玖珂くんの病室からは夜景がよくみえないだろう?この部屋はね、前を遮る物がないから綺麗に見えるんだ。どう?よく見えるかい?」

 そう言うと椎堂は澪の隣に屈み、目線を澪に合わせて窓の外を一緒に眺めた。先程病室からみた時は、 月が出ていなかったと思ったが、澪の病室から見えていないだけだったのだ。
 幻想的という安っぽい言葉で飾るには、あまりに静かなその景色を見ながら二人共言葉を忘れて景色を眺めた。

 あの光の中に居た時は、夜景やネオン等あえてみたいとも思った事がなかった。夜は昼より常に眩しい物だったし、ホストになってからの辛かった事や楽しかった事、その全てがその光の中の出来事なのだ。懐かしい記憶がゆっくりと澪の中へと流れ込む。

 夜の街に親しんだ澪のために一度見せたかったのだと言う椎堂は、いつも通りひどく穏やかな表情で澪に笑いかけた。ここに澪を連れてきた事に関しての理由は他にもあるのだろう。あのまま病室にいる不安を少しでも和らげようと気を遣ってくれたのだと思う。しかし、その事を椎堂は口にしなかった。

 そんな椎堂の優しさは決して押しつけがましい物ではない。澪は何故、椎堂がここまで自分に優しくするのかと疑問に感じそのままを口にする。

「……なんで」
「え……?なに?」
「あんた、どうして俺にそんなに優しくするんだよ……」
 椎堂は何故か少し寂しそうな表情をして目を伏せた。
「僕は……こんな事くらいしか、君にしてあげる事が出来ないからね……」
「……前からちょっと思ってたけど、あんた何か医者っぽくないよな……」
「そう、かな?……じゃぁ医者は辞めちゃおうかな……」

 冗談っぽくそう言い放つと椎堂は窓際に歩み寄った。澪に背を向けたままで静かに語りかける。白衣の細い肩を青白い月の光が照らし、まるで椎堂がその灯りに包まれているかのように澪の瞳に映り込んだ。

「玖珂くん。僕はね……患者さんの病気を治すのが仕事だ。でも……病気をいくら治しても、患者さんが笑顔を取り戻さなければ、それは治した事にならないと思うんだよ」

 何故そんな事を自分に話すのかわからなかったが、椎堂は澪の前に向き直ってしゃがむと澪のひざに置かれた手を包むように両手を重ねた。少し冷たい澪の手が椎堂の熱で少しだけ温かくなっていく。
 見上げてくる椎堂の視線が少し潤んでいるように見えたのは月の光のせいなのだろうか。
 
 
「君の笑顔も……いつか、僕に見せてくれないかな……」
「……、……」
 
 
 澪は自分に差し出されたその言葉を不思議とすんなりと受け取っていた。いつもの苛立った感情が湧く事はなかった。返す言葉は中々見つけられなくて結局言葉を飲み込んでしまったが、椎堂は自分の事を本当に心配しているのだと感じる。重ねていた手がすっと放れると、少し肩から落ちかけていた上着を椎堂がもう一度肩にかけなおした。

「さて……。そろそろ戻ろうか。看護師さんにバレると怒られちゃうからね」

 椎堂は悪戯っぽく微笑み澪の身体を支え立ち上がらせると椅子を元あった場所に片づけた。立ち上がった拍子にまた何度か咳が出そうになり、澪はそれを気付かれないように我慢する。椎堂がカーテンを再び閉める前に、もう一度窓から見える景色を焼き付けておく。暗幕が閉じていくように、その景色が細くなり、椎堂が手を離すと部屋はまた暗くなった。

 廊下に出るとさっきと変わらず人は誰もおらず非常灯の緑色の光だけが二人の影を床に映りこませていた。
 すぐに病室に辿り着き、澪がベッドに戻ると椎堂が腰を屈める。

「今夜は付き合ってくれて有難う。おやすみ」

 椎堂がベッドのカーテンをくぐって病室を出て行く。廊下に出た椎堂の足音が聞こえなくなるまで、澪はその音を聞いていた。

 寝返りを打ち、そっと目を閉じると先程みた景色が瞼の裏で再生される。そのまま目を閉じていると静かに眠りが押し寄せてきた。椎堂のおかげで落ち着いた身体はゆっくりと意識を遠のかせていく。少しして、病室には澪の静かな寝息が響いた。