俺の男に手を出すな 4-6


 

 長かった夜が明け、カーテンの隙間からぼんやりと朝日が射し込むにつれて重々しかった空気が僅かに軽くなる。待っていたかのように佐伯は立ち上がり、窓へ向かうとゆっくりとカーテンを開けた。 
 カーテンレールを走る金具の音は思ったよりも騒がしく、晶が目を覚ましたのでないかと途中まで引きかけてフと背後に眠る晶を見たが、佐伯の考えは杞憂に過ぎず、眠る晶からは相変わらず寝息が聞こえる。 
 再び途中になっていたカーテンを開けきると、佐伯は窓の外へと視線を向けた。 
 
 雨は止んではいたが、そう天気が良いわけでもない。時々雲が流れる瞬間だけ弱い日が射すだけで空はほとんど厚い雲に覆われていた。冬の季節の始まりを感じさせる濁った朝だった。 
 
 佐伯自身もそんな天気とリンクするかのような気分である。一晩中起きて看病をしていたわけではないにせよ、眠ったと言っても何十分かうたた寝した程度なので体が妙に重い。夜勤あけの日だとしても今日よりはマシで、偏に精神的疲労の度合いの方が強い事を物語っている。 
 
 予想はしていた物の晶の熱は一晩中下がる気配を見せず、時々無意識に寝返りを打ち、苦しげに息を吐くのを、佐伯は堪らない気持ちで見ているしかなかったのだから……。 
 
 医者と言っても、薬や器具がないこんな場所では何の役にも立たず、普通の人間とさして変わらない。せめて朝が来て病院へ連れて行くまで楽に眠れるように環境を整えてやる事しか出来なかった。 
 日頃、どんな難解な手術もこなす指先を窓硝子へ向けると、佐伯は「……つまらんもんだな」と自虐的な笑みを零し、細く窓をあけ胸ポケットから煙草を取り出し一本咥える。 
 
 隙間から吸い込まれた紫煙が窓の外を曇らせては流れていく。肺の奥にまで届いた煙草の煙は徐々に佐伯の頭をクリアにさせていった。 
 今いる晶のマンションから、勤務先の敬愛会総合病院まではだいたい一時間も見れば余裕がある。腕時計を確認するとそろそろ晶を起こした方が良い時刻だった。 
 
「――ん……かな、め?」 
 
 窓の外を見ていた佐伯に掠れたような晶の声が届く。 
 丁度起こそうと思っていたが、どうやら佐伯の動く気配で目を覚ましたらしい。佐伯は煙草を近くの灰皿でもみ消すと、外気が入ってきて晶にあたらないように窓を閉めて振り向く。 
 
「起きたのか?」 
「……うん」 
 
 晶は額に乗せられていたタオルを取り去ると、ゆっくりと上半身を起こす。何度か頭を振って眠気を払うようにすると、気だるげな雰囲気を纏ったまま眩しそうに目を細めて佐伯を見上げた。 
 
「あれ……要、もしかしてずっと寝てねぇの?」 
「いや、さっき起きただけだ。ちゃんと眠った」 
「……大丈夫かよ。今日も病院だろ?」 
「――病人に心配されたくないもんだな」 
 
 佐伯は少し苦笑すると晶の側へ腰を下ろす。尚も心配そうに何かを言おうとした晶だったが、痛めている喉が詰まったのか言葉を出す前に軽く咳き込み、そのまま痛そうに顔を顰めるにとどまった。 
 熱は下がっていないはずなのに、人のことを真っ先に心配しているところが晶らしい。そう思いながら、まだ寝起きの幾分ぼーっとしている晶へ佐伯は体温計を差し出した。 
 
「そんなに下がってないとは思うが、一応測ってみろ」 
「あぁ、……うん」 
 
 晶が体温計を咥えている間に佐伯は氷が溶けてかさを増した洗面器を片づけた。もう少しゆっくりさせてやりたいが、外来が開くまでに処置をするとなると、そろそろ用意をして出かけなければ間に合わない。音が鳴った体温計を佐伯はさっと取ると確認し、案の定の結果に渋い表情をした。 
 
