――それは六月のよく晴れた日で 
――多分、雲は三つくらいしか浮かんでなくて 
――遠くの方に見えるビルの先端が、まるで不揃いの鉛筆のように見えていた 
――何も描けない。そこにあるだけの鉛筆 
――俺は、そのビルに自分を重ねて 
――瞬きもせずに、ただ……見ているしか無かった 
 
 
 
 

SideBlue 
 
 
 
 
 

 澪が本来いるべき席には、澪の姿はなかった。教室の後ろから二番目の窓際の席。誰も居ないその席に遮る物のない午前中の陽射しが机を照らす。黒板へチョークで書き込む音だけが教室内に小さく響く。黒板を眺めてノートに書き取る者。教科書を立てて見えないようにして居眠りする者。机の中の携帯をこっそり見ている者。 
 
 生徒達がこれだけ自由にしているが、特に目の前に居る教師は叱ったりしなかった。 
 苦手な科目があるわけではないから、澪は三限目の授業が特別嫌だったわけではない。二限目までは校庭をぼんやり眺めていたらいつのまにか授業が終わっており、休み時間の騒がしさで授業の終わりに気付いたくらいである。 
 
 三限目が始まる予鈴のチャイムが響くと、澪は椅子を引いて立ち上がった。窓から見える校庭に砂埃が舞って、澪の視界の中でゆっくりと円を描く。そのまま澪は教室の後ろのドアを開け、気だるい足取りで教室を出て階段を上へと昇っていった。 
 
 途中、踊り場には保健便りのポスターが貼ってある。誰が決めたのか、もうすぐ『虫歯予防週間』なのだとか……。口内をアップで写した虫歯の写真に、澪の奥歯が僅かにチクリと痛んだ。もう授業が始まっているので廊下や階段に人気は無く、三階四階と昇ってあっという間に屋上まで辿り着く。 
 
 屋上へ続く重い扉に手をかけた所で、同じように昇ってきた友人の酒井から「よぉ」と小さく声がかかった。澪は少し肩を竦め埃っぽい空気を吸い込むと、そのまま扉を開け放った。 
 あまり開かれることのない扉は、錆びた蝶番がギシギシと不快な音を立てる。その音が子供の頃に漕いだブランコの音と重なって澪はいつも少し懐かしい気持ちになる。扉の向こうに広がる屋上には当然誰もおらず、酒井と自分の足音さえ聞こえてきそうに静かだった。 
 
 入り口近く、古くなったセメントが崩れている部分を上履きのつま先でつつけば、いとも簡単に崩れて辺りに散らばり、砂塵が音もなく風に消える。いつもここに来る度につついているので、崩れた部分は今は相当な範囲に広がっている。 
 
 いつもの指定席。 
 
 澪は屋上にある貯水槽の上へ昇ると、後から続く酒井の手を引っ張りあげてやる。錆びたはしごは最初は水色で塗装されていたみたいだが、今は足場の鉄がむき出している。軽快なコンコンという音を鳴らして、酒井も澪の後に続く。ぼんやりと空を眺めるには最高の場所だった。 
 
 少しでも空に近づけるこの場所にいる事で、現実から逃避できるような気がしていたのだ。窮屈な日常が、こんな小さな事で変わるはずもないのに、この場所に来る事にそれ以上の期待を寄せている自分がいる。 
 夏の始まりを思わせる晴れ渡った六月の空。 
 そんな言葉がしっくりくる青空を見上げて、隣に腰掛けた酒井に澪は手を差し出した。 
 
「酒井、いい?」 
 
 酒井がまるで待ってましたとばかりに鞄から煙草の箱を取り出す。どこか誇らしげなその様子に澪は苦笑しながら酒井の方へ指を伸ばした。差し出した指に吸い慣れない煙草が挟まれる。煙草を買う金等ないので酒井からこうして貰うのが最近恒例になっている。 
 
「悪いな、いつも俺ばっかもらってさ」 
「いいって。気にすんなよ、この前お前に飯奢って貰ったし」 
 
 酒井の家は裕福で、新しく出たゲームも流行のファッションも何でも親にねだれば買ってくれるという。最初は、純粋に羨ましいと思ったが、そんな話をする時の酒井は何故かいつもとても寂しそうに笑う。 
 それを見るのが嫌で、澪はその時からこの事には触れないようにしていた。それは酒井への思い遣りのようで、自分の為でもある。 
 
