午後の部の一種目目が終わり、家族徒競走になると、拓也はそわそわしながら沢山いる父兄の中の晶に一生懸命手を振っている。遠くに居る晶がそれに気付いて手を振り返す。気合いを入れて一位になると言い切っただけはあり、集まっている周りと比べても晶は一番足が速そうに見える。

「拓也、ほら、そこからじゃよく見えないだろう」

 屈んだ佐伯が拓也に腕を伸ばす。滅多に佐伯には抱かれた事がないので、拓也は一瞬迷った様子を見せたが、おずおずと佐伯の腕に手を伸ばした。
 佐伯は拓也を抱き上げると少し場所を移動してよく見える所で立ち止まった。長身の佐伯が腕に抱く事で、拓也の視界が一気に高くなる。前の人達より、頭一つ抜けた場所で拓也は嬉しそうに笑みを浮かべた。

 こうして拓也を腕に抱くことは、父親としては当然なのだろうが、自分がその行動をしている事はとても不思議な気がした。半袖から出た拓也の細い腕が佐伯の肩をぎゅっと掴む。小さな手の感触に佐伯は視線を向けて呟いた。

「拓也」
「はい」
「俺のことは、嫌いか?」

 拓也の指先から視線を外し、遠くを見たまま佐伯が口にした言葉に拓也はきょとんとしている。

「どうしてですか?おじさんの事、僕好きです」
「……そうか」
「あの……」
「何だ?」
「おじさんは僕の事……」

 佐伯は間近でまっすぐな瞳で見返してくる拓也と一度だけ視線を交わし、再び遠くを見る。

「俺もお前の事は好きだ……。あまり優しくはしてやれていないがな」

 そう言って苦笑する佐伯に拓也は安堵した表情を見せると、「おじさんもお兄ちゃんも大好きです」と言って明るい笑顔を向けた。佐伯は少し力をいれて拓也を抱え直すと満足そうに頷いた。



 一種目目が終わり、晶を含む父兄達がゲートから所定の待機位置へと移動する。晶は周囲の父兄と話しているようで、時々笑っているのが見える。丁度3列目に並んだ晶のチームを確認すると、5人のうち2人は父親で1人は母親、そして1人は結構高齢に見えるので祖父なのかもしれない。

 それぞれの父親達は、佐伯と同じぐらいの歳にみえるが、周りのチームの父兄よりはスポーツに長けていそうな体躯をしていた。チーム色の鉢巻きが配られ、晶にも拓也と同じ紅組の鉢巻きが手に渡る。何処に巻いてもよさそうだが、晶はそれを受け取ると額へときゅっと結んでいた。

「お兄ちゃんも、僕と同じ紅組です!」
「あぁ……そうだな」

 軽快な音楽に切り替わり、一番目に走るグループがスタートラインへと並ぶ。耳に響くピストルの合図の音で駆けだした一番目のグループがあっという間に佐伯達の前を通り抜けゴールする。次のグループもすぐにゴールし、いよいよ晶の番である。佐伯は拓也を抱え直して少し上へとあげてやる。

 金髪に近い明るい髪色で、しかも長身の晶はとても目立っている。いつ仲良くなったのか、背後に居る母親軍団からも「頑張って~」等の声援を受けているようだ。さすがホストだなと妙な所で思わず感心してしまう。

 スタート位置についてピストルの音が響くと一斉に走り出す。佐伯に抱かれている拓也も興奮した様子で
「お兄ちゃん!頑張れーーー!!」と腕の中で声を上げた。

 足の速さには自信があると言っていたのは本当のようで、最初のスタートダッシュから飛び出た晶は他の4人とすぐに距離を離し、誰も寄せ付けないままトップを走っている。しなやかな筋肉を纏った長い手足が、風を切るようになめらかに動き、晶の前髪がその風を受けて靡く。フォームを崩さないで走る晶の姿をみて、佐伯はその流麗さに見蕩れていた。

 佐伯達の前を通り過ぎる一瞬、晶がチラリと視線を投げる。長い睫が一度閉じて上へあがり佐伯へ向く、額から流れた汗の滴がこめかみから一筋流れ太陽の陽射しにキラリと反射する。まるでスローモーションのように佐伯の視界を埋めた晶は、そのまま走り抜けて、トップでゴールした。少しして他の父兄もゴールする。

