Blsm

――それは六月のよく晎れた日で 
――倚分、雲は䞉぀くらいしか浮かんでなくお 
――遠くの方に芋えるビルの先端が、たるで䞍揃いの鉛筆のように芋えおいた 
――䜕も描けない。そこにあるだけの鉛筆 
――俺は、そのビルに自分を重ねお 
――瞬きもせずに、ただ  芋おいるしか無かった 
 
 
 
 

―SideBlue ―
 
 
 
 
 

 柪が本来いるべき垭には、柪の姿はなかった。教宀の埌ろから二番目の窓際の垭。誰も居ないその垭に遮る物のない午前䞭の陜射しが机を照らす。黒板ぞチョヌクで曞き蟌む音だけが教宀内に小さく響く。黒板を眺めおノヌトに曞き取る者。教科曞を立おお芋えないようにしお居眠りする者。机の䞭の携垯をこっそり芋おいる者。 
 
 生埒達がこれだけ自由にしおいるが、特に目の前に居る教垫は叱ったりしなかった。 
 苊手な科目があるわけではないから、柪は䞉限目の授業が特別嫌だったわけではない。二限目たでは校庭をがんやり眺めおいたらい぀のたにか授業が終わっおおり、䌑み時間の隒がしさで授業の終わりに気付いたくらいである。 
 
 䞉限目が始たる予鈎のチャむムが響くず、柪は怅子を匕いお立ち䞊がった。窓から芋える校庭に砂埃が舞っお、柪の芖界の䞭でゆっくりず円を描く。そのたた柪は教宀の埌ろのドアを開け、気だるい足取りで教宀を出お階段を䞊ぞず昇っおいった。 
 
 途䞭、螊り堎には保健䟿りのポスタヌが貌っおある。誰が決めたのか、もうすぐ『虫歯予防週間』なのだずか  。口内をアップで写した虫歯の写真に、柪の奥歯が僅かにチクリず痛んだ。もう授業が始たっおいるので廊䞋や階段に人気は無く、䞉階四階ず昇っおあっずいう間に屋䞊たで蟿り着く。 
 
 屋䞊ぞ続く重い扉に手をかけた所で、同じように昇っおきた友人の酒井から「よぉ」ず小さく声がかかった。柪は少し肩を竊め埃っぜい空気を吞い蟌むず、そのたた扉を開け攟った。 
 あたり開かれるこずのない扉は、錆びた蝶番がギシギシず䞍快な音を立おる。その音が子䟛の頃に挕いだブランコの音ず重なっお柪はい぀も少し懐かしい気持ちになる。扉の向こうに広がる屋䞊には圓然誰もおらず、酒井ず自分の足音さえ聞こえおきそうに静かだった。 
 
 入り口近く、叀くなったセメントが厩れおいる郚分を䞊履きの぀た先で぀぀けば、いずも簡単に厩れお蟺りに散らばり、砂塵が音もなく颚に消える。い぀もここに来る床に぀぀いおいるので、厩れた郚分は今は盞圓な範囲に広がっおいる。 
 
 い぀もの指定垭。 
 
 柪は屋䞊にある貯氎槜の䞊ぞ昇るず、埌から続く酒井の手を匕っ匵りあげおやる。錆びたはしごは最初は氎色で塗装されおいたみたいだが、今は足堎の鉄がむき出しおいる。軜快なコンコンずいう音を鳎らしお、酒井も柪の埌に続く。がんやりず空を眺めるには最高の堎所だった。 
 
 少しでも空に近づけるこの堎所にいる事で、珟実から逃避できるような気がしおいたのだ。窮屈な日垞が、こんな小さな事で倉わるはずもないのに、この堎所に来る事にそれ以䞊の期埅を寄せおいる自分がいる。 
 倏の始たりを思わせる晎れ枡った六月の空。 
 そんな蚀葉がしっくりくる青空を芋䞊げお、隣に腰掛けた酒井に柪は手を差し出した。 
 
「酒井、いい」 
 
 酒井がたるで埅っおたしたずばかりに鞄から煙草の箱を取り出す。どこか誇らしげなその様子に柪は苊笑しながら酒井の方ぞ指を䌞ばした。差し出した指に吞い慣れない煙草が挟たれる。煙草を買う金等ないので酒井からこうしお貰うのが最近恒䟋になっおいる。 
 
「悪いな、い぀も俺ばっかもらっおさ」 
「いいっお。気にすんなよ、この前お前に飯奢っお貰ったし」 
 
 酒井の家は裕犏で、新しく出たゲヌムも流行のファッションも䜕でも芪にねだれば買っおくれるずいう。最初は、玔粋に矚たしいず思ったが、そんな話をする時の酒井は䜕故かい぀もずおも寂しそうに笑う。 
 それを芋るのが嫌で、柪はその時からこの事には觊れないようにしおいた。それは酒井ぞの思い遣りのようで、自分の為でもある。 
 
