俺の男に手を出すな 3-14


 

 
 

――手術まで後11日

 ICUを出てからは、澪は個室を割り当てられていた。澪の意識はすっかり戻ったが、輸血による身体への負担で発熱が続き、澪が目を覚ましている時間はごく少ない状態が続いていた。個室に戻っている澪の元を椎堂は度々訪れ、その様子を窺う。面会時間内に行くと玖珂が付き添っていて、眠る澪の側で、椎堂は玖珂から澪の色々な話しを聞いた。

 家族の話や、ホストという職業の話しまで、深く突っ込んだ話しをしたわけではないが、椎堂が聞けば玖珂は嫌な顔ひとつせずそれに答え、また玖珂からも病気の事や、椎堂自身の事も聞かれ、その事にも答える。

 早くに亡くなった母親の事があってから、澪は「死」を怖がるようになったと感じると玖珂は言う。椎堂は少し前に同室の患者が発作を起こして運ばれた際に、澪の体調に急な変化があったのを思いだしていた。自分自身が抗がん剤で心身共に追い詰められている時に、周りであんな事があり澪が感じていた恐怖を考えると、それはきっと椎堂の想像を超える物だったのだろう。

 それでも澪は、椎堂が行くまで誰にも頼らず一人でその恐怖に苛まれていたのだ。玖珂は、澪があまり人に甘えたりしない性格なので兄としてとても心配していると言う。自分はこうしてただ見舞いに来る以外何もしてやれない、そう言った玖珂の顔が何処か寂しそうで、椎堂の胸を打つ。

「そんな事ないと思います。一番身近に居て安心できる玖珂さんの呼びかけがあったからこそ、弟さんは意識が戻ったのだと僕は思っています」
「そう、ですか……。だとしたらいいんですが……」
「意識が戻った時、玖珂さんが側に居てくれてとても安心したんじゃないかな……。自分を心から想ってくれている存在がいるというのは人間にとって、何よりも強い「生きたい」という力になると僕は思っているんです。こういう場所だから余計にそう感じる事が多くて……。だからきっと……」

 椎堂はそう言って、玖珂をみて微笑む。玖珂は小さく「そう仰って頂けると、救われます」と言って優しい眼差しで澪に再び視線を向けた。

 カルテに記載されている事以外知ることの出来なかった澪の様々な事を知り、椎堂の中で、その度に澪に愛しさが増す。その後、玖珂は、澪が生意気な口調と態度である事を椎堂に何度も謝り「本当は優しい子なんですが……」と苦笑して付け加える。こんなにも大切に想ってくれる家族が居る中で育ってきた澪が、人への優しさを知らないわけがない。
 椎堂は静かに首を振ると、「わかってます」と答え笑みを浮かべた。


――手術まで後9日

 澪の熱は下がり、体調はだいぶ安定を見せていた。佐伯の危惧していた再度の吐血も見られず、復調を待って行われる予定だった内視鏡の検査が行われた。その検査でも、出血は完全に止まっているのが確認され、後は体力の回復を目指すことになる。
 

――手術まで後8日

 椎堂が帰宅する前に澪の病室へ足を向けると、丁度用事があっていつもより少し早めに帰ったという玖珂とすれ違いになったようだった。絶食がとかれ、澪の病室へは玖珂が運んできた夕食が置かれている。食事を前に溜息をつく澪の姿が見えた。ベッドまで歩きトレイを覗き込むと2つの食器が並んでいる。初日の今日は、固形物の全く入っていない全てが液体のような重湯と味噌汁の上澄みだけである。

「固形物がないからって言っても、ちゃんと噛んでゆっくり食べないといけないよ?」
 病室に入って早々食事指導をする椎堂に、澪は少し不機嫌そうな顔を見せた。
「どうやって噛むんだよ……。液体なのに」
「玖珂くんの身体に合わせてちゃんと考えてあるんだから、暫くは我慢しないとね」

 椎堂がベッドの脇へと腰を下ろすと、澪は再び溜息をついてスプーンを手に取った。確かにどうみても不味そうな夕食ではあるが、澪にちゃんと食べるように言った手前それを口にするわけにはいかない。澪はスプーンですくって口に入れると「何の味もしない……」と一言呟く。

 負担のかかる塩分もほとんど抜いているので、多分本当に味がないのだろう。食事の途中で、澪が痛そうに腰をさする。ここ最近ずっとベッドへ寝ていたので身体がまだ起きている状態に慣れていないのだ。

