俺の男に手を出すな 4-1


 

  外苑西通りと六本木通りが交差する西麻布交差点を過ぎ、次第に街並みが夜の顔を見せだす。ネオンが灯りだしたその街並みの中をサングラスをかけたまま晶はゆっくりと歩いていた。 
 傘をさしているとは言え、派手な身なりの晶は通り過ぎる女性の視線を時々奪う。しかし、本人は全くそれには気付いていなかった。他人の視線が気にならない程に眠いと言った方がいいのかもしれない。 
 今目の前にベッドがあって「どうぞ」と言われたら、10秒で夢の中へ旅立てる自信がある。 
 
 まるでホテルのような佇まいで建つ、アーバンビューを売りにする新築マンションの横を通り抜け――こんな場所のマンションなんていかにも高そうだ――等とNo1ホストらしからぬ庶民的な事を考えていた。金は困らないほどには持っては居るが、きっと使おうと思えばすぐになくなるだろう。しかし、今そんな大金をはたいて欲しいものもなかったし、生活だって今のままで十分である。 
 ホストになって少しして越したマンションはもう長年住んでいるが、広い場所へ移る気も無いし、今の所戸建てを買ってどこかに落ち着くつもりもない。 
 
 そういえば先日、後輩ホスト達とオフで飲みに行った際、酔った勢いで『お前らさー、売り上げが下がったとか~、ブランドがどーのとか~、しょっちゅう言ってっけどー。世の中金が全てじゃないぞ!もっと楽しい事考えろよ』と力説した事があったらしい。らしいというのは、後日信二に聞かされたからだ。  
 
――金にがめつくないホストとか天然記念物っすよ。 
 
 信二がちょっと笑ってそう言ったもんだから、恥ずかしくなって「覚えてない」と返したが、実際の所、素面である今だってそう思っていたりする。世間では綺麗事等と言われるような事だって、思っている分には悪いことでは無いと思うし……。ただ、この歳になってそんな事を言っても誰の同意も得られないので普段はあまり口にはしなかった。 
 
 
 雨で滲んだ行き交う車のライトが、晶の横を鮮やかに照らしながら走り去る。濡れたアスファルトには様々な光が映り込んで、あちこちでキラキラしている。静寂は一つも無かった。 
 夜の街は長年親しんできただけあり肌に合う物ではあるが、晶にとって麻布は住むべき場所ではない。少し休まらない気持ちなのは、多分、この雨のせいもあるのだろう。 
 
 駅前の店に行くのに、何故今日はこんな場所を歩いているかというと、いつも使っている駅より一つ手前で降りたからである。眠気覚ましに歩こうと降りたはずが、歩きながらも眠気は一向に去る気配はなく、今の所徒労に終わっている。暫く歩いて店へ着いた晶は、入り口脇へ飾ってある自分の顔写真をちらりと見て、その後、店内へと足を踏み入れた。 
 
 ちょっと遅い出勤時間なので、後輩ホスト達はすでに準備して店内へ出ていた。この場にいないホストはキャッチをしに出ているか同伴のどちらかである。坂下ら、他の従業員に挨拶をしながら指名が来るまで待機している部屋へと真っ直ぐ向かう。ドカッとソファへ腰を下ろすと拳が入るほど大きく欠伸をしながら背もたれへとダラリと寄りかかった。 
 
「マジ、眠みぃ……」 
 
 店はあと20分ほどで開店だ。 
 昨日の夜は佐伯のマンションへ泊まっていたので今日は直接店へ顔を出す羽目になったのだ。いつもの事だが佐伯と夜を共にした日の睡眠時間はとても少ない。 
 普段より体力的に疲れる事をし、余計に睡眠時間を取りたいのに、昨日は4時間も寝ていない。佐伯は今日病院へ出るのは夕方からだが、その前に用事があったらしく、結局晶は早々に起こされてしまったのだ。 
 さっさと支度を済ませて出て行こうとする佐伯に「鍵をしっかりかけて帰れよ」と注意され「要、行ってきますのキスは?」とふざけて言ってみると、佐伯は可哀想な者を見る目で一度晶を見て、鼻で笑うとそのまま出て行ってしまった。 
 あれは、照れ隠しなのだと思う事にしている。99%違うけれど。 
 