「……38度2分か……。まぁ、朝だからな」 
「俺、もう平気だって。今日は店休むし、要も心配すんなよな」 
「その調子じゃ、夜になったらまた熱が上がるぞ。薬を処方してやるから一緒に病院へ来い」 
「え?病院って……要んとこ?」 
「あぁ。どうせかかりつけ医など、いないんだろう?」 
「そうだけど……、薬局で風邪薬買ってくれば平気じゃねぇの?」 
「何だ晶、注射でもされると思ってるのか?」 
 
 晶が『注射が苦手』と言う事を知っている佐伯にからかわれ、晶は佐伯を軽く睨んだ。 
 
「べ、別に、そういうわけじゃねーけど」 
「まぁ、少し炎症が酷いからな。市販の風邪薬じゃ中々治らないかもしれん」 
「わかったよ……。行けばいいんだろ」 
「そういう事だ。さて、そろそろ用意しろ。保険証を忘れるなよ」 
 
 晶は再び出だした咳を何度か繰り返したあとブツブツと文句を言いながら一人で立ち上がった。ベッドへ横になっていた時はさほど感じなかったが、やはりいざ起きあがってみるとかなりの体の怠さに驚く。 
 
 噛み合わないような関節がぎしぎしと痛み、喉は唾を飲み込むのも難儀なほど痛い。日頃健康なだけに、余計にその差を感じてしまっていた。佐伯が昨夜から何も水分を摂っていないのを気にして、晶の背後から水分を摂れと言ってくるので、全く飲みたくはなかったが仕方なく冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してキャップをあける。 
 重い体を支えるためにシンクの縁を掴んだが、その冷たさにゾクリとして手を放す。昨夜はうっすらと感じる程度だった吐き気が、今ははっきり感じられるぐらいになっていて、晶は不快感のある胃の辺りに掌を当てて摩り、そのままボトルを口に付けた。 
 
「今度から、何本かスポーツドリンクを置いておけ。常温でな」 
 
 準備をしながら佐伯が言う通り、ボトルの水はかなり冷たくて、飲み込んだ瞬間その冷たさが胃に響いた。突然の冷水を流し込んだ事で胃が非難するように吐き気を訴えかける。 
 
――やばい、吐きそう……。 
 
 予想外の急な吐き気に、晶は慌てて口元を抑え一瞬足を止めた。 
 
「――晶?」 
 様子のおかしい晶に気付き、佐伯が声を掛けると、晶は俯いたまま小さく呟いた。 
「ちょっと、トイレ……、着いて、くんなよ……」 
 
 一言だけそう言って部屋を出る。 
 トイレのドアが乱暴に閉まる音がして、少しすると押し殺しているようなえづく声が聞こえてくる。着いてくるなと言われても、苦しげに吐いている様子の晶を放って置くわけにもいかない。佐伯は水のボトルを持っていこうと手に取り、首を振った。流石にこれは冷たすぎる。 
 
 仕方がないので手近にあった大きめのマグカップにボトルから水を注ぎ、急いで電子レンジへと突っ込む。最大ワットにして1分ほど温めて取り出したマグカップを持って廊下へ出た。トイレのドアノブに手を掛けてグッと下に押してもドアがあかない所を見ると中から鍵を掛けているらしい。 
 
「晶、鍵を開けろ」 
 
 ドア越しに小さく声を掛けても晶は返事を返さず、佐伯は焦れた思いでドアを再度ノックする。 
 
「来るなって、言ったじゃん……」 
 
 ちょっと怒ったようにそう返してくる晶の荒い息づかいがドア越しにもわかる。佐伯は一度部屋へ戻って財布から一円玉を取り出して持ってくると、ドアノブの溝へとそれをはめてクルリと回した。あっさりと鍵が開く音がして、ドアを開くと晶がびっくりしたように振り向く。 
 
