月下酔恋 ー 2 ー


 

  週開けの月曜、まだ余韻に浸っていたい週末の休み気分を一気に払うべく、社内には朝から電話の音が鳴り響いていた。渋谷のデスクにも山のような書類が積み重なり、期日順にわけたファイルは見るのも恐ろしいぐらいに増えている。流石に、どうしたものかと考え込みそうになるが、そんな時間ですら勿体ないので取りあえず片っ端から手にとって何も考えないようにする。 
 
「渋谷係長、外線5番にエヌケーカンパニーの佐々木さんからお電話です」 
「ちょっと用件を聞いておいてくれないか。後でこちらからかけ直すから」 
「わかりました」 
 
 外線のランプが3つとも全部点滅している。今の電話は急ぎではないので後で掛け直す事にした為ランプがひとつだけ消えたのも束の間、すぐにまた別の電話でランプは点滅する。1番から順番に取り次いで受話器を肩に挟んだまま、渋谷は、それぞれの納期や修正に細かくチェックをいれていった。 
 
 どう考えても無理な期日を何の疑問もなく押しつけてくる客に、やんわりと期日をもう少し延ばせないかとお願いしながらも、最初に指定された期日で納品できる日程を一応頭の中で組み立ててみる。渋谷の頭の中では膨大な量のデータが所狭しとひしめきあっていて、うっかり間違った場所にいれてしまうと全てが崩れそうになってしまう。危ういパズルを脳内で展開しながら、情報を流し込む作業の繰り返しである。 
 
 客との電話をしながら、渋谷がデスクの斜め前に位置する部下の女性を手招きする。気付いた部下が渋谷のデスクの前に来た所でメモに用件を走り書きした。 
 
【このデータに使う落ち葉の写真をフォトライブラリーで借りてきて午前中に先方に渡して欲しい】 
 
 片手で頼むという風にお願いする仕草をし、相手はわかりましたと目線で渋谷へ返す。受け取ったメモとデータの入ったDiscを持って女子社員は席へと戻った。本当は、全てを自分でこなしたいのだが、それには時間が足りない。お願いした彼女も忙しいのに申し訳ないと思っている渋谷の思いとは裏腹に、仕事を頼まれた女性は実は喜んでいる事を渋谷は全く知らなかった。 
 
 完璧主義で何処か人をよせつけない雰囲気だった以前とは違い、最近はよく社員達とも談笑している渋谷に周りの女子社員の見る目も少し変わってきているのだ。元々清潔感のある整った容姿の渋谷は、女性受けする外見でもある。仕事も出来て将来有望となれば、株があがるのは自然な事だった。 
 
 漸く電話が途切れ、渋谷は受話器を置くと間を開けずすぐに立ち上がり、背もたれにかけてあったスーツのジャケットを羽織る。午前中にどうしても行かなくてはいけない取引先にこれから向かう予定なのだ。書類を鞄に入れデスクから離れようとする渋谷に、先程仕事を頼んだ社員が声をかけてきた。 
 
「係長も出かけるんですか?」 
「え?……ああ、ちょっと午前中に済ませておきたい用件があって。何か?」 
「いえ、私も今から先程のデータのレンタルポジを取りに行こうかと思って」 
「ああ、そうか。忙しいのに悪いね……。じゃぁ、赤坂まで?」 
「ええ、そのつもりですけど」 
「良かったら、駅まで一緒に行こうか」 
「そうですね、ご一緒します」 
 
 都内を回るのにいちいち車を使うと、駐車が出来なかったりで逆に時間がかかってしまう。なので、渋谷はなるべく外回りは電車を使う事にしていた。途中まで一緒に行こうと渋谷に誘われた女子社員は、早速データを纏めて持つと先に廊下へ出ている渋谷の後に続く。仕事の件について話しながら駅へと向かっていると、渋谷の胸ポケットの携帯が振動を伝えた。 
 
「……ちょっと失礼」 
 
 渋谷はすぐに携帯を取り出して通話ボタンを押す。 
 
「はい、渋谷です……え!?あ、……お、お世話になっております」 
 
 女子社員の手前、誤魔化すためにお世話になっております等と言ってはみたが、電話の相手は驚くことに玖珂だったのだ。非通知になっていたのでまさか玖珂とは思わず、構えずに出てしまった事で渋谷はかなり動揺していた。こんな時間に玖珂からかけてくる事は初めてなのだ。玖珂もまた、渋谷の声を聞いて驚いている。どうやら間違って自分にかけてしまったらしいのだ。忙しい所本当にすまないと言ってすぐに電話を切ろうとする玖珂に渋谷は慌てて声を掛けた。 
 