 佐伯が出かけた後、もう一度寝ようかとも思ったが、その時はさほど眠いわけではなかったので、昼過ぎまでくだらなくテレビを見て過ごしてしまったのである。――何で二度寝しなかったんだよ、俺……――日中の自分に後悔しかない。 
 そんなわけで、寝不足な晶はうっかり気を抜くと居眠りしてしまいそうになりながら指名が入るのを待っていた。 
 
 
 こんな場所にずっと座っていられるというのは、お呼びがかかっていないホストだけで、晶は滅多にこの部屋を使っている事はなかった。ゆっくりと見回してみると、以前は紙に貼ってあったはずの売り上げ目標は、いつのまにかホワイトボード変更されそこへマジックで書かれている。しかし、いつからホワイトボードになったのかわからなかった。 
 毎日いる場所なのに、そんな事も気付かないとは、改めて最近の忙しさを実感してしまう。何となく身体が重いのは日頃の疲れが蓄積しているせいもあるのだろう。 
 
「いらっしゃいませ」 
 
 客が入り出したのか店内から微かに声が聞こえるのを何気なく耳にしながら、フと新入りの頃を思い出していた。 
 新人の頃から今のように指名本数が凄かった訳ではもちろんない。当時はいつ指名が入るかとドキドキしながら待っていたものだ。大抵はヘルプについた客が連れてきた、所謂、枝と呼ばれるフリー客が気に入ってくれ、その後本指名に昇格するわけだが……、そこまでもって行くのはやはり大変だった。 
 
 玖珂がよくヘルプに呼んでくれたおかげと、受けやすい容姿の為人気が出るのに時間はそうかからなかったように思うが、それでも客は勝手なので一度でもつまらない接客をしてしまうと、次からはあっさりと声がかからなくなってしまう。 
 そんな緊張感は、未だに新規の客からの指名で味わうことが出来る。NO1をはっていたとしても、新規の客にはそんな事は全く関係ないからだ。 
――初心忘るべからず。 
 昔、先輩だったホストがそんな事を言っていたのを思い出し、晶は二度目の欠伸を噛み殺した。 
 
 
 晶のいる店の二号店オーナーでもあり憧れでもある玖珂から、新店舗のオーナーをやってみないかと打診があったのは今から少し前の出来事だ。三号店は、一号店二号店のあるこの界隈ではなく新宿である。 
 同じホストクラブでも、立地によってその雰囲気はだいぶ変わるし客層も違う。新宿というホストクラブ激戦区への参入はかなりの賭けでもあるのだ。 
 
 しかし、玖珂は弟の澪が入院していた為かなり多忙で話し合いの時間は中々とれず、晶へ店を任せたいという話しについても今はまだ膠着している状態だった。 
 結局、澪はこの業界からは足を洗って新たな道へ進んだらしい。それは彼本人が望んで決めた事できっと考えがあるのだろうが、入院先で澪に会った時にも感じた人を惹きつけるその容姿が、ホスト界からいなくなってしまった事だけは、ちょっぴり残念に思っていた。 
 
 玖珂から聞いた話しによると、入院していた際に担当医だった医師と親しくなり、共にアメリカに渡りターミナルケアの勉強をする事になったらしい。本人や玖珂に聞くつもりは勿論ないが、澪はその医師と付き合いだしたのではないかと晶は予想していた。正解はわからないままではあるが、フと自分に置き換えてみたりする。 
 
――要がもし一緒に外国に来いと言ったら……? 
 
 自分はホストを辞められるのだろうかと。 
 佐伯と離れて暮らす事は今まで一度も考えた事が無い。頻繁に会わずとも、『会いたくなったらすぐに会いに行ける』その距離に安心しているのだ。だからといって自分がホストを辞めて、どこか遠くへ行く佐伯に着いて行くというのも考えられ無かった。 
 普通の会社へ就職した経験も無くずっとホストをしてきているので、今更一般企業で働いている自分というのも想像しづらい。 
 
 ホストをしていて後悔したことは一度も無いし、佐伯と出会えたのだってこの店でホストをしていたからなのだ。ただ……、やはり店を任せられるというのは少し荷が重い気もしていた。今は雇われの身だから気楽だが、経営の事等が絡むと自信も無いし複雑な気分でもある。 
 