 観客席からも拍手がおこり、皆、晶の足の速さに驚いているようだ。

「やったぁ!!お兄ちゃんが一等賞ですね!!」
「そうだな」
「僕とてもびっくりしました!あんなにかけっこが早いのあこがれてしまいます!」

 自分が走ったかのように興奮気味で息を弾ませる拓也を腕から下ろし、少し後ろへと移動する。暫くして、徒競走が終わると向こうから髪をほどきながら晶が帰ってくるのが見えた。

 駆け寄った拓也と手を繋いで側にきた晶は、佐伯が渡したタオルで一度汗を拭って拓也の前に屈む。首にかけられていた紙で作られたメダルを外すと、にっこり笑って拓也の首へとそれをかけた。

「ほい、コレ、プレゼント」
「え?僕がもらってもいいんですか!?」
「もっちろん。拓也のために取ってきたんだから」
「うわー!ありがとうございます!」

 折り紙で作った金メダルを自慢げに眺めて胸をはる拓也はまるで自分が一番をとったかのように喜んでいる。佐伯は僅かに目を細めそんな拓也を見ながら晶へと近寄る。

「お疲れさん」
「どうよ、ちゃんと見てくれた?俺の走り」
「あぁ、本当に速かったな。驚いたぞ」
「昔はもっと速く走れた気がしたんだけど……。やっぱ歳のせいかな~」
「あれだけ速ければ十分だろう」
「まっ!一番だったからいっか」
 佐伯は晶に近づくと耳元で囁く。
「格好良かったぞ」
 口では「当然っしょ」と言ったものの照れたような晶が誤魔化すように拓也に話しかけている。


 笑い合う二人に「戻るぞ」と告げ歩き出そうとした所で、少し離れた場所で急に悲鳴が響き渡った。驚いたように晶が振り向く。何事かと佐伯も足を止め声のする方へ振り向くと、少し先で人だかりが出来ていた。

 様子を窺っていると、保育士達もかけつけ何やら大騒ぎになっているようである。人だかりの隙間から誰かが地面に倒れている様子がみえ、佐伯は人混みをかき分けてその輪の中へと入っていった。
 悲鳴に驚いて怖がる拓也を抱き上げて、晶も佐伯の後を追う。

 輪の中心に50代くらいの男が倒れており、傍にいる家族が必死で名前を呼んでいる。男は四肢を痙攣させているが意識はある様子で受け答えはしている。保育士が「救急車!救急車を呼んで下さい」と声を張り上げた瞬間、佐伯が「その必要はない」と一言言って男の側へと屈みこんだ。

 男の腕をとり、脈を確認しつつ全体の症状を観察する佐伯に「だ、誰ですか!?」と家族が驚いたように佐伯へと視線を向ける。

「私は医者です。救急車を呼ぶような症状ではない。誰か手を貸して下さい。日陰に移動させて」

佐伯が静かにそう言うと、静まった周りから何人かの父親が名乗り出て、全員で男を木陰へと移動させる。

「熱中症の一種です。何か冷たい物があれば全部集めて持ってきて下さい」

 弁当に保冷剤を入れていた家庭が多いのか、それなりの数が佐伯の元へと集まった。佐伯は首、腋窩、鼠径と順番にそれを挟み込んで固定する。男の家族が、佐伯から熱中症と言われた事に対して、ちゃんと水分は沢山とっていたと告げる。佐伯が医者である事に疑いを持っているようでその声には僅かに非難の色が滲んでいる。佐伯は気に留める様子もなく口を開く。

「何を飲んでいましたか?」
「えっ……ミネラルウォーター、ですけど。でもこうならないように多めに飲むように気をつけていて……」
 佐伯は小さく溜息をつくと、男に向かって声をかける。
「手足の痙攣以外で気になる事はありますか?」

 男は少し頭も痛いと告げたが、他にはなにもないという風に首を振る。佐伯は一度立ち上がると膝を払って集まっている輪の方を向いて晶達を探す。心配そうな拓也と晶を見つけると、晶へと声をかけた。

「弁当の包みの中に塩があるから取ってこい」
「塩?って普通の塩?」
「あぁ」
「わかった」

 晶が拓也を抱き上げたまま走っていき、塩を手に戻ってくる。弁当の味を薄めにしていたので、塩を持参していたのは運が良かった。
 男の家族にミネラルウォーターを持ってくるように指示すると、受け取った新しいペットボトルのフタをあけて手持ちの塩を少量流し込んでボトルをよく振る。

