俺の男に手を出すな 3-19


 

 
 

 長かった抗癌剤の治療は十分成功と言える結果を残して終了した。

 経口での抗癌剤治療は休薬期間を含めて今後一年は続くが、副作用の強い併用治療が終わった事で格段に生活は向上する。今日はPET/CT検査の結果が出る日である。他の検査では転移の兆候は見られなかったので今日の結果次第で全てが決まるのだ。
 ベッドの枕元に置いている澪の携帯が点滅し、メールが一通届いた事を知らせる。昨日までの抗癌剤治療の副作用のせいでずっと底辺を彷徨っていた体調も、僅かながらに復調しつつあった。澪は本日2度目の食事を何とか終わらせ、携帯を開く。メールは椎堂からであった。

 今日は昼まで外来の担当らしく、朝に回診に来て以来顔を見ていない。検査の結果は午後に時間を作って知らせてくれるとの話しだったが、届いたメールタイトルの『おめでとう』という文字を見る限り、多分結果が出たのだろう。出来るだけ早く伝えたくてメールを打った椎堂の様子が思い浮かぶ。

 予想通り、そのメールを開くと、PET/CT検査の結果、転移や癌細胞によるブドウ糖の取込み等は一切なかったという嬉しい結果が書かれていた。慌てて打ったのか、謎の改行が沢山入っており文章は短く要点だけを伝える物だけだというのにメールが下までとても長い。澪は指で画面をスクロールしながら苦笑した後、心の底から安心したようにそっと息を吐いた。
 体の中から濁って溜まっていた不安感が、すっと薄らいでいくのを感じる。

――これでやっと終わったのだ。

 嬉しいという気持ちより先に、ホッとしたという気持ちが先に立つ。入院してから今日に至るまで、とても長く感じる時間だった。暦では季節すら変わっていないというのに、数ヶ月前の入院日でさえ遠い昔に感じてしまう。
 再発の可能性は、今後何年にも渡り残るだろうし、昔のような生活に近づけるのもきっと何年かかかるのかもしれない。それでも、今この瞬間だけは全てを忘れて解放された気分に浸りたかった。

 今こうして生きている事自体が僅かな確率を乗り越えてきた結果なのだ。少しぐらいは何も考えずに息を抜いてもバチはあたらないだろう。椎堂が喜んで笑顔を見せるのを思い浮かべて、早く顔が見たいと思う。そして、ここまで支えてくれた玖珂を安心させたいとも思った。

 澪はもう一度携帯を開いて、玖珂へと結果を報告するメールを打つ。内容は検査結果を書いただけで、他には何を書いていいかわからなかったのでそのまま送信ボタンを押した。
 送信して5分も経たないうちに携帯が震え、澪は驚いて玖珂からの返信を開いた。こんなに早く返信を返してくるという事は、それだけ心配して携帯を離さず持っていたのだろう。メールには玖珂らしく喜びと安心したという旨が書かれた後に、結果が良かったからといって無理をしないようにという注意や、今日の体調はどうなのか等、いつも通りの心配性な兄としての文面が続き、最後に「よく頑張ったな。お疲れ様」と書かれていた。

 たった一人の家族である玖珂の存在、それは今回入院した事でその大切さが身に染みてわかった。沢山言いたいことがあるが、一言だけ「有難う」と打って返信を返すと澪は携帯を閉じる。

 廊下へ食事のトレイを戻そうとベッドから足を下ろし、硬くなった身体で少し伸びをする。身体を起こすとやはり若干嫌な感じの浮遊感がする。しかしそれも、少しの間目を閉じていると影を潜めて終いにはすっかり消えた。結果が良かったからと言っても今すぐ体調が元に戻るわけではないのはわかる。一昨日まで寝たきりに近い状態だったので、現状歩くのも難儀であり、本来は食事を終えたら片付ける際はナースコールを押すように言われているのだ。
 しかし、ベッドから廊下を覗き込んで見るとすぐそこに配膳のカートが見えたので、それくらいならと試しに自分で持って行く事に決めた。