「あ、ちょっと待って下さい……いえ、……その……また夜にでも落ち着いたら此方から電話します」 
 
 間違いだったとしても、本当は玖珂の声が聞けたことが嬉しい。しかし、今は一人ではないのでそんな事を口にするわけにもいかなかった。すぐに電話を終えた渋谷に、並んで歩く女子社員の好奇心の含まれた目線が突き刺さる。――もしかして、仕事の相手じゃないとばれたのだろうか――渋谷は一つ咳払いをすると、自身の顔が赤くなってたりしないかどうかが気になり、少し足早になった。 
 
「何か嬉しそうですね、係長」 
「え?……い、いや。そんな事はないよ。別に普通だけど」 
――何がどう普通なのか……。 
 
 誤魔化すのがやっとで、その話題から逸らそうと渋谷は仕事の話しを再び切り出した。女性はこういう時に、驚きの鋭さを見せる事があるから気を抜けない。曖昧に笑みを浮かべつつ、やっと辿り着いた駅で女子社員と別れると、渋谷は深く溜息をついた。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 外回りから帰って来る頃には3時を過ぎていた。 
 
 食べ損ねた昼食のせいで、少し前までは腹が減っていたが一定の空腹時間が過ぎるとそれも気にならなくなる。鞄をデスク脇へと置いて今し方回ってきた取引先からの資料を引っ張り出すと、戻ってくるのを待っていたかのようなタイミングで内線が鳴り、渋谷は部長に呼ばれて隣のセクションとの境目にある部長のデスクに向かった。 
 
 呼ばれるような用件は、さしあたって思いつかないが何かミスでもしたのかとつい悪い方へ考えてしまう。部長のデスクに辿り着くと、東谷も呼ばれていたようで、二人で顔を見合わせる。二人が揃った所で部長が話しを切り出した。 
 
「急で悪いが、さきほど例の件で連絡があってこの前から打診していたアウトレットモールにKG.naturalの新店舗を出せる事になってね。一度現地へ出向いて、状況を視察してきて欲しい。顔合わせも兼ねて、渋谷と東谷で、金曜から行ってくれるか?」 
「え?今週末……ですか?」 
「ああ、そうだよ。先方がその日がいいと指定してきているんだ」 
「……そうですか。……参ったな、急ぎの別件が立て込んでいるんですが」 
 
 地方の展開を今後は押していきたいと発案したのは渋谷自身なので、もちろん今回のこの件は喜ばしい結果ではあるのだが、今週末というのはあまりに急で、どうスケジュールを詰めても手持ちの仕事を片付けられそうにない。どうするかと考え込む渋谷の様子を見て、東谷が一つ提案を持ちかける。 
 
「それって私と係長二人で行かないと回らないんでしょうか?」 
「多少厳しいとは思うが、どうしても都合がつかないならお前達のどちらかでも構わんよ」 
「では、現地には係長が一人で行くとして、他の仕事はひとまず私が進めておきますよ」 
 
 部長もそれはいい案だとばかりに頷いている。 
 
「東谷、でも大丈夫なのか?自分の分の仕事は」 
「まぁ、でもどちらかが行かないといけないなら、流れを全て把握している係長が行った方がいいし、大丈夫ですよ。何とかなります」 
 
 散々迷ったが、それ以外には案も思い浮かばず、渋谷もそれで納得する事にした。仕事を東谷に任せるのが不安なわけではない。 
 
 ただ、東谷も連日夜遅くまで社に残っているのを渋谷は知っていた。自分の分の仕事までを抱え込むのは無理があるのではないかと思ったのだ。 
 部長のデスクを離れ席へ戻る途中で渋谷は東谷へと言葉をかける。 
 
「本当に平気なのか?無理だったら他に何か方法を……」 
「気にするなよ。これで俺の株もあがるし」 
 
 冗談で渋谷にそう言って笑う東谷は、口は軽いが仕事は出来る男だ。無理をして、仕事に穴を開けるような事態なら最初から請け負わないだろう。 
 
「じゃぁ、頼むよ」 
「もちろん」 
 
 こうして急に決まった出張は渋谷が一人で行くことになった。 
 デスクへ戻って、東谷に出来るだけ負担を掛けないように仕事を片づけている途中、一瞬昼間の玖珂からの電話を思い出し渋谷は思わず小さく「あっ」と声を洩らした。 
 
 先程は突然の打診でその時は失念していたのだが、金曜は玖珂と会う約束をしていたのだ。久し振りに連休だからゆっくりできると言っていた玖珂の言葉を思い出す。いつも次の日はどちらかが仕事で、会っても慌ただしく別れることばかりだった。先日やっと時間を作って仕事を終えた後夕食を共にしたが、それも終電までの数時間だけである。 
 
 金曜は、そんな休日の全く合わない自分達に三ヶ月ぶりに出来た、貴重な日になるはずだったのである。土曜は一日休みでもあるが、出張先から朝一で帰ってきてもこっちへ着くのは良くて昼過ぎだろう。そして日曜にはまた仕事が入っているので早めに帰宅しなくてはいけないのだ。渋谷はがっくりと肩を落とすと、自分の運の悪さに溜息をついた。 
 