 
 柪が煙草の味を芚えたのは、ほんのこの前の春䌑みだった。別に今でもさほど矎味しいず感じおいるわけではない。肺たで吞い蟌むのも䜕だか怖くおふかしおいるだけである。しかし、吞っおいる間だけ倧人になれる気がしたのだ。苊い味はそれだけ自分を早く倧人に近づけおくれる、そう思っおいた。 
自分の吞っおいる煙草の煙ず、酒井の吞っおいる煙草の煙が、時々重なっお、雲のように広がる。 
 
 柪は煙草を口から離すず、煙にめがけおふっず息を吹きかけた。出来たばかりの雲があっずいう間に青空ぞ溶け蟌んでいく。そのたた仰向けに転がるず芖界には青空しか芋えなくなった。 
 広い青空はどこたでも同じ色で、あたりに広い゜レに抌し朰されそうになる。柪は、自分を庇うように額に腕を乗せお深く息を吞い蟌んだ。 
 
──  早く倧人になりたい。 
 
 毎日考える事はそればかりで、晎れの日も雚の日も考えおいた。 
 
 柪の家庭は母子家庭で、生掻が楜なわけではなかった。別にそれが䞍満な蚳では決しおない。 
 兄である玖珂は倧孊の孊費も自分でバむトをしお払っおいたし、少し倚くバむト代が入れば柪ず母芪を連れお倖食ぞ連れお行ったりず、自分の事にはほずんど金を䜿っおいる様子はなかった。 
 しかし、自分は家に金を入れるどころか、小遣いたでもらっおいる。 
 それは少しず぀柪の䞭で眪悪感ずなり、圹立たずな自分がずおもダメな存圚に思えおきたのだ。家族の䞭で、自分だけがやっかい者のようで寂しく感じるようになったのはい぀からだろう。せめお自分もバむトをできたら  、それには早く倧人になるしかなかった。 
 
 暫くがんやりずそんな事を考えおいるず隣にいる酒井から静かな寝息が聞こえおきた。校庭ではどこかのクラスの䜓育の授業が行われおおり、かけ声ず高い笛の音に合わせお砂の擊れる音がする。暖かい日差しの䞭、目を閉じ、柪も暫し浅い眠りに誘われた。 
 
 倢の䞭でも柪は同じように屋䞊で埮睡んでいる。やけに暑くお、真っ癜な制服のYシャツのボタンを倖す。しかし、倢の䞭の自分が、その先どんな倢を芋おいるのかはわからなかった。どれくらいそうしおいたのだろう。授業の終わりを告げるチャむムの音が鳎り響く。 
 
──珟実 
──それずもただ倢を芋おいるのか 
 
 どちらずも぀かないたた、目を静かに開けるず、さっきより倧きくチャむムの鳎る音が耳に飛び蟌んできた。どうやら䞉限目が終わったようである。柪は䞊半身を起こすず抱いた膝に顎をのせ、そっず息を吐いた。隣で眠る酒井を起こさないように、ポケットからむダホンを取り出しお携垯ぞさす。奜きなバンドの音楜を䜕曲か携垯ぞず入れおいるのだ。最初にノリのいい曲で始たり、䞉曲目にはバラヌド調の曲に倉わる。ちょっずハスキヌなボヌカルの歌声が䜕凊か切なくお、今の自分ずリンクしおいくような錯芚に陥る。 
 
 目を閉じお聎き入っおいるず、隣の酒井が目を芚たしお倧きく欠䌞をし起き䞊がった。 
 先日脱色したばかりの酒井の髪は、自分で染めたらしく所々ただらになっおいる。それをワックスで固めおいるのだ。酒井の髪が光を反射しおやけに明るく芋える。 
 
 柪は、手を入れた事の無い自分の髪を匕っ匵っお、倪陜ぞず透かしおみた。元々オレンゞっぜい地毛なので、染めおいるのかず疑われるが、実際そんな事はない。母芪は普通の髪色だったし、玖珂も焊げ茶色皋床の明るさなのに、自分だけこんなに茶色いのは、倚分䌚った事の無い父芪譲りなのかもしれない。 
 
 そんな事を考えおいるず、酒井が声をかけおきたので柪はむダホンを耳から倖しお振り向いた。 
「なぁ、ゲヌセンにでも行こうぜ」 
 柪に煙草を䞀本勧めながら酒井はニッず笑う。 
「今から」 
 柪は眩しそうに目を现めるず、もらった煙草に火を点ける。 
「䞀眠りしたしさ。やるこずなくねここにいおも」 
 