 慎重に立ち上がって、壁づたいに手をつき部屋の入り口へと向かう。後数歩で病室から出られる間際で廊下から誰かが急いでこちらへ向かってくる足音が耳に届いた。――急病の患者でも出たのか?と忙しない足音を不思議に思い、廊下を覗こうと首を傾げた次の瞬間、病室の入り口に息を切らした椎堂が入ってきて目が合った。

「――あ、先生」
 入り口でトレイを持って立ち止まっている澪に、椎堂が驚いて足を止める。
「え?看護師さんは!?」
 椎堂が部屋を見渡す。勿論部屋の中には澪しか居ない。

「呼んでないけど……。そこにこのトレイ置きに行くだけだし」
「またそうやって無茶して、ダメだって言ったよね。ほら、早くベッドに戻りなさい」

 語気を強めた椎堂に怒られ、そのままトレイを奪われる。澪の身体を支えるようにしながら背中を押され逆を向かされた。

「あ、……何だよ。平気だって」

 結局10歩ほど歩いただけで、椎堂に強制的にベッドへ戻されてしまい、澪は仕方なくまた腰を下ろした。トレイを持ったままカートへ置きに行った椎堂が再び病室へと戻ってきて、側にある椅子へと腰を下ろしあがった息を整える。
「何でそんな、急いで来たわけ?廊下は走っちゃまずいんじゃない?」

 ベッドへ腰かけ、椎堂と向かい合ったままじっとその姿を見つめると、椎堂は言い訳めいた事を小さく呟いてずれた眼鏡を上へとあげる。

「走ってないよ。ちょっと早足で歩いただけ」
「それ、走ってるのと一緒だろ」

 そう言って澪が少し笑うと、何故か椎堂は俯いて黙ってしまった。少しの沈黙が流れ、澪は何かまずい事でも言ったのかと一瞬思う。しかし、まだほとんど何も会話をしてないのだ。当然思い当たる節はなかった。

「……どうしたんだよ?」

 澪が椎堂に腕を伸ばすと、椎堂は白衣の袖で何度か目を擦って鼻をすすった。
――え……、もしかして、泣いてる??
 驚いて顔を覗き込むと、目元を潤ませたまま椎堂は恥ずかしそうに笑ってもう一度目を擦る。

「ごめん……、玖珂くんの顔を見たら何か急に……」

 涙声でそう言って、袖口で目を隠す椎堂は、「……ハァ」と落ち着かせるように自分で一度深呼吸をしている。

「……ほら、白衣で目擦るなって」

 引き出しから新しいハンカチを取り出して椎堂へと渡すと、椎堂は受け取ったハンカチで涙を拭い、やっと落ち着いたようで顔を上げた。

「で?何で泣いてんだよ。俺が泣かせたみたいじゃん」
「そうじゃないよ。……嬉しかったから、検査の結果。メールにも書いたけど……。本当に良かったね……」

 椎堂の顔を見て――想像していた通りだ――とフと思う。いや、厳密に言えば泣かれるとまでは思っていなかったが、嬉しそうな椎堂の顔を見ると、結果よりその笑顔を見れた事が嬉しくなってくる。感情を表現するのが苦手な自分と違って、椎堂の感情表現はわかりやすい。

「……、あぁ……うん」
「おめでとう……、もう安心だね」

 椎堂がそういって微笑みながらまた涙を湛える。前にも思ったが、椎堂の泣き顔はとても綺麗だ。透明な滴が目尻に溜まり、揺れて零れ頬を伝う。濡れた双眼は慈愛に満ちていて、手を触れるのを一瞬躊躇ってしまうような美しさがあった。椎堂の泣き顔を見ていると何だか急に胸が詰まり、それを誤魔化すように澪はカーテンを引いて、椎堂の体を引き寄せた。嗅ぎ慣れた優しい匂いに安堵して、そっと目を閉じる。

