俺の男に手を出すな 3-17


 

 
 
 先程出した検査の結果がでるのは大凡15分程度。その15分の間に出来るだけ進めておけば、もし結果が転移であっても対処する時間を長く取れる事になる。
緊迫している手術室に、佐伯の声が静かに響いた。

「何も問題はない。予定通り続行する」

 今、澪を救えるのは自分だけだという使命感。その事が佐伯が一番目を向けている真実だった。検査結果が転移だと確定しても、まだ肺までは侵されていない。ここで見つかった事は運が良いとも言える。肺転移をして手が付けられなくなる前に芽を摘むことが出来るのだから……。そして、そうなった場合でも確実に取り切れる確信が佐伯にはあった。

 澪の身体の中で真っ赤に染まる手が繋いでいく一つの命。血液が放つ濃厚な鉄の匂いと入り交じる消毒液の刺激臭、嗅ぎ慣れた匂いの中で佐伯の神経は研ぎ澄まされ、一つの完結した世界へと入り込んでいた。
 15分の間に予定していた手順を素早く進めていると、大谷が結果を知らせに来る。手を動かし、視線は外さないまま佐伯が口を開く。

「どうだったんだ」
「やはり、……転移でした」

 言いずらそうに小さく結果を告げる大谷へ佐伯は表情を変えず一言だけ返す。

「そうか、わかった。元の位置へ戻って良いぞ」
「……はい」

 佐伯の前で、工藤が苦しげな溜息をつく。いくら佐伯の腕がいいといっても、このように想定外の事があればまた話しは変わってくる。工藤が無理だとでもいうように首を振り、佐伯へと呟く。

「ここは、……やはり当初の予定通り全摘を終えた後一度閉じて、日を改めた方がいいんじゃないですか……とても時間内に処置できるとは思えない……」

 確かにぎりぎりなのだろうと佐伯も思っていた。工藤の判断はある意味正しいとも言える。手を動かし続ける佐伯の額に汗が滲み、看護師が素早くそれを拭う。

「工藤先生の仰る事はわかりますが、他に方法がない」
「だから日を改めて……、」
「一度メスを入れた以上、癌細胞を残したまま閉じれば悪戯に死期を早めるだけになる」
「…………」

 佐伯は一度手を止め、工藤へ視線を向けて静かに告げる。

「執刀医は私だ……。出来ない事を出来ると言い張るほど、無責任ではないつもりですが」
「……、…………」
「助手を引き続き、お願いできますか?」

 佐伯に真っ直ぐ射貫かれ、工藤は黙って一度頷いた。
 佐伯は再び術野に目を向けるとメッツェンを握る指先の角度を変えた。工藤はそれ以上は口を開かず、覚悟を決めたように澪の身体へと同じように視線を落とす。今は佐伯を信じるほかに乗り切る術がなかった。だとしたら、その成功へ少しでも導けるように助手として最大限の助けをするべきなのだ。

 予定通りの順番ではあるが、かなり速いスピードで摘出作業が進む。病巣におかされた臓器を切り取り身体から排出していく。
 圧迫止血の為に使用された血に染まったガーゼが何枚も床に捨てられ、担当の看護師がそれを拾い集めては血液の量を計測する。輸血の準備は予めしてあるが、どうやら出血量は最低限に抑えられているらしく、この手術においては必要なさそうであった。


 時計の針が刻々と時間を告げる中、胃の全摘出と予定していた部分のリンパ節郭清が終わり佐伯は一度メスを置いた。
手術を始めてから、3時間が経過している。
 摘出の際に他の臓器や血管を損傷させぬよう剥離しなければならないので相当な集中力が必要だった。佐伯は凝った首と肩を宥めるように回し、暫く目を閉じる。

「続いて再建に入ります」

 内部の奥にあるこの部分の吻合は著しく術野が狭く、少しのブレも許されない。術後に吻合部に縫合不全があれば、即合併症へと繋がってしまう。まるでパズルのようなそれを、一手も間違うことなく組み合わせていかなくてはならない。

「時間的に……Roux-en-Y法に変更しますか?」

 工藤が鞍状鉤で臓器の圧排を行いながら、佐伯に視線を送る。Roux-en-Y法は一番行われている胃全摘術の再建でかかる時間も一番短くて済むが、術後の患者のQOLを考えた場合ベストな方法とも言い切れない。佐伯の中で瞬時に幾つかの再建術の術式がシミュレートされ、少し考えた後口を開く。