――本当についてない……。 
 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 
 日付が変わる頃帰宅した渋谷は、帰りにコンビニで買ってきた弁当を食べながらテレビの電源を入れる。丁度ニュース番組が天気予報を流しており、そのバックには見事な紅葉の山並みが映されている。週末に行く事になった出張先は避暑地ではあるが、秋には有名な紅葉の観光スポットがある。丁度今見ているような紅葉が見られるかもしれないなとぼんやり考えて見る物の、空き時間があったとしても一人で行く気も起きなかった。 

 味気ない夕食を終えて片付けた後、金曜の夜から仕事になってしまった事を玖珂に報告するために電話をかける。一度目は電話に出ず、二度目は話し中、三度目で漸く玖珂は電話に出た。 
 どうやら出先で運転中らしく、停車してからかけ直すというので一度通話を切る。暫く目を閉じていると、本当にすぐに電話がかかってきた。急いでかけてくれたのか、少し玖珂の声が慌ただしく出されている気がする。 

「さっきはすまなかったね。いまちょっと路肩に停めたから」 
「いえ……全然いいんです。今話していて大丈夫ですか?」 
「ああ、今は平気だよ。祐一朗は?今日は早かったのか?」 
「いえ、俺もさっき帰ってきたところで」 
「今の時代、仕事が忙しいのは喜ぶべき事だが……、さすがにもう少し早く帰りたいもんだな」 
「……そうですね」 
「………どうした?少し元気がないな……何かあったのか?」 
「……それが……、金曜の事なんですけど……」 
「――ん?」 
「俺、出張になってしまって……、せっかく連休だって話していたのに……」 
「そうか……、それは残念だな……。しかし、仕事じゃ仕方がないだろう」 
「まぁ、そうなんですけど……」 

 玖珂は仕事なのだから仕方がないと言うが、それでも渋谷の気は晴れなかった。玖珂の声を聞いてしまうと、会えない事が益々辛くなってしまう。落胆している渋谷の耳に玖珂の優しげな声が届いた。 

「出張って、何処に行くんだ?」 

 渋谷は現地の場所を玖珂へと告げ、目的は、先日会った時に話した地方展開への視察を兼ねていると付け加える。やや間を置いた後、玖珂が独り言のように呟くのが聞こえた。 

――そんなに遠くはないな……。 

「え?」 
「祐一朗は、俺に会いたいか?」 
「……それは………はい」 
「じゃぁ、そうだな……。週末は一緒に温泉にでも泊まるか。夜と次の日は空いているんだろう?」 
「……え?」 
「俺も折角の連休だから、夜に合わせて会いに行ってもいいが。どうだ?」 
「いや、でも……そんな玖珂さんが大変ですよ?」 
「そうか?車で3時間ほどで行けると思うが」 

 勿論会いに来てくれたら、凄く嬉しいと渋谷は思う。しかし、気落ちしている渋谷を慰めるために無理をしているのかもしれない。そう思えば、玖珂の優しさにそこまで甘えるのはやはり気が引けた。 

「やっぱり、今回はやめましょう。俺の我が儘は通すわけにはいきません」 

 クスッと玖珂の笑う声が聞こえ、続いて声が届く。 

「そう言うのを我が儘って言うのかな?……会いたい時は、会いたいって素直に言ってくれる方が……、俺は嬉しいんだが」 

 渋谷は揺れる気持ちを精一杯抑えて断ったが、玖珂はどこまでも渋谷に甘い。数秒前の決心はすでに傾き始めていた。玖珂の少し寂しそうな声が、追い打ちを掛けるようにため息混じりに囁いてくる。 

「祐一朗は、会いに来てくれとは……、言ってくれないんだな……」 
「いえ……あの……」 

――……会いに…来て……欲しいです……。 

 渋谷は、これが電話で良かったと心底思いながらほとんど聞こえない声で玖珂に返す。素直に自分の気持ちを口にするには結構勇気が必要だ。それなのに、玖珂は意地悪く「聞こえなかった。もう一度言ってくれ」と返してくる。玖珂の「もう一度」という言葉が鼓膜を伝って渋谷を刺激する。 
 渋谷はぎゅっと目を瞑り、さっきより確かな声でもう一度声を出した。 

「会いに来て……下さい。……玖珂さんに、会いたい……」 
「ああ、……何処へでも会いに行くよ」 

 少しだけ意地悪な玖珂の誘導尋問はどこまでも優しい。現金なもので、週末に玖珂と会えるのだとわかっただけで、出張も悪くないなどと思っている自分が既に居て、そんな自分に呆れ一人で苦笑した。