 
 澪が煙草の味を覚えたのは、ほんのこの前の春休みだった。別に今でもさほど美味しいと感じているわけではない。肺まで吸い込むのも何だか怖くてふかしているだけである。しかし、吸っている間だけ大人になれる気がしたのだ。苦い味はそれだけ自分を早く大人に近づけてくれる、そう思っていた。 
自分の吸っている煙草の煙と、酒井の吸っている煙草の煙が、時々重なって、雲のように広がる。 
 
 澪は煙草を口から離すと、煙にめがけてふっと息を吹きかけた。出来たばかりの雲があっという間に青空へ溶け込んでいく。そのまま仰向けに転がると視界には青空しか見えなくなった。 
 広い青空はどこまでも同じ色で、あまりに広いソレに押し潰されそうになる。澪は、自分を庇うように額に腕を乗せて深く息を吸い込んだ。 
 
──……早く大人になりたい。 
 
 毎日考える事はそればかりで、晴れの日も雨の日も考えていた。 
 
 澪の家庭は母子家庭で、生活が楽なわけではなかった。別にそれが不満な訳では決してない。 
 兄である玖珂は大学の学費も自分でバイトをして払っていたし、少し多くバイト代が入れば澪と母親を連れて外食へ連れて行ったりと、自分の事にはほとんど金を使っている様子はなかった。 
 しかし、自分は家に金を入れるどころか、小遣いまでもらっている。 
 それは少しずつ澪の中で罪悪感となり、役立たずな自分がとてもダメな存在に思えてきたのだ。家族の中で、自分だけがやっかい者のようで寂しく感じるようになったのはいつからだろう。せめて自分もバイトをできたら……、それには早く大人になるしかなかった。 
 
 暫くぼんやりとそんな事を考えていると隣にいる酒井から静かな寝息が聞こえてきた。校庭ではどこかのクラスの体育の授業が行われており、かけ声と高い笛の音に合わせて砂の擦れる音がする。暖かい日差しの中、目を閉じ、澪も暫し浅い眠りに誘われた。 
 
 夢の中でも澪は同じように屋上で微睡んでいる。やけに暑くて、真っ白な制服のYシャツのボタンを外す。しかし、夢の中の自分が、その先どんな夢を見ているのかはわからなかった。どれくらいそうしていたのだろう。授業の終わりを告げるチャイムの音が鳴り響く。 
 
──現実? 
──それともまだ夢を見ているのか? 
 
 どちらともつかないまま、目を静かに開けると、さっきより大きくチャイムの鳴る音が耳に飛び込んできた。どうやら三限目が終わったようである。澪は上半身を起こすと抱いた膝に顎をのせ、そっと息を吐いた。隣で眠る酒井を起こさないように、ポケットからイヤホンを取り出して携帯へさす。好きなバンドの音楽を何曲か携帯へと入れているのだ。最初にノリのいい曲で始まり、三曲目にはバラード調の曲に変わる。ちょっとハスキーなボーカルの歌声が何処か切なくて、今の自分とリンクしていくような錯覚に陥る。 
 
 目を閉じて聴き入っていると、隣の酒井が目を覚まして大きく欠伸をし起き上がった。 
 先日脱色したばかりの酒井の髪は、自分で染めたらしく所々まだらになっている。それをワックスで固めているのだ。酒井の髪が光を反射してやけに明るく見える。 
 
 澪は、手を入れた事の無い自分の髪を引っ張って、太陽へと透かしてみた。元々オレンジっぽい地毛なので、染めているのかと疑われるが、実際そんな事はない。母親は普通の髪色だったし、玖珂も焦げ茶色程度の明るさなのに、自分だけこんなに茶色いのは、多分会った事の無い父親譲りなのかもしれない。 
 
 そんな事を考えていると、酒井が声をかけてきたので澪はイヤホンを耳から外して振り向いた。 
「なぁ、ゲーセンにでも行こうぜ」 
 澪に煙草を一本勧めながら酒井はニッと笑う。 
「今から?」 
 澪は眩しそうに目を細めると、もらった煙草に火を点ける。 
「一眠りしたしさ。やることなくね?ここにいても」 
 
