俺の男に手を出すな 3-10


 

  午前中の検査を終えて病室に戻り、澪は時間を潰すために携帯を開く。
 撮るだけ撮って整理をしていなかった写真フォルダを開いて最初から眺めてみる。丁度1年前に機種を変更してからなので一年分の写真である。何百枚もある一番最初の写真。
 試しに撮ってみたそれは自宅のテーブルへ置いてある何の変哲もない灰皿の写真だった。

 被写体になりそうな物もなく、とりあえず目の前にあった灰皿を写真に撮ってみた、それだけである。ずっと吸っていたメンソールの煙草の吸い殻が数本灰皿内に残っている。入院する際に禁煙を言い渡され、それ以来煙草を吸っていない。最初は禁煙なんて出来るのかとかなり不安だったが、いざ入院してみると吸いたくなったのは最初の2日ぐらいで、その後は全く吸いたいと思わなくなっていた。
 ただでさえ気分が悪いのに、空腹で喫煙等したら余計に具合が悪くなるのがわかっていたので、怖かったというのもあるのかもしれない。

 写真画面をスクロールして次々と写真を見ていく。客と撮った物もかなり多く、懐かしい顔ぶれと店内が写っている。少し進むと澪の誕生日を祝うバースデーイベントの時の写真もあった。
 あまり派手に祝われるのには抵抗があったが、内緒で用意されていたので断りようがなかったのだ。いつものように店へ顔を出すと店内はすっかり準備が出来ていて、ゴールドに輝くシャンパンタワーが中央に用意されていた。司会役のホスト仲間に促され、挨拶をしたのだが何を話して良いかわからず一言「有難う」と言った澪に「それだけかよ!」と突っ込まれたんだったっけ。
 客は揃って高い酒を入れ、その度にコールが始まり賑やかな時間だった。結局その夜は相当高い酒を嫌と言うほど飲んで、次の日盛大に二日酔いになったのを思い出す。苦手とは思っていた物の、皆の気持ちは嬉しかったし、楽しい時間だったと思う。

 懐かしくなりながら他の写真も一通り見る。途中、誰に撮られたのか忘れたが自分の寝顔の写真まであり、澪は恥ずかしいのでそれを削除した。  
 
 
 
 一通り写真を見終わって携帯を充電器へと差し込んだ所で周りは昼食の時間になっていた。配膳のカートが廊下に並び、それぞれがトレイを取りに来ている姿が澪のベッドからも窺える。患者自らの場合もあれば、見舞いに来ている人が取りに来ている場合もあるようだ。

 今日は玖珂が昼を持ってくる事になっていたので、澪はトレイを取りに行くこともなくそのままベッドへ横になった。何もしていないが、最近少し起きているだけで疲れを感じるようになっている。前は毎晩欠かさずに筋トレをしていたが、入院してからはそんな事をするわけにもいかず、その結果なのか体力はどんどん衰えているように感じる。澪は何度か咳き込んで、隣に置いてあるミネラルウォーターを一口飲んだ。


 それから1時間ほどして2時近くなると、廊下の方から玖珂の声が聞こえて来た。澪は身体を起こすと病室の入り口へと視線を向ける。廊下で看護師と何か話しているようだが内容までは聞き取れなかった。

 暫くして、面会に来た玖珂が病室へと入ってくる。昨日約束したサンドウィッチが入っているのか手になにか提げている。同室の入り口側の患者とその見舞客にまで挨拶をしてから漸く澪の隣に腰を降ろした。

 玖珂はいつも同室にいる患者、その時にいればその家族にまで丁寧に挨拶をするのでそれが少し恥ずかしくもある。何人の看護師や見舞客から「優しそうで素敵なお兄様ですね」と言われた事か……。その度に何と返せば良いか困る此方の事も考えて欲しくなる。「……どうも」と返す以外に返しようがない。愛想が良すぎるのも困りものである。

