俺の男に手を出すな 4-8


 

 電車が混んでいて座れず立ったまま行く事を考えると、やはりタクシーで向かった方がいいと思い。晶は、店最寄りの駅まではタクシーで向かった。何とか気合いで家を出てきた物の、気合いだけで乗り切れるかどうかはかなり怪しい。 
 
 自宅にあのまま一人でいてもマイナス方面に思考が傾いていきそうなので、そういう意味ではこうして無理してでも外に居た方がいいとは思うのだが……。とにかく体調が優れない。何時間ぐらい点滴の効果があるのかはわからなかったが、5時間程経過した現在徐々に効果が薄れてきているのは気のせいじゃなさそうである。 
 
 店まで行かず駅前でタクシーを降りたのは、薬局へと寄るためだった。薬を受け取り忘れてしまった今、とりあえず市販の薬でもいいから買って飲んだ方がいいのではと思ったのだ。 
 
 薬局へと入り風邪薬の棚へ向かうと、どうなっているのかと驚く程の種類の風邪薬が並んでいた。 
 一通り手にとって詳細を見ては見たが、どれも効能はさして変わらないようでもある。佐伯が喉の炎症が酷いと言っていたので、とりあえずテレビのコマーシャルでよくみる喉の症状に特化した物を選んでレジへと持っていった。 
 店員は薬剤師なのか白衣を着ており、明らかに顔色の悪い晶に「お風邪ですか?」と心配そうに眉を寄せて尋ねてくる。「……ちょっと」と少し笑みを浮かべて返しながらも、その店員の白衣に佐伯の姿を重ねてしまう自分がいる。 
 
――「……晶」 
 
 佐伯が名を呼び、すぐそこに立って自分の方へ腕を伸ばしてくる。そして自分は思いっきり手を伸ばす。だけど、その瞬間、佐伯の姿は霧のように四散して見えなくなった。伸ばした腕は佐伯に届かない。昨夜見た夢と同じだった。 
 
 
「お客様、どうかなさいましたか?」 
 
 店員に声を掛けられたことで現実に引き戻される。 
 
「あ……すみません。幾らですか?」 
 
 すぐに佐伯を思い出してしまう自らの思考回路に呆れつつ、レジ近くにあるマスクも一緒に会計して、晶は薬局を出ると歩きながら取り出して早速マスクをした。本当は体調が悪いことは伏せておきたい所ではあったが、店で周りに風邪を移すわけにはいかないので仕方がない。 
 
 
 
 
 駅から店はそう遠くないのに、今日はやけに遠く感じる。やっとの事で店に辿り着いた晶はそっとドアに手を掛けた。思っていたより道がすいていて早くにこちらへ到着したので、まだ2時半を過ぎた頃である。 
 ドアを押して中へと入ると、言いつけ通り先に到着して用意を済ませていた信二が店の奥におり、手前のホールには勉強会へ参加する新米ホスト数人が晶の姿を見つけて口々に挨拶をして振り向いた。 
 
 晶もそれに軽く答えながら奥のテーブルで用意をしている信二の方へと足を向けた。テーブルへ何種類ものワインが置かれており、すっかり準備は整っているようだ。 
 
「お、用意できてんじゃん」 
 
 そう言ってボトルを持ち上げた晶に、信二を始め集まってきた皆が晶の目の前で固まっている。皆一様に同じ顔をして晶にあからさまに視線を向けていた。晶は訳もわからず「え?」という顔をすると隣りにいる信二に振り向いた。 
 
「……なんだよ?……どうしちゃったの、お前ら……」 
 
 不思議そうに訪ねた晶に、信二がいきなり悲痛な面持ちで距離を詰めてくる。ガシッと肩を掴まれて、晶は危うくよろけそうになりテーブルへと手をついた。もともと信二はリアクションが多少オーバーな所があるのだ。 
「ちょ、……おい、危ねぇって信二。……何よ?どうした?」 
「晶先輩こそ、どうしちゃったんっすか?だ、大丈夫ですか?」 
「え?」 
 
――マスクをしているからなのか? 
 
