俺の男に手を出すな 3-16


 

 

 その頃、外科の医局では昼から行われる澪の手術について最終的な段取りが行われていた。
 第一外科の主任である佐伯が執刀医であり、他に同医局からは他の手術を数多くこなしてきた工藤が第一助手として入り、もう一人は研修医の大谷が入ることになっている。
 成功率の低い今回の手術には、保身を第一に考えている医師は声をかけて欲しくないというのが最初から透けて見えたのであえてそういう医師の人選は外してある。結果残ったのは数人だったが、工藤の腕は佐伯も信頼しているので第一助手を頼んだ。大谷を指名したのは場数を踏ませるためである。第二外科からも二人参加するので合計5人での手術になる。

 医局のテーブルに並べられた資料を再度手に取り全体的な手術の流れを確認した佐伯が資料をばさりと机へと置くと、近くに居る大谷が小さく溜息をついた。細身の身体は頼りなげに猫背になっており、顔色もすぐれない様子の大谷は、今までになく難易度の高い手術へ借り出される事に不安しかない様子を見せていた。
 まだ始まってもいない手術に、既にその状態なのは褒められたものではない。佐伯は大谷に振り向くとその背中に声をかける。

「なんだ。随分緊張しているみたいだな」
「さ!佐伯先生っ」

 突然声をかけられた大谷が、真剣に見ていた資料を思わず落としそうになり慌ててそれを胸に抱き込む。先程から側に居るのだから、そこまで驚く事もないだろうと思いつつ、佐伯は側にある椅子へと腰掛け、冷めた茶をすすった。

「オペ中に倒れるなよ」
「……だ、大丈夫です」
「こちらの緊張は患者にも伝わる。もっと気を楽にしていろ」
「は、はい……。でも、本当に自分なんかがこんな大きな手術に入っていいのか不安で……」
「何事も経験だ。それに、お前一人で切れと言っているわけではない。まぁ、一人でもやれるくらいになって貰った方が此方も安心できるがな」

 憧れている佐伯に言葉をかけられて大谷はひどく恐縮したように直角にお辞儀を返した。そんな大谷の初々しさを見て、佐伯は思わず苦笑する。自分が新人だった時は、別に憧れている医師などはいなかったし、こんなに初々しい態度をとった覚えもない。指導してくれていた医師からの評判はきっと最悪だっただろうが、態度について文句を言われたことも多分なかったように思う。

 大谷もいつか色々な壁に遭遇し、それらを乗り越えて立派な医師として成長していくのだろう。というよりは、そうなって貰わないと困る。そして佐伯はフと前に大谷が言っていた言葉を思い出して湯飲みを卓上へと置いた。

「そういえば……、大谷」
「はい」
「君は以前、私に会った事があるのか?」
「はい。あ……、佐伯先生は覚えていらっしゃらないかもしれませんが……」
「……すまないな。全く記憶にない」

 嘘をついても仕方がないので佐伯はそのままを伝える。そして、大谷が言った台詞に合点がいき納得するように頷いた。以前、大谷の母親がこの病院へ救急搬送で運び込まれた時、夜勤の医師が脳外科の医師だった事もあり、まだ研修医だった佐伯が執刀をしたのだ。異例ではあったが、助手で他の医師も参加していたので、手術はすぐに行われ大谷の母親は危篤状態から脱したらしい。大谷からその話しを聞いているうちに、佐伯はその時のことを思い出していた。

 まだ研修医の佐伯が執刀をするという事で、当時の先輩医師達は反対派が多数だったが、同じ症例をつい最近助手としてこなした事があった佐伯を迷わず抜擢したのが、現在の医局長であり、反対派の医師達も渋々と納得したのだ。
 こんな新米に出来る訳がない、そう思われているだろう事は想像がついたので、その手術の時はいつもより気を張って取り組んだ。最終的にひとつのミスもなく、手術を完遂した佐伯にきまずそうに「ご苦労様」と言って手術室を出て行った医師達の背中を見て、胸がすく思いだったのを思い出す。