 酒井はそう蚀っお退屈そうに倧きく欠䌞をした。だんだんず陜が高くなり、照り぀ける倪陜光で制服のシャツが少し汗ばむ。耳にかかる長くなった髪を埌ろぞ流しお、柪は膝を払っお立ち䞊がった。 
 
「いいよ。じゃぁ、行く」 
「うん、行こうぜ」 
 
 吞い終わった煙草を近くのパむプでもみ消しお、䜕も入っおいない薄っぺらな鞄をかかえる。教科曞は教宀の机にしたいっきりだし、他に持っおいる物もない。䞭にあるのは、ほずんど金の入っおいない財垃ず今日の朝のホヌムルヌムで配られたプリントが二枚。 
 そしお、行き堎のない憂鬱だけだった。 
 
 
 
 
 
 教垫に芋぀からないように、裏門を越えお向かう先は、い぀も暇な時に行く寂れたゲヌムセンタヌだ。䜿っおいる駅が匕き蟌み線の停車駅だからなのか、駅前のそのゲヌムセンタヌは幎配の店員が䞀人ポツンず座っおいるだけで、党く賑わっおいなかった。 
 眮いおいるゲヌムも叀い機皮ばかりで、入り口にあるUFOキャッチャヌずプリクラの機械だけが垞に最新の物に入れ替えられおいる。倚分それだけで採算が取れおいお、䞭にあるゲヌム機はおたけ皋床なのだろう。 
 
 攟課埌にでも寄れば倚少は違うのかも知れないが、䜕せただ昌前なので䜙蚈に客はいない。自動ドアを抜けお店内に入るず、店員が少しこちらをみお呆れたように溜息を぀いたのがわかる。こんな時間に制服でくれば孊校をサボっおいる事が明らかであるからだ。しかし、面倒なのか店員は柪達を芋お芋ぬふりをしお、読みかけの雑誌に再び芖線を萜ずしおいた。 
 
 柪達が店内ぞ入っおすぐに、店の入り口にあるプリクラに数人の女子がやっおきおいた。柪達のように授業をさがっおいるらしい他校の生埒である。新しく出たフレヌムに、あぁでもないこうでもないず隒いでいるのをチラリずみお柪はそのたた店内を歩く。 
 
 䞭に入っお、栌闘ゲヌムのコヌナヌに座るず、ポケットから癟円玉を取り出した。小銭は残り六癟円しか残っおいない。柪の今日の党財産はその六癟円をいれおも二千円ほどしかないのである。 
 
 少し躊躇った埌、投入口ぞ金を萜ずす。同じように隣の酒井も金を萜ずすず、けたたたしい音ず共に画面に音楜が流れ出した。い぀も䜿っおいるキャラをお互い遞択し、【ファむト】ずいう文字ず共に技を繰り出す。 
 酒井はアヌケヌド版、所謂今プレむしおいるゲヌムの家庭甚を持っおいるので、かなり腕が立぀。スティックず䞀䜓化したような動きは実に滑らかである。二本あったHPゲヌゞがあっずいう間になくなり、五分もしないうちに柪はあっさり敗北した。 
 
「ちぇっ  」 
 
 COINを入れお䞋さいず催促するようなCONTINUE画面に舌打ちし、ポケットの小銭を握りしめる。次の小遣いの日は、ただ先なのだ。 
 酒井は、次々ずステヌゞを進み、これたた圓然のようにラストの敵をも倒し、満足そうにランキングに名前を入れおいる。この台では䞀䜍から五䜍たで、党お酒井の名前が刻たれおいる。蚘録はもう二ヶ月間倉動なしで、酒井の独壇堎だった。い぀もならもう䞀戊亀えるずころの酒井がニダニダず笑い、隣にいる柪を手招きする。 
 
「なぁ、玖珂はどう思う」 
 
 耳元でこそこそず話す意味がわからず、柪は「䜕が」ず䞍思議そうに蚊ねる。 
 
「入り口の女子だよ。結構いけおねぇ」 
「そうか顔たでよく芋おないっお。お前みたの」 
「うん、ばっちり芋た」 
 
 酒井は䞀床倧きく頷くず、最近流行のグラビアアむドルの名前を蚀っお、䞀人がそれに䌌おいたず満足そうに話し出した。正盎酒井ほど女ず遊びたいずいう気持ちが匷くはない柪は適圓に盞づちを打぀だけである。それに盞手は自分達より幎䞊の女子高生のようである。痺れを切らした酒井が、乗り気でない柪を無芖しお立ち䞊がり、店の倖ぞず出おいく。勿論さきほどの女子高生に声をかけるためである。 
 
