俺の男に手を出すな 4-4


 

 街中にあるシティホテルは、週末でもないのでがら空きで、一軒目で問題なくチェックインする事が出来た。外観は改装でもしたのか新しいように見えたが、フロントやロビーはそれなりに年季が入っているようだ。エレベーターに乗って指定の階まで上り、部屋は降りてすぐの所だった。 
 
 ホテルの部屋に入った途端に佐伯はコートを脱ぎながら、晶にも早く服を脱ぐように促す。自分のぶんの上着をハンガーにかけて、佐伯は二つある窓際の椅子に腰を下ろした。 
 
 ホテルは、サラリーマンが出張で使う程度のもので調度品もそんなにいいものではない。室内は小綺麗ではあるが殺風景で、シングルのベッドが二つと小さなテーブルそして、椅子が二脚あるだけだった。備え付けの冷蔵庫の中に、何種類かの飲み物が疲れたような光の中で顔を覗かせているのを見て、晶は小さく溜息をついた。 
 
「何かさー。色気のないホテルだよな」 
「まぁ、そうだな」 
 
 一番近い場所を選んだだけなので贅沢も言えないが、佐伯も晶と同じ事を思っているのか部屋を見渡して苦笑している。びしょ濡れの上着を脱いで上半身裸になった晶は、濡れたシャツを適当にかけて佐伯の向かいに腰掛けた。 
 冷たかったシャツを脱いだおかげでいくらかマシになったとはいえ、全身が冷え切っているのは中々温まらない。さっきから何度目かのクシャミをしている晶に佐伯は自分の上着をとると晶の肩へと羽織らせた。 
 
「下も脱いで、乾かしておいたらどうだ」 
「え?いいよ。何かカッコ悪いじゃん。俺だけ裸とか、恥ずかしいし……」 
「問題ないだろう。お前の裸は見慣れている」 
「俺が恥ずかしーんだっつーの!」 
「そんな事気にしている場合じゃないと思うがな。ああ、それと、ついでにシャワーで体も温めてきたほうがいいんじゃないか?」 
 
 佐伯が卓上にあったリモコンを手にして立ち上がり、室内のエアコンの温度をあげながら晶へ振り向く。ピッという電子音がした後、吹き出し口から暖かい空気が一気に部屋へ流れ込んできた。そんなに広くない室内はすぐに暑いほどに温度が高まっていく。この調子だとシャツもすぐに乾きそうである。 
 
「ほら、いいから浴びてこい」 
 
 強引に佐伯に背中を押され、浴室へと向かわされた晶は仕方なくシャワーを浴びる事になった。折角のデートがとんだ事態になってしまったものだが、とりあえずは佐伯と一緒にいれるならどこでもいいので、晶はそんなに悪い気はしていなかった。 
 
 しかし、本当を言うとやはり風邪を引いたのかさっきから寒くて仕方がない。背筋を駆け抜ける悪寒は強くなる一方で、いつもなら感じる事のない感覚に嫌な予感がする。かといって、少しでもそんなそぶりを見せようものなら佐伯はきっとすぐに「帰る」と言うに違いない。晶の予想ではその確率は、ほぼ100%に近いのだ。まだ会ったばかりだというのに……。それだけは困るので阻止せねばならない。 
 
 晶はシャワーを目一杯熱くして頭から勢いよくかけた。冷えた身体に熱いほどの湯が心地よく流れ落ち、晶の肌を滑り落ちる。濡れた髪をかき上げて、全身にシャワーを掛けながら、あがった後、医者である佐伯にどうしたらバレないでいられるかを考えていた。とにかく、普段通りにしているしかない。 
 体を伝う湯が玉になって落ちるのを見ながら、晶は一人で気合いを入れるために「よしっ!」と呟いた。暫く温まったおかげで、寒気は今の所誤魔化されているし体調もそんなに変わらない気がする。 
 
 シャワーを浴び終えた後、わざと元気よく部屋へ戻ると、佐伯は先程の椅子に腰掛けたまま外を眺めていた。あがってきた晶にすぐに気付く様子もなく、どことなく考え事をしているようでもある。 
 
 晶は濡れた髪を拭きながら佐伯の後ろへそっと近寄ると、顔を覗き込んだ。漸く気付いた佐伯は、すぐにいつもの態度へと戻ったが少し違和感があるような気もする。 
 気のせいだったのかもしれないが、この前の電話の事もあるので余計な思考が頭をよぎってしまう。何か考えるような事が佐伯にあるのは間違いない。しかし、それが何の事なのかまでは残念ながら今はまだわからないのだ。振り返った佐伯が晶の濡れた髪を指でかきあげる。 
 
「少しは温まったのか?」 
「おう!もう平気だって。……あのさ」 
「――ん?」 
「俺、さっきポケットに煙草入れてたから、濡れちゃったんだよね。要の吸っていい?」 
「ああ、構わん。ほら」 
「サンキュ」 
 