 とも思ったが、この驚き様はマスクのせいだけではなさそうである。 
 口々に何かあったんですか?と心配そうに言われ、皆の視線が容赦なく突き刺さる。 
 
「えーっと……。ちょっと裏行ってくるわ……」 
 
 晶は非常に居心地が悪くなって、とりあえず上着を脱いでくると付け加え裏へと退散した。一体なんだというのか。その疑問はすぐに解明される事になった。 
 裏にあるロッカールームへ行き、大型の姿見を見て、今度は晶自身が驚いた。 
 
 行く前に慌てていてちゃんと鏡をみなかったから気付かなかったのだが、目の前の鏡には疲れ果てたような蒼白な自分の顔があった。マスクをしていて相乗効果で余計にそう見えるというのを差し引いても、見るからに疲れているその顔は、やつれていると言っても差し支えないほどだった。 
 
 これでは皆が驚くのも無理はない。晶は鏡の前の自分に溜息を漏らす。体調のせいもあるが、それより佐伯との事による精神的疲労が滲み出ているというのが大きいのだろう。 
 
 たった一晩、いや、半日でこんなにも憔悴している自分に改めて今回の件が堪えているのを感じてしまう。そういえば、精神的ショックで一晩で白髪になったという都市伝説のような話しを聞いたことがあるのを思い出し、晶は前髪を掻き分けて鏡へと近づいた。とりあえず白髪になってない事を確認し、少し安心する。 
 
 プライベートを仕事に持ち込むなといつも言い聞かせている自分がこれでは、示しが付かない所の騒ぎではない。今日はやはり勉強会が終わったらまっすぐに家へ帰ろう、と鏡を見てひとしきり反省し、上着をロッカーへとかける。せめて帰宅するまでは元気を出さなくてはと心の中で気合いを入れ直した。 
 
 咳が出ているのでやめたほうがいいのはわかっているが、一度落ち着くために晶はマスクをとってロッカーへと凭れたまま煙草を一本取り出して口に咥えた。火を点けてゆっくり吸い込んでみるが、いつも美味しく感じる煙草も、味がわからない。二、三度吸った後、咳が出る前に灰皿でもみ消して厨房へ向かった。 
 
 厨房と言ってもホストクラブでは大層な料理を出すわけではないので小さな備え付けのキッチンレベルの場所である。ポケットに入れてきた先程買った風邪薬を取り出して箱の側面を読む。一回3錠と書いてあるのを承知で4錠取り出す。 
 
 多目に飲んだほうが早く効きそうな気がしたからだ。グラスに水を汲んで錠剤を手にのせた所で、佐伯が飲む前に何かを胃にいれろと言っていたのが頭をよぎる。ざっと思い返しても昨日の夕方から何も食べていないが空腹を感じる事はなかった。厨房の冷蔵庫内には軽くつまめる程度の物はありそうだが、また吐き気がしたら困るし、食欲もなかったので、今更何かを食べる気にもなれなかった。 
 
──大丈夫だよな……多分。 
 
 ころころと掌で転がる錠剤を前に考えた後、口へと放りこみ一気に水で流し込む。糖衣錠になっている薬は苦みはなく、すんなりと胃へ落ちていった。グラスを洗って元の場所へ戻し、台に手をついて俯けば出てくるのは熱っぽい吐息だけである。 
 
「……、……晶先輩……」 
 
 厨房入り口の方から、いつのまに入って来ていたのか信二の声が控えめに晶の背中にかかる。晶は心配を掛けないようにいつも通りの笑顔を作って信二に振り向いた。 
 信二は心配ですと顔に張り紙をしているかの様な表情をしている。そんな信二に近寄り晶は軽く信二の肩を叩いた。 
 
「どうしたんだよ、そんなシケた面してっと、客に逃げられんぞ」 
 
 笑ってそう言う晶を見ても、信二はいっさい表情を崩さず。それどころか、益々眉を寄せ、晶が手に持つ風邪薬の瓶をじっと見つめた後、晶へと視線を移した。 
 
「風邪……っすか?」 
「え?……あぁ、ちょっとな。でも、たいしたことねーから」 
「…………でも」 
「へーきだって。たかが風邪だぞ?そんな深刻そうな顔するなっつーの。な?スマイルスマイル」 
「……そうっすけど」 
 
 たかが風邪だと晶は言うが、本当にそれだけなのだろうか……。信二は自分が感じる違和感を飲み込めずに目を伏せる。ほぼ毎日顔を合わせているだけに、少しの変化も敏感にわかってしまう。しかし、先輩でもある晶にプライベートな事であろうその理由を問える勇気まではなかった。何かを言いたそうにしている信二に晶も気付いていたが、……わざと気付かないフリをする。 
 