「熱痙攣を起こしているだけです。これをゆっくり飲ませて」

 佐伯は男の家族にそのペットボトルを渡すと、晶へ「戻るぞ」と一言言って輪の中から出ていく。まだざわつく輪の中で様子を見ていた父兄達が、佐伯の背中を目で追うが誰も口を開かない。あまりに一瞬の出来事で何が何だかわからないといった感じだからである。急いで佐伯の後を追う晶が前へと回り込む。

「大丈夫なのか?みてなくて」
「問題ない。すぐに回復する」

 足早に歩いて、荷物を置いているレジャーシートへと戻ると、佐伯は靴を脱いで座り込んだ。抱いていた拓也をシートへとおろし、晶もあがると、拓也が驚いた表情のまま佐伯をじっとみている。

「……何だ」
「おじさん、すごいです」

 前に医者だという事は言ってあったので、拓也もその事は知っている。目の前で的確に処置を行った佐伯を憧れの眼差しでみつめる拓也に、佐伯は居心地の悪さを感じて視線を逸らした。そんなまっすぐな視線で見られるような事はしていない。

 そう思っていると、暫くして先程の男の家族と保育士が数人揃って近づいてきた。佐伯は嫌な予感を感じ、思わず苦々しい息を吐く。先程は倒れている男を見て咄嗟に駆け寄ってしまったが、こうなる事も予想がついていたはずだ。我ながら失敗したと思いつつ、視線をあげる。

「先程はどうも……。祖父はすっかり回復しまして、その、お礼を言わせて頂きたくて」

 頭を下げる家族は、先程佐伯が医者である事を疑ったのを恥じるように頭を下げて礼を言う。同じく頭を下げる保育士が、礼を述べたあと拓也の側へと屈んでにっこり微笑む。

「拓也君のお父さんのおかげで先生達とっても助かったのよ。拓也君もありがとうね」
「……お父さん…………?」

 振り返って、晶と佐伯の顔を交互に見て拓也はポカンとしている。拓也にとって佐伯は母親の友達のおじさんというだけで、父親だとは思ってもいなかったからである。

「佐伯さん、本当に有難うございました。助けて頂いて。救急車を呼んでいたら大騒ぎになる所でした……」
「いえ……回復されたのなら良かったです。今後は、水ではなくスポーツ飲料などで水分を補給するように……。後、気になる不調が残るようならかかりつけの医者に念の為診て貰って下さい」
「はい、本当にお手数をおかけして……。有難うございました」

 何度も礼を言ったあと、立ち去る後ろ姿を見ながら佐伯はどうしたものかと考えていた。拓也にどう説明をすれば良いのか。まさか、こんな場所で父親である事がばれるとは……。別に美佐子には父親である事を隠すようには言われていないが、今更父親だと言っても拓也が混乱するだけなのは想像がつく。
 佐伯がゆっくり振り向くと、晶が拓也の目を見て静かに微笑んだ。

「……拓也」
「……はい」
「拓也はお医者さんになりたいんだよな?こうして困ってる人を助けてあげたいんだろ?」
「はい……ぼくもおじさんみたいになりたいです……」

 佐伯が「晶」と声をかけて遮り拓也を見る。自分で先を説明しようとした時、拓也が小さく口を開いた。

「おじさんは……、僕の……おとうさんなんですか……?」

 少し躊躇ったあと、佐伯は一言返す。取り繕った言葉は余計に事態を悪化させる可能性を考えて、認めるだけの言葉を静かに口にする。

「…………あぁ、そうだ」

 目をパチパチと瞬かせ、驚いている拓也はそれでも必死で真実を受け入れようとしているように見えた。「お父さん……?」と確かめるように小さく口にした拓也が、晶の方を振り返る。不安げに揺れる小さな瞳を安心させるように、晶はその手に自分の手を重ねてぎゅっと握ってやる。

「拓也のお父さん、……すっげーかっこ良かっただろ?」

 晶がそういって優しく微笑む。拓也を引き寄せて腕に抱くと、拓也は恥ずかしそうに「うん」と頷いた。佐伯も小さく笑ってそっと息を吐く。父親だという事がわかった所で、急に態度を変えるわけでもない。晶の腕の中で落ち着いた様子の拓也が振り向く。不安な様子は消え、少しはにかんで照れた様子の拓也を見ると真実を告げた事が間違っていないと思える。
 晶の腕の中で佐伯を見上げると拓也は笑顔を向けた。