 そういえば、術後何度か病室へ足を運んでいた際に、息子が見舞いに来ていた。顔は覚えていないが、その息子がどうやら大谷だったらしい。

「あの時、親に言われるままに医学部へ入ったばかりで……、医者になりたいと自分から思った事はなかったんです……。何となく入って、このまま勉強して。医者に憧れも全然なくて……。だけど、母が運び込まれたこの病院で当時の佐伯先生が完璧に手術をこなされて、後からまだ研修医だって知って凄く驚きました」
「まぁ……あの日は状況が少し特別だったからな」
「そうだったんですね。でも僕その後中庭で佐伯先生が煙草吸ってるのをみかけて……。あんな緊急手術を執刀した後だというのに疲れも見せず、人の命を救って当たり前みたいな顔をしていた佐伯先生を見て……。あ、医者ってこんなにかっこいい職業なんだって……そう思ったんです」

 多分、長い手術の後で煙草が恋しくなって一服していただけだと思うが、そんな佐伯の姿が大谷には特別に見えたらしい。

「かっこいい職業と思った事はないが、やり甲斐はそれなりにあるのは確かだな」
「はい。僕もいつか佐伯先生のような医者になりたいです。煙草吸えないんですけど……」

 少し笑ってそう言った大谷に、佐伯も苦笑する。
 佐伯の姿を見て、改めて自分の意思で医学の道へと歩むことを決めた大谷は、今、現実に夢を一歩叶えたという事になるのだろう。自分が救った患者と、生涯関わり合いを続ける事はないが、こうして形になって返ってきた事を思うと少し感慨深いものがあった。

「おふくろさんは、元気でやっているのか?」
「はい。佐伯先生のおかげで今はすっかり元気です。先月の精密検査で、もう通院も今後は必要ないと言われました」
「そうか……、良かったな」

 佐伯はそれだけ言うと側にかけてあった白衣を手に取り時計を見る。真っ白な白衣を颯爽と羽織る佐伯の後ろ姿に、大谷はしばし見とれて尊敬の眼差しを向けていた。

「佐伯先生」
「ん?」
「僕、外科を選ぶ事にしました」
「……自分で決めた答えならそれでいい」

 佐伯は机の上のカルテを脇に挟むとドアへと向かった。そして部屋を出る前に一度大谷へと振り向く。

「どうせ外科医を目指すなら、私よりもっと立派な外科医を目指せ。期待してるぞ」

 そう言って笑った佐伯に大谷は有難うございますと礼を言ったが、少しして頭をあげた時には佐伯はもう出ていった後であった。佐伯と昔のことを少し話して気が紛れたせいか、緊張は幾分ましになっていた。
 もうじき、臨床研修期間が終了して外科の道に一歩を踏み出すことになる。佐伯のような医師になるという目標を掲げた事で決心がついた大谷は、未来を思って自分の白衣を静かに手に取った。
 
 
 
 
     *   *   *
 
 
 
 
 澪はベッドで少し横になった後ぼんやりと窓の外を眺めていた。さっき椎堂が暖かいようだと言っていた通り日差しが結構きつくなってきている。澪の寝ているベッドにも陽の光が射し込んで足の方に至っては少し暑いくらいだった。
 そうしているうちに開かれたドアから玖珂の声が聞こえてきた。
 いつもは夕方に来ることが多いが、今日はいつもよりずっと早い時間の面会である。手術当日なので休暇を取り、一日いる予定だと言っていたのを思い出す。

 しかし、澪はふと聞こえてくる玖珂の声を不思議に思った。廊下で聞こえる話し声は看護師や医師と会話をしている感じでもない。時々笑い合う声も届き、澪がドアの方へと視線を向けると、次第に声が近づいてきてドアが開かれた。玖珂が顔を覗かせて、ベッドへ腰掛ける澪に驚いた様子を見せる。

「澪、起きていて平気なのか?」
「まだ手術したわけじゃないんだから、平気に決まってるだろ」
「まぁ、そうか……そうだよな」

 そう返事をした後、誰かが後ろにいるのか玖珂は笑って後ろを振り向き招き入れるように誰かを呼ぶ。澪が玖珂の背後に目をやると、後ろから髪を明るい茶色に染めた若い男が顔をのぞかせた。同業者だと一目でわかるスーツを身に纏い人懐こい笑みを浮かべているその男の姿を見て、澪は、咄嗟に晶なのではないかと予想する。
 日頃からさんざん玖珂に話を聞かされているので、会った事はなかったがだいたいの想像をしていたのだ。目の前の男は病室に入ってくると澪ににっこりと微笑んだ。