「有難う……。俺も安心したよ」
「うん……」

 椎堂は遠慮がちに澪の胸に顔をうずめると、もう一度「……本当に良かった」と小さく呟く。しかし、すぐに椎堂は澪の腕から離れた。まだ昼間で、すぐそこの廊下には行き交う人の足音が聞こえる。気が済むまで抱き合っているわけにはいかないのだ。目元を赤く染めた椎堂が優しい笑みで澪を見つめる。
 恋人の顔に戻っている椎堂は、澪にとっては堪らなく魅力的に映り、こんなにも自分の事を想ってくれている相手が、恋人なのだと思うと、その愛しさをどうにか伝えたくなる。触れられない今の状況がもどかしくて、見合う言葉を必死で探すが……どの言葉も感情に追いつける物は思い浮かばなかった。

 椎堂も同じ気持ちなのか、一度澪の手に控えめに自分の手を重ねた後微笑む。返事を返す代わりに、黙ったまま指を絡ませれば、椎堂の指が少しだけ力を入れて返してくる。廊下からは見えない場所で、互いの気持ちを指先へ込める。触れている面積は極僅かでも、その想いは十分に伝わっていく。窓の外の陽射しが柔らかな光で二人を包み、その光がまるで祝福しているかのように感じた。暫く指を絡めた後、椎堂は澪の隣へと移動してベッドに腰掛けると澪の方へと振り向く。

「玖珂くん、今日はいい天気だし中庭にでも出てみないかい?僕も、今昼休みだし」
「いいけど、どうすんの?俺、中庭まで行っていいわけ?」
「それは、心配要らないよ。僕が車椅子を押してあげるから大丈夫」
「え?……車椅子かよ」
「勿論。今日は嫌だって言う意見は聞けないよ?」
「…………」

 検査へ行くときの移動で何度も車椅子へ乗ってはいるが、出来れば乗りたくないというのが本心である。しかし、流石に今の体調は自分で距離を移動するのは難しい。澪が渋々了承すると、椎堂は一度病室を出て車椅子を押して戻ってきた。点滴をセットし、車椅子へと腰を下ろすと椎堂が上着と膝掛けを用意する。

「もし、少しでも途中で気分が悪くなったらすぐに言うんだよ?」
「わかった。ちゃんと報告する」
「よく言えました。じゃぁ、行こうか」

 椎堂に車椅子を押されて病室を出る。こんな光景は病院内ではごく普通のことで、あちこちでそういう患者を目にすることが出来る。だけど、妙に恥ずかしい気分でもあり、澪は手持ちぶさたに指を何度か組み替え下を向いた。エレベーターへと乗って一階へ到着すると、すでに中庭が目に入る。昼休みだからなのか、澪達と同じように中庭で話している患者も数人見えた。

 自動ドアを抜けて中庭へと出ると、少し肌寒い空気が澪の体を通り過ぎる。外の空気をこうして吸うのは実に久し振りであり、病室で見るよりずっと眩しく感じる太陽の光に澪は目を細めて空を見上げた。外の空気が懐かしく感じるようになるとは一年前の自分には想像もつかなかった事だろう。優しく吹き抜けるそよ風に髪をかき上げ、深く息を吸い込む。車椅子に座っているせいでいつもよりかなり低い視界に不思議な感覚を感じながら後ろを振り向くと、椎堂が嬉しそうに自分を見ている視線とかちあった。

「玖珂くんは背が高いから、僕がこうして見下ろすのは何だか不思議な感じがするね」
 澪が考えていた事がわかっているかのようにそんな事を言って椎堂がクスリと笑う。
「そう……だな」
「向こうのベンチが空いてるから、そこまで行ってみよう」
「……ああ」