「おじ……」
 慌てて「おとうさん」と言い直す拓也に佐伯と晶は思わず苦笑する。慣れていないのだから、仕方がない。
「呼び方は、今まで通りおじさんで構わん。……父親らしい事はしていないからな」

 佐伯の言っている意味がわからないようではあったが、おじさんと呼ぶように言われた事はわかったらしい。「おじさんと、おとうさんと、お兄ちゃん」と全部の名称を言って拓也は笑った。
 
 
 
 
 
 騒動があって一時中断していた運動会も午後の部が全て終了し、少し時間が遅延した閉会式の後、解散となった。「腹へった~」という晶に続いて、拓也も「僕もお腹がすきました」と騒いでいる。昼にあんなに弁当を食べたのに、子供である拓也はわからなくもないが、晶までもう腹が減ったというのは一体どういう事なのかと佐伯は思う。まだ5時半になったばかりではあったが、車を走らせてそのまま佐伯達は早めの夕飯を食べに行くことになった。

拓也を家へと送るのは7時過ぎという約束であり、それまでにはまだ時間もあったから急ぐこともない。何を食べたいのかと運転しながら佐伯が聞くと、後部座席に乗っている晶と拓也が口々に色々なメニューを言う。

「どれかひとつに決めろ」

 佐伯が騒がしくする二人に呆れたようにそう言うと、暫くまだあれこれと言っていたが、晶が纏めるように後部座席から顔を出して告げる。

「んじゃ、ファミレスで~」

 散々あーでもないこーでもないと言っていたくせに結局ファミレスという安易な結末に落ち着いたらしい。「わーい!」と喜んでいる拓也に同調して、晶がさもファミレスが楽しい場所のように語っている。確かにメニューは和洋折衷何でもあるのかもしれないが、他に何かいい所があるようにも思えない。佐伯は会話には加わらず運転をしながら後ろで聞こえている晶達の話しに耳を傾けていた。

「ジュースとか混ぜ放題なんだぜ?」
「ほんとうですか?」
「うんうん、コーラと林檎ジュースとか結構おすすめ。拓也もあとで色々試してみ」
「はい!」
「あ、でも、もし混ぜておいしくなくても全部飲むのは約束な?」
「どうしてですか?」
「そりゃ、自分で混ぜるんだから。男なら責任とって我慢して飲むんだよ。残したらかっこわりぃーだろ?」
「そっか……わかりました!僕も男の子だから全部のみます!」

 とんでもない事を教えている晶に佐伯が口を挟む。

「余計な事を教えるな、晶」
「何で?要、まぜねーの?」
「……混ぜない。そのままが一番いいに決まっているだろう」
「相変わらず堅物だな~ちょっとは冒険したほうが楽しいって」
「…………そんな事で冒険しなくちゃならん意味がわからん……」
「僕、まぜます!」

 もうめちゃくちゃである。これ以上ジュースごときで騒がれても困るので佐伯はやれやれと肩を落とす。

「……わかったから。好きに混ぜろ……そろそろ着くぞ」

 何処のファミレスでもいいと晶が言うので、大通りを走りながら一番近くにあったファミレスへと行き先を決める。佐伯の車は5分ほどして到着した。駐車場はかなり混んでおり、店内へ入ると、待ち時間があるほどではなかったが家族連れで満席に近い。あちこちから拓也ぐらいの子供の声がし、騒がしかった。何故、子供というのはファミレスが好きなのか……、佐伯はふとそんな事を考えながら案内されて席に着く。

 晶とは家かもしくは出先だとそれなりに洒落た店に行くし、第一酒を飲まずに食事をするという事以外があまりない。勤務中は病院内の食堂で食事を済ませてしまうので、佐伯はファミレスにはほとんどきた事がなかった。
 水とメニューが運ばれてくると早速晶と拓也がメニューを手に取る。

 そんな中、目の前の拓也は、車の中ではハンバーグが食べたいと言っていたにも関わらず、大きなメニューを一生懸命めくりながらどれにするか考えているようだった。

「拓也はハンバーグ食うんだろ??」
「どうしようかな……他のも食べたくなりました」
「どれどれ」

 晶が一緒にメニューを覗き込む。どうやら、拓也はもう一つ気になる物があるらしく、それとハンバーグとを迷っているようだった。佐伯ももう一つのメニューを広げてページをめくる。用意されているメニューはいかにも子供が喜びそうな物ばかりだ。