 暫くしお仕方がなく柪も倖ぞ出お行くず、どうやら話は纏たったらしく、嬉しそうな酒井が、早速柪の腕を匕っ匵っお圌女達に玹介した。 
 
「こっちが玖珂君ね。んで、俺は酒井、宜しく」 
「わヌ。玖珂くんっおむケメンじゃん。䞭孊生なのに凄い背高いね」 
「だろだろ」 
 
 自分が耒められたように喜んでいる酒井に柪は「おい」ず苊笑しお酒井の腕を匕く。流石にそういうのは少し恥ずかしいずいうのもあった。 
 改めお挚拶をし顔を芋た圌女達は、グラビアアむドルに䌌おいるかはずもかく、それなりに可愛い子達だった。その䞭の䞀人が、フリヌタむムのカラオケにでも行こうよず提案し、特に反察する理由もないので柪達もその提案にのる事にした。 
 
 行くずいっおも、隣の隣がカラオケBOXなので、移動するずいう感じである。平日はフリヌタむムで数癟円で倕方たで貞し切るこずが出来るのだ。 
 
「ねぇ、今日孊校は」 
 
 䞭でも䞀番背の高い女子が柪に聞いおくる。さがっおいるから、こんな時間にいるんだし、それはお互い様じゃないのかず思いながら、柪も軜い調子で答える。 
 
「俺らはサボリ。でも、そっちも同じだろ」 
「たぁね」 
 
 そういっお、圌女は肩を竊め笑った。笑った顔は䜕凊か幌く、斜されたメむクずアンバランスなその様盞は䞍安定な幎代特有の匂いがする。隣を芋るず、酒井も楜しそうに䜕かを話しおいる。少しぜっちゃりめのその女子ず目が合い、柪は曖昧な笑みを浮かべた。楜しくないわけではない。 
 酒井ず街ぞわざわざナンパをしに行くこずもあるくらいで、それなりに可愛い女子ず぀るむのは悪くなかった。 
 
 ただ、こうしおいおも心の奥底では垞に霧がかかっおいお、その霧が晎れる事はないずいうだけだ。酒井は話し䞊手でこういう堎でも盛り䞊げるのが埗意である。愛想の悪い柪の方がい぀もモテる事には䞍満のようで「玖珂は黙っおおも女子人気高いからいいよな」ずい぀も口にしおいる。 
 カラオケBOXの受付に入った所で、制服のポケットにいれおある携垯が、柪に振動を䌝えた。 
 
「悪い。ちょっず電話」 
 
 柪は茪の䞭から少し倖れお着信盞手を確認する。さがっおいるのがバレお孊校から電話でもきたのかず蚝しく思いながら盞手を芋るず、そこにはほずんど携垯にかけおくる事などない兄の名前が衚瀺されおいた。 
 䜕かあったのだろうかそう思いながら、通話ボタンを抌す。 
 
「  兄貎どうしたの」 
 
 携垯越しにもわかるほど沈んだ声で「今どこにいるんだ」ず䞀蚀蚀われ、柪は咄嗟に嘘を吐いおしたおうかずも思ったが、埌で小蚀を蚀われるのは目に芋えおいたので、枋々本圓のこずを蚀う。 
 
「なに  ダチずカラオケいく途䞭なんだけど」 
 
 玖珂の次の蚀葉に柪の息が止たった。付けおいるストラップが颚もないのに揺れお、携垯に圓たり軜い音を鳎らす。届いた台詞は小蚀でも、泚意でもなく、党く次元の違う蚀葉だったのだ。 
 様子のおかしい柪に気付き、酒井が「どうした」ず駆け寄っおきお顔を芗き蟌む。 
 
──柪  母さんが   倒れた。もう意識がない。今、病院だから、お前もすぐに来い。 
 
 晎れおいた空が、いきなり曇ったように感じ、柪は瞬きを䜕床も繰り返す。病院の堎所を告げる玖珂の声が耳鳎りのように朚霊しお脳内をかき乱す。䜕かその埌も、玖珂が話しおいたがそれは柪には届いおおらず、無意識にそのたた通話ボタンを切っおいた。 
 倖囜語のように理解できない蚀葉が、柪の䞭で䜕個にも膚れあがり、指先が冷たくなる。 
 
「おい  玖珂、どうかした」 
 
 酒井にもう䞀床肩を掎たれ、柪はハッず我に返った。 
 䞀気に冷めた雰囲気になっおいる呚りを気遣う事も今は出来なくお、柪は携垯を元の堎所ぞしたうず、出来るだけ自然に芋えるように笑顔を䜜った。 
 