「……、どうすっかなぁ……」 
 
 誰も居ない部屋で、ボソリと思いが口を突く。 
 経営が絡む事への不安以外にも、晶を一番渋らせている要因が一つある。オーナーになってしまえば、きっと今みたいに店に出る事はほとんどなくなるはずなのだ。 
 
 玖珂もオーナーになってからはホストとして店にでる事は余程の客の指名か、そうでもなければ極端に欠員が出た時のみだと言っていた。理由は、いつまでも自分が現場にいると後輩達に気を遣わせるからなのだそうだ。それは理解できるとしても、いざ自分がスッパリ裏方へ割り切れるかというと中々に難しい。 
 
 そんな事を考えながら晶は吸いかけの煙草を灰皿でもみ消す。もう一本吸おうかと煙草のパッケージを取り出した所で、店内の方からお呼びがかかった。 
 
「はーい」 
 
 晶は再び煙草を箱へと戻し気怠げに返事を返す。立ち上がって入り口にある鏡で全身をくまなくチェックする。雨のせいで髪型が若干乱れていたが、気になるほどでもない。 
 今日の晶は、ピンストライプの黒のスーツに紫の少し光沢のあるネクタイ、そして濃いグレーのカラーシャツという出で立ちだ。晶にしては、手持ちの中で相当地味な方の格好でもある。 
 そして数少ない露出度が極めて低い格好である。それなのに佐伯は、昨夜着替えとして持ってきたこの一式をみてわざとらしく眉を顰めた。 
「お前……、どこでそんなネクタイを買ってくるんだ」と。 
 何処でと言われても別に珍しい柄でも何でもない。それに一応客からもらった物で、確かどこかのブランドの物だったはずだ。 
 
 佐伯の容姿は目を引くが、服のカラーコーディネートは至って地味である。赤や黄色などの原色を身につけているのは見た事がないし。今まで見てきた中で白地に薄い水色のようなストライプのシャツをきていたのが、唯一明るい色だったという記憶しか無い。 
 
――要も、あぁ見えて何かおっさんくさいとこあるからな……。 
 
 晶は思い出してくすりと笑うと店内へのドアを開けた。さっきまで誰もいなかった店内はもう空席の方が少ないくらいで、いつもと変わらない夜が始まっている。ドアを開けた瞬間、眠気は一気に覚めていた。 
 
 
 部屋を出て入り口へと足を運ぶと、丁度後輩ホストの信二が同伴で入店してきた所だった。連れてきている女性は最近頻繁に信二を指名している女性でよく見る顔だ。確か、信二の話しだと何処かのホステスだという話しではなかったか。 晶が記憶を辿っていると、傘を折り畳んだ信二が晶に気付き挨拶をする。 
 
「あ!晶先輩。おはようございます!」 
「おっはよーっす。な~に、今日も同伴?そんな綺麗な女性と同伴なんて妬けちゃうな」 
 
 客の女性へも気を遣いそう冷やかすと、女性も満更でもないようで信二ににっこり微笑んでいる。ホステスをしているというだけはあり、かなり派手で綺麗な女性だ。 
 
「やだな~、晶先輩。誘惑しないで下さいよ」 
 
 信二がふざけてそう言ったので、晶も冗談で残念がって肩を竦める。自分の客ではないとしても、店に来店したからには客に心地よい気分になってもらうに越したことはない。 
 
「信二に飽きたらいつでも呼んで下さいね。なーんてね!んじゃ、恵さんもごゆっくり~」 
 
 晶が名前を覚えていた事に少なからず女性は驚いたらしく、目を丸くしてその後、晶に微笑んだ。記憶力が相当いい晶は一度顔と名前が一致した客は二度と忘れることはない。信二達が何やら話している脇を抜けて指名が入った卓へと足を運ぶ。晶を指名し待っていたのは常連の中でも特に羽振りのいいエースの客である。 
 
「晶、おそーい!待ちくたびれちゃったわよ」 
 
 口を尖らせて拗ねてみせる女性の隣へ晶は座ると神妙な顔で女性を見つめた。彼女は今夜も、いつもと同じ香水を纏っており、その香りが鍵となって晶の脳内に目の前の客のデータがずらっと並び始める。 
 