「腰、痛い?ずっと寝ていたからね……。食べ終えたら軽くマッサージしようか?」
「……そこまでじゃないから、いいよ」
「遠慮しなくていいのに」
「別に……そういうんじゃないし。つーか、先生もう帰る所なんだろ?」
 白衣を着ていない椎堂に気付いた澪が言う。
「うん、そうだよ。玖珂くんの顔を見てから帰ろうかなって」
「毎日見てるのに、よく飽きないな」

 澪はそう言って、再び食事を始める。嫌々ながらも完食した澪を大袈裟に褒めると、澪の眉間の皺が余計に深くなる。そんな澪を見て可愛いと思ってしまうとつい笑みが浮かんでしまう。澪の食べ終えた食器を下げてから病室へと戻り、「じゃぁ、そろそろ僕は帰るね」と澪に声をかけ腰を上げると、「先生」と呼び止められた。

 最近は椎堂に前のような態度をとる事ももうなくなった。そして、澪は椎堂の事を『先生』と呼ぶようになったのだ。呼ばれ慣れているはずの『先生』という言葉も、澪から言われると特別な物に感じる。

「何かな?」
 椎堂が振り向くと、澪は椎堂を見て優しい笑みを浮かべた。
「気をつけて帰れよ。外もう暗いし……」
「……うん、有難う。じゃぁ、また明日」
 椎堂が胸元で軽く手を振ると、澪は照れくさそうに一度だけ片手を挙げた。


――手術まで後7日

 澪が精神的にも安定したので、玖珂同席の元、話し合いの場が設けられた。
澪は最初に病院を抜け出した事を兄である玖珂と椎堂に素直に謝り、自分勝手な行動を反省していると口にした。
 その後、椎堂は全ての事を包み隠さずに澪に話して聞かせた。

 前もって聞いてしまっているので知っていることも多いかもしれなかったが、澪本人に話しをするのは初めてなのだ。椎堂は玖珂に話した時と同じように、わかりやすく丁寧に説明を続ける。このまま何も治療をしない場合の余命や、新薬の抗がん剤での延命、手術のリスク、その成功率の低さもそのまま澪へ伝えた。改めて知った詳細に澪が口を噤む場面もあったが、様々な事実を澪は一つ一つ受け入れるように頷き、落ち着いて椎堂の話しに耳を傾けていた。
 そして澪は、手術を受けるという選択肢を選んだのだ。

 成功率の低さより、成功して治る方への希望を望んだ澪は「何もしないで後悔するより、ずっといいよな……」静かにそう言った後、椎堂を見て穏やかな笑みを浮かべた。頑なだった澪の姿はもうどこにもない。その言葉は澪が自分自身に言ったのではなく、椎堂へ向けて言った言葉なのがわかる。椎堂は黙って一度頷くと、そんな澪をみて少し前までの自分を反省した。澪は、椎堂が思っていたよりずっと強くて、ちゃんと自分の未来を信じる力を持っていたのがわかる。椎堂は、その言葉に背中を押された気さえしていた。玖珂は心配そうにしていたが、それでも本人が決めた事だから尊重すると言い、手術に賛成してくれた。
佐伯とも話し合い、この日澪の手術は決まった。


――手術まで後3日

 また今日もいつもの毎日が始まる。椎堂はしっかりとした足取りで澪のいる病室に足を向けていた。病室へと入るとすでにベッドで半身を起こし、雑誌を読んでいる澪の姿が目に飛び込む。椎堂は穏やかに微笑んで澪の側へと歩み寄った。
「玖珂くん。どうだい?具合は」
 澪は読んでいた雑誌を閉じて脇へ置くと「……まぁまぁかな」と言って、落ちてくる前髪を邪魔そうにかきあげ椎堂の方を向いた。

「それは何よりだね」
同じ事を毎日聞く。
同じ診察を毎日する。

 それは些細な事かも知れないが、今ここに澪が生きている証になった。椎堂はいつものようにパジャマの前を開いた澪の胸に聴診器をあてる。聞こえる心音は確かな鼓動。澪が診察する椎堂を見つめ口を開く。

「先生」
「うん?」
「俺、手術の前に一度外泊出来ない?」
「うーん……、ちょっと難しい、かな……。まだ……」
「…………そう」
「何処か、行きたい所があるのかい?」
「別に……、ここじゃなければ何処でもいいけど……」
「え?」
「先生に話があるだけ。でも病院じゃ嫌だから」
「僕に?」
「…………何だよ。嫌なのか?……」
「そうじゃないけど……。ちょっと驚いてるんだ」
「いいのかダメなのか、どっちなんだよ」
「そうだなぁ……。僕が一緒なら……。でも外へ長くは居れないよ?手術前は安静に出来る場所へ居ないと」