 玖珂はパイプ椅子に腰を下ろすと澪に笑顔を向けた。
「澪、どうだ?調子は」
「それ毎日聞く?この通り変わらないって」
「それもそうか」

 玖珂はそう言って笑うと、早速替えのパジャマや下着を整理している。病院内にある洗濯機で自分で洗うからいいと何度も言ったのだが聞き入れて貰えず、こうして週に何回かは洗濯までしてくる玖珂は、長男だからというのを差し引いても昔から結構世話焼きなのだ。

 整理を終えると、手にしていた袋から包みを取り出す。昼食に間に合うように持ってきたのだろう、開かれたそれはやはり例のサンドウィッチであった。澪は、早起きして慣れないキッチンにたつ玖珂の姿を思い浮かべた。

 ちょっと多く作りすぎたと前置きされたそれは、確かに元気であってもどうかと思う量で、澪はその大量のサンドウィッチを目前に呆気にとられていた。玖珂が渡してくれたウェットティッシュで手を拭きながら思わず率直な感想がもれる。

「誰が食うんだよ……こんな量」
「…………やっぱり、多かったか?」
 失敗したかなとでも言うように玖珂が苦笑する。
「当たり前だろ……それに、これ全部、中身同じ具?」
「あぁ、全部同じだが……違う方が良かったか?」
「まぁ……、いいけど」
「これなら先生も食べて平気だって言ってたし、俺も昼飯を食っていないんだ。一緒に食べるから、まぁ……なんとかなるだろう。……ところで、どうなんだ?少しは食べられそうか?」
「昨日より調子いいから……少しなら」
「そうか、良かったな。じゃぁ、ほら」

 サンドウィッチを掴んで手渡す玖珂は、澪が少しでも食べられそうだという事でとても嬉しそうな顔をした。ちょっと親馬鹿ならぬ兄馬鹿なのではないかと思うほどに玖珂は澪の事になると甘い。それが煩わしい時期も昔はあったが今は純粋に有り難かった。しかし、目の前でこうも嬉しそうにされると周りの目もあり少し恥ずかしい気持ちにもなるのも事実だった。現に同室にいる見舞客からの視線を先程から感じている。澪は片手でちょっとだけカーテンを引っ張った。


 受け取ったサンドウィッチを一口食べると懐かしい味が口に広がる。そういえばもうだいぶこの味を食べた事が無い事に気付く。別々に暮らすようになってからは玖珂の手料理を食べるなどという事は勿論なく、食事を一緒にする事があっても、それは大概外食だったからだ。
 
 
 
 
 玖珂は別に料理が得意なわけではない。
 何種類かやっと作れる料理の一つがこの卵のサンドウィッチなのだ。まだ一緒に住んでいた頃を思い出しても、他には所謂男の料理と世間で称されるような暖めるだけの物や、焼くだけの物。それと、何でも構わずいれて炒めただけのどう名前を付けていいのか迷うような炒め物。

 働いていていて留守がちだった母親の代わりに、子供の時に一度だけ澪の誕生日にケーキを焼いてくれた事があったが、生地は焦げ気味で、隠すように塗ってある生クリームは砂糖と塩を間違えたらしく塩辛くて食べられた物ではなかった。
「ごめんな、澪。これ、失敗作だから、今から一緒にケーキ買いに行くか。駅前の店の、お前好きだっただろう?」
 そう言った玖珂に澪は首を振った。失敗作だとしても作ってくれた事が嬉しくて、しょっぱい生クリームがついた苺に手を伸ばした。「おいしいよ」そう言って笑った澪に釣られて玖珂も苺に手を伸ばし「これは後で喉が渇きそうだな」と笑っていた。生地は苦くて断念したが、苺だけは甘さが生クリームのしょっぱさで引き立っていてそんなに悪くなかった。玖珂の手料理でざっと思い出すのはこれくらいだった。