「いやもう、俺、香奈さんから指名入るとドキドキしちゃってさ……。こう何て言うの?足が竦んじゃって動かなくなっちゃう、みたいな」 
 
 目の前の女性が笑い出し、真顔でそんな事を言う晶の頭を軽くはたいた。 
 
「もう、上手いこといって。いつからそんなに純情青年になったわけ?」 
「へへ、バレた?」 
「当たり前でしょ。何回指名してると思ってるの」 
「だって、今日も会えるなんて思ってなかったからさ。こういうサプライズは24時間大歓迎だけどね」 
 
 晶が喜んでそう言えば、それだけで女性の顔に笑みが戻る。嫌味のない嘘は冗談として作用し、ホスト遊びを弁えている女性にはちゃんと通用する。計算づくしの褒め言葉より、晶のような自然体の方が客も心が緩むのだ。 
 メンソールの煙草を取り出した華奢な女性の指に一本の煙草がはさまる瞬間、晶のマッチがタイミングよく差し出される。さっと翳した掌の中の炎を受け取ると、女性客の吸う煙草の先からジュッっと小さな音がした。 
 
「そうだ。ねぇ、香奈さん。今日ヘルプで入れる子、新人なんだけどいいかな?」 
「え?新人?信二とかは空いてないの?」 
「信二卓についちゃってんだよ。あいつ最近結構人気あるから」 
「そっかー。信二君面白い子だもんね。晶もうっかりしてるとNo1の座奪われちゃうんじゃない~?」 
「やばい、俺ピンチじゃん」 
「全然ピンチに陥ってる風にはみえないけど?それで、その呼びたい新人君はどの子なの?」 
「まぁ、可愛がってる後輩に抜かれるならいいけどね。あ、新入りの奴今呼ぶね。めっちゃいいヤツだからさ、可愛がってやってよ」 
 
 新人のヘルプは、何か粗相をした場合にカバー出来る熟練のホストの卓じゃないと呼ぶわけにはいかないのだ。その点、晶のヘルプへつくホストは非常に勉強にもなるし、フォローもしてもらえるので経験上プラスになる。 
 すぐにやってきた新人ホストの真人は晶に紹介をされた後、にこやかに挨拶をして晶の向かい側へと腰を下ろした。 
 
「初めまして!真人です」 
「結構イケメンっしょ?」 
「まぁね。真人君はいくつなの?」 
「あ、俺は21です」 
「若い~!晶も前は若くて可愛かったのにね~。今はすっかり初々しさがなくなっちゃって」 
 
 横目でちらりと晶を見てからかうようにそういう客に晶が反論する。 
 
「何ソレ。俺だってまだ初々しくて可愛いっしょ?」 
「初々しくは……ないかな。まぁ、可愛いけどね」 
 
 女性客が苦笑するその様子を見て晶も笑う。ヘルプで呼んだ真人の事も気に入ってくれたらしく、会話は順調に弾んでいる。こうして新人を売り込んでいって、客が次に連れてきた枝と呼ばれる新規の客に指名を入れて貰い客層を広げていくのだ。1時間もすると店内が客で埋まり、賑やかになってくる。店内を一度見渡した後、女性客が口を開いた。 
 
「じゃぁ、新人君との出会いの記念に、お姉さんが二人にシャンパンいれてあげよっか」 
 
「えっ!」と驚いたように真人は目を丸くした。それはそうである。本指名でもないヘルプにボトルをいれてくれる客はまずいない。 
「マジで?香奈さん、先週も入れてくれたし、締めでもないから無理しなくていいよ」 
 
 晶がやんわりと断るように言う。売り上げが上がるのはいい事ではあるが、いくらエースの客だからと言って、そんなに頻繁に大金を使わせるのは気が引ける。しかし、きっぱり断らないのには理由もあった。 
 コールを所望する客は、一時でも店内のホスト全員を独り占めでき、他の客に見せつけて優越感に浸ることが出来る。それを客が望んでいる場合があるからだ。 
 
 それと、自分の気に入っているホストを常にトップの座に押し上げたいという心理があるのだ。特に締め日等は、誰かの卓でコールが発生すると張り合って次々とコールの嵐になることも珍しくない。客にとって、自分の気に入っているホストは商品のような物でもあり、その商品が店で一番売れる事で自らも満足できるのだ。 
 
「いいじゃない。折角ホストになったんだから、コールくらい経験しておきなさいよ。ね?真人君。後、やっぱり晶にはまだまだNo1で君臨していてもらわないとねっ」 
「香奈さん、マジ女神。やばい、俺泣きそう」 
「泣いてもいいけどー。その前に盛り上げコール宜しくね」 
「OK~!んじゃっ!!今日はお言葉に甘えて、コールいっちゃいますか」 
「うんうん、No1のコール見せてあげて」 
 