 酒井はそう言って退屈そうに大きく欠伸をした。だんだんと陽が高くなり、照りつける太陽光で制服のシャツが少し汗ばむ。耳にかかる長くなった髪を後ろへ流して、澪は膝を払って立ち上がった。 
 
「いいよ。じゃぁ、行く?」 
「うん、行こうぜ」 
 
 吸い終わった煙草を近くのパイプでもみ消して、何も入っていない薄っぺらな鞄をかかえる。教科書は教室の机にしまいっきりだし、他に持っている物もない。中にあるのは、ほとんど金の入っていない財布と今日の朝のホームルームで配られたプリントが二枚。 
 そして、行き場のない憂鬱だけだった。 
 
 
 
 
 
 教師に見つからないように、裏門を越えて向かう先は、いつも暇な時に行く寂れたゲームセンターだ。使っている駅が引き込み線の停車駅だからなのか、駅前のそのゲームセンターは年配の店員が一人ポツンと座っているだけで、全く賑わっていなかった。 
 置いているゲームも古い機種ばかりで、入り口にあるUFOキャッチャーとプリクラの機械だけが常に最新の物に入れ替えられている。多分それだけで採算が取れていて、中にあるゲーム機はおまけ程度なのだろう。 
 
 放課後にでも寄れば多少は違うのかも知れないが、何せまだ昼前なので余計に客はいない。自動ドアを抜けて店内に入ると、店員が少しこちらをみて呆れたように溜息をついたのがわかる。こんな時間に制服でくれば学校をサボっている事が明らかであるからだ。しかし、面倒なのか店員は澪達を見て見ぬふりをして、読みかけの雑誌に再び視線を落としていた。 
 
 澪達が店内へ入ってすぐに、店の入り口にあるプリクラに数人の女子がやってきていた。澪達のように授業をさぼっているらしい他校の生徒である。新しく出たフレームに、あぁでもないこうでもないと騒いでいるのをチラリとみて澪はそのまま店内を歩く。 
 
 中に入って、格闘ゲームのコーナーに座ると、ポケットから百円玉を取り出した。小銭は残り六百円しか残っていない。澪の今日の全財産はその六百円をいれても二千円ほどしかないのである。 
 
 少し躊躇った後、投入口へ金を落とす。同じように隣の酒井も金を落とすと、けたたましい音と共に画面に音楽が流れ出した。いつも使っているキャラをお互い選択し、【ファイト!】という文字と共に技を繰り出す。 
 酒井はアーケード版、所謂今プレイしているゲームの家庭用を持っているので、かなり腕が立つ。スティックと一体化したような動きは実に滑らかである。二本あったHPゲージがあっという間になくなり、五分もしないうちに澪はあっさり敗北した。 
 
「ちぇっ……」 
 
 COINを入れて下さいと催促するようなCONTINUE画面に舌打ちし、ポケットの小銭を握りしめる。次の小遣いの日は、まだ先なのだ。 
 酒井は、次々とステージを進み、これまた当然のようにラストの敵をも倒し、満足そうにランキングに名前を入れている。この台では一位から五位まで、全て酒井の名前が刻まれている。記録はもう二ヶ月間変動なしで、酒井の独壇場だった。いつもならもう一戦交えるところの酒井がニヤニヤと笑い、隣にいる澪を手招きする。 
 
「なぁ、玖珂はどう思う?」 
 
 耳元でこそこそと話す意味がわからず、澪は「何が?」と不思議そうに訊ねる。 
 
「入り口の女子だよ。結構いけてねぇ?」 
「そうか?顔までよく見てないって。お前みたの?」 
「うん、ばっちり見た」 
 
 酒井は一度大きく頷くと、最近流行のグラビアアイドルの名前を言って、一人がそれに似ていたと満足そうに話し出した。正直酒井ほど女と遊びたいという気持ちが強くはない澪は適当に相づちを打つだけである。それに相手は自分達より年上の女子高生のようである。痺れを切らした酒井が、乗り気でない澪を無視して立ち上がり、店の外へと出ていく。勿論さきほどの女子高生に声をかけるためである。 
 