「初めまして、晶です。お兄さんにはいつもお世話になってます」
――やっぱり。

 澪は想像していた通りの晶の姿が現実とほぼ同じだった事に少し驚きつつ軽く会釈する。

「いつも話はきいてます、澪です。初めまして」

 互いに挨拶をした所で玖珂がおかしそうに笑いながら澪の側の椅子に腰掛け、晶にも隣に座るように椅子を引き出す。

「何だ。お前達、いつもと随分様子が違うんじゃないか?」
 そう言って玖珂が苦笑する。

「先輩、最初は肝心っすよ!な?澪くん」
「そうですね。あ……。君とかつけなくていいですよ」
「そ?んじゃ、澪って呼ぼうかな」

 何故今日晶がここにきたのかと聞こうかと思った澪の考えを先読みしたように玖珂が説明を口にする。

「ほら、前にお前に話した店の件。……まぁ、結局状況が変わってしまったから実現しなかったが……。晶もずっと心配してくれていたんだ。お前の体調が落ち着いたら見舞いにきたいって前から言われていたんだが……。中々機会がなくてな。今日になってしまったんだ……。今日も忙しいのに、お前が手術だから顔を見にきてくれたんだぞ」

 晶に「本当にすまないな」と頭をさげる玖珂に晶はとんでもないという風に首を振った。そして澪の顔をじっと見て一人納得したように頷いた。何処かおかしいのだろうかと思い、澪は今朝から鏡をみていなかったのを後悔する。髪もだいぶ伸びてるし、勿論セットもしていない。顔にかかる前髪を横目で確認していると、晶の感心したような声が響いた。

「やっぱり、格好いいな~!澪は。流石玖珂先輩の弟って感じ」
「……え?」
「あー、いや。雑誌でさ、俺は澪の顔は前から知ってたんだけど、リアルで見るとオーラがあるなって。素でこんなに格好いいんじゃ女がほっとかないわけだよな」
「そ、そんな事ないですよ……」

 面と向かってストレートに褒めてくる晶は、お世辞で言っているようにもみえず、澪はかぶりをふって否定する。
男に面と向かって格好いいと言われるのは恥ずかしいというのもあったし、それに、そう言っている晶の方が自分よりよっぽど
No1ホストの貫禄があり、格好よく見えたのだ。ホストといっても色々なタイプがいるわけだが、晶はまさにホストになるべくしてなったというような華やかさがあり、どんなタイプの人間でも受け入れられるような懐の大きさが、こうして少し話すだけで伝わってくる。澪はフと表情を緩めると、晶へと視線を向けた。

「晶先輩の方がずっと格好いいんじゃないかな」
「またまた~!営業トーク?あー……でも、嬉しいから素直に喜んじゃおっかな~。でも、俺の事あんまり褒めない方がいいぞ~?調子に乗る性格だから」

 自分でそう言って笑っている晶に、澪も釣られて少し笑う。少し照れたような晶に玖珂は微笑むと、澪と晶の顔を交互に見て目を細めた。玖珂にとってはどちらも弟のようなものである。
 すぐに打ち解けて、友人のように接してくる晶のおかげで話しは弾み、暫く3人で話し込む。

「でも、思ってたより元気そうでちょっと安心したよ」
「すみません。色々心配してもらっていたみたいで……」
「……うん。この前、病院抜け出したって聞いた時、俺めっちゃ心配でさ。後から玖珂先輩に聞いたからあれだけど、その時教えられてたら客放って探しちゃう所だったよ。……無事で……マジ良かったな、澪」

 晶が優しい笑みで見守るように澪に視線を送る。今日初めて会ったとは思えないようなその眼差しに、澪は晶の優しさを感じていた。歳は一つ上程度なはずだが、まるで兄のようである。玖珂とは歳が離れているが、もし年の近い兄弟がいたらこんな感じなのかもしれないと澪は思っていた。晶の魅力は、決して華やかな外見なわけではなく、こうした思い遣りのある内面から滲み出る雰囲気なのだと確信できる。

「そういえば、晶。この病院に来た事があるってさっき言ってたが……、それって例の火事の時の事か?」
 玖珂がそう尋ねると、晶は少し慌てた様子を見せた。
「え?あ……えぇっと。それもあるけど、でもまぁ……知り合いがいるっていうか……」
「知り合い?誰か入院しているのか?」
 途端に心配そうに眉を顰める玖珂に、晶は言葉をすぐに繋げる。
「いや、患者ってわけじゃなくて……。んー、そう!従業員っつーか……」
「従業員……?」