「予定通りパウチ・ダブルトラクト法で」
「……間に合いますか?」
「勿論」
「わかりました」

 他の再建術より時間を要するが、術後の生活で一番安定した食生活を送れる事が明らかになっている。患者が高齢であったり、体力が著しく消耗している患者には使えないが、澪はその点はクリアしているので最初の予定はこの再建術を選択していたのだ。佐伯は瞬きを抑え、今までの経験と指先の感触を上乗せした視界でそれを正確に行っていく。
 手術室というのは、現実と切り離された異質な空間である。進んでいくそばから、後戻りが出来ないように次々に施錠されていく迷路のようでもあり、振り返ることも出来ない。佐伯はただ進む方だけを見ている。それだけだった。

 着々と進めていく佐伯の手技をみて、大谷は自分が息を止めて見入っている事に気付いて、慌てて息を吸った。佐伯の集中力は恐ろしい程で、またそのスピードも今まで見てきた外科医のそれとは全然違っている。
 こうして側で、佐伯の手術を見られるという事の貴重さが身に染みて、大谷はその手技を微塵も見逃すことのないようにみつめていた。
 
 
 
 
 手術室に響く声や機器の音が鳴り響く中、見学室からその様子を見ている椎堂もまた佐伯の手技に改めて尊敬の念を抱いていた。佐伯以外の外科医でも出来ない事はないオペだとしても、咄嗟の判断力で腕が鈍る外科医は少なくない。
 胃全摘のような難易度の高いオペは、今回のように予期せぬ事態があるとそのハードルを跳ね上げる。佐伯の指先は今、椎堂が見ているモニターの中で一瞬の迷いもなく動き続けていた。すでに開始から4時間ほど経っているというのに最初の一刀から衰える事もない。

 佐伯は確実に澪の命を繋いでいる。それがまるで目に見える糸のように椎堂に伝わっていた。その糸はしっかりとした強さで決して千切れるような脆い物ではない。
 椎堂は眠る澪の顔を上から眺めて小さな声で願う。

――頑張って……澪。佐伯は必ず君を助けるから……。
 
 
 
 
 手術開始から5時間、佐伯の汗を拭う回数が増え、助手の医師達にも疲労が滲んできた頃、術中に発見した最後のリンパ節郭清を終えた佐伯がホッとしたように息を吐いて、漸く剪刀を置いた。金属トレイにおかれた幾つもの手術用器具が、最後に放られた剪刀の下でカチャカチャと金属音を鳴らす。マスクの下に隠された佐伯の口元が満足げに釣り上がった。

「オペは成功だ……。縫合する」

 手術室にいた全員が安堵の表情を浮かべ、詰めていた息を洩らした。最初に佐伯に注意をされた第二外科の若手医師達も、佐伯のその見事な手技に昂揚したように目を輝かせている。
 後半、前に来て佐伯のメスさばきを間近に見ていた大谷は手が震えてくるのを感じていた。手術が始まる前、「オペ中に倒れるなよ」と佐伯に言われ、その事を自分でも少し心配していたのだが、そんな事は何処かへ行ってしまったかのように夢中で佐伯の執刀を見続けている自分がいた。

 自在にメスを操る佐伯の指先の動きは、人の命を救うという事がどういう事なのかを大谷に刻み込むには十分であり、オペの成功を告げた佐伯の言葉をきいた瞬間、大谷の目にはうっすらと涙が滲んでいた。

「大谷」
 突然名前を呼ばれて、大谷は佐伯の近くに寄る。
「は、はい!」
「縫合は君がやれ」
「え!?」
「え、じゃない。それぐらいすぐに出来なくてどうする」
「……わ、わかりました」
 佐伯は脇へと退くと、大谷の様子を窺う。
「えぇと……では、4-0?」
「……何故疑問系なんだ」

 佐伯が苦笑し、隣にいる看護師も小さく笑い大谷へと指示された糸を渡す。大谷は真面目で神経質な面があるが、それは外科医にとって悪いことではない。繊細な縫合跡をみて、佐伯は満足気に頷いた。
 オペ開始から5時間半、無影燈が静かに光を落とす。澪の手術は成功という形で終了した。
 
 
 
 
     *     *     *
 
 
 
 
 手術室から出た佐伯は血で染まった術着をダストボックスへと脱ぎ捨て、流石に疲れた様子で壁に背を預け長く息を吐いた。
 しかし、この疲れは気分の良い物でもある。使命を果たした達成感は疲労感を超越し佐伯を満たす物だった。助手についていた医師や看護師達にそれぞれ軽く「お疲れ様」と言い合い、術後の片付けをしているオペ看達の邪魔にならない場所へと移動する。

 マスク等を取り去り固定していた眼鏡のテープを外すと、佐伯はそのまま眼鏡を外して目元を揉むように指でマッサージした。閉じた瞼が少し熱を孕んでいるようで、それを逃がすように指を動かす。汗でまとわりついた髪を結びなおすと佐伯は開いた入り口へと目を向けた。静かに開いた扉から椎堂が入ってきて佐伯へと近づいてくる。