「ほら、表行くぞ」 
「……はい」 
 
 心配そうな信二の背中を強引に押しホールへと戻ると皆が揃って待機していた。晶は再びマスクをすると皆を集める。 
 
 
 
「よしっ!んじゃ、そろそろはじめっかな。揃っただろ?みんな」 
 
 早速、ワインの勉強会が始まり、様々なランクのワインを信二が皆のグラスに注いで回る。ワイン独特の甘い香りがホールを満たしそれぞれがグラスを持つ。晶が一本一本軽く説明し、その度にテイスティングが始まる。 
 最近はワインブームで、客の間でも注文される酒がワインである確率は高くなっているのだ。ソムリエほど詳しくなる必要はないにしろ、ある程度わかっていればそれをきっかけに話題作りにもなるし、お勧めを教えることも出来る。 
 
 ただ、勉強会と言ってもたいした事をするわけではなく、店で出しているワインをランク事に揃えて試飲するという形式である。信二も今では新米の粋からは脱しているので、今回は晶の助手をする事になっていた。 
 
 新入りの若いホスト達がグラスを持ち、晶の言うとおりにグラスを2回ほど傾けて回し、口に含む前に香りと色を確認する。白ワインから始まり、ロゼ、赤ワインという順番で試飲は行われる。店で一番高いワインはロマネ・コンティであるが300万を超すこのボトルが入ることは滅多に無いため今回は用意されておらず、出やすい値段でもある、店の提供価格10万~80万程度の酒が並べてある。 
 そのランクのワインでも、普通のホストの卓では滅多におめにかかれないわけで、新米ホスト達が珍しそうに眺めていた。 
 
「お前ら、一回一回全部飲みきるんじゃねーぞ?」 
 
 晶が周りながら注意を促す。うっかり大量に飲み込んでしまった目の前のホストが晶の言葉に焦って思わず噎せる。晶は笑いながら側へ行くと、背中をさすってやりながら冗談を交わす。 
 
「お前さ、毎回そんなに飲んでたら、今日店があくまえにトイレの住人になるぞ?よくても店泊は決定な。それはまずいっしょ」 
 
 晶の言葉に周りから笑いが起こる。晶がいるだけで、その場はこうしていつも笑いが絶えず、新米ホスト達の緊張も解けて和やかなムードへ変貌する。和やかな中で信二だけが、時々背を向けて咳き込む晶に未だに心配そうな顔をしているのを晶は見て見ぬふりをするしかなかった。 
 
 ホストの大半は酒に強いのだが、そんな強いホストでもさすがに限度がある。客にとっては一度の乾杯であるが、こちらは入れ替わり立ち替わり常に乾杯しているような状態なのだ。しかし、客にいれてもらった酒を飲まないわけにはいかないので、ヘルプでついたホストが変わりに飲んだり、時々裏へ行って自分で吐いたりして対処するしかない。 
 
 それでも店が閉まる頃には酔いつぶれるホストは結構おり、そんなホストが帰れなくなり店へ泊まっていくことを店泊と呼んでいた。晶もホストになりたての頃に何度か経験がある。 
 ビールやシャンパンなどの炭酸が入っている物はそんなに悪酔いしないが、ワインや日本酒などは大抵の場合、度を超すと酷い目に遭う事になるのだ。 
 
 なので、今から何種類もテイスティングをするのに毎回全部を飲んでいたら、晶の言う通りの事態になるのは明白だった。 
 
「次のは、今店に出している中で二番目に高いやつ。年代によって多少違うけど、うちの店に入れてるのは94年物のだから、さっきのと比べてちょっと苦渋味の強いタイプな。まっ、名前は舌噛みそうだから何となく覚えてれば良いけど。味だけはちゃんと覚えておけよ~」 
 
 最高級の味を知っているのと知らないのでは全く違う。客に「どんな味ですか?」と聞くような事態だけは避けたい所である。 
 
 そうして、様々なワインをテイスティングして2時間ほど経った所で今日の勉強会はお開きとなった。 
 今日使ったぶんのワインは全て企画した晶の自腹であるが、全部飲んだわけではないのでどのワインも半分ほど残っていた。好きなのがあったら持って帰っていいと言った晶の言葉の後、それぞれが好みの物を手に取っている。 
 