 医者だと言いきると限られてしまうような気がして晶は言葉を濁した。
 今更ではあるが、今ここに佐伯が来た場合、自分はどうすればいいのだろうかと咄嗟に考えてしまう。やはり他人のふり?それとも、火事の件で世話になった主治医的な位置で接すれば良いのか。そして、佐伯は自分の事を何と言うのか。色々考えると頭が混乱してくる。こんな事ならやはり事前に佐伯に連絡を入れて、辻褄の合うように話しておくべきだったかと少し後悔する。
 そんな事を考えていた晶は、次の玖珂の言葉をきいて心臓がどきりとなった。

「まぁ……。恋人がいたっておかしくないしな」
「え!……あ、いや……恋人って」

 一瞬、玖珂が佐伯との関係を知っているのかと思い慌てた晶だったが、どうやら少しだけ玖珂の的がはずれているのが次の言葉でわかり、ほっと胸をなで下ろした。

「晶の彼女は看護師なのか……、知らなかったな」
「看護師……。そ、そうか言ってなかった……かな……――ハハ」
 澪はそんな晶達のやりとりを聞きながら、どうも様子のおかしい晶に助け船を出す。
「兄貴」
「ん?どうした?」
「プライベートな事をそんなに聞くなよ。晶先輩困ってるだろ」
「あぁ、そうだな……すまん」
「それに、看護師じゃなくて先生かも知れないだろ?晶先輩、すみません」
「晶、すまないな。プライベートな事に口を挟んで。もう聞かないから安心してくれ」

 二人に謝られて晶は苦笑いを浮かべる。澪には何だか見透かされているような気もするが……、ただたんに例えとして言ったのだと思って置くことにする。ズバリ正解を言い当てられて動揺している事はとにかく隠しておき言葉を返す。

「いや、そんな謝んなくていいですって。それよりさ、澪もうすぐ、手術なんだろ?」
「はい、あと3時間弱かな……」
「そかそか、頑張れよ。俺応援してるしさっ」
「有難うございます」

 軽く頭をさげる澪に玖珂が付け加える。

「この病院に消化器外科で腕の立つ先生がいるみたいで、その先生が澪を執刀してくれる事になっているんだよ」

 玖珂が言っているのは佐伯の事だとわかるが、ここで知っている素振りを見せるのも躊躇われる。晶は「それは何より」とでも言うように何度か頷いてみせる。

「へ~、それは心強いっすね」
「あぁ、運が良かったと思ってる。……確か、佐伯先生という名前だったと思うんだが、晶は知ってるか?」
「え!?さ、佐伯先生は……。ちょっとわからないかな~」
「まぁ、そうだよな。一度会ったんだが、随分やり手って感じのする先生だったな。澪の手術を引き受けてくれて本当に有難いことだ」

 玖珂がそう言って微笑む。この会話は非常に心臓に悪い。晶は誤魔化すのに精一杯で曖昧に笑みを浮かべた。


 澪は二人の会話を聞きながら晶と玖珂の関係が少し羨ましいと思っていた。
 自分は晶のように慕っている先輩もいなかったし、店自体がもっと殺伐としていて、常に順位を競っているような状態だった。No1になってからは余計に他のホスト達と話す機会もなく……、この業界はこれが普通なんだと思っていたのだ。玖珂が晶をとても信頼しているというのは以前から知っていたが、晶もまた言葉の端々から玖珂に信頼を寄せているのが感じられる。

 自分にこういう関係が築けなかったのは店のせいもあるが、多分自身が他人を拒んできた結果なのだろう。この先、もし新しい行く先で出会いがあるならば、その時は素直に向き合おう……。澪は心の中でそう思う。

 ついこの前までは、椎堂や晶のように、こんなに人を思い遣れる人間が周りにいる事に気付かないでいた。少しずつ変わっていく事が出来るようになったのは、そんな周りの人達のおかげなんだと実感する。いつか、自分も誰かを思い遣れるような人間になりたい。澪は視線をあげて、晶が振ってきた話題に少し笑うと言葉を返した。

 晶が見舞いに訪れてから暫くして看護師が手術の前の説明に来た。軽く説明を受けて看護師が澪の病室を出て行くと、晶は「そろそろ」と言って椅子から腰を上げた。夕方から同伴があるので、一度帰宅して準備をするらしい。
 玖珂が晶に「来てくれて有難う」と礼を言い、澪もそれに続く。