 今はもっと上達したのかもしれないが、食べた事がないのでわからない。
 それでも澪は玖珂の作ったこの卵のサンドウィッチだけは大好きで、子供の頃はよくねだって作ってもらっていたのだ。学校で何か行事があり、弁当が必要になった際にいつも必ずこのサンドウィッチが入っており友人に馬鹿にされた事もある。今となってはただの懐かしい思い出に過ぎないが……。

 その頃と味はきっと変わっていないはずなのに……、今食べているそれはいつもより美味しく感じた。そして……とても優しい味がして澪の中に染み渡った。
 
 
 
 
「どうだ?……美味いか?」
 少し不安げに聞いてくる玖珂に、澪が「……うん」と答えると、ホッとしたように玖珂が微笑む。
「いっぱいあるからな。沢山食べていいぞ」

 所々大雑把に卵を潰している為、ゆで卵の白身が固まりのままでぼこぼこ入っている。不器用な形のサンドウィッチ。それさえも昔と何も変わらなかった。

──そう……、何も変わらないはずなのに。

 自分だけが変わってしまったように感じて、澪の胸を締め付ける。どうして自分はこんなベッドにずっといるのだろう。自分だけが取り残されてしまうような焦りが募っていく。柄にもなく感傷的になり、ややもすると浮かびそうな涙を堪えるために下を向いて堪える。

「澪?……どうした、気分でも悪くなったのか?」

 澪の気配に玖珂は敏感に気付き心配そうに顔を覗き込む。一度首を振ると不安を押し込め、そんな玖珂の視線をかわすようにして澪は文句を口にした。

「……卵の……殻が入ってた。…………ちゃんと取れよな……」

「そうか?すまんな。ちゃんと見たはずだったんだが」

 本当は卵の殻なんて何処にも入っていなかった。しかし、何か口にしないと平静を装えず……、澪は嘘をついた。
 玖珂の心配そうな顔が、安心したような表情に戻るのをみて嘘がバレていない事にホッとする。

 玖珂は「おかしいな」とでも言うように手にしているサンドウィッチを確認している。澪は顔をあげると玖珂に手を伸ばす。

「……もう一個食うよ」

 結局澪は二つ、残りは玖珂も一緒に食べたせいかどうにか全部のサンドウィッチがなくなった。

「さすがに飽きるな、同じ物ばっかりだと」

 玖珂が包みをしまいながら苦笑する。それはそうだろう。7割方は玖珂が片付けたと言ってもいい。

「だけど……澪」
「……?」
「お前が一口でも食べられて安心した。作って来た甲斐があったな」
「…………美味しかった。……ごちそうさま」
「何か食べたい物があったら言えばまた作って来てやるからな」
「他の物は遠慮しとく。俺、まだ死にたくないし」

 そう言って小さく笑う澪に玖珂は「お前は本当に可愛くないな」とわざと呆れたように言った後、それでも愛しくて仕方がないというように目を細める。
 ペットボトルに入っているお茶を口に含み棚へと置いた後、玖珂は思いだしたように腕時計を見る。

「まだ1時間以上あるな……」
「何?店の話し?」
「いや、そうじゃないが……。今日はお前の主治医の先生と面談があるんだ」
「……え?……そうなんだ。知らなかった」

 玖珂の言葉で一瞬澪は不安な表情を浮かべる。医者から家族に話がある等と聞けば悪いイメージしかわかない。本人に言えない告知だとか、そういうドラマでよく見る場面が脳裏によぎったからだ。
 その思いが顔に出ていたのだろうか、玖珂が安心させるように笑いかける。

「なに、ちょっと薬の事で話しがあるだけだ。そんな心配するな」
「……別に、何も言ってないだろ……」
「そうだったな」

 もう25にもなっている澪を相手に、玖珂はまるで小さな子供をあやすように頭を撫でた。これは玖珂の癖なのかもしれない。油断しているとすぐこうして子供扱いをしてくるのだ。