 暫く騒がしく時間が過ぎたが、夕方になると同伴があるホストは待ち合わせに向かい、他のホスト達も晶に礼を言うと、開店まで少しの時間キャッチをしに店から出て行った。 
 
 
 
 
 最後に残ったのは晶と、後片付けをし終えて一服している信二だけになっていた。一番気心の知れている信二と二人になった途端、気が緩み、晶はどっと疲れが増すのを感じてカウンターへとだるそうに腰掛け突っ伏していた。息苦しさにマスクを外し何度か咳をしていると、座っている晶の隣りに信二が来て同じように横に腰掛ける。 
 
「お疲れ様っす」 
「信二もお疲れー……。お前ばっかに後片付け任せちゃって、悪かったな」 
「いいっすよ。先輩具合悪いんだし、後片付けって言ってもグラスだけだったし。でも晶先輩ってホント、物知りですよね。今日は俺も勉強になりました」 
「んなの慣れだって慣れ。信二も何年かしたら、自然に覚えてっから」 
「……そうっスかね?」 
「そうそう」 
 
 テイスティングとはいえ、一滴も飲んでいないわけではなく、晶も多少口にしている。風邪薬を飲んでいる時は酒を飲むなという佐伯の言いつけも守らなかった上に、規定より多目に薬も飲んでいるので、鉛のように頭が重い。ズキズキと脈打つこめかみに晶が指をあて顔を顰めると、信二がそれに気づき顔を覗き込んできた。 
 
「もう、片付けも済んだし。今日は帰って休んだ方がいいんじゃないっすか……?顔色、すごい悪いっすよ……」 
「……、そうなんだけどさ……、家に帰るのもなぁ……」 
 
 晶は帰宅して一人で部屋に居る自分を想像して、溜息をつく。 
 
「晶先輩?」 
「……いや……、何でも無い」 
「……?」 
「んじゃ。悪いけど、先に帰らせてもらおっかな……マネージャーにはメモ残して置くから」 
 
 それがいいと頷く信二に礼を言い、カウンターから重い体を起こす。 
 
「あ、上着取ってきましょうか?ロッカーっすよね?」 
「……ああ、……うん、頼むわ……」 
「ちょっと待ってて下さいね」 
 
 信二が上着を取りに晶の側を離れ、晶はカウンターチェアーからゆっくり降りる。床についたはずの足下が沈んでいく……。 
 
──……っ……! 
 
 視界がグラリとゆがみ暗くなる。晶はその場で激しい目眩にくずおれた。酷く気分が悪い。それはかつてないほどの体調の悪さで最悪な状態だった。しゃがんで目を閉じていても開けていても視界が回っており、耳鳴りまでする。 
 立ち上がろうにも立ち上がれないでいると、上着を手にして戻ってきた信二が驚いて駆け寄ってきた。 
 
「うわっ!!晶先輩!!だ、だ、大丈夫ですか!?」 
 
 大丈夫だからと笑って言いたい所だったが、その一言を言う事も出来ず、晶は低く呻くと手で平気だと示し目を閉じたまま何度か深呼吸をした。経験は無いが、これが立ちくらみというやつなのだろう。暫くそのままじっとしていると、どうにか立てそうにはなってきた。 
 
 細く目を開けてちらりと横を見ると、心配しすぎて自分も蒼白になっている信二が同じように床にへたりこんでいる。 
 
「……信二……、わりぃ。ちょっと……肩かして」 
 
 掠れた声でそう言うと、信二が我に返って晶の身体に手を回しその熱さにびっくりしたように息を呑む。 
 
「晶先輩、……熱が……」 
――……やっぱり。 
 
 点滴の効果がきれたのは勿論、風邪薬も早々効いてはくれないようである。コマーシャルに偽りありなんじゃないかと恨めしく思いつつ信二の肩に掴まってやっと立ち上がり、晶は倒れ込むように近くのソファへ腰掛けた。 
 
 背もたれによりかかって目を閉じ、信二が急いで持ってきてくれた冷たいおしぼりを目に当てる。完璧に治まったわけではない目眩は未だしぶとく残っている。頭が割れそうに痛み強い悪寒が全身を駆け上る。 
 今日の勉強会が終わった後だったのが不幸中の幸いだったが、このままこうしているわけにもいかず、困ったなと晶は考えていた。 
 