「ちょっ……なん、で……、入ってくるんだよ……」 
 
 涙目で反抗してくる晶を宥めるように、佐伯がそっと背中に手を当ててさすってやれば、晶はもう反抗する気力も無いのか諦めたようにまた便器の方へ顔を向けた。 
 
「お前の事だから、俺に気を遣って拒絶しているのかもしれんが、俺は医者だぞ?吐いているところなど見慣れている」 
「……だって……」 
 
 晶は押し寄せる吐き気に何度かえづく物の中々嘔吐まで至らないようで、目尻に溜まった苦痛の涙が零れ落ちそうになっている。咳の合間に繰り返し肩で息をしているようだが、便器の水面には綺麗な水が張ってあるだけで吐いた様子はまだなかった。中々吐けないことで次第にグッタリとしてきた様子の晶を見かねて、佐伯は摩っていた手を止め顔を覗き込む。 
 
「どうした。吐けないのか?」 
「う、ん……すげぇ、気持ち悪りぃんだけど……出てこない……」 
 
 佐伯は持ってきたマグカップを晶へと渡し、手を添えて強制的にそれを飲ませる。胃液で喉を痛めるよりは水を飲んで吐かせた方がいいからである。何度かに分けてどうにか飲み終えたマグカップを脇へと避けると、佐伯は熱い晶の体を支えたまま口元に指を伸ばした。 
 
「口を開けろ。歯を立てるなよ」 
「え……、いいって……、要の手、汚れ……、」 
「くだらん事を気にするな。吐きそうになったら俺の手に構わずそのまま吐き出せ、いいな」 
 
 納得していない様子だが、いつまでもこのままだと本人が辛いだけである。「ほら」ともう一度促すと渋々晶が口を開き、佐伯の長い指がその喉奥へと侵入する。熱のせいでやけに熱い口内を素早く進み、傷つけぬよう適所を指で刺激すると晶の身体が波打って硬直する。 
 
「……ハァ……、ッ、……っえ゛……」 
 
 苦しさから逃れるように佐伯の指を拒んで外そうとする晶に構わず何度か繰り返すと、喉の奥でゴポリと水音があがり先程飲んだ水が勢いよく便器に叩き付けられた。当然佐伯の指にもそれがかかったが、佐伯は全く気にも留めず指を抜くと空いた方の手で晶の背中を強く摩る。 
 
 一度吐いた事が呼び水となって晶は続けて何度も嘔吐を繰り返し、その苦しさに便器を掴む指先が爪を立てる。最後は胃液まで吐いて漸く吐き気が治まった。ゼェゼェと鳴る息づかいが続き、こめかみから汗と零れた涙が頬を伝う。晶はそれを手で拭うと、佐伯に申し訳なさそうに視線を向けた。 
 
「……悪ぃ……手、汚しちゃって……」 
「問題ない。それより、少しは楽になったか?」 
「うん……、だいぶ……、スッキリした……有難う」 
 
 佐伯はほっとしたように息を吐いた。漸く落ち着いた晶が腰を上げ洗面に向かう。口を何度もすすぎ、項垂れている晶の顔色は熱が高いにもかかわらず真っ青である。薬だけ処方するつもりだったが、水分も受け付けないとなると脱水症状が危惧される。軽く点滴をした方がいいだろう。 
 
 
 
 晶はトイレを出て、緩慢な動作でクロゼットへ向かい服を探していた。 
 
――本当に最悪だ……。 
 
 寝て起きたら少しは良くなっている事に期待していたのに、こんなに悪化しているとは思ってもいなかった。ただひとつだけ、まだ救われているところがある。昨日から佐伯は一言も「心配だ」とは口にしないという事だ。言わないだけで勿論相当心配しているのはわかる。それでも、いつもと変わらぬ口調で、普通の人が聞けば病人に対して冷たいのではないかと反感をかってしまいそうな態度でもある。 
 