 暫くして仕方がなく澪も外へ出て行くと、どうやら話は纏まったらしく、嬉しそうな酒井が、早速澪の腕を引っ張って彼女達に紹介した。 
 
「こっちが玖珂君ね。んで、俺は酒井、宜しく!」 
「わー。玖珂くんってイケメンじゃん。中学生なのに凄い背高いね~」 
「だろ?だろ?」 
 
 自分が褒められたように喜んでいる酒井に澪は「おい」と苦笑して酒井の腕を引く。流石にそういうのは少し恥ずかしいというのもあった。 
 改めて挨拶をし顔を見た彼女達は、グラビアアイドルに似ているかはともかく、それなりに可愛い子達だった。その中の一人が、フリータイムのカラオケにでも行こうよと提案し、特に反対する理由もないので澪達もその提案にのる事にした。 
 
 行くといっても、隣の隣がカラオケBOXなので、移動するという感じである。平日はフリータイムで数百円で夕方まで貸し切ることが出来るのだ。 
 
「ねぇ、今日学校は?」 
 
 中でも一番背の高い女子が澪に聞いてくる。さぼっているから、こんな時間にいるんだし、それはお互い様じゃないのかと思いながら、澪も軽い調子で答える。 
 
「俺らはサボリ。でも、そっちも同じだろ?」 
「まぁね」 
 
 そういって、彼女は肩を竦め笑った。笑った顔は何処か幼く、施されたメイクとアンバランスなその様相は不安定な年代特有の匂いがする。隣を見ると、酒井も楽しそうに何かを話している。少しぽっちゃりめのその女子と目が合い、澪は曖昧な笑みを浮かべた。楽しくないわけではない。 
 酒井と街へわざわざナンパをしに行くこともあるくらいで、それなりに可愛い女子とつるむのは悪くなかった。 
 
 ただ、こうしていても心の奥底では常に霧がかかっていて、その霧が晴れる事はないというだけだ。酒井は話し上手でこういう場でも盛り上げるのが得意である。愛想の悪い澪の方がいつもモテる事には不満のようで「玖珂は黙ってても女子人気高いからいいよな~」といつも口にしている。 
 カラオケBOXの受付に入った所で、制服のポケットにいれてある携帯が、澪に振動を伝えた。 
 
「悪い。ちょっと電話」 
 
 澪は輪の中から少し外れて着信相手を確認する。さぼっているのがバレて学校から電話でもきたのかと訝しく思いながら相手を見ると、そこにはほとんど携帯にかけてくる事などない兄の名前が表示されていた。 
 何かあったのだろうか?そう思いながら、通話ボタンを押す。 
 
「……兄貴?どうしたの?」 
 
 携帯越しにもわかるほど沈んだ声で「今どこにいるんだ?」と一言言われ、澪は咄嗟に嘘を吐いてしまおうかとも思ったが、後で小言を言われるのは目に見えていたので、渋々本当のことを言う。 
 
「なに?……ダチとカラオケいく途中なんだけど」 
 
 玖珂の次の言葉に澪の息が止まった。付けているストラップが風もないのに揺れて、携帯に当たり軽い音を鳴らす。届いた台詞は小言でも、注意でもなく、全く次元の違う言葉だったのだ。 
 様子のおかしい澪に気付き、酒井が「どうした?」と駆け寄ってきて顔を覗き込む。 
 
──澪……母さんが………倒れた。もう意識がない。今、病院だから、お前もすぐに来い。 
 
 晴れていた空が、いきなり曇ったように感じ、澪は瞬きを何度も繰り返す。病院の場所を告げる玖珂の声が耳鳴りのように木霊して脳内をかき乱す。何かその後も、玖珂が話していたがそれは澪には届いておらず、無意識にそのまま通話ボタンを切っていた。 
 外国語のように理解できない言葉が、澪の中で何個にも膨れあがり、指先が冷たくなる。 
 
「おい……玖珂、どうかした?」 
 
 酒井にもう一度肩を掴まれ、澪はハッと我に返った。 
 一気に冷めた雰囲気になっている周りを気遣う事も今は出来なくて、澪は携帯を元の場所へしまうと、出来るだけ自然に見えるように笑顔を作った。 
 
