俺の男に手を出すな 4-7


 

 外来が始まる前。一番最初の患者のカルテに目を通していると、先程晶の薬を頼んだ看護師が側にやってきて小さな声で話しかけてきた。 
 
「佐伯先生、あの……、先程の男性の患者さんはどちらに?」 
 
 探すように辺りを見渡す看護師の態度を不振に思いながら、佐伯はカルテから顔を上げて椅子ごと看護師へ振り向く。 
 
「……ん?……もうとっくに帰したが」 
「え?お帰りになられたんですか?じゃぁ……、お薬は……」 
「渡していないのか?」 
「ええ、診察の会計を済ませた後、少しお待ち頂くようにお願いして、一度は受付近くでお座りになられていたんですが……、用意して出てきたら。もう、いらっしゃらなかったので……」 
 
──晶が薬を受け取っていない? 
 
 一瞬、気分が悪くなってトイレにでも行っているのかとも考えたが、先程晶が診察室を出てから一時間近く経っている。 
 トイレの個室は一時間も閉まっていれば巡回している職員が見つけるだろうし、何処かで倒れでもしていたらとっくに騒ぎになっているはずだ。晶は特にこの後の予定を言ってはいなかったが、何か急ぎの用事でも思い出したのかとまず佐伯は考えた。 
 
「………そうか、わかった。すまない。私から連絡を入れておくから」 
「はい、じゃぁ私はこれで」 
 
 頭の片隅で嫌な予感を感じたが、佐伯はわざとそれを考えないように頭から追いやる。あんなに体調を崩している状態で、すぐにどこかへ出かけたとも考えづらい。だとしたら――薬の事を忘れて帰る程の何か……。 
 そこまで考えて、佐伯はフと立ち上がり、そのまま通りの見える硝子窓の前まで歩み寄りブラインドに指を掛ける。勿論見渡す限りには晶の姿はなく、どんよりと垂れ下がった雲が佐伯の気分を余計に逆なでするだけだった。 
 
──まさか……、な。考え過ぎか……。 
 
 佐伯は疑問を感じつつ再び戻って腰を下ろす。苛立ちを滲ませてデスクを爪ではじき、デスクの棚にある書類に手を伸ばした所で、視線を掠めて内線のランプが点滅しているのに気付いた。佐伯は受話器を取り上げると肩へそれを挟んで、そのまま引き出しかけた書類を取り出した。 
 
「外来第二診察室です」 
『佐伯先生はいらっしゃいますか?』 
「佐伯は私ですが」 
『あ、佐伯先生。外線3番に茗渓大学病院の鈴川様からお電話が入っています』 
「……わかりました。処置室でとるので5番に繋いで下さい」 
 
 朝から何の用事だと思いながら、診察室を出て誰も居ない隣の処置室へと移動する。 
 処置室の電話の前で回線が切り替わる様子を窺っていると、5番のランプが点滅する。佐伯が受話器を取り上げると、相変わらずの口調ですぐに鈴川が電話口へと出た。挨拶をし、二、三言葉を交わした後、鈴川も忙しいのかすぐに用件を切り出してきた。 
 
「来週……ですか?」 
 
 佐伯はカレンダーへ視線を向けてスケジュールを確認する。 
 
『急なのでご都合がつかなければ勿論断って頂いて構いませんよ』 
 
 言葉とは裏腹に断られるとは考えていない様子のそぶりである。 
 鈴川の用件は、来週末に茗渓大で行われる学内での公開オペの執刀医を任せたいという物だった。詳しく話しを聞くと、オペは膵頭十二指腸切除で転移は門脈にまで及んでいるという事である。幾つもの再建術を同時に行わねばならない、消化器外科の難易度区分でも高難易度の物だ。 
 
『助手にはうちの医師も参加させますが、佐伯先生の腕を見せる、いい機会だと思うんですがね』 
 
 随分軽く言ってくれた物だが、鈴川がこの手術の難しさを知らないはずはない。 
 こんな賭けを朝一番で平然と伝えてくる鈴川の肝の太さには驚かされる。 
 公開オペを成功させる事によって佐伯の腕を見せつける。それから迎え入れる事で、鈴川の地盤をより確かな物にする意図もあるのだろう。だがリスクもかなり高いはずだ。 
 
 失敗は絶対許されないオペである。そのオペをこなせる腕と、公開で行う度胸、プレッシャーに勝てるだけの精神力、後は運といった所だろう。それらが全て揃わないと必ず失敗する。そして、失敗した日には佐伯の助教授への推薦もその場で消えるのは勿論、佐伯を推薦している鈴川だって無傷じゃ済まない。 
 鈴川もそのリスクを承知で、依頼してきているのだ。 
 