「今日は忙しいのにわざわざ来てもらって、有難うございました」
「んなの、いいっていいって。俺が澪に会いたかったんだしさ。手術が終わったら、また玖珂先輩に様子きいて、澪が体調良さそうだったら会いに来させてよ」
「はい、待ってます」
「……あのさ」
「……?」
「澪の手術する腕が良いって先生……、佐伯先生だっけ。そいつ、必ず澪の事治すから。安心していいと思う」
「晶先輩?」
「まぁ、俺の勘ってやつだけどな!結構あたるんだぜ」
「信じてみます」
「うん、それじゃ。またな」
「晶先輩も同伴頑張って」
「おう!サンキュ」

 下まで送るという玖珂の申し出を晶は断り、澪の側にいてあげて下さいと言い残して病室を出て行った。
時刻は11時を廻り、手術の予定時刻まで2時間になった。
 
 
 
 
     *   *   *
 
 
 
 
――手術開始

 病室で手術前から受けている点滴によって眠っている澪がストレッチャーで運ばれてくる。手術室のドアの前で「ご家族は待合室でお待ち下さい」と言われ、玖珂は心の中で澪に「頑張れよ」と告げ、後ろへと下がった。麻酔はこれからかけるというので、まだ澪に話しかけられるのかと思っていたが、すでに導入されていた睡眠薬で眠りに落ちた澪は、そのままの状態でここまで運ばれてきたのだ。
 同じ階にある家族が待てるようになっている休憩室へ向かおうと玖珂が歩き出すと、丁度椎堂がこちらへ向かって歩いてきた。

「あ、椎堂先生」
「あぁ、玖珂さん。いよいよですね……」
「はい、何だか……此方まで緊張してきます。待っているだけなのに」
 そう言って玖珂が苦笑する。
「お気持ちはわかります。僕も似たようなものですから。……あ、休憩室はそこの角を曲がった所ですのであまり気を揉まず、待っていて下さい」
「はい、……宜しくお願いします」
「僕も手術中は見学室からモニターを見ていますので、何かあったら知らせに来ますね」
「わかりました……」

 椎堂が「では」と軽く頭を下げ、手術室へと向かって歩いて行く。玖珂はその背中を見送って、不安な気持ちを隠すように椎堂とは逆方向へ歩き出した。
 
 
 
 
 手術室ではオペ看達が今から始まるオペの最終確認を行っている。ミスの許されない現場では念には念をいれるに越した事はない。青白いタイルを無影灯の光りが照らし、手術台の上で前麻酔ですでに眠っている澪の身体もまた明るく照らされている。清潔だが無機質なオペ室には消毒液の匂いが立ちこめていた。

 無影灯の中心部に埋め込まれているカメラが術野を写す仕組みになっているが、まだ始まっていないのでそこには澪の身体が映されているだけである。
 椎堂はモニターの前で腕を組むと、壁により掛かって画面じっと見続けていた。数時間前に佐伯と共に澪の病室へ行って手術前の挨拶をしたが、澪は不安な様子をいっさいみせなかった。挿管チューブを入れられ、人工呼吸器で管理されている澪の姿を、椎堂はガラス越しにちらりとみる。緊張により、貼り付く喉に唾を飲み込み、椎堂は手摺り側へと移動すると深く息を吐いた。執刀するのが自分というわけでもないのに手が汗ばんでくる。椎堂は白衣で軽く手を拭い、覚悟を決めたように目を閉じた。
 
 
 
 
 開始時間10分前になり、手術準備室の自動ドアがすっと開き、深緑の手術衣に着替えた佐伯が入ってくる。佐伯は腕までを丁寧に洗い側で待っている看護師に向き直った。看護師が素早く減菌済みのゴム手袋やマスク、最後に手術帽をかぶせると佐伯が確かめるように指を動かした。馴染んでいく手袋から乾いたゴムが少しだけ音をたてる。指の感触を確かめた後、佐伯は一つ小さく息を吐くと、手術室のドアから中へと入った。

 手術室に執刀医の佐伯が入ると周りの緊張が色濃くなり、空気が一瞬張り詰める。準備を整えて待機していた前立ちの工藤に佐伯は軽く目礼をし、その後少し離れた場所で緊張に身をかためている大谷に一度頷く。第二外科から参加している医師へも軽く頭を下げて挨拶する。

 麻酔科の医師により全身麻酔をかけられた後、消毒をされデッキをかぶせるまではもう終了している。澪に視線を落としながら佐伯は麻酔科の医師にバイタルを確認し、問題がない事を耳にしたあと顔を上げた。澪の身体にあてられた無影灯の照明を工藤が調整し、光を強める。照らされた肌は真っ白に反射して見えた。