 澪から誘ってきた事に椎堂は驚きを隠せない。しかし、今の澪の状態では何処かに出かけるというのは難しい状況だった。少しの時間、息抜きに外出出来るとしても、抵抗力の弱っている澪が人混みに入るのは危険だったし、もし体調が急変したらと考えるとそう遠くへ行くわけにもいかない。それを聞いた澪が、酷くガッカリしたように肩を落とすのを見て、椎堂は何か方法がないか考えを巡らせていた。

 一通り診察を済ませた後、椎堂はベッドの側へと腰を下ろし窓の外に目を向ける。澪は自分に何を言いたいのだろうか。そこで、一つ叶えられそうな事を思いつき、椎堂はその提案を口にし澪へと振り向く。

「じゃぁ、こういうのは嫌かな?」
「……何?」
「明日の夕方、僕が勤務が終わってからになるけど……。僕の家で話しをするっていうのは?だめ?」
「先生の家?」
「うん。僕のマンションはここから5分もかからないんだ。それなら、移動も負担にならないし、安静にしていられるだろう?点滴は時間をずらして終わるのが夕方になるように調整してあげるから、どうかな?」
「じゃぁ……それでいいよ」
「わかった。じゃぁ、約束。その変わり体調に少しでも変化があったら、すぐにここに戻ってくる事。それが条件、いいかい?」
「……あぁ。わかった」

 澪は椎堂の提案を受け入れた。
 あの日、椎堂が想いを告げた事が澪を変えたのは確かだったが、これと言って澪がその事について何かを言ってくる事はなかった。椎堂はそれでも充分満足していた。
 ずっと自分は思い続けているだけでいいと思っていたのだ。ついこの前までは……。

 しかし最近の澪は、話しかければ穏やかな表情で椎堂を見つめ返してくれる。その姿があまりに眩しくて椎堂はつい目を細めたくなってしまう。ずっと傍にいたい、そう願ってしまうのは欲張りな願いだとわかっていても。淡い期待が椎堂の胸の奥に小さく存在しているのは確かだった。


――手術まで後2日

 次の日になり、澪は外泊届けにサインをし提出した。主治医の椎堂が許可しているので書類はあっさりと受理される。体調が落ち着いていたら戻って来るのは明日の朝になるが、少し不安もあるので戻る時刻はとりあえずの記載である。書類を出しておいても、早くに戻ってくる事も可能なので二人でそう決めたのだ。

 椎堂は勤務中から少しずつ用意を始めていた。何かあった際の緊急処置を行えるセットや薬。考えられる事態を考慮しつつまとめていると結構な荷物になっていて思わず一人苦笑する。

 それらをまとめながら「いったい玖珂くんは、自分に何の話があるのだろう」と考えていた。
 病室で二人きりの時も少なくないが、その時に話せるような事ではないというのも気になる所である。
 口にはせずとも、やはり手術前で不安な事があるのかもしれない……。そうだとしたらちゃんと話しを聞いて不安を取り除いてあげるのは主治医である自分のやるべき事だろう。――わざわざ病院を離れてまで自分から誘うという事は余程の事なのだから……。

 気もそぞろに過ぎていった勤務時間が終わりを告げ、日が暮れる少し前。椎堂は準備していた荷物を持って澪の病室へと迎えに行った。家族が都合がつかず迎えに来られないので、椎堂が帰宅のついでに近くまで付き添いをするという事にしてあるのだ。勿論実際に玖珂からの承諾も貰ってある。タクシーも病院前に時刻を指定して呼んであるのでそろそろ到着している頃だろう。

「お待たせ。もう準備は出来てるかい?」
 着替えを済ませてベッドに腰掛けている澪に声をかける。澪は椎堂の声に振り向くとゆっくりと立ち上がった。
「着替えだけでいいんだろ?」

 澪はそう言って手提げの紙袋を手にとる。本当は車椅子でと思っていたのだが、澪がそれは絶対に嫌だと譲らず、仕方ないのでそこは譲歩した。椎堂は傍に寄って、夕日に背中を照らされている澪を見上げる。
 何?とでもいうように澪が少し腰を屈めて見返してくると、椎堂は慌てて目をそらした。私服姿の澪とこうして白衣を脱いだ自分が並んでいると、まるでデートに行くみたいで気恥ずかしい気分になる。椎堂は別に閉めなくてもいい病室のカーテンを歩いて行って閉めながら、勝手に都合の良い想像をして恥ずかしくなっている自分に苦笑する。