「ガキじゃないんだから、そういうのやめろよ……」

 澪は玖珂の手を避けてむっとして言い返す。だけど、手を払われても玖珂はやっぱり笑っていて、「何言ってるんだ。ガキのくせに」と取り合う事はなかった。
 澪が少し疲れた様子なのに気付くと、玖珂は徐に持ってきたタブレットを開く。

「ちょっと急ぎの仕事だけしてもいいか?」
「え?いいけど、ここで出来んの?」
「あぁ、資料を入れてきてるから、ちょっと修正するだけだからな」
「そうなんだ」
「お前は気にしないで少し横になって休んでろ」
「……うん」

 澪はベッドへ横になると棚に置いてあるテレビのスイッチを入れた。見たい番組があるわけではないが、暇なのでよくつけているため、テレビカードはもうこれで5枚目になる。

 チャンネルを変え、バラエティ番組の再放送がやっていたので澪はそれを観始めた。こんな日中からテレビを観る事は前はあまりなかった。面白くない若手のコントを見ていると徐々に眠くなってくる。昨日ちゃんと寝たはずなんだけど……。そう思いつつも目が閉じてくる。昼に寝ていると普段なら看護師に注意されて起こされるのだが、見舞客がいる場合はそう頻繁に病室へ見回りも来ないので、大丈夫だろう。差し込む日差しの暖かさと、一人ではない安心感もあったのか澪は暫くして浅い眠りについた。
 
 
 
 
 玖珂はその様子をちらっとみて、澪が眠ったのを確認してからテレビの電源を落とし澪の身体へと上掛けをそっと引きあげた。もう身長も自分とたいして変わらないし、普段の澪を見ているともう立派な大人の男になったのはわかっている。しかし、こうして無防備に眠っている寝顔を見ると、どこかまだあどけなさを感じ子供の頃の澪と重なって見える。

 それは自分が兄であり、いつまでも澪を子供だと思いたいからなのかもしれない。横を向いて眠っている澪の額にかかる髪をそっと指で脇へ流し、弟の名を小声で口にする。玖珂の表情から笑みが消え眉が切なげに顰められた。

 父親を知らず、母親を子供の頃亡くし、そして今澪は自身の身体でさえも病魔が蝕んでいる。試練は乗り越えられる者にしか与えられない。どこかでそんな事を聞いたが、澪がその試練を乗り越えたあと何が残るというのだろう。贅沢を望むわけじゃない。普通に歳をとって、大切な相手と過ごす、そんな小さな幸せで良いから、弟には幸せになって欲しかった。それさえも叶わないというのか……。
 玖珂は悔しげに目を伏せると、やりきれない思いで首を振る。


 入院した最初の頃は「いつ退院できるんだろう俺」と何度も言っていた澪は、最近はもうその言葉を口にしなくなった。体調の変化は本人が一番感じているはずだ。受け付けない食事で体重が減り続けている事や、続く倦怠感も……。澪がどこまでわかっているのかわからないが、少なくともそう簡単に治らない病である事には気付いているのだろう。

 先程からタブレットを開いて、ここでも進められる仕事をしていたが、実際はほとんど捗っていなかった。頭の中は、もうすぐ予約時間になる主治医との面談の事でいっぱいだった。
 玖珂は一度用を足すため病室を出て廊下にあるトイレに向かう。トイレから出て手を洗いながら目の前の大きな鏡に写る自分を見る。暗い表情の自分が写り、玖珂はひとつ息を吐くと少しだけ微笑んでみる。

――俺がしっかりしなくちゃな……。

 自分に言い聞かせるようにして病室へ戻ると、いつのまにか澪は起きていた。オレンジ色に染まりつつある夕方の空をぼんやりと眺めている姿が玖珂の目に映る。玖珂は一度息を吐くと、澪の側へと戻る。