 中庭を横切る途中で、休憩している患者から声をかけられ幾度か車椅子を押す椎堂の手が止まる。椎堂は驚く事に全員の名前を覚えていて体調はどうですか?とそれぞれに返している。
 途中、小さな子供に駆け寄られ椎堂が腰を落としてその子供の頭を撫でるとその子供は満面の笑みを浮かべた。鼻から管を入れたままのその子供は、病人なのを少しも気にしていないようで緑色の柔らかい芝生を走って近くにいる母親らしき人物へと駆け出す。その背中に椎堂が「そんなに走っちゃダメだよ~……って言っても聞いてくれないんだけど」と小さく付け加えて、遠くにいる母親に会釈をする。

「子供は元気だな。先生も大変だ……」

 澪が苦笑してそう言うと、椎堂は再び車椅子を押しながら口を開く。
「こんないい天気だし、走りたくなっちゃうのはわかるんだけどね」
 振り返って立ち止まった後手を振る子供に、手を振り替えしながら椎堂が続ける。
「でも、あんなに小さくてもちゃんとわかってくれているんだよ。本当に自分の体にいけない事はしないでいてくれるんだ。早く良くなるようにって一生懸命頑張ってくれてる」
「……そっか」
「子供じゃなくても、すぐ無茶しようとする人もいるけどね?」
「…………、何だよ、その遠回しな説教」

 椎堂は「あれ?別に玖珂くんの事を言っているわけじゃないよ」と白を切って笑った。
 老人から子供まで、椎堂の優しさを皆が知っているようだった。病室にいるだけでは知り得なかった椎堂のその姿は、医者としてだけではなく、人間としても尊敬できる物だった。そんな椎堂が恋人である事が少し誇らしくもある。
「大人気だな、先生」

 そう言って顔を見ると、椎堂は照れたように眼鏡を押し上げた。
「僕は別に普通だよ。みんながこうして声を掛けてくれるのは、凄く嬉しい事だけどね」

 中庭の端にあるベンチは、丁度後ろにある大きな樹で影になっている。近くに座っている患者はおらず、椎堂はベンチの前で車椅子をロックすると、自分は隣のベンチへと腰を下ろした。

「温かいね、今日は」
 座った足を前へと伸ばして椎堂が空を見上げる。
「そう?俺は最近の気温とかよくわからないけど」
「そっか、そうだよね。一昨日はね、結構寒かったんだ。でも、もうすぐ春になるなって……今日はそんな感じ」
「そうか……。春になるのを待てるようになって、良かったよ」
「……うん、そうだね」

 この先、少しずつ温かくなって春が来て、その春が過ぎれば夏になる。今まで意識しないで過ごしてきた季節の移り変わりが今はこんなに待ち遠しい。風に乗って微かな緑の匂いがする。澪は深く息を吸ってゆっくり吐き、その空気を味わうと、椎堂に視線を向けた。木の枝が風で揺れる度に、椎堂に落とされたその影がゆらゆらと場所を変える。風で乱れた髪に手をやって椎堂が髪を梳くと、指の間からはらりと毛束が靡く。澪の視線に気付くと、椎堂は優しげに微笑んで眦を下げた。

「ねぇ、玖珂くん」
「ん?」
「僕ね、今日トランプを持ってきたんだ」

 椎堂が徐に一組のトランプをポケットから取りだす。子供の患者と遊ぶ時の為に持っているのかもしれないが、大人相手にトランプで遊ぶというのはどうなのだろうと思ってしまう。しかし、椎堂は全くそんな事を気にもしていないようで箱からセットを取り出すと、膝の上に置いた。

「まさか、手品とかするつもり?」
「いや、違うよ。占いをするんだ」
「占い?」
「うん、そう。簡単なやつなんだけどね、僕がやるのは結構当たるんだよ」
「ほんとかよ……?」
「あ!疑ってる?まぁ、見てて」