「大丈夫かな?寒くない?」
「……平気」
「じゃぁ、行こうか」
「…………あぁ」

 澪を焦らせぬよう、出来るだけゆっくり歩いてロビーまで辿り着くと呼んでいたタクシーが既に待機していた。本当は歩いてもすぐだが、どんな些細な事で澪の体調が悪化するかわからないので念を入れてタクシーを呼んだのだ。
 当然だが、1メーターにも満たない距離なのであっという間にタクシーは椎堂のマンションに着いた。タクシーを降りた澪は、椎堂の後に続いてマンションの廊下を歩く。一階の角部屋が椎堂の住んでいる部屋である。
「何もない所だけど……どうぞ」と前置きした後、椎堂は澪を招き入れた。

 澪が中に入ってみると、椎堂の言った言葉が本当であるのがすぐわかる。良く言えばシンプル、悪く言えば殺風景な部屋だった。澪が部屋にあがった所で立っていると、椎堂は慌ただしく窓を開けて空気を入れ換えたり、ベッドを整えたりしている。「よし、これでいいかな」と椎堂が独り言のように言っているのが何だかおかしくて、澪は小さく笑った。

「玖珂くんは、とりあえずベッドに横になって。あ、ちゃんと寝具は洗濯しておいたから大丈夫」

 別にそんな事は気にしないのに、椎堂はそう言って澪の手を引く。広めのワンルームは窓際にベッドが置かれている。着いて早々ベッドへ直行を命じられ、澪は不満そうに椎堂に口を開いた。

「……いいよ、別に寝なくても」
「ダメダメ、ちゃんと安静にしていないと。それとも、病院に戻るかい?」

 意地悪く椎堂がそう言うので、澪は上着を脱ぎ、持ってきた部屋着に着替えると仕方なくベッドに入った。いつもそうしているように背中を寄りかからせて座る。綺麗にセットされているベッドの上掛けをめくると洗い立ての清潔な香りがする。ここで椎堂が寝ているのかと思うと少し不思議な気持ちになった。

 椎堂は予め用意してきた薬などを出して準備すると、一人で納得したように頷き、漸く澪の側に腰を下ろした。
椎堂にとっての自宅は、ただ眠るだけのために借りている物でしかなかったが、澪の存在がそこに居るだけでそれはまるで別の空間にも思えた。

「疲れてない?熱は、ないよね?寒かったら暖房の温度を上げるけどどうかな?」
 椎堂は澪の脈を計ったりして心配そうに顔を覗き込む。こうなりそうな予感はしていたが、それが見事に的中してしまい、澪は一つ溜息をつく。
「……あのさ、折角病院じゃない場所に来たのに、俺の事医者の目でみるなよ……」
「ぁ…………ごめん、癖になっててね。心配だから……つい……」

 椎堂は澪から手を離すと、少し目を伏せた。ちょっときつく言い過ぎたかと思う物の……。しかし、この状況はどうみてもやはり普通ではないと澪は考えていた。仕方がないとは言え、相手のベッドに寝させられている上に、しきりに体調を気にされて、何だか少し情けない気分になる。それでも、病室に居るよりはずっとマシだったので、澪は小さく息を吐くと気を取り直した。

「先生さ……」
「うん?」
「下の名前何て読むの?」
「僕?僕の下の名前はセイジだよ」
――……誠二。

 その名前はとても椎堂に合っている気がして、澪は妙に納得してしまった。誠実な男に育つようにと椎堂の両親が名付けたのだとしたら、その願いは叶っていると言える。澪は、忘れない内にとポケットに手を忍ばせ、中に入っている物を椎堂に差し出した。
 それはあの日からずっと渡しそびれていたチューリップのマスコットだった。

「これ、ずっと渡すの忘れてた……。病室に落ちてたぜ」
「……あっ」
 椎堂は嬉しそうに澪からそのマスコットを受け取り、「ずっと探していたんだ」と笑みを浮かべた。
「それってさ……、何?」
「これは……僕のお守りみたいなもの、かな……」
「お守り?」
「そう……。これはね、僕が医者になって初めて受け持った患者さんから貰った物なんだよ」
「そうなんだ。このボタンは?」
「それは、その時着ていた白衣のボタンだよ」