「あ……、悪い……ちょっと急用。先行ってて」 
 
 青ざめた澪の顔を見て酒井もそれ以上は追求せず、「何かあったら電話しろよ?」と心配そうに眉を顰めるにとどまった。最後にもう一度「ごめん」と一言言って、澪はそのまま走り出し、先程玖珂が言っていた病院へ向かってひたすら足を速めた。 
 
 
 
 
 
 交差点を抜け、駅前の本屋を右に曲がる。走りながらも、まだ受け入れられない事実が後ろから追い立ててくるようで、現実から逃げるように澪は走る速度を速めた。走った事で熱くなってくる体温とは逆に、どんどん神経が凍り付いていく。息があがって苦しくなって、酸素を求めて胸が鳴る。喉が渇いて張り付くようだったが、足を止めるわけにいかなかった。 
 
 澪が病院へ着いたのは、十分後。 
 大きな病院だったので、入ってすぐに受付がある。名前を告げると、三階ですと案内され、澪は階段を一段飛ばしで全速力でかけのぼる。 
 
 今は昼で診療していないのか外来受付の集まる一階二階は人がほとんどおらず静かだった。三階につくと漸く人が多くなり、パジャマ姿の子供が、面会にきたのであろう両親と楽しそうに笑う声が聞こえている。テレビのある片隅には、点滴をぶらさげた患者が数人、昼の番組に見入っているのが見えた。 
 
 南東の角をまがって一番奥。集中治療室の隣り。震える膝を何とか前へ押し出して澪はやっと病室まで辿り着いた。軽く押せば滑るはずのドアがやけに重く感じ、かけた指が震える。 
 静かに開けたドアの向こうの光景を目に映すのには相当の勇気がいった。 
 
 背後に荒い息づかいを聞き、玖珂がゆっくりと振り向く。スーツ姿なのは塾のバイトへ行っていたからなのだろう。 
 
「……兄貴。母さん、は……」 
 
 玖珂が目を伏せ、脇へ少しずれると、真っ白なベッドに眠っているような母親の姿があった。入れ違いで息を引き取った母親から、医者が酸素マスクをそっと外し、枕元へと置く。人工呼吸器が空気が抜けたように萎み、静かに停止していく。何人も病室に居るのに、この世の物音が全て消え失せたように静かだった。 
 
 本当に死んでいるのか疑うほどに、静かに眠っているだけに見える母親は、今朝自分と会話した同じ人物なのだろうか。入り口から一歩入った所で動けないでいる澪の腕を玖珂がとる。 
 
「……仕事先で倒れたって、……俺がついた時にはもう意識がなかったんだ」 
「………、っ……」 
 
 玖珂に腕を引かれ、近くに寄った澪は指を動かすことさえままならないまま母親の顔を見ていた。走ってきたからだけではなく、心臓が五月蠅いほどに鳴り響いている。 
 悲しいと言うより、澪は得体の知れない恐怖に全身を支配されていた。目の前で人が死んでいるのを見るのも初めてである。 
 
「母さん、まだ温かいな……」 
 
 玖珂が優しくそういうと労るように母親の頬をなでる。だけど、母親はもう何も反応しなかった。 
 窓の外は相変わらずいい天気で昼の日差しが病室へも差し込み人形のように真っ白な母親の頬を明るく照らしている。心筋梗塞で亡くなったという母親は、外傷がないせいか今にも起き上がってきそうである。 
 
 澪は、じわじわと突きつけられる目の前の現実に気分が悪くなり、ベッドの手すりに掴まったまま床へとしゃがみ込んだ。堪える気持ちとは裏腹に、体が受け入れたくない事実を吐き出したいと訴えている。止まらない震えは全身に及び、呼吸の仕方も曖昧になってくる。 
 
 体から血が一気に下がっていき、冷房がきいている室内なのに制服の背中が汗でぐっしょり濡れてくる。玖珂が隣にあった椅子を澪の側へ置くと支えるように澪の体を抱き上げて座らせた。 
 