「もう起きたのか?」
 声をかけて腰を下ろすと、澪が振り向く。
「何か急に眠くなっちゃって、別に疲れるような事なにもしてないんだけどさ……」
「……今日は暖かいからだろう。ベッドにいたらきっと俺だって眠くなると思うぞ?」

 澪は「……そうかな」と言って少し笑った。
 玖珂がスーツの袖を少しあげて腕時計を見て、そろそろ面談の時間なのを確認する。その様子を見ていた澪が「もう時間?」と聞いてくる。

「あぁ、ちょっと行ってくる。終わったら戻ってくるからコートとかここに置いておくからな」
「わかった」
「気にしないでテレビでも見てろ」
「……はいはい」
「じゃぁ、後でな」
 病室を出て行く玖珂の背中を見て、澪は自分の中に再び湧く不安な気持ちを押し込めるように窓の外へ目を向けた。
 
 
 
 
   *   *   *
 
 
 
 
 玖珂は予約の時間丁度になるとカウンセリングルームの扉をノックした。中から「どうぞ」という声が聞こえ、そのままドアノブを右に捻る。

「失礼します」

 パーテーションで入り口が区切られており、その向こうには既に何度か話をしている主治医の椎堂が机の上に資料のようなものを重ねて待っていた。玖珂の姿が見えると席を立って会釈をする。

「お忙しい所、すみません。どうぞ、おかけになって下さい」
「はい、宜しくお願いします」

 玖珂は腰を降ろすと横をちらっと見る。椎堂の他には若手の医者らしき人物と看護師が1人いたが、挨拶をした後は次の面談の準備をしているのか背中を向けて座っている。

「早速ですが宜しいですか?」
「はい、お願いします」
「今日は3つほどお話がありまして、まず最初に現在の弟さんの状態ですが、前にお話しした時と変化はありません……。今まで投与した抗がん剤も、進行を遅らせるのには多少効果がありましたが、残念ですが腫瘍の縮小等は見られませんでした」
「……そう、ですか」

 今は昔と違い、医師からの説明は患者や家族がきちんと理解出来るようわかりやすく説明をするのが重要視されている。椎堂はそうしたインフォームド・コンセントにのっとり、幾つかの説明のために内視鏡の際の写真や資料を提示して丁寧に説明を始めた。説明は理解できたが理解できた分だけ辛い現実を目の当たりにすることになる。澪の病状は良くなっていないという現実だけが玖珂の中へと残った。

「それで……。今後の治療の方針と、ご本人への告知についてなのですが」
 そこまで一気に話をしていた椎堂が言葉を詰まらせる。冷静を装って話す事をきちんと決めてきていたはずなのに、続きの言葉を口から出すのは椎堂にとって酷く難しかった。目の前にいる玖珂の落胆した様子に追い打ちをかける結果になる事は目に見えている。それでも、話さないと先へ進めないのだ。椎堂は玖珂の方からわずかに視線を外すと一度資料を手元に引き寄せ片付ける。
「……。今後の治療についてですが……。新薬の抗がん剤を試すという物がひとつ。それと……手術をし、その後の化学療法で根治を目指すという物です」
「手術、出来るんでしょうか?以前難しいと……」
「…………そうですね。僕もそう考えていたのですが、色々検討した結果、今ならまだ手術が出来ると判断しましたので治療の選択肢の一つとしてご提案させて頂く事にしました」
「じゃぁ、弟は手術をすれば」

 玖珂が期待を寄せて口を開いたと同時に部屋の内線電話が鳴り響く。背後にいた看護師が受話器を取りあげ、何かを話した後、椎堂の側による。

「お話中大変申し訳ありません。椎堂先生ちょっと……」
「ん?」

 椎堂が「少し失礼します」と言って席を立ち看護師から説明を受けている。「僕は今面談中なので、代わりに行って手伝ってやってくれないかな。こちらは僕一人でいいから気にしなくて良いよ」看護師と、もう一人いた若手の医師へそう告げると、指示された二人が「わかりました」と言って立ち上がった。玖珂へ「失礼します」と挨拶をし足早に部屋を出て行く。何か緊急の用があったようだが、椎堂はそのまま部屋に残り、玖珂の前にもう一度腰を下ろした。