「お疲れ様。見事なオペだったよ……、流石だった。有難う」
「別にお前のために引き受けたわけじゃない」
「そうだとしても、礼ぐらい言わせてくれたって良いだろう?」
「まぁな」
「途中、どうなるかと思ったけど……余計な心配だったみたいだね……」

 椎堂がそう言って微笑むのに、佐伯も少し表情を緩める。

「……佐伯に執刀して貰えて本当に感謝してる」
「現時点で見える範囲での取り残しはないが、まだ潜んでいる可能性は高いぞ」
「うん……術後補助療法で、再発の根源を絶とうと思ってる。結構先は長いけど、今日の第一歩があったからこの先へ行けるんだよ……。佐伯のおかげだよ」

 話す二人の視線の先で音もなく自動ドアが開き、手術室から澪を乗せたストレッチャーが出てくる。佐伯は眼鏡を再びかけ直すと、椎堂の肩に一度手を置いた。

「後は内科のお前の出番だな。任せたぞ、椎堂」
「あぁ、分かってる」
「……早く行ってやれ」

 佐伯が椎堂を促すように澪の方を向く。椎堂はもう一度佐伯に礼を言い、頭を下げると澪の元へと近づいた。移動の点滴を準備する少しの間、眠る澪の手をそっと握ってそのまま椎堂は微笑みかける。術後の感染症等がない限り澪は次の治療へ移ることが出来る。それは確実に未来を繋ぐものであり、行く先は決して暗い物ではない。椎堂は一昨日の事をフと思い出していた。

――明後日、手術が終わって。……もしも、俺が目を覚まさなくても……。俺はちゃんと幸せだから。

 そう言っていた澪の台詞が脳裏に浮かぶ。澪の強い意志でもある『生きていたい』という気持ちが、今こうして目の前で奇跡を起こしたのかもしれないと椎堂は思っていた。
 看護師達が少し側を離れて足早に部屋を出入りする。椎堂は澪の髪にそっと手を触れ、小さく囁く。

――よく頑張ったね……。

 一言そう言って目元を少しだけ潤ませた
 
 
 
 
 待合室で待機していた玖珂に、看護師が手術が終了したことを伝えに来た頃はもう夕方になっていた。覚悟はしていた物の、長く感じる手術に何度か手術室の前まで足を運んで確認してしまったくらいだ。
 明るかった空はすっかり暗くなり、夕日が沈んで淡い夜になりかけるまで、それはまるで何日も経過してしまったかのように長く重い時間だった。たった一人で戦っている澪の側にいてやる事も出来ず、玖珂は待合室の冷たいソファにじっと座ってただ成功を祈るばかりだった。

 伝言にきた看護師に礼をいい、足早に手術室へと向かうと遠くからでも手術中のランプが消えているのが確認出来る。扉の前で待っていると先に出てきた佐伯が簡単に説明を終え、成功を伝えると玖珂の表情は一気に安堵の物へと変わった。佐伯が廊下を遠ざかっていった後少しして、澪が手術を終えて運び出されてきた。

――……澪。

 本人は意識がないまま眠っている。その姿は本当に手術を受けたのが嘘のように、いつもと何ひとつ変わった様子はなかった。玖珂は眠る澪に小さく声をかけて手を握ってやる。包んだ掌にはちゃんと澪の体温があり、生きていることを実感させる。

「本当に、有難うございました……」

 その後出てきた、周りの医師達や看護師に深々と頭を下げながら様々な想いが玖珂の胸の中を駆け抜けていた。
 手術も不可能で余命宣告までされた澪が、今もこうして生きているという事実は今まで生きてきた中で一番嬉しい事だった。たった一人の家族として、兄として、この先自分が澪へしてやれることはそう多くないのかもしれない。
 それでも、ずっと支えて見守ってやりたい、玖珂はそう願って澪の手をそっとストレッチャーへと戻し、共に病室へと足を向けた。
 
 
 
 
     *     *     *
 
 
 
 
 医局へ戻った佐伯は、暗くなった外の景色を眺め、震える指先をポケットへとしまう。今日の勤務は今の澪の手術が最後で終了である。医局のカーテンを閉め、ロッカーへと向かい白衣をしまって、変わりに弛めていたネクタイを結び直す。
 帰り支度をととのえて、医局へ残っている医師へと「お先に」と声をかけ、佐伯は廊下を歩き出した。人気のない外来棟を抜けて外へ出ると心地よい風が佐伯の髪を揺らす。

 駅へ向かいながら、鞄から携帯を取りだしサイレントを解除しながら晶の事を思い出していた。手術が長時間だったので晶に連絡をいれられないままもう時刻は7時を回っている。澪の手術の結果を教える約束をしているが、この時間だともう店へと出ている時間かもしれない。