「大丈夫か?……澪」 
 
 そういって、澪の隣へしゃがむとゆっくりと背中をさすってくれる。玖珂にポケットから出したハンカチを渡され黙って受け取ると、口元にそれをあてがって澪は目を閉じた。吐き気がおさまるように肩で息をする。 
 渡されたハンカチは玖珂の匂いがし、そして少し濡れていた。全く取り乱していないように見える兄が、零した涙のあとなのだろう。少し湿ったそのハンカチが余計に悲しかった。 
 
 恐怖より悲しさが増した所で、澪は何故か自分は泣いてはいけないような気がして、必死でそれを堪え奥歯を噛みしめた。 
 
 
 
    *    *    * 
 
 
 
 その日から澪は学校を休んだ。 
 次の日には母親の通夜が行われ、会った事もない遠い親戚や、学校の教師達、澪のクラスメイトや、玖珂の大学の仲間。そして母親の勤めていた店の人間。 
 誰がどんな言葉を掛けてきたのかもわからないほど、あっという間に時間が過ぎていった。 
 
 玖珂はその間、喪主として様々な事をこなし、澪が見ている限りでは一睡もしていないようだった。少しやつれた玖珂の喪服姿を見ているのが辛く、澪は通夜の席でもほとんど顔をあげれずにいた。 
 
 通夜には酒井も来てくれて、二言三言言葉を交わした後、学校で待ってるからと言ってくれる。――……学校……――何処か別の次元にはまってしまったような澪は、酒井のその言葉でフと現実へと引き戻る。時間が過ぎて一週間もすれば、また前のように何もない退屈な日常が戻ってくる。あんなに嫌だと思っていたのに、今は早くその日常へ戻りたかった。 
 
 
 
 葬式の日は、曇り空で少し肌寒かった。 
 母親と最後の別れをする。 
 
 聞き慣れない故人という言葉が何処か人事のように感じ、澪は最後の出棺の前に棺に花をいれる際にも涙が出ることはなかった。 
 その後行った火葬場では、まるで大きな調理器具のような鉄の扉の向こうへ遺体は吸い込まれ、ガチャンという激しいロックの音がした後、火葬が始まる。 
 
 その音が生きている者と、死んでしまった者の分かれ目であるかのようで、澪の耳にいつまでも鳴り響く。澪は、皆が火葬が終わるまで待つ待合室に行くのについていかず、火葬場の中庭へと足を向けた。 
 
 ちょっとした公園のようでもある中庭には人は誰もいなかった。火葬場なんてもっと辛気くさい場所なのかと思っていたが、大きな煙突から煙る黒い煙さえ目に入れなければ、明るく静かな場所である。 
 
 澪は深く息を吸い込むと、側にあったベンチへと腰を下ろす。中庭から見える火葬場の入り口には、三十分おきぐらいに霊柩車が到着し、その度に喪服姿の人間であふれかえる。母親の死は、考えられないほど澪には大きな出来事だった。 
 この場にいる全ての人間が、自分と同じように感じているのだろうか。真っ黒な人波を眺めていると、自分が引きずられてしまいそうになる。澪は視線を逸らし自分の指先を見つめた後、そっと息を吐いて目を閉じた。 
 
 
 
 
 
 そして、澪は母親が死んだ日の朝を思い返していた。 
 
 その日の朝はいつも通りで、ギリギリまで起きない澪に何度目かの母親の雷が落とされた。朝飯は要らないからその分寝ていたいのだが、朝だけは揃って顔を見せるというのが決まりになっていた。仕事で忙しい母親と、バイトと大学で多忙な玖珂が揃って顔を合わせる時間が限られているからである。 
 
 澪が漸くのっそりと起きあがって制服に着替え一階へ下りると、台所で忙しなく料理をしている母親と朝食をとっている玖珂がいた。 
 何も変わらないいつもの朝の風景。 
 
 澪は不機嫌な顔のまま食卓へと腰掛けると玖珂の食べている朝食の皿からプチトマトを指でつまみ上げ口へ放りこんだ。向かい側に座っていた玖珂が澪を見て、少し眉を顰める。 
 
「澪、顔くらい洗ってきたらどうなんだ。まだ夢の中って感じだぞ」 
「うっせーな、別にいいだろ」 
 
 少し寝癖のついた髪を撫でつけながら澪は大きく欠伸をした。一度席を立ち、顔を洗って歯を磨いて再び食卓へ戻ると玖珂は食事を終えて、講義で使うのか難しそうな論文を読んでいた。 
「ほら、澪も、早く食べないと遅刻するわよ」という母親の声に適当に返事をし、目の前にいる玖珂へ話しかけながらパンをくわえる。 
 