「すみません。お話の途中で……」
「いえ」
「……お話しの続きですが、弟さんの手術の件に関しては以前お話ししたとおり大変難しい物な事には変わりありません。今から両方の目的とリスクを説明しますね……」
「……はい」
「まずは新薬の化学療法を行った場合、効果があった場合の5年生存率は飛躍的に伸びます。それと化学療法には、今はまだ目に見えないがん細胞を死滅させられる可能性があります。前もお話ししましたが、この方法は主に延命を目指すことが目的となります」
「……延命……ですか。その化学療法の効果はどれくらい見込めるのでしょうか?」
「……効果が出るかどうかは、今の時点でははっきりと申し上げられませんが……胃癌は元々抗がん剤がききにくいとされていてお話ししている新薬の奏効率は30%です」
「奏効率とは効果があるかどうかの指標という事ですか?」
「いえ、新薬を使って腫瘍が何%縮小がみとめられるかの数値です。わかりづらいですよね……」
「……あ、いえ……大丈夫です」
「リスクは副作用が強いので、今のような生活は暫く出来なくなると思って頂かなければいけないという事です。この薬を使っての治療は、患者本人の告知の元、納得した上での治療を受けてもらう事になります」
「……そんなに……。どういった副作用が……」
「そう、ですね……。一般的な例ですと、投与の最中は嘔吐や下痢、脱毛、胸痛、酷い口内炎や手足の麻痺等の体的苦痛を伴う症状が多いです……。それと投与後、長期副作用として味覚の変化や腎機能の低下、聴覚の異常、肺の障害や神経の異常等も現れる場合があります。患者さんによっては、今お話ししたのとは別の症状が出ることもあります」
「……………………」
「なので、効果を最大限に生かすためにもご本人への告知をした上で治療を受けて頂きたいと思っているのですが……」
「…………わかりました」
「次に、手術を選んだ場合のご説明ですが、手術の目的は治癒を目指す事です。成功して術後の経過がよく化学療法で再発を防げれば、退院して頂けるようになります。リスクは手術自体の成功率が低い事と、成功しても完全に腫瘍を取りきれなかったり、開腹して見つかる事がある新たな腫瘍がみつかった場合、手術によって開腹した事により様態が急激に悪化し、お亡くなりになるケースもあります……。それと、臓器を失う事になるので今後の生活にはやはり影響は出ます……」
「…………手術の成功率は……どれくらいですか……」
「弟さんの場合、すでに転移が見られるので拡大手術と言って、胃だけでなく、周辺の臓器やリンパ節も切除になりますので……手術自体の成功率は40%ぐらいになると思います……」

 玖珂は思い詰めた表情で、机の上から視線を動かさないまま静かに口を開く。

「……先生は……どちらを選ぶのが良いとお考えですか?」
「僕は……」

 躊躇う椎堂の中に澪の声が届く。少しの沈黙が続き、椎堂は姿勢を正すとまっすぐ玖珂を見る。

「……治癒の可能性がある手術を行う方を、お勧めしたいと考えています」
「仮に……、このまま抗がん剤も手術もしなかった場合……弟は……後、何年生きられるんでしょうか?」
「…………余命1年をきると思います」
「……そんな」

 玖珂が悲痛な面持ちで目を閉じ、机にのせた手を握りしめる。椎堂はその様子を直視できずにいた。話す間、机の下へ隠している手の震えが自分も止まらないのだ。自分の口から告げた『余命』という言葉を思い出すと背筋が凍り付くように寒くなってくる。椎堂は唾を飲み込んで顔を上げる。