 佐伯がポケットから取り出して煙草ケースごと晶へと渡す。煙草ケースの上に重ねられたライターを見て、晶は咄嗟にさっき自分が選んだオイルライターの事を思い出していた。 
 佐伯から今手渡されたライターはずっと使っている物らしく、晶が予約してきた物と同じくオイルを詰め替えるタイプのものだった。しかも、よく見ると佐伯のイニシャルが刻まれていたのだ。 
 
 自分でネームを入れたのか……。それとも誰かからの贈り物なのかも知れない。晶が渡されたライターをじっと見ているのに気付き、佐伯が訝しげな声を出す。 
 
「どうかしたのか?」 
「……え?ああ……いや、要さ、このライターいつも使ってっけど。いつから使ってんの?」 
「いつだかよく覚えてないが……。何でだ?」 
「ううん……。ちょっと古いから気に入ってる物なのかなって思っただけ」 
「まあ、壊れなければ買い換える必要もないしな」 
 
 佐伯が誰にそれを貰おうが、例えそれが昔の恋人だとしても、そんな過去の事を気にしているわけではない。ただ、今のこのライターを気に入っているのだとしたら、果たして自分が贈ったものを使ってくれるのか少し心配でもあった。 
 
 ライターで着火し、晶は深く煙を吸い込んだ。佐伯の煙草を貰う事はよくあるので、自分の吸っている銘柄ではなくとも馴染みのある味が広がる。佐伯の髪に鼻をうずめた時にも微かに同じ匂いがするので、今ではこの匂いが好きだった。 
 そんな事を考えているなんて、我ながら可愛いやつなんじゃないかと思い、晶は一人苦笑する。 
 
「お前は、いつも楽しそうだな」 
 
 佐伯はそう言って晶をちらりと見ると、自分も煙草を抜き取り火を点ける。 
 
「俺だって、色々あるんだぜ?脳天気に毎日過ごしてるわけじゃねーよ」 
 
 馬鹿にしてくる佐伯に晶は口を尖らせて言い返す。わかった、わかった。とでもいうように佐伯は片手を上げてそれを流した。吸い途中の煙草を肺の奥までいれて晶はフと思い出したように煙草を口からはなした。 
 
「あ、そういえばさ、ちょっと相談っていうか。あるんだけど」 
「何だ」 
「俺さ、今、新店舗のオーナーにならないかって誘われてんだよ」 
「ほう?今の系列の店でか?」 
「うん、そう。三号店が新宿に出来るんだけど、そこ」 
「なるほど?」 
「でも、どうしよっかなぁって……」 
 
 佐伯は手放しで喜んでいるわけではなさそうな晶の態度に気付き、眼鏡を直すと話しを促すべく口を開く。 
 
「やりたければやればいい。何か他に選択肢があるのか?」 
「うーん……まぁ、そうなんだけどさ……」 
 
 佐伯は、こういう真面目な相談の時などはいつもちゃんと耳を傾けてくれる。話しを急かしてくる事もないし、晶の意見も一度聞いた上で自分ならどうするかを掲示してくれる事が多い。晶は続けて『オーナーになってしまうと今までと違い接客にそんなに出られないこと』『それが嫌だと思っていること』『しかし、年齢的にもいつまでもこのままでいられないこと』それらを全部打ち明け、考え込むように腕を組んだ。 
 
──お前のしたいようにしろ。 
 
 佐伯はきっとそう言ってくると思っていた晶に、佐伯が返してきた言葉は意外な物であった。 
 
「そうだな……。自分の意見だけでは迷う事もあるだろう」 
 
 断定的な意見を言うことの多い佐伯が曖昧な表現を返してきたのも驚きだが、そう言った佐伯もまた何かを迷っているように晶には見えた。一緒に自分のことを親身に考えてくれる佐伯に、晶は嬉しくなるとともに、佐伯の方は話してくれないのだろうかとつい思ってしまう。 
 
「じゃぁさ……、もし要だったらどうする?」 
「……俺なら、登れる階段が目の前にあるなら、どんな手を使っても上へ行く」 
 
 佐伯らしくそう言った後、しかし、すぐに佐伯は苦笑して今の言葉を取り消した。黙って聞いていた晶はそのまま佐伯の言葉に耳を傾けた。 
 
「昔はそう思っていたが……。今はわからん。何か不安があるまま進んで、いい結果を生むとも言い切れないからな」 
「……うん。そうだよな」 
「お前は、接客が続けたいんだろう?それさえクリア出来ればオーナーになってもいいんだな?」 
「まぁ……。そうかな。ちょっと不安だけど、それは経験が無いからかもしれねぇし……」 
「だったら選択肢は二つしかないな」 
「え?オーナーの件を断るか、受けるか?」 
「いや、そうじゃない。既存のやり方に従うか、従わないかだ」 
 
