俺の男に手を出すな 4-5


 

 送っていくと言ったのは佐伯自身なのに、一緒に乗り込んだタクシーの中で佐伯はほとんど喋らなかった。 
 信号で停まる度に、赤や緑、黄色に点滅するそれに晶は視線を向ける。腕を組んだまま、窓の外を見ている佐伯の眼鏡のレンズには、通り過ぎる街の灯りが時々映り込んでは消えていく。 
 具合が悪い晶に気を遣っているのだろうが、その沈黙さえ先程の不安を増長させる。佐伯の心が、信号のように目に見えればいいのに……。そう考えて、晶は続く沈黙に切なげに眉を寄せた。 
 
 
 
 
 佐伯は先日の事を思い出していた。茗渓大の助教授である鈴川から連絡が入り、食事会に招かれたのはついこの前の事である。 
 仕事を切り上げ、指定された時間に都内のホテルへ到着した佐伯を待っていたのは、誘ってきた鈴川と、現教授の堀井、そして見知らぬ女性の三人だった。挨拶を交わし、予約してある座敷に向かい腰を下ろす。 
 
 事前に茗渓大の内部事情はわかる範囲で調べて知ってはいたが、実際に会うのはまだ二回目である。一回目は数ヶ月前の学会後の懇親会だ。その時は立ち話程度だったので、こうしてじっくり話すのは初めてになる。そして、隣に並ぶ女性は堀井の一人娘だと紹介を受けた。 
 
 穏やかな笑みを浮かべ挨拶をしてきた娘は品があるが気が強そうでもある。好みかどうかはさておき、世間一般から見ても美しい部類に入るだろう。わざわざこの場に娘を連れてきた来た意味がわからないわけではないので、この展開は予想の範囲内である。佐伯は当たり障りのない言葉で挨拶を返しやり過ごした。 
 
 最高級の懐石料理に、滅多にお目にかかれない秘蔵の酒、座敷は人払いをしているかのように静かで、会話の中心となっている話題は医療の事である。佐伯の現在勤務する敬愛会総合病院とはやはり規模が違い、堀井が口にする理念は魅力的だった。 
 現状、機器の問題もあり今の病院では請け負うことが出来ない症例に対しても茗渓大では率先して受け入れているらしい。大阪の指定を受けた救急指定病院でもあるのでERも優秀な医師が多く、外科との連携で24時間体制で緊急手術も可能なのだそうだ。佐伯の理想とする体制がそこには確かにあった。 
 
 暫くその話題が続き、食事が終わって箸を置く頃、佐伯の視線の端で堀井と鈴川が顔を見合わせる。堀井に酒を継ぎ足され、佐伯が――今夜はかなり飲んでいるな、と思っていると、堀井は徐に話を切り出してきた。 
 
「……ところで、佐伯先生」 
 
 今までの会話が全て前座だったのだとすぐにわかるその露骨さは寧ろ有難い。今からは言葉を慎重に選べという合図になるからだ。 
 
「――はい」 
「佐伯先生は、現在、ご結婚のご予定はおありですか?」 
「いえ、特には……。それが何か?」 
「気を悪くせずに聞いて頂きたいのですが、以前は、その……、結婚されていたと噂に聞きましてね」 
 
――もう、そんな事まで調べているのか……。 
 
 身内の派閥に取り込む以上、多少の身辺調査をされるのは最初からわかっていたが、まだこの件を受けると返答をしていないにも関わらず、先方は随分と気が早いようだ。その進行具合に思わず辟易してしまう。しかし、佐伯は顔には一切出さずに汲まれた酒で少し喉を湿らせると酒器を置いた。 
 
「よくご存じで……。仰る通り、私は一度離婚歴があり、認知している息子が一人おります」 
 
 誤魔化してくると予想していたのか、拓也の事まであっさりと認める佐伯に、堀井と鈴川は面食らっているようだ。仮に拓也の事がまだバレていなかったとしても、それも時間の問題だろう。今の時代、一度離婚をしている等珍しくもないし、この事は隠す必要も無いと佐伯は判断していた。堀井と鈴川はすぐにフォローに入ってきたが、一番顔色を変えていたのは堀井の娘だった。それはそうだろう、当事者になる『かもしれない』立場なのだから。 
 