 ギシッとソファが揺れ、隣りに信二が座ったのがわかる。きっと、とんだハプニングに慌てているのは間違いない。いつもなら気遣って冗談まじりの台詞をかけれる晶も、さすがに今はそこまでの気力がなかった。 
 いつもの声の半分以下の小さな声で信二がそっと声を掛けてくる。 
 
「あの……、何か水とか持ってきましょうか?」 
「いや……。今はいいや」 
 
 一度は、「……そうですか」と引いた信二だったが、いたたまれなくなったのか少しして再び晶へと声を掛けてきた。 
 
「俺、送りますよ。自宅まで……、心配なんで」 
「ああ、いいっていいって……。お前今日、店出るんだろ?もう時間そんなにねぇし」 
「あ、それなら平気っすよ。俺も今日は休みなんで……。勉強会終わったら帰るつもりで。それに、たまには……」 
 
――……たまには? 
 
 信二は先の言葉を言わないままに口を噤んだ。晶はおしぼりを外し少し体を起こすと隣にいる信二を見る。横にいる信二が俯いて手をぎゅっと握りしめているのが視界に入った。 
 
「……信二?………どした?」 
「……俺、そんなに頼りないっすか……」 
「……え」 
 
 落ち込んでいるその様子に、晶は言葉を詰まらせる。静かにそう言った信二からはふざけた雰囲気は一切消えていた。 
 
「……お前、何言ってんの。そういう事じゃなくてさ……。……つーか、頼りになるよ信二は。マジで」 
 
 本当にそう思っている。最近の信二は、もう晶が色々教えずとも何でもこなせるホストになっているし、今度入ってきた新人ホスト達の面倒もよくみてくれている。現に信二と二人きりになった安堵から一気に緊張の糸がほどけてこうなったのは間違いないのだから。 
 
「……だったら送らせて下さい」 
──……信二……。 
 
 信二が顔を上げて晶の目をじっと見る。その顔があまりにも真剣だったので晶は再び言葉を失ってしまった。こんな信二は今まで見た事がなかったからだ。いつまでも可愛い後輩だと思っていた信二がやけに頼もしい存在に見える。微妙な空気を取り繕おうと思っている所へ、信二は腕を伸ばし晶の腕を強く握った。 
 
「……心配です。俺、このまま先輩を一人で帰らせるとか嫌だ……」 
 
 力を込めた信二のその気迫に押されて晶は視線をそらすと誤魔化すように呟いた。 
 
「……じゃ、……じゃぁ、送ってもらおう……かな」 
 
 晶が承諾したことで、信二は見るからに安心した顔を見せた。信二が帰り支度をしてくると言って裏へ行き、その間横になって暫くソファで休んで待つ事になった。 
 
 
 店のソファに仰向きに寝て晶は自分の額に腕を置く。視界にうつる店の天井、こうやって見たのは初めてだな等と考えていると、店の入り口のドアが開く音が聞こえた。開店前なので客が来るはずはなく、他のホストがキャッチから戻ってきたのかと思っていると、すぐに聞き慣れた声が届いた。 
 
「こんばんは?誰かいます~?」 
 
 どうやら声の主は上の階のホステス茜のようである。「あらやだ、鍵も掛けないでみんな出払ってるのかしら」と呟く声が聞こえ、晶が返事をしようとした直後に奥に居た信二が気付いて走ってくる足音が響く。 
 
「すみません。ちょっと裏に居て、お久しぶりっす!茜さん、どうしたんっすか??」 
「あら、信ちゃん、おひさ~。今日もイケメンね」 
「あざっす!」 
「ところで坂下さんもう来てる?」 
「あー、まだ来てないっすね。何か伝言あればわかるようにしておきますけど」 
「うーん……今って、信ちゃんしかいないの?」 
「いや、えっと……一応、晶先輩もいるんっすけど……」 
「晶ちゃんいるんだ?じゃ、晶ちゃんでもわかるかもしれないから、呼んでくれる?」 
 
 事情を知らない茜がそういって店内へ足を踏み入れる。今の状況を伝えようと信二が口を開こうとした所で、先にソファに横になっていた晶を見つけてしまった茜が「晶ちゃん!?」と声を上げる。 
 信二に振り向き、動揺した様子で説明を求める視線を投げてくる茜に、信二は困ったように眉を下げた。 
 