 恐縮して何度も礼を言って頭を下げる後輩の前で、晶が立ち上がって内勤に合図をする。コール用のマイクと今しがた客が入れたシャンパンのボトルの用意が始まる。 
 一本が一定の額以上のボトルをいれると、店内でお礼の意味を込めてキャストが卓へ集まりシャンパンコールが行われるのである。 
 晶がマイクをオンにして「あー、あー、ただいまマイクのテスト中~俺の美声、届いてる~?」とふざけて一言言うと店内から笑いが起きる。それぞれの卓についていたホスト達が一斉に立ち上がり、晶の卓へと集まってくる。 
 店内にはコール用の派手なリズムの曲が流れ出し、照明が一気に切り替わる。晶は手慣れた様子でマイクを持ち直すと、声を上げた。 
 
「はい注目~!今夜のナイト☆ステージ、記念すべき第一曲目は~!?こちらの素敵な姫、香奈嬢から!愛のロックナンバー……じゃなくて!!愛のシャンパンいただきました~!!!なんと新人真人との出会い記念!!アーンドおまけ(俺)」 
 
 コールには店やそれぞれのホストの特徴を出した言い回しが使われる。MCさながらに場を煽るために行われるそれは向き不向きが大きく、かなりベテランのホストでも練習をしないと中々スマートには出来ない者も多い。 
 晶のコールは店をライブ会場に見立てたハイテンションな物を得意としている。ノリがいいだけでなく、聴いている者をくすりと笑わせる仕込みもあり、人気があるのだ。 
  
「お前らも一曲聴きたいか~!」 
 
 店内に向けてマイクを向けると、周囲の客やホストから「聴かせて-」や「聴きたいー!」等の声が届く。  晶は笑いながら隣を振り返り、慣れない様子で直立している後輩にマイクを向ける。 
 
「んじゃ!今夜の王子、真人から一言!!張りきって言っちゃって~」 
「えっ……あの、ありがとうございます!!…………精一杯頑張ります!」 
 
 他に何を言えばいいのか緊張しすぎて何も出てこない真人に店内からどっと笑いが起こる。真人は真っ赤になって曖昧な笑みを浮かべていた。初めてボトルを入れて貰った時は皆こんなもんである。 
 
「真人お前、可愛すぎかっ!」 
 場を読んですぐにツッコミをいれる晶がマイクを再び受け取って客へと振り向く。 
「香奈さん、今夜も熱い夜を俺と一緒に奏でようぜ」 
 
 晶の決め台詞の後、シャンパンコールが始まる。集まったホスト達が晶のコールに合いの手を入れ店内が一気に盛り上がる。30万はするシャンパン二本は瞬く間に空になって消えた。
 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 
 店が終わり、疲れ果てた晶は帰り支度をしながらロッカーの前に立っていた。今夜はあの後の客からもボトルが入り、外でしとしとと降り続く雨を吹き飛ばす勢いで店内は終始賑わったのだ。 
 家に持ち帰ってゆっくりと目を通そうと思い、新店舗の件の玖珂からもらった茶封筒を取り出す。糊付けされていない封筒から中の書類が一枚だけ飛び出し床へ落ちる。それを拾い上げる時、ロッカーの隙間にもう一枚の書類が落ちているのに気付いた。 
 
──ん?何だろう……。 
 
 拾い上げるとそれは給料を前借りする時に提出する書類だった。晶も申請はした事はないが、見たことはある。まだ記入されていないその書類は、誰か他のホストのロッカーから落ちた物なのだろう。何処に置いておくか迷ったが特に何も書かれていないので問題ないだろうと思い、結局は部屋の中のテーブルへと置いておくことにした。 
 鞄に書類の入った封筒を仕舞い込んで、ロッカーをしめ鍵を掛けると晶は部屋を後にする。 
 
 店内へ戻ると、照明を落としたテーブルで信二が何やらメモのようなものをとっていた。近づいて覗き込むと、客の名刺とその会話のポイントを書き込んでいるようである。それをした方がいいと信二に教えたのは晶である。今でもそうしているように客のデータを忘れないように書いておくのは今後重要になるからだ。晶の言った事を真面目にこなしている信二が可愛くて思わず笑みが零れる。 
 