「おいくつになられるのでしょうか?息子さんは……」 
 
 作り笑いを浮かべている物のその奥の顔は不安さを隠し切れていない。四歳になるという事と、一緒には暮らしていないことを告げると、口では「寂しいですわね……」と言いながらも明らかにほっとした様子を見せていた。佐伯はそんな様子の娘に薄く笑みを浮かべつつ、拓也の事を思い浮かべる。 
 
 すっかり晶に懐いて、三人で会う時は寧ろ佐伯が部外者であるかのような有様だが、その関係が築けているのは晶の性格のおかげである。晶は拓也に対して、今まで一度も邪魔だという表情を見せたことがなかった。佐伯と二人の時でさえ「拓也、最近どうしてっかな?」と気に掛けており、父親である佐伯よりずっとその話題を口にする事が多いのだ。それは多分普通のことではない。晶の優しさと、それを受け入れるだけの度量の広さ。そして何より佐伯の事を信じているからこその結果なのだ。 
 
 だから、目の前の娘が特別冷たいとも思わないし、寧ろこの反応が一般的なのだと佐伯は思っていた。娘のホッとした様子を庇うように、堀井が続けて口を開く。 
 
「では、今はお付き合いをしている方はいらっしゃらない。という事ですか?」 
 
 それとなく探りを入れてくる堀井に、佐伯は涼しい顔で冗談っぽく返した。 
 
「沢山おりますが、今から一人一人ご紹介した方が宜しいでしょうか?」 
「佐伯先生はご冗談がお上手だ……。いえ、結構ですよ」 
 
 今はこれ以上深く追求してくる事も無いだろうが、晶と交際をしているというのが知られるのは色々とまずい。医者である自分より、女を相手に仕事をしている晶が、男と付き合っている事が知られれば致命傷になるのは目に見えている。この件に、晶を巻き込む事だけはどうしても避けなくてはいけないと思った。 
 
 
 
 
 そんな事を思い出していると、自分でも気付かないうちに溜息が漏れていたらしい。隣に座る晶が佐伯へと振り向き、顔を覗き込んでくる。晶の視線に捉えられ、佐伯は我に返った。 
 
「な~に、どうしたよ?溜息なんかついちゃってさ。……今日の要、ちょっと変だぜ?」 
「……別にいつもと変わらんだろう。……長時間のオペの後で、少し疲れているだけだ」 
「なら、いいけど……」 
 
 明らかに腑に落ちていないような言い種で語尾を飲み込む晶に、佐伯は話題を変えるように低く問う。 
 
「それより、具合はどうなんだ?」 
「うん……。平気……」 
――でもなかった。 
 
 乗り物に酔う事など普段は絶対無いのに、タクシーの揺れが少しづつ晶の気分を悪化させていく。晶は鈍く痛んできた頭を座席のヘッドシートに凭れかからせて低い天井を見上げた。 
 
 降り続いている激しい雨のせいでどうにも空気が湿っている。締め切っている車の窓に細かい水滴がつき、車内にも浸食してきそうな気がする。息苦しいような感覚は、雨のせいだけではないのだろうが……。熱のせいで思考も上手く纏まらない。 
 
 幸いにも道はすいており、30分ほど走ってタクシーは晶のマンションへ到着した。先に降りた晶がエントランスへ向かい、ポケットに手を突っ込んで鍵を探していると、続いて降りてきた佐伯が隣に並ぶ。 
 急かす佐伯に「はいはい」と返事を返し、晶がロックをあけて佐伯も後に続く。家を出たのは夕方である。こんなに早く逆戻りになるとは予想もしなかった事だ。エレベーターに乗り込み目的の階までつくと、二人はそのまま部屋へと向かった。 
 
 ガチャリと鍵穴に鍵を差し込み玄関へとあがった瞬間、晶は突き抜けるような頭痛に一瞬眉を顰めて壁に手をついた。二日酔い等の場合を除き、体調不良に慣れていない体は猛スピードで晶の体調を谷底へ突き落としてくる。自宅へ戻って気が抜けたせいなのかもしれない。よろめいたせいで背後の佐伯にぶつかって肩を支えられ、晶は誤魔化すようすぐに距離を取った。 
 