「何でそんな朝から勉強してるわけ?信じらんねぇよ」 
「今日は朝一の講義があるからな、ちょっと目を通してるだけだよ」 
「ふ~ん……大学生なんだから、もっと遊んでもいいんじゃん?何か兄貴見てると人生何が楽しいのか疑問だよ、マジで」 
「お前から人生の講釈が聞けるなんて思わなかったな」 
 
 そう言って玖珂は苦笑する。 
 そんな兄弟のやりとりにはもちろん母親はいちいち参加はしてこない。さっきから用意していた澪の弁当をしあげると、食卓へと置きに来る。いつもは弁当を持っていくのだが、弁当を包んでいるチェックの柄のハンカチが嫌で、その日に限って澪は折角作ってくれた弁当を無視して立ち上がった。 
 
「俺、ダチと飯くうから今日は弁当いらない」 
「あら、だったら昨日のうちから言いなさいよ。無駄になっちゃうじゃないの」 
「忘れてたんだよ。しょうがないだろ」 
「もう、ほんと勝手な事ばかりいって!この子は」 
 
 母親が少し怒ったあと、困ったように大きな弁当の包みを手に取る。会話を聞いていた玖珂が読んでいた論文を伏せると、母親の手から弁当をとった。 
 
「俺が持っていくよ」 
「別に母さんが持っていっても良いのよ?亮は学食で友達と食べるって昨日いってたじゃない」 
「大丈夫だよ。それに、この量、母さんじゃ食えないと思うけど」 
 
 当初の予定では澪が食べる用に作ったわけで、弁当の量はかなり多いのだ。結局澪のために作られた弁当は、玖珂が持って行くことになった。 
 
 
 
 澪は、あの日の朝、自分が恥ずかしいから嫌だと思ったハンカチの柄を思い出していた。後悔などという言葉で到底片付けられない。真っ赤なギンガムチェックは女みたいで……恥ずかしかった。本当はそんな事どうでもいいはずなのに……。 
 
 早く大人になりたいと願っているはずの自分がとった行動は子供そのものだった。澪は下唇を強く噛んで、最後の母親の言葉を繰り返し思い出す。 
「ねぇ、二人とも。今日の晩ご飯、何が食べたい?母さん今日は少し早く帰れるのよ。だから好きな物作ってあげる」 
 玄関で靴を履いていた澪と玖珂に向かって、母親は明るい声でそう言ったのだ。その返事は何と返したのだろうか?数日前の出来事なのに思い出すことが出来なかった。 
 
──母さんの作ってくれる物なら何でも良いよ……。 
 
 あの時、何故こう言わなかったのだろう。もうこれからずっと食べることが出来なくなってしまった母親の料理。自分は本当に何をやっていたのかと思うと、このまま消えていなくなってしまいたくなった。兄のように母親を助けてやりたい等、今の生活から抜け出したい口実でしかなかったのだ。 
 
 学ランの詰め襟部分を開いて、澪は苦しさを紛らわす。息が詰まって苦しい。それは胸が痛いのと同じで、後悔と悲しみと自身への苛立ちと、やり場のない気持ちが宙に浮いてただ只管行く場所を探し続けている証拠だった。 
 
 
 
 
 
「……澪、こんな所にいたのか……」 
 
 突然声がかかり、振り返ると玖珂が立っていた。忙しなく動いていたので気にしていられなかったのだろうか、少し乱れた前髪が、はらりと頬にかかって風に揺れる。 
 
「……兄貴」 
「お前の姿が見えないから、少し心配して探したんだ」 
「あ……ごめん、もう。戻るよ」 
 
 そう言って、立ち上がろうとした澪の肩へそっと手を置き、もう一度座らせると玖珂は隣へと腰掛けた。気まずいような沈黙の後、玖珂は徐に澪の頭へ手を乗せると、小さい頃からよくやっているように、くしゃくしゃと澪の頭を撫でた。 
 