 椎堂は懐かしそうに話を続ける。初めて受け持ったその女の子は今の澪と同じく手術をしないと完治が難しい病気だったらしい。しかし椎堂はどうしても諦めきれなくて手術をすすめ、結果その女の子は手術を受け、元気になって退院したという事だった。その時に御礼としてこのマスコットをくれたのだと言う。

「じゃぁ、大切なものなんだ……それ」
「そうだね……これを見る度に頑張ろうって気持ちになるんだ。まさか、玖珂くんが拾ってくれてるなんて思わなかったな……。有難う」

 澪は嬉しそうにそう語る椎堂を見て、医者としての椎堂の優しさに偽りがない事を改めて思い知る。こんなにも真っ直ぐ患者を想う椎堂に対して、今まで取ってきた自分の行動がどれだけ椎堂を傷つけていたのだろうと思うと、取り返しのつかない過去に後悔が湧くばかりだった。今更謝った所でなかった事には出来ないのもわかっている。だけど……。

「……あのさ」
「……なんだい?」

 澪が椎堂の手を取ってベッドへと引き寄せる。急にそんな事をされ、接近した澪の瞳に映る自分が見えると椎堂の心臓がドクンと跳ね上がった。息を飲み込んで澪を見あげ、次にかけられる言葉に僅かに緊張する。

「俺は……」
「……、……」
「俺は、……先生に何もあげられないけど」
「……?」
「俺も、先生が好きだから。……多分、同じ意味で」
「…………え……?玖珂、くん?」
「……だから」

 澪は椎堂との距離をもどかしく詰めるように身を乗り出すと椎堂の肩を掴んでさらに引き寄せる。

「……もうちょっとこっちに来いよ」

 椎堂はベッドの上に移動して座ると、澪の方へ身体を寄せる。自分の物とは思えないほどに鼓動が音を鳴らしていて、耳に脈打つ音がうるさいくらいだった。今の状況をちゃんと把握すればするほど冷静さを失っていく。恥ずかしくて顔を上げることが出来ずに居る椎堂の顔を覗き込むようにし、椎堂の顎に指を添えて持ち上げると澪はその薄い唇に自分のそれを重ねた。
「……んっ……!」

 驚いたように椎堂の身体がびくりとなり、澪の腕をぎゅっと掴む。一度口付けを解き、澪は椎堂の眼鏡を片手でスッと外すと、もう一度口付ける。椎堂は澪を見つめた後、身を任せるようにゆっくり目を閉じ震える息を弱く吐いた。

 初めて見た椎堂の素顔はとても綺麗だった。色素の薄そうな柔らかな髪も長いまつげも全部。それはまるで聖職者のような汚しがたい雰囲気を持っている。緊張しているのか少し震えて揺れる睫。その奥にある瞳の優しくて穏やかな眼差しはいつも自分に向けられていたのだ。そう思うと睫の一本一本までもが愛しく感じる。澪は椎堂の閉じた瞳にもそっと口付けを落とし、伏せ気味に瞼をあげた椎堂に優しく微笑んだ。

「わかった?こういう意味って事」
「…………玖珂……くん……」

 澪は椎堂の首筋を指で撫でた後、片手で椎堂の体を寄せて自分の胸に抱き込む。椎堂は澪の胸に寄りかかるようにして、その温もりを感じていた。澪は、華奢なその肩を撫でながら、静かに言葉を続けた。

「明後日、手術が終わって。……もしも、俺が目を覚まさなくても……」
「……っ、そんな事……」
「いいから、聞けよ……」
「……っ……」
「もし、そうなっても……。俺はちゃんと幸せだから……、先生のおかげで。……それだけは、覚えておいて……」
「…………玖珂くん」
「手術の前にちゃんと伝えておきたかったんだ……。今の言葉……忘れんなよ」
「……うん……」

 澪は満足したように笑みを浮かべ肩の力を抜いた。澪の心臓の音が、聴診器からではなく直接耳へと届く。椎堂はいつのまにか叶った自分の願いが、目の前で形になっていくのを感じていた。
 そして、澪はもう以前の澪ではなかった。椎堂を包む澪の長い腕は頼もしさを感じるほどで、そっと撫でてくる指先はとても優しいものだった。これが本来の澪の姿なのだろう……。抱きしめられている背中が澪の体温を感じ、椎堂の中で苦しいほどの嬉しさが溢れ震える。いつのまにか頬を伝う涙が自分でも気付かないうちにぽたりと寝具へと落ちる。澪はそれに気付くと、少し笑って椎堂の涙を指で拭った。