 椎堂はそう言うとトランプを手に取った。手慣れた様子でトランプを切って膝の上で何組かにわけると、その一組を手にとって澪に差し出す。

「はい、これをまず持ってて」

 椎堂が澪の膝掛けの上に束になった一組を置く。もう何年もトランプなど触った事もない。まして占い等あまり興味がなかったが何だか楽しそうな椎堂を見ているとトランプも占いも悪くない気がした。
 もう一組を椎堂が持って、前準備は終わったようである。どういう仕組みかは知らないが、互いに一枚だけ選んで抜き去った後交換をするらしい。その一枚を選ぶときは好きな相手を思い浮かべて念じるのだと椎堂は真面目に言って、一枚トランプを引き抜くと神妙な顔でその一枚に念じているようだった。一生懸命なその姿が微笑ましい。澪はそんな椎堂に思わず苦笑しながら、言われた通りに自分も一枚を引き出し、それぞれのカードを交換しあった。

「玖珂くん、今、僕のこと見て笑ってただろう?酷いなぁ」
「ごめん、だって何か真剣だったからさ」
「ちゃんと念じないと当たらないんだからね?」
「まぁ、そうなんだろうけど」
「じゃぁ、その一枚をあけてみて」
「俺だけ?」
「うん」

 澪が持っているカードを裏返して見ると、開かれた椎堂が引いたそのトランプはハートの7だった。

「それで?これって、結果はどうなわけ?」

 結果を急く澪に椎堂は澪が引き抜いたカードを開いて見せた。なんと、椎堂の持っている一枚のカードもスペードではあったが、数字は同じ7であり、流石に澪も驚いた様子でカードを交互に見直した。

「………凄いな。同じ数字じゃん」
「これね、数字が近いほど相性がいいんだよ。相性占いだから」

 そう言って椎堂はにっこりと微笑んだ。近い方がいいという事は全く同じ数字であれば最高の相性なのだろう。澪は自分の持っている7のカードを暫く眺め、その後椎堂のカードと並べて指で挟み椎堂へと向ける。

「じゃぁ、俺達の相性は最高って事になるわけ?」
「あれ?……玖珂くんは喜んでくれないのかい?」
「………いや、嬉しいけど」
「良かった……。僕だけ喜んでるのかと思ったよ」

 たかが占いではあるが、やはり良い結果は嬉しい物でもある。指に挟んだトランプの白い部分がきらりと光に反射する。全く同じ数字ではあるが、椎堂がハート柄で澪がスペードだった事も、偶然だが互いを表しているような気がする。椎堂が自分で占いが当たると言っていたのは本当なのかもしれない。それにしても、いい大人が中庭でトランプをしている光景はやはりおかしな物である。

「……先生ってさ」
「うん?」
「何か、時々子供っぽいよな」
「……え?そ、そうかな?」
「うん、今まであまり出会った事ないタイプかも」
「……そう……?玖珂くんより年上なのに、もしかして……呆れた?」

 椎堂が肩を竦めて少し気落ちしたように白衣のポケットに手を入れて俯く。真っ白な椎堂の白衣が風ではらりとなびいた。澪が車椅子から手を伸ばし、椎堂の膝の上をトントンと軽く叩くと椎堂が顔を上げる。

「いいんじゃない?……俺はそんな先生も可愛いと思うけど」

 椎堂は大きく息を吸うと、今度は耳まで赤くして両手で顔を覆う。澪はそんな椎堂が益々可愛く思え、近づいて椎堂に小さく囁く。

「耳まで赤くなってるみたいだけど、熱計ってやろうか?」
「……く、玖珂くん、大人をからかうのは良くないよ」
「あ、先生大人なんだ?」
「また……。そう言う事言って……」

 椎堂はわざと覗き込む澪を払うようにして顔を上げた。照れ隠しで少し怒っているようにしている物の、全くその効果を発揮出来ていない。拗ねたような椎堂を見て笑っていると、椎堂も困ったように眉を下げて少し笑う。
 もともと椎堂は優しい雰囲気の容姿ではあるが、澪といる時はそれに一層磨きがかかっていた。ふわっとした柔らかそうな髪と同様に、傍にいるとそれだけで人を癒やすような空気がある。澪を見て幸せそうに微笑む椎堂の表情が一瞬だけ僅かに翳る。どうしたのかと思って見返すと、椎堂がひとつ息を吐いた。