「あ……、悪りぃ……、靴しまってねぇから……ちょっと、つまづいた。うちの玄関マジ狭くて困るわ」 
「…………」 
 
 こめかみに指を押し当てて揉むといくらか頭痛が治まるような気がして、晶は片手を添えたまま部屋へとあがる。最後に鍵を閉めてあがってきた佐伯は、部屋へ上がるなり「手を洗ってまずうがいをしろ」と指示し、続いて上着を脱ぎながら「体温計はあるのか?」と晶へ振り向いた。 
 
 晶は洗面所でうがいをして口をすすぐと、鏡に写る自分の顔を見る。これだけ気分が悪いのだから当然ではあるが、やはりあまり顔色が良くない気もする。手を念入りに洗って水を止めると、少し離れた場所に居る佐伯に届くように、少し声をあげた。 
 
「あー……、確かあったと思うけど、電池大丈夫かな?もう何年も使ってねぇからさ」 
「……まぁいい。とにかく持ってきてみろ」 
「うん。ちょっと待ってて、着替えたら持ってくるから」 
 
 着替えてくると言っても部屋はワンルームなので、何処かへ移動するわけではない。部屋の空調を高めに設定した後、晶が部屋着に着替えている間、佐伯は散らかった周りの小物を一カ所に纏めベッドの脇へと腰を下ろしていた。いつもなら、散らかし放題の晶の部屋にくると『もっと整頓しておけ』だの、『足の踏み場がない』だの小言を言う佐伯だが、今夜は何も言わなかった。 
 
 棚の奥に押し込まれていた救急箱を引っ張り出し、蓋を開けると全く新品同然の薬類の中に体温計が埋もれている。それを手に取り、佐伯の側へ戻ってきた晶は渋々それを渡す。体温計を受け取ると佐伯はもっと近くに来るように促し、晶の方へ腕を伸ばした。 
 
「どれ、ちょっとこっちを向け」 
「お!佐伯先生が診察してくれんの?」 
 
 混ぜ返す晶の言葉に返事は返さず、佐伯が蛍光灯の明りがなるべく差し込むように位置を変える。ベッドへ腰掛けた晶の喉へ手を伸ばして、そのまま耳の裏のリンパ節をなぞるように指を動かした。 
 
 そんな事を思っている場合ではないのだが、佐伯の指先に触れられるとどうしてもドキリとしてしまう。熱い体に佐伯のひんやりとした指先が触れ全身を再び寒気が襲う。さっきから玄関のドアノブや救急箱、触れる全ての物の冷たさがいちいち身体に響くのだ。続いて晶の口を開けさせると、中を覗き込みながら佐伯は眉を顰めた。 
 
「だいぶ腫れてるな……。お前、昨日は具合は悪くなかったのか?」 
「昨日?いや、全然……。あ、でも今朝ちょっとだるいかなとは思ったけど……」 
 
 佐伯いわく、少し前から風邪気味で症状が出ていたはずだと言うのだ。雨に濡れた事でこじらせたのではないかという事らしい。あまり、自分の体調に敏感ではない晶なだけに熱が出るまで気がつかなかったという結論に落ち着き、佐伯は少し呆れた様子を見せた。 
 
 佐伯が確認するように体温計の電源を入れて調べていたが、どうやら体温計は使えるようで、早速晶の舌の裏側へと体温計が差し込まれる。三十秒ほどしてピピピッという電子音が鳴り、晶は口から体温計を外してみた。 
 
──……うっそ……。 
 
 デジタルの数字が38度4分を表示している。まさかそんなに熱があるとは思ってもいなかった晶は、体温計が壊れているのではないかと軽く振ってみる。しかし表示されている数字に変化は無かった。数字を目にしただけで頭がクラクラしてくるような感じを覚え晶は一度ぎゅっと目を閉じた。 
 
「何度だったんだ」 
 
 隠そうとする晶の手から佐伯が体温計を奪い、その表示を見た途端いつにもまして佐伯の眉間の皺が深くなった。こうして数字で結果を出されてしまうと、もう誤魔化しようがない。 
 