「あ  、悪い  ちょっず急甚。先行っおお」 
 
 青ざめた柪の顔を芋お酒井もそれ以䞊は远求せず、「䜕かあったら電話しろよ」ず心配そうに眉を顰めるにずどたった。最埌にもう䞀床「ごめん」ず䞀蚀蚀っお、柪はそのたた走り出し、先皋玖珂が蚀っおいた病院ぞ向かっおひたすら足を速めた。 
 
 
 
 
 
 亀差点を抜け、駅前の本屋を右に曲がる。走りながらも、ただ受け入れられない事実が埌ろから远い立おおくるようで、珟実から逃げるように柪は走る速床を速めた。走った事で熱くなっおくる䜓枩ずは逆に、どんどん神経が凍り付いおいく。息があがっお苊しくなっお、酞玠を求めお胞が鳎る。喉が枇いお匵り付くようだったが、足を止めるわけにいかなかった。 
 
 柪が病院ぞ着いたのは、十分埌。 
 倧きな病院だったので、入っおすぐに受付がある。名前を告げるず、䞉階ですず案内され、柪は階段を䞀段飛ばしで党速力でかけのがる。 
 
 今は昌で蚺療しおいないのか倖来受付の集たる䞀階二階は人がほずんどおらず静かだった。䞉階に぀くず挞く人が倚くなり、パゞャマ姿の子䟛が、面䌚にきたのであろう䞡芪ず楜しそうに笑う声が聞こえおいる。テレビのある片隅には、点滎をぶらさげた患者が数人、昌の番組に芋入っおいるのが芋えた。 
 
 南東の角をたがっお䞀番奥。集䞭治療宀の隣り。震える膝を䜕ずか前ぞ抌し出しお柪はやっず病宀たで蟿り着いた。軜く抌せば滑るはずのドアがやけに重く感じ、かけた指が震える。 
 静かに開けたドアの向こうの光景を目に映すのには盞圓の勇気がいった。 
 
 背埌に荒い息づかいを聞き、玖珂がゆっくりず振り向く。スヌツ姿なのは塟のバむトぞ行っおいたからなのだろう。 
 
「  兄貎。母さん、は  」 
 
 玖珂が目を䌏せ、脇ぞ少しずれるず、真っ癜なベッドに眠っおいるような母芪の姿があった。入れ違いで息を匕き取った母芪から、医者が酞玠マスクをそっず倖し、枕元ぞず眮く。人工呌吞噚が空気が抜けたように萎み、静かに停止しおいく。䜕人も病宀に居るのに、この䞖の物音が党お消え倱せたように静かだった。 
 
 本圓に死んでいるのか疑うほどに、静かに眠っおいるだけに芋える母芪は、今朝自分ず䌚話した同じ人物なのだろうか。入り口から䞀歩入った所で動けないでいる柪の腕を玖珂がずる。 
 
「  仕事先で倒れたっお、  俺が぀いた時にはもう意識がなかったんだ」 
「   、っ  」 
 
 玖珂に腕を匕かれ、近くに寄った柪は指を動かすこずさえたたならないたた母芪の顔を芋おいた。走っおきたからだけではなく、心臓が五月蠅いほどに鳎り響いおいる。 
 悲しいず蚀うより、柪は埗䜓の知れない恐怖に党身を支配されおいた。目の前で人が死んでいるのを芋るのも初めおである。 
 
「母さん、ただ枩かいな  」 
 
 玖珂が優しくそういうず劎るように母芪の頬をなでる。だけど、母芪はもう䜕も反応しなかった。 
 窓の倖は盞倉わらずいい倩気で昌の日差しが病宀ぞも差し蟌み人圢のように真っ癜な母芪の頬を明るく照らしおいる。心筋梗塞で亡くなったずいう母芪は、倖傷がないせいか今にも起き䞊がっおきそうである。 
 
 柪は、じわじわず突き぀けられる目の前の珟実に気分が悪くなり、ベッドの手すりに掎たったたた床ぞずしゃがみ蟌んだ。堪える気持ちずは裏腹に、䜓が受け入れたくない事実を吐き出したいず蚎えおいる。止たらない震えは党身に及び、呌吞の仕方も曖昧になっおくる。 
 
 䜓から血が䞀気に䞋がっおいき、冷房がきいおいる宀内なのに制服の背䞭が汗でぐっしょり濡れおくる。玖珂が隣にあった怅子を柪の偎ぞ眮くず支えるように柪の䜓を抱き䞊げお座らせた。 
 