「お疲れさん」 
 背後から晶に声をかけられて信二がボールペンを置いて振り向く。 
「あ、お疲れさまです!!あれ?珍しいっすね。今日はもう帰るんすか?」 
「おう。俺さ、ちょー寝不足なのよ……。ってか今も半分寝かけ」 
「まーた女の子と一晩中イイ事してたんじゃないんっすか?」 
「ばっか、ちげーよ」 
 
 晶は苦笑して信二の隣へとりあえず腰を下ろす。本当に信二の言った事は正解ではない。女ではなく……彼氏なのだから……。イイ事をしていたという部分はずばりあっているが、それを言うわけにもいくまい。 
 
 隣りに座った晶が信二の開いているノートを覗き込んだその時、突然信二が「あ!」と大きな声を出した。びっくりした晶は「え?なに?」と信二を見る。ポケットを探り出した信二が、腕時計を取り出して晶へと渡した。腕時計は晶のいつもつけている物である。 
 
「あれ?……何でお前が持ってんの?」 
「良かったっすよ!危うく忘れる所でした。いや、ちょうど晶先輩が最後の客を接客してる時に、この時計を渡してくれって届けにきた方がいたんですよね」 
 
──要だ! 
 
 晶は一瞬にしてその場面を想像する。 
 そういえば昨日ベッドサイドに時計を外してきて、そのままだったのだ。今夜佐伯は夜勤だと言っていたからには勤務中の休憩時間に届けに来たのだと考えるのが妥当だろう。昨日会った時に、次に会うのは少し間があいてしまうような事を言っていたので、さすがに無いと困ると思ったのだろうか。 
 
 まさか余計な事は言っていないとは思ったが、晶は心配になりそれとなく信二に尋ねてみる。佐伯の行動は時に晶の予想を平気で裏切る事があるので、確認が必要である。 
 
「髪が長くて背の高い人、だった……だろ?」 
「ええ。同業の方っすか?何かすげぇ格好いい人だったんでびっくりしちゃいました」 
「あー……。そ、そう?ってかまぁ、ホストじゃないんだけどな」 
「そうなんすか?でも、普通の会社員じゃないっすよね」 
「あぁ……まぁ……。客商売って所はあってるけどな。うん。ちょっと昨日一緒に飲んでてさ」 
「あ、だから忘れ物届けにきてくれたんっすね?」 
「ま、そゆこと。んでさ何か言ってた?その人」 
「いえ、別に。ただこの時計を三上さんに渡してくれって」 
「そかそか、それなら良かった」 
「え?」 
「あ……いや!何でもない。サンキュ!じゃ受けとっとくわ」 
 
 佐伯が余計な事を信二に言っていなかった事に心から安堵する。それにしても信二が間違えるのも無理はない。佐伯は白衣を着ていない限り、どっからみても外科医には見えないと晶も思う。街でアンケートを取ったとしても佐伯の職業を一発で当てられる人間はそうそういないだろう。 
 
 店に来たのなら一言声をかけてくれればいいのに……。 
 一瞬そう思ったが、佐伯は佐伯で晶の仕事の邪魔をしては悪いと思ったのかもしれない。多分、こうして届けた事でさえ晶が何も言わなければ佐伯からは何も言ってはこない。佐伯はそういう性格なのだ。 
 受け取った時計を左手にはめて晶は立ち上がった。 
 
「さてと、俺は帰るけど。最後しっかり店閉めて帰れよ」 
「はい、わかってます」 
「んじゃ。お先~」 
「お疲れ様でした!!今日は早く寝なきゃダメっすよ」 
「はいはい~」 
 
 最近ではこうして店の最後を信二に任せることも少なくない。以前は家に帰るのがあまり好きではなかった晶だが、佐伯と付き合うようになってからは、そんな寂しさを感じる日は目に見えて減っていた。なので、アフターがなければまっすぐに家へと帰っているのだ。 
 
 店を出て階段を下りながら晶はポケットから煙草を取り出してくわえる。体は疲れている物の、夜の空気と煙草の紫煙をゆっくり吸い込むと気分はとてもいい。 
 
 吸い込んだ煙を空へ向かってゆっくりと吐き出し晶は帰路へ着いた。