「弟さんへの告知は、どうなさいますか?」

 玖珂が少し考え込むように時間を置いた後、力なく答える。

「本人へは私の方から、話します」
「そうですか……。ではお願いします」
「……ただ」
「はい……」
「……余命についてはすぐには話さなくてもいいでしょうか?告知と治療の選択は話し合うつもりですが、弟には少しでも希望を持って欲しいんです……。弟が自分の状況を受け入れるまでの時間を与えてやりたくて……」

 玖珂の声が僅かに震え、ぎりぎりで感情を抑えている様子が手に取るように伝わってくる。引きずられてしまいそうになるのを椎堂は必死で踏みとどまり、白衣をぎゅっと掴む。

「…………それは、お任せします。本人が聞いてきたら、その時はちゃんと答えてあげて下さい……」
「……わかりました」
「どちらを選んでも、辛い治療になりますので、その前に外泊を取る事をお勧めします……選択によっては最後の外泊になる可能性もあるので……本人のご希望を叶えてやって下さい……」

 玖珂は黙って一度頷いた。頭の中が真っ白で、何故自分がここにいるのかも理解できなくなりそうになる。椅子から立ち上がりそのまま玖珂は椎堂に頭を下げた。

「先生、どうかこれからも弟を助けてやって下さい。お願いします……」
「僕達も最善をつくしますので……お兄さんも励ましてあげてください……。手術が成功してまた普通に生活が出来る日が来る可能性もちゃんとあります。まだ……終わったわけではないんです。今後一番辛いのは弟さんですから……」
「……はい。有難うございます……じゃぁ……失礼します」
「……お疲れ様でした」

 鉛を埋め込まれたように重い足を引きずって玖珂がパーテーションを抜けると、入ってきた入り口のドアが何故か細く開かれたままになっていた。先程慌てて出ていった看護師が閉め忘れたのだろうか……。

 玖珂はドアノブへ手をかけ、そっと向こう側へと押す。こんな暗い顔をして病室に戻るわけにはいかないが、今すぐ取り繕うこと等到底出来そうもなかった。どこかで一度気持ちを落ち着けてから、澪のいる病室に戻ろう。

 そう思いながら足を踏み出す。一歩進んだ所で玖珂の足がピタリと止まった。目の前に見える見慣れた足下にゆっくりと視線を向ける。


「…………澪」


 掠れた声が出て、その一言以外の言葉が見つからなかった。はめ込まれたガラス越しにすっかり暗くなった中庭の景色がうつり、その前に立ち尽くしている澪が、玖珂の目の前にいた。
 澪の視線は玖珂を責めているわけでもなくただ静かに見ているだけで、その瞳からは何も読み取れない。玖珂は背後にあるドアをそっと振り返り思い出す。このドアがいつからか半分開かれていた事を……。玖珂の血が一気に足下に落ち、羽織ろうと手に持っていたスーツの上着が、腕から音もなく廊下へと落下する。

「…………お前、話を……」

 話を聞いていた事はもう間違いないのに、それを認めることが出来ずにいた。玖珂が我に返って上着を拾い、澪に歩み寄ると澪は何故か少し微笑んで玖珂を見上げた。澪のよく見せるその泣いているような微笑みが玖珂の胸に突き刺さる。

「ごめん……たまたまドアが開いてて。ちょっと聞こえたんだ……」
「…………」
「気にするなって……。俺、何となくわかってたし……。良かったよ……はっきりわかって。清々したっつーか……。だから、……だから、兄貴もそんな顔すんなよ」

 いつもより饒舌に話す澪の言葉をきいて玖珂はそこから一歩も動けずにいた。澪がすぐそこにいるはずなのに、手が届かない場所にいってしまったように感じる。ドアが開いていたことを今更悔やんでも、もう取り返しがつかなかった。

 入り口で話し声が聞こえ様子がおかしい事に気付いて椎堂がドアから顔をのぞかせる。そこには立ち尽くす玖珂と、澪の姿があった。

「……玖珂、くん」

 椎堂もまた、それ以上の言葉を失ったまま動けずにいた。