 トランプをしまって、横へと置くと椎堂は病棟の方へ視線を向ける。椎堂の視線の先を辿ると、丁度澪のいる病室の窓が見えた。今は誰もいない無人の病室のカーテンが開けたままの窓の内側で風に揺れている様子がわかる。

「あのね……。玖珂くんの手術が終わったら、話そうと思っていた事があるんだ……」
「……何?」
「………僕、この病院を辞めようと思ってるんだ」
「………え?」

 想像もしていなかった事を唐突に告げる唇を見れば、椎堂は違う違うという風に顔の前で手を振った。

「医者を辞めるってわけじゃないよ」
「……何だ、びっくりさせるなよ………。じゃぁ、勤務先を変えるって事?」
「そう……なるかな」
「どこの病院?都内なのか?」
「……ううん。もっと遠い場所……」

 遠い場所と濁す所を見ると今のここからは相当離れた場所なのだろう。それだけでも突然の知らせだというのに椎堂はまだ何か伝えたい事があるのか迷うように視線を彷徨わせた。

「いつまで、この病院に?」
「玖珂くんが退院するまでは勿論ここにいるよ。今、担当している患者さんの引継が終わるまではね……」
「そうなんだ。………遠い場所って……どこなんだよ」
「………アメリカだよ」
「……え」

 確かにかなり遠い。地方へ行くというレベルの話しではない。椎堂の事だから、何か理由があってそんな遠くへ行くのだろうし、散々考え抜いた結果なのだろう。自分には行くなという権利はない気がして、澪は少し考えたのち言葉を返した。

「先生が決めた事だから、俺は何も言わないけど……」
「うん。有難う……そうなんだけど」
「どうかした?」
「玖珂くんと、あまり会えなくなっちゃうなと思ってね………」
「………そうなるけど、それはわかってて決めたんだろ?」
「……一緒に、……行けたらいいのに……」
「……え?」

 さっきから何度目かの「え?」という言葉が思わず出てしまう。
 あまりに突然の話で澪は返答に詰まって言葉を飲み込む。こうして椎堂といられるようになって、勿論これからも一緒にいたかったが、ちょっと観光旅行に行こうというのとは全くわけが違うのだから。

「……でも、俺が一緒に行ったとしても、向こうでどうすればいいんだよ」
「それなんだけど、僕が今度行く所はターミナルケアに力を入れている病院でね。ホスピスではないけど……。大学時代の先輩がそこで働いていて、前にも一度誘われたんだ……、その時はまだ決心がつかなくてね……」
「――うん」
「玖珂くん、この前言ってただろう?ターミナルケアに関わる場所で働きたいって。そこの病院の近くに、系列のスクールがあるんだ。そこで勉強しながら一緒に学べたらいいかなって……」
「……そう……なんだ」
「行ったら、3年は帰ってこれないと思う」

 そう言って椎堂はますます寂しそうに表情を曇らせた。椎堂が前から終末治療に感心があるのは聞いていたし、そういう場所でもっと色々な事を学びたいと話していたのも覚えている。だからこそ、アメリカのその病院まで行く決心をしたのだろう。椎堂は自分の意見を押しつけるような性格ではないので、澪が断れば、この話しはこれで終わってしまうのは容易に想像がつく。

 澪は様々なことを考えて、遠くに流れる雲を眺める。澪が退院するまではこの病院へいるという椎堂とは、入院している間はこうしてすぐに会う事が出来る。今はそれが当たり前になってきていたが、退院した後を考えると、例えアメリカへ椎堂が行かなくても会う時間はずっと少なくなるだろう事は想像できた。