「晶、お前は何にするんだ?」
「俺は、どうしよっかなー」
「拓也はハンバーグじゃないのにするのか?」
「えっと……どっちにしようかな……」
「……他にはどれが食べたいんだ」

 佐伯が拓也にメニューを見せると、パスタの部分を指さして、「どっちにしようか、考えています」と言う。その顔が真剣そのもので、本当に子供というのはよくわからないものだと佐伯は思う。特に嫌いな物があるわけではない佐伯はそのままメニューを閉じると脇へと置いた。

「俺がそのパスタを頼むから、ハンバーグにしなさい。半分やるからそれでいいだろう」
 漸く納得した拓也は晶の見ているメニューに顔を向ける。
「お兄ちゃんは?」
「んー……」

 いつもそうだが、結構他の事は何でもパッパと決めてしまう晶はこういう時はなかなか決まらないのだ。決めかねている時は強引に急かすのが一番手っ取り早い。まだ迷っている晶を無視して佐伯は店員に声をかけた。すぐにやってきた店員に晶が慌てた様子で佐伯を睨む。

「うわ、何だよ!俺まだ決めてねぇのに」
「いいから早く決めろ」

 結局、佐伯に急かされた晶も拓也と同じハンバーグにすることになった。メニューが運ばれてくる間に、晶と拓也は例のジュースを混ぜにドリンクバーへと向かう。二人が手に持ってきた何とも言えない色をした飲み物は、見た目は不味そうだったが、本人達は美味しいと言っている。拓也が3種類を混ぜた事を得意げに佐伯へと話していると、全く見ず知らずの背後の席にいた子供が急に「僕も3種類混ぜる!」と何故か張り合ってドリンクバーへと駆けだした。

 子供同士の理解しかねる張り合いに返す言葉もなく、佐伯は黙って眉間に皺を寄せた。
 今日の運動会の事などを晶と拓也が話していると頼んだメニューが運ばれてくる。取り皿をもらい、拓也へとパスタを半分よそって渡すと、拓也は「ありがとうございます!」といって喜んでいる。

 途中まで食べ終えた所で佐伯が拓也の皿を見ると、付け添えの人参を食べていないのに気づく。

「拓也、人参も食べなさい」

 佐伯の声を聞いて、ギクッとした晶が隠すように人参を除けている。実は、晶もにんじんが大の苦手だったのだ。人参が嫌いだ等とまるで子供である。拓也はともかく佐伯は晶のその姿にため息をつく。注意しても一向に食べる様子のない拓也を見かねて、佐伯は仕方なく拓也の分の人参を口に運ぶ。

「晶、お前は食えよ?」
「…………俺のも食ってくれたっていいじゃん。頼むよ要~」
「……、……お前は子供か」
――何で俺がこんなに人参ばかり食わないとならないんだ……。

 そう思う物の、晶には拓也の事で面倒をかけているので佐伯は渋々晶の人参も口に運ぶ。最後の人参を口へ運んでいると、何だかおかしくなって佐伯は一人で小さく笑った。
 晶からもらった徒競走のメダルをまだ首にかけたままの拓也は、相当嬉しかったのか時々首から下げているそのメダルを何度も見ては笑みを浮かべている。手作りのそれは本物の金でもなんでもないただのオモチャだ。だけど、何十万もする金の何十倍も拓也には輝いて見えるのだろう。
 食事を終えた二人が、続けてデザートを食べているのを見ながら佐伯はフと息を吐いた。  
 
 
 
 
     *     *     *
 
 
 
 
 
 時間も丁度いい頃合いになり、ファミレスを出て拓也の家へと車を走らせる。間もなくして周辺のパーキングへ到着し駐車すると、晶を車内で待たせて佐伯は拓也の家へと手を引いて歩く。

 以前住んでいた周辺の町並みは、その当時とほとんど変わっておらず佐伯の中に僅かに懐かしい想いが蘇ってきた。自宅前について、一度家屋を見上げれば、誰も居ない家の中には当然灯りはついておらず真っ暗である。7時より少し時間が早かったのでまだ美佐子は帰っていないようだった。