 佐伯がもう一本煙草を抜き取り、晶に視線を止めたまま話しを続ける。 
 
「オーナーになったら、接客から遠のくというスタイルは絶対的な規則じゃないんだろう?」 
「まぁ……そうだけど」 
「じゃぁ。お前は、独自のスタイルでやればいい。その新店舗では接客もしながらオーナー業もこなす。まぁ、出来るかどうかはお前次第だがな」 
 
 確かに、オーナーになったら接客をしてはいけないという決まりがあるわけではない。ただなんとなく玖珂や回りの先輩達を見てきてそう思いこんでいたのである。だから、同じように自分もしなくてはいけないと思って迷っていた。佐伯の言うとおり、今まで通り接客もしつつ店をやっていくという案は少なくとも晶が悩んでいる問題のひとつをクリアできた。自分の考えにはなかった意見を佐伯に聞けて、晶は少し肩の荷が軽くなった気分だった。 
 
「やっぱ、要に聞いてみて良かった。どうしよっかなぁ~ってずっと迷ってたからさ。あんまり、返事を待たせるのも悪いし……今、要が言ったこと俺も考えてみる。ありがとな」 
「最終的に決めるのは、お前自身だからな。話しは聞いてやれるが」 
「うん、頼りにしてるぜ……。で?」 
「……ん?」 
 
 晶が今度は佐伯の番だと言わんばかりに、じっと佐伯を見つめる。佐伯はその視線に眉をすっと寄せると煙草に火を点けた。 
 
「何が、で?――なんだ」 
「何がじゃないっしょ。要も何かあんだろ?俺、結構そういうのわかるんだからな」 
「ほう、それは凄いな」 
「本当はさ、要が言ってくるまで聞くのやめよっかなとか思ってたけど……。恋人なんだし、やっぱ聞きてーじゃん」 
「……残念だが、お前の勘違いだ。俺は、何も話すような事はない」 
 
 佐伯はじっと疑う眼差しで見つめる晶から逃れるように立ち上がり、見るともなしに窓の外へ視線を向ける。窓の外は相変わらず雨が降っていて止む様子はない。ガラスを濡らして無数の水滴を作りながら、佐伯の目の前で幾度も流れ落ちる。 
 
 勘の良い晶に色々と気付かれるのは困るのだ。特に今回の件は晶にまだ話すわけにはいかないと佐伯は思っていた。 
 部屋の中は、つけ続けている暖房で汗ばむほどに暑くなってきている。晶は暑くないのだろうかと思いながら、佐伯はネクタイを緩めてシャツの前ボタンを上から二つほどあけ、髪を後ろへとかき上げた。 
 
──このぶんだと晶のシャツも、もう乾いているかも知れない。 
 
 そう思い、無造作に置かれている晶のシャツを触ってみようと手を伸ばした佐伯は、次の言葉でその腕を止めた。 
 
「っ、ってかさ……何か、部屋寒くねぇ?」 
 
 こんなに暑いというのに晶は何を言っているのかと佐伯は驚く。しかし、冗談で言っているわけでもなさそうで、佐伯からかりて羽織っている上着の首元をぎゅっと閉める晶に嫌な予感が走る。 
 
「晶、ちょっとこっちに来てみろ」 
「ん?なに?」 
 
 腕を寒そうにさすりながら晶が佐伯の側へ行く。近づいた晶の額に手をあて、佐伯はその熱さに再び驚いた。暑い部屋の温度より、なお熱い感触が掌へと伝わる。 
 
「お前、相当熱があるぞ」 
「え?うそ……。マジで?」 
 
 佐伯が、「どうして自分で気付かないのか」と呆れたように溜息をついた。雨に濡れたせいであるのは、もう間違いようがない。体温計があるわけではないが、さっきの感触からして38度はありそうである。自分が遅れたせいで風邪を引かせてしまった事実に佐伯は罪悪感を感じながら、とりあえず晶をベッドへと座らせた。 
 
「家まで送っていくから、今日はもう帰るぞ」 
 
 そう言って、帰り支度を始める佐伯に、晶は慌てて言葉を返した。 
 
「ちょっと、待てって」 
 
 確かに、佐伯の言うとおり熱があるのだろう。佐伯にばれた以上、このままデートを続けたいというのは却下されるのは仕方がない。だけど、余計な心配をかけるのはごめんだった。心配だと口では言わない佐伯だが、その表情を見ただけで心配しているのがよくわかる。 
 