 そして、退院した後澪が学びたいと思っているターミナルケアの事に関しては全く未知の世界であり、どういう所で勉強すればいいのか、それさえもわからないのが現状である。現場にいる椎堂の元で学んでいくのが一番いい方法なのをわかっていて椎堂も誘ってくれているのだ。
 ホストに戻らないと決めた今、日本にいる事にこだわる理由は見当たらなかった。

「……先生は俺に一緒に来て欲しい?」
「………それは………でも、僕が決められるような事じゃないから……」

 そんな椎堂の様子を見て、一番真っ先に澪の中にわいたのは、ここまでずっと支えて来てくれた椎堂に恩返しをしたいという気持ちだった。自分が一緒に行く事が恩返しになるかはわからない。もしかしたら、こんな身体では椎堂に負担をかけるだけなのかもしれない。だけど、一緒に来て欲しいという椎堂の願いを叶えてあげたいと、そう思った。

「誠二が、……本当に思ってる事が聞きたい……」
「……っ、………やっぱり、一人で行くのは不安なんだ。……それに、………澪と会えないのは寂しいよ。僕のただの我が儘なんだけど……」

 澪はフと息を吐いて、椎堂を見つめ静かに告げた。

「………わかった」
「……え?」
「今度は、俺が誠二の我が儘を聞いてやるよ……。無事に退院出来たらの話しだけどな……」
「……澪……、本気で言ってる?」

 椎堂はまだ少し信じられないとでも言うように、何度か瞬きをし澪の顔を少し不安げに見つめた。

「……何だよ、心配?俺じゃ頼りないとか今更言うなよ?」
「言わないよ。………澪と一緒なら心強いし。でも、ちょっと驚いた……」
「……。一人で行かせるの心配だし、それに……」
「…………うん」
「俺だって、誠二に会えなくなるのは嫌だから」
「……澪」

 見知らぬ土地で暮らす事に澪としても不安が全くないとは言い切れない。病気の事もある。しかし、それ以上に、意を決して話してくれた椎堂の気持ちが嬉しかった。一人で行くのが不安だと告げる椎堂を傍にいて守ってやりたいと思う。しっかりしている所もあるが、何処か脆い部分を持ち合わせている事を知っているだけに余計にそう感じた。

 真上に昇っていた太陽が少しずつ角度を変え、椎堂の横顔を照らす。話す前に陰りを見せたその表情は消え、椎堂がゆっくり息を吐く。

「でも俺、英語喋れないけど」
「それは平気だと思うよ?スクールは色々な国から学びに来ているし、日常会話ぐらいならすぐに慣れると思う」
「じゃぁ、平気か……。誠二、英語は話せるのか?」
「僕も……あまり自信ない、かな」
「………それ、やっていけんのかよ?」
「今から頑張って勉強しないとだね」

 椎堂はそう言って笑い、澪も釣られて微笑む。度胸があるのかないのか、時々椎堂の性格が掴めない。
 治療が終わってゆっくりしてから今後の事を考えるつもりでいたが、意外な顛末でその先は決まってしまった。退院後の新しい生活を無事迎えるためにも、今はしっかり療養して、早く病気を治さないといけない。
 澪は細くなった自分の手首を見て、隠すように袖を引っ張る。少し行動しただけで疲れてしまう今の体力も少しずつどうにかしなければいけない。したい事も、しなくてはいけない事も、沢山あった。当分暇な時間などなさそうである。

 椎堂が腕にはめた時計に目を落とし、ゆっくり立ち上がって膝を払った。何も言わなくても澪の体調には酷く敏感に気付く恋人は『そろそろ疲れる頃だ』という事まで把握しているらしい。

「そろそろ病室に戻ろうか」
「あぁ、そうだな」

 椎堂はロックをはずすと澪の車椅子を静かに押す。柔らかく二人を包む陽射しが、芝生の緑に濃い影を映していた。進む二人の影が重なって一つになる。強い風が一度吹き付け、椎堂と澪の間を通り抜ける。肌寒さを感じて膝掛けを少し上へと引き上げる澪の肩に、椎堂は白衣を脱いでそっとかけた。