「ちょっと先輩具合悪くて、店で倒れたんで、今家まで送っていく所だったんっすよ」 
「えっ!……倒れたって、どういう事!?晶ちゃんどっか悪いの?」 
 
 一部始終聞こえている晶が、目を開けてその会話に口を挟む。 
 
「おい、信二。倒れたとか大袈裟な事言うなって。茜姉さんびっくりすんだろ」 
「あ、す、すみません……」 
 
 「でも本当の事なのに……」と語尾に小さく付け加えた信二の声はほぼ聞き取れない小ささである。心配そうに駆け寄ってきた茜が晶の側にしゃがんで顔を覗き込む。結構顔が近い。 
 晶が起き上がろうとすると、茜が「いいから横になってて」と、そのままでいるように言い晶の肩に手を置く。 
 
「ちょっと風邪引いちゃって、信二はあぁ言ってるけど、マジ全然たいしたことないからさ……」 
「風邪、なの……?」 
 
 茜がすっと腕を伸ばして晶の額に掌を当て、その熱さに悲しそうに顔を歪める。 
 
「ホントね……凄い熱……。顔も真っ青じゃないの、何で店に来ちゃったのよ。早く帰って休んだ方がいいわ」 
「……うん。茜姉さん、何か用事あるんだっけ?俺でわかるなら聞くけど?」 
「ううん、気にしないでいいの。急ぎの用じゃないから、仕入れの事でね、ちょっと聞きたかっただけなの。坂下さんがきたら後でまた顔出してみるから」 
 
 そう言った後、準備を済ませて待っている信二に振り向くと、茜は「すぐ戻るからちょっと待ってて」と言い残して立ち上がるとバタバタと店を出て行ってしまった。晶の上着を持ってきた信二が側に来て手を伸ばす。 
 
「晶先輩、体起こせますか?」 
「おう……、大丈夫……。まさか茜姉さんに見つかるとはな……余計な心配掛けちゃったな……」 
 
 信二に支えて貰い体を起こして上着に袖を通していると、言葉通り息を切らしてすぐに戻ってきた茜は何やら手に小さな袋をさげている。 
 
「これ、私がお客さんにプレゼントしてる物なんだけど、持っていって」 
 
 渡された袋の中には、小さな可愛い瓶が入っていた。晶がそれを取り出してみると、可憐な花柄のシールが貼ってあり、その上に可憐……、とはいえない豪快な文字で生姜蜂蜜とボールペンで書いてあった。 
 
「それね、生姜を蜂蜜で漬けた物なのよ。今の時期、風邪引いてるお客さん多いのよね。お湯で溶かして飲むと体が温まるし、喉にも良いから、晶ちゃんも帰ったら飲んでみて。最後に一個残ってて良かったわ~」 
「でも、俺が、貰っちゃっていいのかな?最後の一個なのに。……これ、茜姉さんが作ったんでしょ?」 
「いいのよ。持っていって。私の愛をたっぷり込めた手作り!あら、大丈夫よ?変な物はいれてないから、安心して」 
 
 茜が優しい笑みでそんな事を言う。別にそういう意味で言ったわけではなかった晶はもう一度茜に礼を言ってその好意を受け取ることにした。客にプレゼントしているというそれは手作りだという事だから最初から数が少なかったに違いない。最後の一個なのに何の躊躇いもなく晶へとそれを渡してくれる茜の気持ちが嬉しかった。 
 
「帰ったら飲んでみるよ。茜姉さんの手作りとか、薬よりマジで効果ありそうだし。明日には全快かな?」 
 
 ふざけてそう返した晶に少し笑った後、茜が心配そうに顔を曇らせた。 
 
「晶ちゃん……、無理しすぎちゃダメよ?体だけじゃなくて、ね?」 
「……茜姉さん」 
 
 茜は「じゃぁ、私は行くわね。信ちゃん、晶ちゃんの事お願い」そう言って立ち上がると店から出て行った。信二を始め、こんなにも心配をしてくれる人達に囲まれて本当に幸せだと思う反面、晶は、心配を掛けてしまっている事に申し訳ない気持ちになっていた。 
 
 何せ勝手に悩んでいる件は個人的なことで、悪化させているのも全て自分のせいなのだから……。 
 
「俺、タクシー呼んできます。晶先輩はここで休んでて下さい」 
「あ、……あぁ。悪いな……宜しく」 
 
 素早く消えていった信二の背中を遠目に見て、晶は再び回ってきた視界にぐったりと目を閉じた。