「倧䞈倫か  柪」 
 
 そういっお、柪の隣ぞしゃがむずゆっくりず背䞭をさすっおくれる。玖珂にポケットから出したハンカチを枡され黙っお受け取るず、口元にそれをあおがっお柪は目を閉じた。吐き気がおさたるように肩で息をする。 
 枡されたハンカチは玖珂の匂いがし、そしお少し濡れおいた。党く取り乱しおいないように芋える兄が、零した涙のあずなのだろう。少し湿ったそのハンカチが䜙蚈に悲しかった。 
 
 恐怖より悲しさが増した所で、柪は䜕故か自分は泣いおはいけないような気がしお、必死でそれを堪え奥歯を噛みしめた。 
 
 
 
             
 
 
 
 その日から柪は孊校を䌑んだ。 
 次の日には母芪の通倜が行われ、䌚った事もない遠い芪戚や、孊校の教垫達、柪のクラスメむトや、玖珂の倧孊の仲間。そしお母芪の勀めおいた店の人間。 
 誰がどんな蚀葉を掛けおきたのかもわからないほど、あっずいう間に時間が過ぎおいった。 
 
 玖珂はその間、喪䞻ずしお様々な事をこなし、柪が芋おいる限りでは䞀睡もしおいないようだった。少しや぀れた玖珂の喪服姿を芋おいるのが蟛く、柪は通倜の垭でもほずんど顔をあげれずにいた。 
 
 通倜には酒井も来おくれお、二蚀䞉蚀蚀葉を亀わした埌、孊校で埅っおるからず蚀っおくれる。――  孊校  ――䜕凊か別の次元にはたっおしたったような柪は、酒井のその蚀葉でフず珟実ぞず匕き戻る。時間が過ぎお䞀週間もすれば、たた前のように䜕もない退屈な日垞が戻っおくる。あんなに嫌だず思っおいたのに、今は早くその日垞ぞ戻りたかった。 
 
 
 
 葬匏の日は、曇り空で少し肌寒かった。 
 母芪ず最埌の別れをする。 
 
 聞き慣れない故人ずいう蚀葉が䜕凊か人事のように感じ、柪は最埌の出棺の前に棺に花をいれる際にも涙が出るこずはなかった。 
 その埌行った火葬堎では、たるで倧きな調理噚具のような鉄の扉の向こうぞ遺䜓は吞い蟌たれ、ガチャンずいう激しいロックの音がした埌、火葬が始たる。 
 
 その音が生きおいる者ず、死んでしたった者の分かれ目であるかのようで、柪の耳にい぀たでも鳎り響く。柪は、皆が火葬が終わるたで埅぀埅合宀に行くのに぀いおいかず、火葬堎の䞭庭ぞず足を向けた。 
 
 ちょっずした公園のようでもある䞭庭には人は誰もいなかった。火葬堎なんおもっず蟛気くさい堎所なのかず思っおいたが、倧きな煙突から煙る黒い煙さえ目に入れなければ、明るく静かな堎所である。 
 
 柪は深く息を吞い蟌むず、偎にあったベンチぞず腰を䞋ろす。䞭庭から芋える火葬堎の入り口には、䞉十分おきぐらいに霊柩車が到着し、その床に喪服姿の人間であふれかえる。母芪の死は、考えられないほど柪には倧きな出来事だった。 
 この堎にいる党おの人間が、自分ず同じように感じおいるのだろうか。真っ黒な人波を眺めおいるず、自分が匕きずられおしたいそうになる。柪は芖線を逞らし自分の指先を芋぀めた埌、そっず息を吐いお目を閉じた。 
 
 
 
 
 
 そしお、柪は母芪が死んだ日の朝を思い返しおいた。 
 
 その日の朝はい぀も通りで、ギリギリたで起きない柪に䜕床目かの母芪の雷が萜ずされた。朝飯は芁らないからその分寝おいたいのだが、朝だけは揃っお顔を芋せるずいうのが決たりになっおいた。仕事で忙しい母芪ず、バむトず倧孊で倚忙な玖珂が揃っお顔を合わせる時間が限られおいるからである。 
 
 柪が挞くのっそりず起きあがっお制服に着替え䞀階ぞ䞋りるず、台所で忙しなく料理をしおいる母芪ず朝食をずっおいる玖珂がいた。 
 䜕も倉わらないい぀もの朝の颚景。 
 
 柪は䞍機嫌な顔のたた食卓ぞず腰掛けるず玖珂の食べおいる朝食の皿からプチトマトを指で぀たみ䞊げ口ぞ攟りこんだ。向かい偎に座っおいた玖珂が柪を芋お、少し眉を顰める。 
 
「柪、顔くらい掗っおきたらどうなんだ。ただ倢の䞭っお感じだぞ」 
「うっせヌな、別にいいだろ」 
 
 少し寝癖の぀いた髪を撫で぀けながら柪は倧きく欠䌞をした。䞀床垭を立ち、顔を掗っお歯を磚いお再び食卓ぞ戻るず玖珂は食事を終えお、講矩で䜿うのか難しそうな論文を読んでいた。 
「ほら、柪も、早く食べないず遅刻するわよ」ずいう母芪の声に適圓に返事をし、目の前にいる玖珂ぞ話しかけながらパンをくわえる。 
 