「一人で大丈夫か?お母さんはまだみたいだが……」
「はい、大丈夫です。いつもちゃんとお留守番しています」

 拓也はそう言うと慣れた手つきで小さな手に鍵を握り背伸びして鍵穴へと差し込んだ。センサーがついているのか拓也が鍵を開けて玄関をあけると中のライトが一瞬にして明るく点灯する。離婚して以来、家の中を見るのは初めてだったが開かれた玄関から見える風景も当時と変わっていなかった。

 まっすぐな廊下の両端に部屋があるという作りで、それは入った時に開放的だからそうしようと佐伯が言ったのだ。フとそんな昔の事を思い出し、拓也がこの家に一人で待っているのを考えて佐伯から思わず言葉が出る。

「拓也……すまないな」
「……え」

 何故、佐伯が謝るのかわからないように拓也が首をかしげる。同情心とはまた違った感情が佐伯の中へと残るが、今の佐伯には拓也をどうしてやる事も出来ない事もわかっている。佐伯は玄関へ足を踏み入れないまま、靴を脱いであがる拓也を見守る。

「この後……ちゃんと鍵を閉めるんだぞ」
「はい!」
「……じゃぁな」
「あの……今日はとっても楽しかったです。お兄ちゃんともまた遊びたいです」
「あぁ、伝えておく」

 後ろを向いて歩き出す佐伯の後ろ姿に拓也の声が届く。佐伯は一瞬振り向くのを躊躇ったが、ゆっくりと足を止めた。

「お父……さん」

 呼ばれ慣れていないその言葉が、背中から浸食してくる。佐伯が振り向くと玄関でいまだ立ったまま佐伯を見ている拓也と視線が絡んだ。振り向いた佐伯をみて、拓也が笑みを浮かべる。大きな声で「バイバイ」と手を振る拓也に佐伯は黙ったまま一度頷くと、そのまま振り返らずに足を速めた。


 パーキングへついて外から晶の様子を窺うと、助手席のシートを倒して眠っていた。拓也に付き合ったせいで晶も疲れたのだろう。佐伯は起こさないように静かにドアを開いて車へと乗り込む。エンジンをかけて車が走り出しても晶は目を覚まさなかった。

 下道を走って、途中から首都高へとのりこむ。帰宅時間と重なっているせいか道は少し渋滞しており、暗くなった目の前の景色にブレーキランプの明かりが連なっている。佐伯は着ていた上着を脱いで、眠る晶にそっとかけ、その横顔を見ながら先程の事を振り返っていた。

 今までも、拓也の事を不憫だと思った事は何度かあるが、接する機会も全くなかったのでそんなに深く考えた事もなかった。しかし、玄関で「お父さん」と呼び手を振る拓也をみて感じたのは、不憫だとかそういう物とは全く違った。多分それは愛情なのだ。恋人へむける物とは別の愛情。今まで自覚した事の無いその感情に気付いたのは自分自身が以前と変わったからなのだろう。

 そして変わったのは、晶と付き合うようになったからだ。今まで付き合う相手に自身が影響を受ける等ということは思い出す限りなかったと思う。
 渋滞していた車が少しずつ流れ出し、佐伯もアクセルをゆるく踏み込む。徐々にスピードをあげる中で、助手席の晶が目を擦って口を開く。

「あれ……?やべぇ、すっかり寝てた……」
「疲れたんだろう。着いたら起こしてやるからそのまま寝ていろ」
「うん……。俺今夢みてた」
「どんな夢だ」
「拓也と一緒にさ、すげー長いどっかの道を走ってる夢」
「ほう……。昼間に徒競走に出たからじゃないか」
「あー、そうだなきっと」
「最後までお前がとった金メダル首から下げてたぞ。余程気に入ってたらしいな」
「マジで?良かった……。俺さ、別に拓也の父親でも何でもねーけど……今日見た子供達の中で、やっぱ拓也が一番可愛いなって思った」
「……そうか」
「……要の……血を分けた子供だからかな?」
「さぁな……」

 晶は少し笑った後、まだ眠そうにあくびをしてそのまま再び静かに寝息を立て始めた。安心しきったように眠っている晶をちらりと見て、佐伯は少し目を細める。

 すっかり流れ出した車の窓には首都高の夜景が次々と映り込んでは消えていく。佐伯はアクセルを強く踏み込んで夜の景色を駆け抜けた。
 
 
 
 
 
END