「かなり高いな……」 
「……これさ、……壊れてんじゃね?」 
「いや、壊れてないだろう。とにかく、もう横になって休め……。何か飲めるか?水分は摂取しておいたほがいい」 
 
 晶は「今はいい」と首をふる。奥の方で微かに主張している吐き気のせいで、何も口にする気になれなかった。佐伯に促されるまま晶はベッドへと横になり、佐伯を見上げる。熱のせいで潤んだ晶の瞳に佐伯は視線を止めると、指先でそっと晶の前髪をなでた。少し指先が触れただけで、その額から体温の高さがわかる。 
 
「少し眠るんだな……、朝まではいてやるから」 
「でも……明日、仕事は……?」 
「ここから向かう。当直だと思えば何も問題は無い。気にするな」 
「要……ごめん……」 
「……何でお前が謝る必要がある」 
「だって……。折角久し振りに会えたのにさ、こんなつまんねーデートになっちゃって、……挙げ句に、要にも迷惑掛けて、最悪だよ……」 
 
 悔しそうにそう言う晶を見て、佐伯はフと息を吐くと上掛けの布団を晶の首元まで引きあげる。 
 
「最悪かどうかは、お前が決めるのか?」 
「…………」 
「俺は別に、最悪だとは思っていない。余計な事を気にしないで、自分の体の事だけ気にしていろ」 
「――うん」 
 
 相変わらず頭痛は酷いし、体の節々まで痛かったりするのだが、それでも…、…佐伯が朝までいるという事に本当は酷く安心している自分がいる。最後に聞こえない程度の声で佐伯の名を口にし、晶は静かに眠りについた。 
 
 
 
 暫くして微かな寝息が聞こえてきた頃、佐伯はベッドの側から離れた。市販の解熱剤を飲ませても良いが、熱があがっている最中に薬剤で下げても、薬の効果が切れればまた発熱はぶりかえす。その体温の急激な上下は想像よりずっと体力を奪ってしまうのだ。とりあえずこのまま朝まで眠れるようなら、そのまま休ませておくほうがいい。 
 
 佐伯は、何か冷やす物がないかを探すために静かにキッチンへと向かう。まさか氷枕などといった気の利いた物があるとは考えられないが、一度冷凍庫を開いてみる。氷枕も勿論なかったが、使えそうな物もない。酒を飲む際のロックアイスの奥にある製氷機には、いつ水を入れたかわからないような霜だらけの氷が出来ていたので、それを使うことにする。口に入れるわけではないので、そこは問題ないだろう。 
 
 風呂場から洗面器を持ってきて氷水で満たすと、キッチンの脇へ積んであったタオルと共に持ち、晶の側へ戻る。熱のせいで忙しなく繰り返される呼吸音が佐伯の耳にひっきりなしに届く。静寂が充ちた部屋の中では、よりいっそうその音が響いて聞こえた。用意した洗面器へ手を入れ、冷たく絞ったタオルを額にそっと置くと佐伯は小さく晶の名を呼んだ。 
 
──……晶……。 
 
 見慣れた晶の寝顔だが、今夜はやはり苦しそうである。伏せられている長い睫は眦に落ちた汗で少し濡れていて、佐伯を真っ直ぐに見つめてくるその瞳は静かに閉じられている。最近長くなった前髪が頬から枕へと音もなく滑り落ちる。 
 佐伯が傍にいることで安心しているのか眠りは深いようである。佐伯は手をのばし……。しかし、晶へと触れることはなく、その手を何も掴めない宙で握りしめた。 
 
 目を覚まさぬように、ベッドサイドのライトを移動し自分の側へと引っ張って来た佐伯は、手近にある積み上げてある雑誌を手に取ってみた。雑誌はファッション誌か漫画雑誌が主だが、佐伯は漫画を読む習慣がないので漫画雑誌は退けてファッション誌を開いてみた。服のコーディネートがページの全体を占めており、聞いたことも無いようなブランドの店が沢山紹介されている。ほとんど読むべきページもなく、あっという間に最後のページになってしまう。他も似たような物で、数冊手にとって読んだところで何の時間つぶしにもならなかった。 
 