 しかし、逆に言えばそのオペを成功させれば、佐伯側に有利に事を進められる環境が揃うことにもなる。大きすぎる代償を払う価値は確かにある。佐伯はそう判断した。暫く説明を聞いた後、顔を上げると低く言葉を返す。 
 
「お話しを聞く限り、リスクがかなり高い気がしますが……」 
『仰る通りです。うちの医師だとしても、このオペを請け負えるのは多分片手で余るんじゃないかな。だからこそ佐伯先生を信じてお願いしているんですよ。普通の外科医にだったらとてもとても』 
 
 鈴川の演技がかった大袈裟な言い回しは、最後に『私はこうみえても冒険が苦手でしてね』と、心にも思ってないであろう言葉で締めくくられた。不安がないわけではない。成功しない確率も低くはないだろう。しかし、他にこれより有力な手段が思い当たらなかった。佐伯は一呼吸置いて受話器を握る指先に力を込める。 
 
「それは光栄です。ですが、今回の件、こちら側からも条件を出しても構いませんか?私としても無条件で引き受けるわけにはいきません。私も、冒険が苦手なんですよ」 
 
 佐伯がそう返すと受話口で鈴川が小さく笑った。 
 
『ええ、勿論ですとも。どんな条件ですかな?』 
「そのオペが成功した暁には……、ひとつ約束して頂きたい」 
『約束……ですか?』 
 
 少し訝しげな声色で返してくる鈴川に、佐伯はその約束を口にする。『なるほど……』と呟くように言った鈴川が受話口で僅かな沈黙を挟んだあと、条件を飲んだ。 
 
『わかりました。オペが成功した際には、佐伯先生の仰るお約束は必ず守らせて頂きますよ』 
「有難うございます。安心しました」 
『では、この件を引き受けて下さると言う事で?』 
「私で良ければ尽力させて頂きます」 
 
 鈴川は満足そうに礼を言い、その後、患者の資料や打ち合わせの予定などの細かい事をやりとりして佐伯は受話器を置いた。自分でも気付かないうちに受話器を握っていた手に汗を掻いていたようで湿っている。佐伯は処置室にある水道で念入りに手を洗い、流れ続ける水を止めないまま、水が指を伝って落ちるのをじっと見つめる。 
 
 冷えて指先の感覚がなくなる頃、水道を徐に止める。冷たい指先をぎゅっと握り混んでポケットへいれ、診察室へと戻り椅子の背に凭れかかった。 
 
「佐伯先生、お時間なのでそろそろ患者さんをお呼びしますか?」 
 
 部屋を覗いた看護師に声を掛けられる。診察室の向こうでは、もう患者が待機しているのだろう。少しざわついている空気を感じ、佐伯はデスクに向かい眼鏡を押し上げた。 
 
「ああ、始めようか」 
 
 最初の患者のカルテを再び開き、引き出しから聴診器を取り出して首へとかける。冷え切った指先に体温が戻ってくるのを感じながら佐伯は先程電話しながら取ったメモを白衣のポケットにそっとしまった。 
 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 
 家に戻った晶は、鍵を閉め玄関先にキーケースを放り投げると着替えもせずにベッドへ突っ伏していた。佐伯のしてくれた点滴のおかげで、頭痛はする物の体の怠さは楽になっている。 
 しかし、その体の怠さの方が全然ましだったと思えるほどに気分は沈んでいた。 
 
 逃げるように家に戻って来たのはいいが、先程まで佐伯がいた自分の部屋に、今度は一人きりでいるという事が堪らなくなってくる。枕に押しつけていた顔をあげると、あらゆる物が晶の視界を奪った。 
 
 ベッドサイドに置いてある灰皿に、佐伯の残していった何本かの吸い殻がある。少し横に目をそらせば、佐伯が片づけてくれたのであろう雑誌が整頓されて積まれている。キッチンの方を見れば、看病してくれた際に使ったタオルが綺麗に畳まれて置いてある。 
 そして、何よりずっと側にいてくれた佐伯のJAZZの香りが今でも部屋に残っていた。 
 
 晶はせつなげに息を吐くと逆向きの窓へ顔を向け、それらを視界に入れないようにして布団に潜った。真っ暗な布団の中で携帯を取りだし、検索画面を開く。 
 
『大阪 めいけい大 病院』 
 
 文字列を入れて検索ボタンを押すと、ズラズラと情報が表示される。一番上に出てきた茗渓大のサイトを開くと、病院の外観が出てきた。パノラマで自動で横にスクロールする写真は、外観と内部設備、医療のイメージ写真とくるくると変化し、まるで大企業の公式サイトのようだった。 
 