「先生って、もしかしてすぐ泣く人?」
「ち、違うよ。そんな事ない……けど……」
「泣きながら否定されてもな……、説得力ゼロなんだけど」
 椎堂は自分で目を擦って、涙を止めると澪の顔を見上げる。
「……玖珂くん」
「うん?」
「その……、二人でいる時だけ、名前で……、呼んでも構わないかい?」
「いいけど」
「ありがとう……、み、澪」

 初めて呼んでみた澪の名前。自分から言った事なのに声に出すのは想像していたよりずっと勇気が要り、椎堂は照れ隠しのように自ら澪の唇に口付けをした。穏やかな恋の始まりを愛しむように、澪も口付けを返す。角度を変えて何度も互いの唇を吸う。椎堂の歯列をなぞり、澪の舌が絡むと椎堂もそれにゆっくりと返す。少し強引な澪の口付けはとても甘くて、椎堂の身体の芯を容易く溶かしていく。満ちていく幸福感は、何物にも代えがたい物だった。

「……っん……ふ、……、澪……」
「……誠二」

 降りかかる澪の低い声、澪から名前を呼ばれただけで年甲斐もなく胸が弾んでしまう。それが澪にもバレるんじゃないかと思うと少し恥ずかしくて、椎堂は口付けが解かれると顔を隠すように澪の胸にそっと顔をうずめた。

 澪はふと懐かしいような気分になって、甘えるように顔をうずめる椎堂を抱く腕に力を込める。少し前に自分が病室で苦しんでいた時に、椎堂が後ろから自分を抱きしめてくれた時と同じ匂いがする。それは香水のような作られた香りではなく、気持ちが和らぐどこか優しい匂いである。

 この腕の中の椎堂の為にも、まだ死ぬわけにはいかないと思う。ベッドから眺める外の景色はもう真っ暗で、灯る街灯がアスファルトを薄く照らしているのが見える。だけど、今自分が居る場所はちゃんと明るくて、抱きしめる椎堂の存在が澪に居場所を与えてくれる。閉ざされているとしか思えなかった未来は、一人じゃ見られなかったかもしれないが、椎堂と一緒なら見られる気がする……。椎堂の悲しむ姿だけは、見たくないと澪は強く思った。

「誠二」
「……ん?」
「俺の事、好きでいてくれて……ありがとな……。色々酷い事言って、ごめん……」
「………………澪」

 椎堂は何度も首を振り、また性懲りもなく滲んでくる涙をどうしていいかわからず指で何度も拭う。「ほら、また泣いてる」澪がそう言ってからかい、椎堂も釣られて笑う。嬉しくて涙が止まらない事なんて思い出す限り覚えてないくらいだった。澪の腕に抱かれながらも、ベッドサイドに置いてある目覚まし時計をみて進む時間をつい確認してしまう。もっと時間が遅く過ぎたらいいのに、そう思い、時計を見ないように目を閉じる。
 暫くそうしていると、澪が軽く二、三度咳をし、椎堂は慌てて澪の顔を見上げた。

「澪、大丈夫?」
「大丈夫だって。咳ぐらい誰だって出るだろ」
「そうだけど……。無理してないよね?ちゃんと本当の事言わないと怒るよ?」

 今まで甘えていた椎堂が途端に医者モードに切り替わる。そのモードは封印して欲しい所だが、こればかりは今の現状どうにもならない事らしい。椎堂に真剣に怒られた事は一度もないので、一度見てみたい気もするが、本当に心配そうな椎堂を見てしまうと流石にそうもいかない。実際体調は変わらないし、何処か不調があるわけではない。澪は心配げな椎堂を安心させるように頭を撫でてあやす。

「体調は多分今までで一番いいと思う。誠二のキス、薬より効くんじゃないか?」
「……そ、それは……えっと」
「副作用もないしな」

 澪はそう言って苦笑する。冗談を言う澪の様子に椎堂も安心したのかほっとするように微笑む。「……じゃぁ、病院へ戻らなくて……平気そう?」澪を窺うようにように尋ねる椎堂に澪は答える。

「当然だろ?戻るのは明日」
「……うん」

 椎堂の耳元で「今夜は一緒に寝ようか」と囁くと、耳まで赤く染めた椎堂が黙って頷いた。