 熱がある晶の体を終始支えてやったり、着替えを手伝ってやるような事もない。それは偏に晶がそうされると余計に罪悪感を抱くのではないかという、佐伯なりの最大限の優しさなのだ。「心配だ」とか「早く良くなってくれ」とか悲痛な面持ちで懇願された日には、自分の不甲斐なさに泣きたくなってくる。少なくとも佐伯は、自分をとても理解してくれているのだ。 
 シャツのボタンをかけながら、晶は昨夜のことを思い出す。夜中に何度か目を覚ます度に佐伯が眠らずに側に付いているのに気付いていた。目を開けていなくても近くにいる存在感だけで佐伯がいてくれるのがわかる。 
 佐伯はちゃんと眠ったと言い切っていたが、それは多分……、嘘だ。 
 
 少し眉を眇めて待っている佐伯をチラリと見て、晶はそう思っていた。やっと支度を調え用意が出来ると、先に玄関で待っている佐伯の元へ急ぎ、そのままマンションを出た。 
 
 
 
 一階へ降りると、運良く通りかかったタクシーを佐伯が止めており晶が乗り込むのと同時に発進する。行き先は、先程佐伯が言っていたように『敬愛会総合病院』である。 
 もっと暖房をきかせておけばいいのに……。そう思ってしまうほどにタクシーの中は冷えており、普段より厚着をしているにもかかわらず晶は寒さに肩を竦めた。 
 
「なぁ……、病院さ。診察時間前にいいのかよ……俺が行っても」 
「一人くらいたいした事じゃない」 
 
 佐伯が良いと言っても晶は少し心配だった。佐伯に迷惑がかかっては困るのだ。そんな晶の思いをよそに佐伯は思い出したように晶へ注意を促した。 
 
「わかっているとは思うが、処方した薬を飲む前に何か胃にいれろよ?吐き気止めを混ぜた点滴を打つから効いてきたら少しは何か口に出来るようになる」 
「……うん……わかったけど……、あのさ。要、夜勤って今度いつ?」 
「何で、そんな事を聞く」 
「せっかく昨日夜勤がなかったのに……、疲れとれなかっただろ?ってか余計に疲れたって言うか……。俺のせいでだけど……もし、要が倒れたら、俺……」 
「……フッ……こんな事で倒れるわけないだろう。年寄り扱いするな」 
「っんだよ、もう……。俺、マジで心配してるのに」 
 
 佐伯は軽く笑って晶の台詞を流す。 
 絶対佐伯は弱い部分を曝さないが、それは、大丈夫という事とは違うのだ。晶はうまい具合に夜勤の日程をはぐらかされ口をぎゅっと結ぶと俯いた。軽く目を閉じると、車に揺られているせいか軽い目眩がする。佐伯が晶の頭に腕を回し、寄りかからせるように引き寄せる。されるままに佐伯の肩を借りて晶は病院へ着くまで目を閉じた。 
 
 
 
 
 暫くして病院へと到着し、職員通用口から佐伯達は中へ入る。一般人である晶は、勿論職員通用口などから病院へ入った事はない。受付の警備員が佐伯に挨拶をするのに自分も軽く会釈をして、そのまま離れないように気をつける。佐伯は特に晶のことを説明も言い訳もしなかったので、さすがに警備員も不思議そうな顔をして自分達を見ていた。 
 
 本当に自分などが行って平気なのだろうか。佐伯の立場が悪くはなったりはしないのだろうか。警備員の表情を見ているとそんな不安が再び晶の胸にわいてくる。気にしている様子のない佐伯は診察室の前まで行くと、中の蛍光灯をつけ、晶にそこで待っているように言うと自分はさっさと出て行ってしまった。 
 