 最先端医療の現場の事を語られても、さっぱり意味がわからないが、それだけ消化器外科に力を入れている有名な病院だという事はわかった。 
 
 青い芝生に車椅子の患者がおり、白衣の医師がその車椅子を押している宣材写真が掲載されている。写真の中の医師は佐伯には似ても似つかない温和そうな青年だったが、晶はそこに佐伯の姿を浮かべて重ねていた。それが本当になれるかもしれないチャンスが佐伯の前にはあるのだろう。 
 
 見覚えのない景色。自分の全く知らない世界……。そこにいる佐伯は、酷く輝いて見える……。 
 茗渓大の名前部分を指で辿りながら、晶はフと思い出していた。 
 以前に一度だけ、二人で酒を飲んでいた時の事。普段は滅多に口にしない仕事の話しを佐伯がした事があった。 
 
 大学病院で一度手術をした患者の様態が悪化し、いよいよ助かる見込みが薄くなると院内死亡率を下げるために佐伯の勤務する敬愛会病院へ患者を回してくることがあるというのだ。いくら腕が良い医師の多い敬愛会だとしても、手の施しようがない場合も多く、そういう患者が死んでいくのを佐伯は何度も見てきたらしい。 
 その中には、明らかに一度目のオペの失敗を匂わせる状態の患者も多いそうだ。その時、佐伯が言っていた。 
 
「最初のオペで成功していれば、救えた患者は沢山いる。だから俺は……、その最初の場所に立ちたい」と……。 
 
 佐伯は多分、出世のためだけに大学病院へ行きたいわけではなく、救えるはずだった命を無駄に散らさない為に、その最初の場所に立ちたいのだ。悔しそうに言っていた佐伯の表情までもが脳裏に浮かび、晶の胸を締め付ける。 
 
 そして今がその佐伯の望んでいたチャンスなのかもしれない。 
 
 一通りサイトを見た後、晶は検索画面に戻って暫く考え、そのままネットを切断した。かぶった布団の中で咳をするとやけに大きく自分の耳に響く。 
 
 大阪へは一度しか行った事はない。地理的にはさほど離れているわけでもないのも理解していた。だとしたら何が自分をここまで落ち込ませているのか、答えはわかっている。 
 佐伯が自分には何一つ教えてくれなかった事。それと、自分が佐伯の足枷になっているかもしれないという事。 
 
 そして、もう一つだけ……。 
 
 それは、素直な気持ちを佐伯にぶつけるのが怖いと思ってしまう自分自身の気持ちだった。愛しているから本当の事を聞かない。愛しているから黙って見守る。……愛しているから我が儘を言う。愛しているから、……本当の佐伯を知りたい。どれが正解で、どれが間違っているのかさえわからなくなってくる。きっと正解も不正解もないのだ。混乱する。晶の頭の中ではすぐに糸が絡んでほどける術を知らないまま……、それを痛みに変えて晶の身体を駆け巡っていた。 
 
 佐伯が大阪へ行くにしろ行かないにしろ、どちらの結末になっても、結局は今のままでは自分は蚊帳の外だった。 
 
──……どうしらいいんだろう……俺。 
 
 晶は、疲れ切ったように長く溜息をつく。 
 グルグルと堂々巡りを続ける思考は、そう簡単に出口を見つける事ができない。俯せになっているせいで次第に息苦しくなり寝返りを打つ。その拍子に出だした咳が中々治まらず、止まらない咳を沈めるためにキッチンへ水を飲みに立ち上がる。その途中で晶は「あっ」と小さく声を上げた。 
 
──薬を飲む前に何か胃にいれろよ……。 
 佐伯の言葉が頭をよぎる。 
――……薬、……受け取ってない……。 
 
 すっかり薬の事が頭から抜けていて、受け取らずに帰ってきてしまった事に今更気付いた。きっと今頃佐伯が疑問を抱いているかも知れない。こちらから一度、適当な理由をつけて連絡を入れておいた方が良いのではないかと思う反面、あの場面で受け取るのを忘れた等と言った白々しい嘘を佐伯相手に通せるだろうかと思うと自信がない。 
 
 晶はテーブルへと置いた携帯を睨みながら腕を組んだ。 
 そして二度目の溜息をついた所で、睨んでいた携帯が突然鳴り響いた。驚いた晶は恐る恐る携帯を引き寄せ着信相手を確認する。佐伯かも知れないと思っていた予想はあっさり裏切られた。 
 