 父親が最初からいなかった澪には、年の離れた玖珂は兄でもあり、父親のような存在であったのかも知れない。玖珂が頭を撫でた手を、肩へと落とし、澪の体を引き寄せるように力を込めた。 
 俯いたまま玖珂の顔も見られずに、澪は真っ白なYシャツにくっきりとうつる漆黒のネクタイだけに視線を向けた。 
 
「我慢しなくていいんだぞ。……澪」 
「…………え」 
 
 顔を上げた澪に、玖珂は優しく微笑むとポケットから煙草を取り出して一本咥えた。ベンチの隣には丁度灰皿がある事に今更気付く。ただの中庭だと思っていたが、どうやら喫煙所だったようである。 
 
「俺にも……一本頂戴」 
 
 まだ中学生の澪が煙草を吸うとは知らなかったようで、玖珂は一瞬驚いたようだったが、黙って煙草を一本抜き取ると「今日だけだぞ」と澪に与えライターで火を点けた。吸った事のない煙草。玖珂は自宅で滅多に煙草を吸わないので、喫煙姿もほとんど見た事がない。 
 
「澪……そんなに早く大人になりたいか?」 
「……何…、言って…」 
 
 図星を指され、澪は慌てて煙草を吸い込む。きついメンソールは馴染みのない味で、勢いよく吸い込んでしまった事で肺がキュッっと痛くなる気がした。大人になったつもりで背伸びして煙草を吸ってみても、味がわからないのは当然だった。一回吸い込んでしまっただけで、軽い目眩がする。 
 
 玖珂はゆっくり煙を吸い込むと、長く吐き出す。まるで自分と違うその姿に、会ったこともない父親、そして忘れられない母親が重なって見える。どうあがいても自分は子供なのだと思い知らされ、澪は短くなっていく煙草を見つめたまま俯いた。 
 
「お前の笑った顔……」 
「…………」 
「どんなに疲れてても、お前の笑顔を見ると疲れなんて吹き飛ぶって、母さんよく言ってたぞ……」 
「……そんなの……俺、聞いた事ない……」 
「そうか?俺にはよく言ってたけどな。お前は愛想がないから、貴重だったんじゃないか?」 
 
 玖珂が冗談めかしてそういって少し笑う。 
 
「なぁ、澪……。嫌でもそのうち、お前も大人になっていくんだ。だから、今はまだ子供のままでいればいい」 
 
 静かにそう言う玖珂の言葉に、澪の中で堪えていた悲しみが堰を切ったように溢れだした。ポタリと落ちる涙の雫は、続いて何度もこぼれ落ちる。今まで何処かで詰まっていた物が次々と溢れ出て、澪は泣き止むことが出来ずにいた。本当はただ悲しくて、泣きたかった。それだけだったんだと痛感する。 
 
 ポケットから取り出したハンカチはくしゃくしゃで、丸めたまま澪は自分の目にそれを押し当てた。玖珂が澪の肩を抱き、あやすようにポンポンと叩く。「……母、さん」幼い頃からの母親との思い出が次々に蘇る。思い出す記憶にはいつも笑顔で優しい母親がいた。玖珂は暫くして漸く落ち着いた澪の顔を覗きこむと、優しく微笑んで自分のハンカチで澪の残った涙を拭う。 
 顔を上げて煙突から出てくる真っ黒な煙を見ながら、玖珂が一言だけ呟いた。 
 
 
「……もう……二人きりになっちゃったな」 
 
 
 玖珂は一人で何かを決めたように軽く頷いた。 
 ここに来る前、遠い親戚から、これからどうするのかと心配そうに声をかけられたのだ。親しくもない親戚に気を遣って暮らすより、澪と二人で暮らした方が良いと玖珂は思っていた。澪はまだ中学二年であるが、自分はもう成人しているのだから働けば弟の一人ぐらいは養っていける。歳が離れていて本当に良かったと玖珂は思う。 
 そして先程の言葉が、玖珂がたった一回だけ吐いた最後の弱音だった。