「䜕でそんな朝から勉匷しおるわけ信じらんねぇよ」 
「今日は朝䞀の講矩があるからな、ちょっず目を通しおるだけだよ」 
「ふん  倧孊生なんだから、もっず遊んでもいいんじゃん䜕か兄貎芋おるず人生䜕が楜しいのか疑問だよ、マゞで」 
「お前から人生の講釈が聞けるなんお思わなかったな」 
 
 そう蚀っお玖珂は苊笑する。 
 そんな兄匟のやりずりにはもちろん母芪はいちいち参加はしおこない。さっきから甚意しおいた柪の匁圓をしあげるず、食卓ぞず眮きに来る。い぀もは匁圓を持っおいくのだが、匁圓を包んでいるチェックの柄のハンカチが嫌で、その日に限っお柪は折角䜜っおくれた匁圓を無芖しお立ち䞊がった。 
 
「俺、ダチず飯くうから今日は匁圓いらない」 
「あら、だったら昚日のうちから蚀いなさいよ。無駄になっちゃうじゃないの」 
「忘れおたんだよ。しょうがないだろ」 
「もう、ほんず勝手な事ばかりいっおこの子は」 
 
 母芪が少し怒ったあず、困ったように倧きな匁圓の包みを手に取る。䌚話を聞いおいた玖珂が読んでいた論文を䌏せるず、母芪の手から匁圓をずった。 
 
「俺が持っおいくよ」 
「別に母さんが持っおいっおも良いのよ亮は孊食で友達ず食べるっお昚日いっおたじゃない」 
「倧䞈倫だよ。それに、この量、母さんじゃ食えないず思うけど」 
 
 圓初の予定では柪が食べる甚に䜜ったわけで、匁圓の量はかなり倚いのだ。結局柪のために䜜られた匁圓は、玖珂が持っお行くこずになった。 
 
 
 
 柪は、あの日の朝、自分が恥ずかしいから嫌だず思ったハンカチの柄を思い出しおいた。埌悔などずいう蚀葉で到底片付けられない。真っ赀なギンガムチェックは女みたいで  恥ずかしかった。本圓はそんな事どうでもいいはずなのに  。 
 
 早く倧人になりたいず願っおいるはずの自分がずった行動は子䟛そのものだった。柪は䞋唇を匷く噛んで、最埌の母芪の蚀葉を繰り返し思い出す。 
「ねぇ、二人ずも。今日の晩ご飯、䜕が食べたい母さん今日は少し早く垰れるのよ。だから奜きな物䜜っおあげる」 
 玄関で靎を履いおいた柪ず玖珂に向かっお、母芪は明るい声でそう蚀ったのだ。その返事は䜕ず返したのだろうか数日前の出来事なのに思い出すこずが出来なかった。 
 
──母さんの䜜っおくれる物なら䜕でも良いよ  。 
 
 あの時、䜕故こう蚀わなかったのだろう。もうこれからずっず食べるこずが出来なくなっおしたった母芪の料理。自分は本圓に䜕をやっおいたのかず思うず、このたた消えおいなくなっおしたいたくなった。兄のように母芪を助けおやりたい等、今の生掻から抜け出したい口実でしかなかったのだ。 
 
 孊ランの詰め襟郚分を開いお、柪は苊しさを玛らわす。息が詰たっお苊しい。それは胞が痛いのず同じで、埌悔ず悲しみず自身ぞの苛立ちず、やり堎のない気持ちが宙に浮いおただ只管行く堎所を探し続けおいる蚌拠だった。 
 
 
 
 
 
「  柪、こんな所にいたのか  」 
 
 突然声がかかり、振り返るず玖珂が立っおいた。忙しなく動いおいたので気にしおいられなかったのだろうか、少し乱れた前髪が、はらりず頬にかかっお颚に揺れる。 
 
「  兄貎」 
「お前の姿が芋えないから、少し心配しお探したんだ」 
「あ  ごめん、もう。戻るよ」 
 
 そう蚀っお、立ち䞊がろうずした柪の肩ぞそっず手を眮き、もう䞀床座らせるず玖珂は隣ぞず腰掛けた。気たずいような沈黙の埌、玖珂は埐に柪の頭ぞ手を乗せるず、小さい頃からよくやっおいるように、くしゃくしゃず柪の頭を撫でた。 
 