 一度晶の額のタオルを取り替え、元の位置へと腰を下ろした時、積まれている雑誌とは別にベッドの横に一冊の雑誌を見つけた。手に取ってみるとそれは女性向けの情報誌のようである。興味はないが、何となく最初のページを開いてみた所で佐伯の視線は目次のある一カ所に止まった。毎号掲載されているコーナーのひとつに色々な職業の、所謂世間一般で言う『イケメン』と称される男達が紹介されているようである。そのコーナーに晶が載っていたのだ。 
 
 雑誌の取材を受けた等、真っ先に喜んで言ってきそうではあるが、晶からそんな話しは聞いていない。一度表紙に戻りいつ発行された物かを確認したが、新しい物ではなく先月の物のようだ。 
 
 ポーズをとらされたのかスタジオでの何枚かの写真と、他にはインタビューに答えている晶が話している所の写真が載っている。一般人のはずの晶は、その前のページに載っていたファッションモデルより余程整った顔立ちをしている。佐伯の前では見せることのない仕事モードのその表情は新鮮で、佐伯は満足気に頷いた。 
 
 『現在の職業』に始まり『好きな店』や『デートをするならどんなデートをしたいか』等、インタビュアーの質問に答えているのを読み進めていると、最後に『将来結婚をしたらどんな家庭を築きたいか』という趣旨の質問があった。 
 
 
【結婚とか、まだ考えた事ないけど。俺、好きになった人とは常に一緒にいたい性格なんで、狭い家がいいんだよね。六畳一間とかでも全然OK(笑)広い家だと好きな人を感じられる空気が薄くなっちゃいそうだし。別に、相手が何をしててもいいけど安心できる距離に居て欲しいなって。家庭はそうだなぁ……。楽しいのが一番だよね。嫌な事とかあったり、疲れて帰ったりした時に、一番癒やされる場所だなって思える家庭が良いかな】 
 
 
 佐伯は、最後の文字を指で辿り、そばで寝ている晶をちらりと見る。晶が答えていることは、表向きに多少は作った物なのかもしれないが、きっとこれは晶の本心なのだ。佐伯には、これを見せたくなかったのかもしれない……。晶は、まわりを明るくするほど前向きな性格だが、その反面誰より寂しがりである事はこんな記事を読まずともわかってはいた。 
 先程言っていた晶の台詞が脳裏に浮かぶ。 
 
――折角久し振りに会えたのにさ、こんなつまんねーデートになっちゃって……。 
 
 中々会えない事にふざけて文句を言ってくる事はあっても、佐伯を困らせる我が儘を言ってくる事は一度もなかった。今日のデートにしても、前から楽しみにしていたからこそ、あんなに悔しがっていたのだ。「会いたい」その言葉を今まで何度我慢して、晶は飲み込んできたのか……。寂しさ等あまり考えた事の無い佐伯には、きっと想像もつかない回数なのだろう。 
 
 このまま大阪行きが決まれば、今よりもっと会う時間は減っていく。その時、晶は思うのではないか。――佐伯と付き合っていなければ、と。もう一つの問題がうまくいったとしても、その事は変わらないのだから。 
 
 離れて寂しい思いをさせるなら、いっそ別れてから行ったほうがいいのかもしれない。そう思うと同時に、佐伯の中で晶を手放したくないと強く思っている自分もいる。上手く消化できない気持ちのやりばを探して佐伯は溜息をついた。 
 今までの恋愛のように、距離を保ちながら付き合い、いつ別れても互いが傷つかない関係を好んでいた自分の価値観は驚くほどあっさりと覆った。 
 