 一人残された晶はとりあえず手近にあった椅子に腰掛けた。誰もいない診察室というのは、かなり寂しい感じがして居心地がいいものでは決してない。晶は一通り辺りを見渡すと、早く佐伯が戻ってこないかな等と考えていた。 
 佐伯の職場でもある病院は、晶のホストクラブとは真逆と言っても過言ではない。静まりかえった清潔な空間を見渡し余計にその事を感じていた。 
 その時、背後のドアがガチャリと音を立てて開き、晶は佐伯が戻ってきたのかと音のする方に顔を出してみた。 
 
「あら?」 
「あ、どーも……」 
 
 入ってきたのは佐伯ではなく看護師だったようで、晶は咄嗟にどう挨拶をしていいのか逡巡する。状況を説明したほうがいいのかどうか考えていると、続いて佐伯が入ってきたのでその説明は佐伯に任せることにする。 
 すっかり白衣を着用して医者らしくなった佐伯が看護師へと何かを話している。話し終えた看護師は曖昧な笑みを晶へむけて、「お大事に」と言い残すと、今入ってきたドアから再び姿を消した。 
 何と説明をしたのか晶は気になったが具体的な事を今問う気はなかった。 
 
「あ、あのさ マジ平気?」 
 
 点滴の用意をしている佐伯の後ろ姿に声を掛ける。 
 
「あぁ、問題ない。念のために診察するから、シャツを開けてそこに座れ」 
 
 晶は言われるがままに入り口から離れて佐伯の目の前の椅子へと腰掛ける。その瞬間、出会った日の光景が頭に流れこんできた。あの夜も確か第二診察室だったはずだ。 
 そして、今と同じようにこうして佐伯は白衣を着ていて自分は患者だったのだ。『佐伯 要』と書いてある名札を見て、ホストみたいな名前だと思ったのもハッキリ思い出せる。 
 
 目の前に座った佐伯が掌で聴診器を暖めると晶の胸へとそれをあてる。何度かそれを繰り返し、背中までをみたあと耳から聴診器を外した。最後にステンレス製のヘラのような物で舌を押さえて、喉の奥をペンライトで照らされる。佐伯がその器具を別の場所へ置き、カルテに何かを書き込みながら口を開いた。 
 
「特に所見はなさそうだが、喉の炎症が酷いから抗生剤を出しておく。解熱剤は38度以上あって辛い時だけ飲むようにしろ。まぁ、日頃の疲れも溜まっていたんだろう。ゆっくり休むことだな」 
 
 佐伯はカルテを書き終えると振り向き、晶を前に足を組み直した。 
 
「……何かさ。最初に会った日、思い出すな……」 
 
 実際、心の中では佐伯も同じ事を考えていた。あの日と同じ光景だと……。丁度時期も同じくらいだった。――あれからもう一年か……。それが皮肉にも、こんな時におとずれるなど思ってもいなかった事だ。佐伯は晶の言葉には返事を返さなかった。否、返す言葉を見つけられずにいたという方が正しい。 
 
「……点滴をするから奥のベッドに横になっていろ」 
「……うん」 
 
 今日はまだ誰も使用していない新しい真っ白なシーツが敷いてあるベッドに、晶は靴を脱いで横になる。点滴のセットを引っ張ってきた佐伯が、寒くないように上掛けを引きあげて晶の袖を捲る。 
 注射はしないはずだったのに、と晶は思ったがきっと佐伯は「点滴と注射は違う」等と言ってきそうなのでそこは黙っておく事にした。 
 
「要、さす時に失敗すんなよ?」 
「失敗しても死なないから安心しろ」 
 
 答えになっているようでなっていない佐伯の台詞に晶は顔を引きつらせた。勿論こんな事ごときで佐伯がミスする事はないのだろうが、誰がやるとしても針を刺されるのはやはりちょっと覚悟がいる。 
 意地悪く笑みを浮かべた佐伯が、晶の腕を消毒の綿球でなでる。アルコール独特の冷たさを感じ晶は目を瞑った。チクリとした感覚はあったが、一瞬にしてそれは去った。 
 