 ホッとしたように携帯を手に取り通話ボタンを押す晶に、いつも元気いっぱいの信二の声が届く。 
 
『おはようございます!晶先輩、起きてますか??』 
「おう……、信二か。おはよう……。朝っぱらから、どした?」 
『どしたって、晶先輩が電話かけて起こしてくれって言ったんじゃないっすか』 
「え?……俺が?」 
『あれ?……もしかして今日の事忘れてます?』 
 
 何か今日あったのだろうかと晶は咄嗟に考えを巡らす。店を休む連絡はまだいれていないので信二は知らないだろうし、同伴の約束もしていない。それに、誰かが誕生日なわけでもない……と思う。 
 そもそも、そういう事は今まで忘れたことはないはずだ。しかし、信二の口ぶりからすると自分は何かを忘れているらしい。だが、佐伯との事で頭がいっぱいな今は、真剣に考えても信二が何を言っているのかさっぱりわからなかった。晶は朝に飲んだ残りで常温でおかれているミネラルウォーターを持ってベッドへと向かいながら、潔く分からないことを伝えるために口を開く。 
 
「……えっと……悪りぃ、何かあったっけ?」 
 
『もう、晶先輩本当に忘れちゃったんっすか?今日、ワインの勉強会をやる日ですよ。先輩が言ったんじゃないですか。酒の味もわからないのはまずいから、今度の新入りを集めてやるぞって』 
 
 信二の声を聞きながら、受話口を手で押さえて繰り返し出る咳をどうにかやり過ごす。持ってきた水を少しだけ口に含んで飲み込むと、何とか咳は治まった。水を飲んだらまた吐くのではないかと怖かったが、吐き気止めは確実に効いているらしく、大丈夫そうである。 
 
「……あぁ。そう……、だったよな」 
 
 確かに、そうだった。信二に言われて思い出したが、そんな事を一週間前に話していたのをはっきり覚えている。頭の奥から記憶を引っ張り出して晶は電話越しで一人頷いた。 
 
「……ごめんごめん。思い出した。ちゃんと行くからさ。3時、だったよな?」 
『……はい、』 
 
 受話器越しの信二がしばし躊躇うように言葉をとめた後、窺うように訊ねてくる。 
 
『あの、……晶先輩?』 
「――ん?」 
『何か……、ありました?いや……その……、大きなお世話かもしんないっすけど……。元気なくないですか?』 
「そんな事ねぇって。あぁ、ほら俺、朝に弱いからさ。そのせいっつーか、うん」 
『そうっすか?……なら、いいんすけど』 
「そうそう、そんな事気にしなくていいから。先行ってセッティングしとけよ?頼んだぞ、信二」 
『了解です!』 
 
 受話器を離したくなるほど大声で返事をした信二はそういって電話を切った。今日は店を休もうと思っていたが、まさか企画した自分が行かないわけにもいかない。晶は手を伸ばして時計を引き寄せ、時刻を見て暫く考え込んでいた。 
 
 三時に店に行けばいいので、まだまだ時間があった。晶は枕元にあった体温計を咥えて現在の熱を測ってみる。音が鳴って確認してみると37度5分と表示されている。点滴のおかげで確かに熱は下がっている様子だが、今すぐ外出出来るほどの元気は全くない。少しでも体力を戻した方がいいと思い、ひとまず何時間か眠ることにした。 
 
 目覚ましを2個ともセットし、上着だけを脱ぎ捨てベッドへ潜る。色々考えたい事は山積みだが、とりあえず今は目の前の事を片づけるしかない。頭の中の思考回路を無理矢理閉じて、強引に目を瞑り続けていると次第にに浅い眠りへ誘われていった。 
 
 
 
 
 
 けたたましい音の目覚ましが2個同時に鳴り響き、晶が飛び起きたのは眠ってから3時間後の事だった。 
 
起きあがった晶は、体がやけに汗ばんでいる事に気付く。気持ち悪く張り付くシャツを体から引き離しながら、ベッドから足を下ろすと『まだ休め』と警告するように頭が痛む。若干先程より熱が上がっているような気がするが、決定的な証拠を見たくないので体温は測らないでおくことにした。 
 悪い夢だと言い切れるほど覚えていなかったが、それでも嫌な感じの夢を見ていたらしく、寝起きの気分は最低だった。 
 
 気分を切り替えるために浴室へと行き、絡まりつく不安と汗を一気に洗い落とす。流れ落ちるシャワーの中に全部の気持ちを溶かしてしまいたい。 
 
──ハァ……、……。 
 
 今日何度目かの溜息は、もうすでに数え切れない程になっていた。風呂場から出て時計を見ると出かける時間ギリギリになっている。晶は慌てて着替えを済ませると、すぐにマンションを出て店へ向かった。