──俺に迷えと……そう言うのか。 
 
 眠っている晶に向けて小さく呟く。冷たく絞って額に置いたタオルは熱ですぐにぬるくなり、冷たさを失っていく。佐伯は再び洗面器へとそれを浸し目を伏せた。……今まで認めてこなかった。 
 相手を失う不安をすぐに受け入れる事の出来ない佐伯は、冷え続ける水の中の指をじっと見ながら、自分に問い続けた。 
 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 
 すっかり氷が溶けた洗面器の水を替えるために、佐伯は一度立ち上がって新しい水と氷に入れ替え再び晶の元へと戻る。眠ってからもう三時間ほど経っている。タオルを額に乗せる前に一度掌を当ててみたが、熱はほとんど下がっている様子はない。 
 晶はただの風邪で、どうという所見があるわけではない。理解しているはずなのに、時々苦しげな晶を見ていると落ち着かない気分になる。 
 
 朝になったら病院へ連れて行こうと思いながら脇にある時計をチラリと見る。こんなに長く感じる夜は初めてだった。静かな部屋にシーツのこすれる音が聞こえ晶が寝返りを打つ。 
 額からずれて落ちたタオルを拾い上げて佐伯が見ていると、目が覚めたのか晶がうっすらと瞼を開けた。少し辺りを探すように視線を泳がせた後、佐伯の姿を見つけると嬉しそうに微笑む。 
 
「どうした?喉でも渇いたか?」 
「ううん……。要がいるかなって、思ってさ……」 
「……いたら困るのか」 
「んなわけねーじゃん……。目が覚めた時、要がいて安心した……。ちょっと幸せ……」 
「……そんなに熱があって、どこが幸せなんだ」 
 
 嬉しそうに言う晶に佐伯は苦笑いをしながら返す。 
 
「ホントにそう思ってるんだからいいだろ………。なぁ、俺さ」 
「何だ」 
「今、ちょっとだけ悲しい夢見てたんだ」 
「……ほう」 
「あんま、覚えてないけど……。要が泣いてるんだよ。何でそうなってんのかわかんねぇんだけど。俺が話しかけても、要には聞こえてないみたいでさ。……慰めてやりてぇのに声が届かなくて、俺……、すげぇ焦ってた」 
「……………」 
 
 晶は宙に話しかけるように呟いていたが、すっと両手を布団から出すと指を組み合わせ、自分の手をじっと見て寂しそうに笑った。 
 
「そういう時って……、どうしたらいいんだろうな……」 
 
 佐伯は晶から視線をはずし、ベッドサイドの灯りから影になるように顔を隠す。晶の顔を真っ直ぐに見られなかった。少しの沈黙の後、佐伯が口を開く。 
 
「どうって……。俺は泣かないから、安心しろ」 
「違くてさ。要が泣かないっつーのはわかってっけど。……でも、泣きたいくらい何かがあったりする事もあるだろ?そういう時にさ、他の人はわかんなくても、俺だけは気付いて支えたいじゃん。……それも、俺の自己満足かもだけど」 
「…………」 
 
 高熱の影響でおかしな夢を見て言っているのはわかったが、佐伯は咄嗟に言葉を返せなくなった。暗い部屋の中に考えた言葉が全て吸い込まれていく。じっと自分を見ている視線を感じ顔を上げると、晶は不安げな眼差しで佐伯を見つめていた。 
 
「……所詮は、ただの夢の話しだろう……」 
 
 佐伯は一言そう言って自嘲するように薄く微笑んだ。 
 
「……そう、なんだけどさ……」 
 
 晶が腕を伸ばして、側にいる佐伯の腕を掴む。シャツ越しにも体温が高いのが伝わってきてその熱は佐伯の中へどんどん入り込んでいき、息苦しいほどにその存在の愛しさを実感させる。確認するようにぎゅっと握りしめた後、晶は呟いた。 
 
 
「要……、ここにいるよな……」 
 
──……晶 
 
 晶が言っているのは、今ここにいるかどうかの事なのかもしれない。だけど、佐伯はその腕の熱さに痛みを感じ、思わず唾を飲み込んだ。 
 
「朝まではいてやると……、言ったはずだが」 
「……そうだった。良かった……」 
「……朝になったら病院へ連れて行くから、それまでは寝ていろ」 
「うん……サンキュ」 
 
 痛みから逃れるように晶の腕を布団の中へ戻し、晶が再び目を閉じると佐伯は眼鏡を外して額に手を当て、目を閉じた。手が離れた今も、晶が掴んだ腕の跡が疼くような気がした。