 責任感の強い佐伯が、晶の熱は自分のせいなのだと思っているのは間違いない。それに、まだ佐伯の悩みを聞いてもいない、話しの途中なのだ。 
 
「俺、平気だし。……それに、話し終わってねーじゃん」 
「どこが平気なんだ?……それと、話しはもう終いだ」 
 
 佐伯の語気を強めた台詞に、晶は仕方がなくその件は、また今度にすることにした。佐伯がこう言っている以上、聞き出すのは至難の技でもあるからだ。それより今は、佐伯が自分を家に送っていく気でいる事を止めなければいけない。 
 
「いや、熱はあるかもだけど。ちょっとだけだって。一応帰るけど、送ったりしなくていーからな?」 
 
 晶はベッドから立ち上がると既に乾いていたシャツを羽織る。ここ何年も風邪等引いたこともないのに、折角のデートに熱を出した自分の体を恨めしく思いながらボタンをかける。佐伯はすっかり帰る支度を終えて、わざとゆっくり支度をしている晶を少し不機嫌そうな顔で見ていた。 
 
「んじゃ……出る?」 
「……あぁ」 
 
 短く言葉を返した佐伯が、自分の着てきた薄手のコートを晶へと手渡す。 
 
「これも上に羽織っていけ」 
「いいって……。要、風邪ひいたらヤバイだろ」 
「俺は風邪はひかん。要らん心配だ」 
 
 何処からそんな自信がわくのかわからないが、佐伯はそう言い切ってさっさと部屋を出て行く。自分は心配するが、心配されるのは苦手、こんな所は佐伯と自分の考え方はほぼ一致する。晶は渡されたコートに渋々腕を通してみて少し袖が長い事に気付く。追いかけるように後に続く晶に構わず、先に一階に降りた佐伯はロビーでチェックアウトをしていた。 
 
 晶は待っている間、ホテルの自動ドアの外に目を向けていた。勿論、雨はまだ降り続いており、視界には濡れた街並みが滲んでアスファルトに反射している。会計を済ませて戻ってきた佐伯を追って外に出てみると、暖かい部屋に今までいたせいか外の空気はホテルへ入る前よりかなり寒く感じた。晶は借りているコートから風が入ってこないように胸元をかき合わせる。 
 
「なぁ、要。ホント!来なくていいからな?ガキじゃねーんだから、一人で帰れるし……っておい、聞いてる!?」 
 
 足早に先を行く佐伯は、晶の言葉を聞いているのかいないのか、駅の方へどんどん歩いていってしまう。そんな佐伯が急に足を止めたので、追いかけていた晶は佐伯の背中に思いっきりぶつかってしまった。 
 
「いてっ、何だよ。急に止まんなよ……って、……?」 
 
 浅い水たまりに片足を踏み入れたことで、足下に雨が跳ね返る。 
 
──………要? 
 
 振り返った佐伯が、一瞬遠くに行ってしまうようなおかしな錯覚に晶は捕らわれた。ぶつかるほどに近くにいるのに佐伯の立っている場所はひどく遠くて……不安感に駆られる。ほんの一瞬見えた佐伯の表情を、すぐに雨が遮り今感じた感覚も途端に曖昧になる。それは多分熱のせいだから……。そう言い聞かせては見るけれど、ぬぐい去れない気持ちが胸の中に影を落とした。 
 
「……タクシーを拾うか」 
「………あ、あのさ」 
 
 もう一度、「来なくていい」と断りの言葉を言おうとしたが、その言葉を口にする前に、佐伯の腕が晶をグイと引き寄せる。いつもは人前でこんな事をするはずがない佐伯なだけに、その行動は晶のその後の言葉を全て飲み込ませるだけのものがあった。痛いくらいの力が込められた腕の中で晶が見上げると、少し困ったような顔で佐伯が低く呟いた。 
 
「送っていくぐらいは……、……させてくれ」 
「――要……」 
 
 隣を行き交う数人が、佐伯達を好奇の目でチラリと見ては通り過ぎる。しかし、晶がその視線に気付くことはなかった。 
 
――……何だよ、それ……。 
 
 まるで、これが最後のデートだとでも言うような言い方に聞こえ晶の背筋を寒気とは別の悪寒が走る。わけもわからない不安感に押し潰されそうになって指が僅かに震えた。晶は咄嗟に腕を振り払うように佐伯から離れ、精一杯冗談めかして軽口を叩いた。 
 
「しょーがねぇな~。じゃぁ、今日は特別に送らせてやるよ」 
 
 佐伯はそんな晶に、「生意気を言うな」と額を軽く指ではじき、タクシーを呼ぶために車道へと一歩を踏み出した。 佐伯はいつもと何も変わっていない。その声も、そっけない態度も、触れる体温も、自分がよく知っている佐伯はちゃんと隣に居て、晶が声を掛ければその声はちゃんと届く場所に居る。だから、余計に怖かった……。なにかを見落としているのではないかと、そう思った。 
 
 晶は佐伯が手を挙げ、タクシーを止める背中を見ながら、これが熱のせいであることを願って拳を握りしめた。