 晶が目を開けた時には佐伯はもう離れていて、腕にはしっかり固定されたチューブが繋がり上から落下してくる薬液を晶の身体へ流し込んでいる。全く痛くなかった上に、その素早さに晶は感心していた。何だか貴重な体験をしているようにも感じる。恋人に点滴を打って貰うなど、そうそうある事ではないからだ。 
 後ろを向いて処理をしながら佐伯が晶へ声を掛けた。 
 
「一時間ちょっとかかるから、そのまま寝ていろ」 
 
 点滴など子供の頃以来した事も無いのでそんなに時間がかかるとは予想していなかった晶は少し驚いて佐伯を見る。 
 
「そんなにかかるんだ……。これってさ、風邪の薬?」 
「風邪の薬ではないが、お前の症状を抑える薬が何種類か混ぜてある。水も吐くようじゃ薬が飲めないだろう」 
「……あ、うん」 
「それに、風邪の薬という物は基本的に存在しない。市販で風邪薬と称されている物もそれぞれの症状に対して緩和する物で、風邪自体を治すわけではないからな」 
「……そうなんだ?いつも適当に飲んでた」 
「まぁ、普通はそんなもんだろう」 
 
 片付けを終えると佐伯はベッドの脇へ来て晶を見下ろした後、点滴の落下速度を見ながら腕時計を確認した。 
 
「……晶、俺は医局へ戻って準備があるからついていてやれんが、大丈夫か?」 
「平気。ごめんな、忙しいのに……時間大丈夫?」 
「あぁ」 
 
 佐伯は、いない間に気分が悪くなったらここに吐けとピンク色の容器を枕元に置き、晶の寝ているベッドのカーテンを引いてしめると診察室を出て行ってしまった。 
 晶は暫くぼんやりと天井を眺め、その後浅い眠りについた。 
 
 
 
 
 それから一時間半後、晶は自分を呼ぶ声で目を覚ました。見慣れない景色に、一瞬どこにいるのかと思ったが、すぐに佐伯の病院へ来たことを思い出す。いつのまにか腕からは点滴が外されていて、変わりに小さな絆創膏のような物が貼られている。佐伯が処置したのだろうが全く気付かなかった。 
 
 ゆっくり体を起こしてベッドから足を下ろすと、眠る前は静かだった診察室の奥には既に人影がある。点滴のおかげで少し熱が下がったのか今朝起きた時ほど怠くはない。他の症状は変わらないが、吐き気はほとんどなくなっているようだった。 
 
「ちょっと、楽になったかも」 
「今は薬が効いているからな。楽になったからと言って無理するんじゃないぞ」 
「……わかってる」 
「薬を三日分出しておくから、受付で受け取ってから帰れ。さっきの看護師にその事は言ってあるから。あぁ、それとわかっているとは思うが、薬を飲んでいるときは酒を飲むなよ」 
「それはわかってるって。流石に酒飲む気分じゃないし」 
 
 窓の外は曇り空とはいえ、すっかり朝の始まりを匂わせている。佐伯は今から何時間もこの場所で働くのだ。そう思うと、その場所に今自分がいることが不思議な気がしてくる。晶は乱れたシャツをととのえて立ち上がった。 
 
「んじゃ。俺、帰るわ」 
「あぁ」 
「今日は、色々有難う……」 
「お大事に」 
 
 佐伯は一度、少しだけ笑みを浮かべてそう言った。いつもの事だが、次に合う約束を今はしない。それは今にはじまった事ではない。しかし、今日の晶にはそれが不安で仕方がなかった。 
 その気持ちを振り切って、診察室を出る。体が弱っていると気持ちまで弱ってしまう物なのだろうか。 
 