「では、これよりオペを開始する」

 マスク越しの少しくぐもった声でそう言い放ち、佐伯は右手を突きだした。

「メス」

 機器出しの看護師が迷いもなく佐伯の手に指示通りの器具を選んで乗せる。
 佐伯に握られたメスが金属特有の硬質な鋭さをともなってキラリと反射する。手術室の中には、澪の身体を維持するための機械音が定期的に鳴り響いている。
 指の一部になったかのように馴染むメスを澪にあてると、佐伯は迷うことなく一気に鳩尾から中心部へとなめらかにメスを走らせた。
メスの辿った後からじわりと血が滲んでくる。一定の部分まで切った後、電気メスへと持ち替え慎重に進めていく。重要な血管を避けるように完璧に開かれた腹部が漸くその内部を晒した。


 助手の医師が佐伯の見やすいように開かれた部分を固定するように処置を施す。止血鉗子で溢れる血液を止めると術野が鮮明に見えるようになった。
 佐伯は鋭い視線で中に目線を落とし、そっと指を差し入れると裏側の臓器を持ち上げ一瞬眉を顰めた。その表情は一瞬で消えたが見学室にいた椎堂はその一瞬を見逃さなかった。
 リンパ節転移がわかっている数カ所とはまた別の肺に近い箇所を指でなぞり、辿っていく。佐伯は目を閉じて指先に神経を集中させる、辿った先の僅かな違いを感じ取り目を開けると、一度手を抜きだした。
 工藤も同じ箇所を注視するが、佐伯の行動の意味はわかりかね、「どうしました?」と口を開く。

「ここの肺近くのリンパ節に僅かだが違和感がある」
「しかし、術前検査ではそこは……」
「まだ、写らなかった可能性が高いな……」

 どうするか考えを巡らす佐伯に、第二外科から参加している若手の医師が口を開く。

「じゃぁ、郭清範囲をそこまで広げたらいいんじゃないですか?」

確かにそこまでのリンパ節を全部取り切るのが一番簡単な方法である。しかし、佐伯は小さく笑うと、眼鏡越しに鋭い視線を向けた。

「君、それは本気で言っているのか?」
「……え、……」
「広範囲で取り除いた後、患者がこの先どれだけ負担を強いられるかわかってて言っているのかと聞いている」
「そ、それは……」

 転移の可能性しか見ておらず大幅にリンパ節郭清を行った場合、術後の生活にきたす後遺症は増えていく。その負担を一生背負っていくのは患者自身だ。出来るだけ少ない範囲で、しかし、完全に癌細胞を排除していくのがベストであるが、医師によっては先を考えずに範囲を無闇に広げる事も少なくないのだ。その現状に佐伯は疑問を感じていた。

「よく考えてから発言しろ。私達は今しかこの患者に関わらないが、患者はこの身体で一生生きていく事になる。君はその責任を取れるのか」
「……すみません。浅はかな考えでした……」

 佐伯は視線を外すと、病変から迅速標本を作製して、大谷へと振り向く。

「すぐに病理診断に回せ」
「わかりました」

 通常だと数日かかる病理検査ではあるが、こうして術中に転移かどうかを判断するために行う術中迅速病理診断は特殊な手法で行われ、精度は若干落ちるが驚異的な早さで結果が出るのだ。
 
 
 
 
 見学室に設置してあるモニターに近づいて固唾を飲んでいた椎堂は青ざめた表情で硝子越しに手をついた。
――転移の箇所が……肺にまで広がっているのか……。
 先程佐伯が指で確認していた肺近くのリンパ節は、当初の予定にない箇所である。

 全身へと張り巡らされているリンパ節を摘出する際はどの部分までを切り取るかが重要になってくる。通常こうした新たな転移が手術中に見つかった場合は、一度予定通りの手順を行い、後日もう一度手術を行う事が多い。しかし、澪の癌は進行性であり、今、取りきらないと再度の手術をするまでの猶予はないのだ。

――佐伯……。

 震える指先をガラスへ押しつけ、椎堂が澪の姿に視線を向けると、佐伯が一度だけ上にいる椎堂へと顔を上げた。
椎堂の姿を確認し、佐伯は目を向けたまま一度頷いて見せた。その視線には迷いや動揺は一切なかった。