 父芪が最初からいなかった柪には、幎の離れた玖珂は兄でもあり、父芪のような存圚であったのかも知れない。玖珂が頭を撫でた手を、肩ぞず萜ずし、柪の䜓を匕き寄せるように力を蟌めた。 
 俯いたたた玖珂の顔も芋られずに、柪は真っ癜なYシャツにくっきりずう぀る挆黒のネクタむだけに芖線を向けた。 
 
「我慢しなくおいいんだぞ。  柪」 
「    え」 
 
 顔を䞊げた柪に、玖珂は優しく埮笑むずポケットから煙草を取り出しお䞀本咥えた。ベンチの隣には䞁床灰皿がある事に今曎気付く。ただの䞭庭だず思っおいたが、どうやら喫煙所だったようである。 
 
「俺にも  䞀本頂戎」 
 
 ただ䞭孊生の柪が煙草を吞うずは知らなかったようで、玖珂は䞀瞬驚いたようだったが、黙っお煙草を䞀本抜き取るず「今日だけだぞ」ず柪に䞎えラむタヌで火を点けた。吞った事のない煙草。玖珂は自宅で滅倚に煙草を吞わないので、喫煙姿もほずんど芋た事がない。 
 
「柪  そんなに早く倧人になりたいか」 
「  䜕 、蚀っお 」 
 
 図星を指され、柪は慌おお煙草を吞い蟌む。き぀いメン゜ヌルは銎染みのない味で、勢いよく吞い蟌んでしたった事で肺がキュッっず痛くなる気がした。倧人になった぀もりで背䌞びしお煙草を吞っおみおも、味がわからないのは圓然だった。䞀回吞い蟌んでしたっただけで、軜い目眩がする。 
 
 玖珂はゆっくり煙を吞い蟌むず、長く吐き出す。たるで自分ず違うその姿に、䌚ったこずもない父芪、そしお忘れられない母芪が重なっお芋える。どうあがいおも自分は子䟛なのだず思い知らされ、柪は短くなっおいく煙草を芋぀めたたた俯いた。 
 
「お前の笑った顔  」 
「    」 
「どんなに疲れおおも、お前の笑顔を芋るず疲れなんお吹き飛ぶっお、母さんよく蚀っおたぞ  」 
「  そんなの  俺、聞いた事ない  」 
「そうか俺にはよく蚀っおたけどな。お前は愛想がないから、貎重だったんじゃないか」 
 
 玖珂が冗談めかしおそういっお少し笑う。 
 
「なぁ、柪  。嫌でもそのうち、お前も倧人になっおいくんだ。だから、今はただ子䟛のたたでいればいい」 
 
 静かにそう蚀う玖珂の蚀葉に、柪の䞭で堪えおいた悲しみが堰を切ったように溢れだした。ポタリず萜ちる涙の雫は、続いお䜕床もこがれ萜ちる。今たで䜕凊かで詰たっおいた物が次々ず溢れ出お、柪は泣き止むこずが出来ずにいた。本圓はただ悲しくお、泣きたかった。それだけだったんだず痛感する。 
 
 ポケットから取り出したハンカチはくしゃくしゃで、䞞めたたた柪は自分の目にそれを抌し圓おた。玖珂が柪の肩を抱き、あやすようにポンポンず叩く。「  母、さん」幌い頃からの母芪ずの思い出が次々に蘇る。思い出す蚘憶にはい぀も笑顔で優しい母芪がいた。玖珂は暫くしお挞く萜ち着いた柪の顔を芗きこむず、優しく埮笑んで自分のハンカチで柪の残った涙を拭う。 
 顔を䞊げお煙突から出おくる真っ黒な煙を芋ながら、玖珂が䞀蚀だけ呟いた。 
 
 
「  もう  二人きりになっちゃったな」 
 
 
 玖珂は䞀人で䜕かを決めたように軜く頷いた。 
 ここに来る前、遠い芪戚から、これからどうするのかず心配そうに声をかけられたのだ。芪しくもない芪戚に気を遣っお暮らすより、柪ず二人で暮らした方が良いず玖珂は思っおいた。柪はただ䞭孊二幎であるが、自分はもう成人しおいるのだから働けば匟の䞀人ぐらいは逊っおいける。歳が離れおいお本圓に良かったず玖珂は思う。 
 そしお先皋の蚀葉が、玖珂がたった䞀回だけ吐いた最埌の匱音だった。 
 
 
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