──しっかりしろよ、俺……。 
 
 晶は心の中で弱気になっている自分を咎め、そのまま薬をもらいに受付まで歩く。患者はいないが、結構人がおり、別に忍び込んだ一般人というわけではないのにどことなく気まずい。受付にいた先程の看護師へ話し、薬の用意ができるまで近くの椅子に腰を下ろした。行き交う白衣の医者達も今の所は患者がいないせいか結構大きな声で会話をしながら歩いている。佐伯と仲良くしている人物がこの中にいたりするのだろうか。 
 
 ぼんやりとそんな事を考えていると、少し離れた場所から小声で談笑しつつ歩いてくる看護師二人の何気ない会話が耳に届き、晶は思わず耳を疑った。 
 
「……らしいよ」 
「へぇ。やっぱりねぇ……。佐伯先生は一カ所で終わるような人じゃないと思ってたし」 
「でもね、これはハッキリ聞いたわけじゃないけど、まだ返事をしていないんだってよ?」 
 
──佐伯先生って、……要の事……だよな。 
 
「え?そうなの? 茗渓大だったら大出世なのにねぇ。あ……、もしかして恋人がこっちにいて反対してるのかな?」 
「どうだろうね。佐伯先生はそんな事で迷わなそうだけど」 
「それもそうだよね。あぁーあ……。でも、椎堂先生もいなくなっちゃったし、その上佐伯先生まで大阪へ行っちゃったら寂しくなるね……」 
「うん……。隠れファン多いしね~。婦長とかも泣いちゃいそう。だってもうこっちには戻らないって事でしょう?」 
 
──茗渓大……?大阪……? 
 
 聞いたことのない佐伯の話題が土足でずかずかと晶の胸へ押し入ってくる。佐伯が茗渓大という所へ誘われているという話しらしいが、一言だって佐伯からその事を聞いた記憶は無かった。誤魔化したくて、自分が忘れているだけなのではと必死にその言葉を探すが、何処を探しても聞き覚えのない単語である。今まで感じていた不安がいきなり巨大になって晶の胸の中で積もっていく。 
 
 笑い合って通り過ぎる看護師の声が遠ざかってもいつまでも耳から離れず、ただでさえ痛む頭に鳴り響いて吐き気がぶり返しそうだった。今すぐ走って診察室に戻り佐伯に本当の事を問いただしたい衝動に駆られる。 
 
 実際、晶は立ち上がり、足先を診察室へと向けていた。しかし、その一歩を踏み出すことはなかった。 
 佐伯が話していないと言うことは、佐伯自身の考えがあってこそなのだ。それを無視してまで聞くべきか……。晶は感情を抑えて長く息を吐いた。出した答えは『NO』だ。 
 
 しかし、一番近い場所にいるはずの自分だけが何も知らないと言う事実は、ショックだった。しかも、自分のせいで茗渓大へいく件を躊躇っているのかも知れない。そう思うと、足枷になっている自分が酷くダメな存在に思えて、晶は悔しさに唇を噛んだ。 
 
――俺に言えるわけがない……。 
 
 佐伯の悩みを一緒に聞いてやるどころか、その悩みを作っている張本人が自分かもしれないのだから……。 
 
「……、……っ……」 
 
 一気に膨れあがった感情に、指先が冷たくなる。口の中がカラカラに乾き、痛む喉に唾を飲み込むのもままならない。床と一体化してしまったような重い足を無理矢理引き剥がし、晶は病院をあとにした。 
 薬を待っていた事などすっかり頭から消え去っている。ただ、今すぐこの場から去らなければ佐伯の元へ駆けだしてしまいそうな自分が怖かった。佐伯の白衣の姿が瞼の裏へしつこく焼き付いている。 
 
 病院を出て通りに出ると、何も知らない人たちが通勤のために忙しなく行きすぎている。晶は人波に逆らって通路を横切るとタクシーを拾い、自宅の住所を告げ病院が見えなくなるまで目を閉じた。 
 とにかく今は、冷静になるべきなのだ。考えるのはそれからにしよう……、自分に何度もそう言い聞かせた。