 そう思いながら携帯を見ると、案の定、着信が10件も登録されていた。その10件は全部晶からであり、心配している様子が伺い知れる。着信は6時頃までで止まっており、時間からして店へ出る前に電話をかけていたのだろう。留守電にでもメッセージを入れておくかと佐伯はそのまま晶へと連絡を入れる。

 てっきり出ない物と思っていた佐伯の予想を裏切り、何度かのコール音のあと晶の声が響いた。歩き出しながら携帯を耳に当てるとざわざわした音に混じって晶の声が聞こえるが、晶の周りも雑音が凄くいまいち声が聞き取れない。

「もしもし?」

 佐伯が声をかけた途端、電話はいきなりプツリときれた。しかし、数秒後に今度は晶から呼び出し音がなる。通話ボタンを押して立ち止まると、走って電話をかけにきたのか少し息がきれている晶が慌てた様子で話し出した。

『要!!ごめん!今もう仕事中なんだけど、ちょっと店出てきたとこ。さっき煩くて聞こえなかっただろ?』
「客を放って電話なんかしていていいのか?」
『ちょっとだけ、すぐ戻るけど。それで……澪は……?』
「成功したに決まっているだろう」
『マジで!?良かった~!!俺さ、今日ずっと気が気じゃなくて、要が電話出ないのわかってたけど、何回もかけちゃった』

 晶の喜ぶ様子が電話越しにも伝わる。嬉しそうな晶の顔を思い浮かべて、佐伯は疲れが引いていくのを感じて小さく笑う。

『要』
「――ん?」
『お疲れ様!!さすが自信家なだけはあるよな。まぁ、俺も?佐伯先生は失敗とかしねーとは思ってたけどな』
「自信家は余計だろ」
『やっぱ?言うと思った』

 晶の笑い声が実に耳に心地よい。佐伯は駅へと再び歩き出しながら口を開く。

「おい、晶」
『お?なに?』
「俺は凄く疲れてるんだが」
『あー……。うん、それはそうだよな。今日はもう帰るんだろ?ゆっくり休めよな』
「労ってくれないのか?」
『労うって?』
「今日、店が終わったら顔を見せろよ」
『え、だって要、めっちゃ疲れてるんだろ?ゆっくりした方がいいんじゃねぇーの?』
「お前を抱いたら疲れもとれる」
『なっ!……‥バカ、急に何言ってんだよっ』

 こういう冗談を言った時の照れたような晶の顔が瞬時に目に浮かんでくる。自分は平気で恥ずかしいことを口にするくせに、佐伯がたまにこういう事を口にするとすぐに誤魔化して話題を変えようとするのだ。携帯を持ったまま赤くなっているであろう晶を思うと愉快な気分になる。
 しかし、今回は少し様子が違うようだった。佐伯が言葉を返す前に、わざとあしらうように晶が話しを切り出す。

『わかったよ。じゃぁ、たっぷりと労ってやるかな!俺直伝の技で!なんて』

 自分で言って照れているのを誤魔化すように笑う晶はすっかりいつも通りで、そこにいつもいる晶の存在が今夜はやけに眩しく感じた。今すぐ顔がみたいと佐伯は思う。
 声を聞くだけでいいと思っていたが、こうして実際に晶の声を聞くと会いたくなる。そして、顔をみればその肌に触れたくなるのだ。佐伯は暗くなった夜空を見上げてフと息を吐く。

「直伝の技とやら、楽しみにしているぞ」
『いや、そんなハードルあげんのやめて欲しいんだけど。まぁ、いいや。んじゃ、店終わったら行くからさ』
「あぁ」
『なぁ……、要』
「――何だ?」
『俺、ちょっと嬉しかったぜ』
「嬉しい?」
『要がこうしてさ、疲れた時に俺に会いたいって思ってくれたって事。あぁ~、俺って愛されてる~って感じした』
「……フッ……そうだな」

 背後で呼ばれたのか晶が返事をする声が聞こえ、慌てた様子の晶が早口で喋る。

『やべっ。マネージャーに呼ばれた!それじゃ、またあとでなっ』
「あぁ、お前も仕事頑張れよ」
『りょうか~い』

 電話をきった後、佐伯は今日一日を振り返りながら駅の改札を抜ける。術後の経過にはまだ安心出来なかったが、今頃は椎堂が付いているから心配はないだろう。自分の役目を果たした充実感に満たされながらホームで足を止めると、いつもと変わらない景色が目に映った。
 ホームに電車が到着するアナウンスが流れ、間もなくして電車が滑り込んでくる。混み合う車両に足を踏み入れ、手摺りへと掴まると、空気の抜ける音とともにドアが閉まった。

 佐伯はしばし、電車の揺れに身を任せ、休息をするように静かに目を閉じた。