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「Dr.シドウ? どうかしました?」 
 
 早朝のカンファレンスを終えて移動していた椎堂は、いつのまにかぼーっと窓の外へ視線を向けたまま立ち止まっていた。不思議そうに声を掛けられて我に返り、その声の主へと笑顔で振り向く。 
 空いた時間にフと気付くと澪の事……、週末の事を考えてしまっている自分に気付いて思わず溜め息が出そうになってしまうのをこらえる。 
 
「いや……、今日も天気が良いなぁと思って」 
「ほんとに? 俺で良ければ何でも悩み聞きますよ」 
 
 そう言ってニコニコ笑っているのは、チームの仲間でもあるギャレット医師である。まだ椎堂が敬愛会にいた頃、この病院を椎堂へと紹介してくれた先輩は、椎堂が働ける環境を整えたあと、別の病院へ移ってしまったのだ。 
 
 自分の希望していた医療施設でこうして現在働けるというのは全てその先輩のおかげである。その先輩から椎堂の力になってやって欲しいと託されたのが、今隣にいるギャレット医師というわけだ。 
 ギャレット医師は、椎堂より二つ年上で非常に面倒見の良い性格で、何かにつけてまだ慣れない椎堂をフォローしてくれている。 
 
「有難うございます。でも、悩みとかはないですよ。今は覚えることがいっぱいだからついていくだけで大変で、まぁ、それが悩みと言ったらそうなるのかもしれないですが」 
「そうかい? それならいいんだけどね。それと、シドウは今も十分立派に仕事をこなしていると俺は思うから、そこは焦らなくて良いと思うよ。ところで……、少し早いけど、午後の移動の前にランチを一緒にどうだい? 美味しい店を紹介するよ」 
「ランチですか? はい、是非」 
 
 椎堂が誘いを受けると、ギャレットはとても嬉しそうな笑みをこぼした。まだ十一時を過ぎたばかりでランチタイムになっているのか疑問に思ったが、連れて行こうとしている店は十一時開店で、開店と同時にランチをやっているとの言葉になるほどと思う。 
 
 一度医局へ戻って着替え、ギャレットと共に病院を出て少し歩く。今日は本当にいい天気で、アスファルトに反射した光が眩しいくらいである。 
 少し目を細めてギャレットの後に付いていくと、ギャレットは一軒の店の前で足を止めた。 
 
「ここなんだ。気に入ってくれるといいんだけど」 
 
 店の入り口を見ただけでは一体何の店なのかは判別がつかない。椎堂は店構えを見上げた後、ドアをあけて中へ入る。すると、漂ってくる香りですぐにその店の正体がわかった。 
 
「カレー屋さんですか?」 
「正解! ここのココナッツカレーは絶品なんだ。是非食べてみて欲しい!」 
 
 今までにも三回ほどギャレットお勧めの店で食事をしたことがあるが、どの店もとても美味しくてはずれがなかった。なので、ここもきっと美味しい店なのだろう。 
 
 席へ着いて、ギャレットがお勧めする品を頼み、メニューを閉じる。ランチに付属している飲み物はチャイで、こんな所も結構本格的である。おかれた飲み物をストローで飲むと、暑かった外の陽射しで火照った体が少しだけ落ち着いてきた。 
 
 椎堂は天井で回転しているシーリングファンを見あげた後、店内をぐるりと見渡す。夜は酒も出す店なのか奥には広いバーカウンターがあり、店内の席数もかなりある。 
 
「よく来るんですか? ここ」 
 
 開店して間もないせいなのか、そんな広い店内に客は椎堂達と後二組がいるだけで混雑とは程遠かった。 
 
「うーん。そうだね。週に二度はくるよ」 
「そんなに? それはもう、常連ですね」 
「そうかもしれない。無性にここのカレーが食べたくなるときがあるんだよ。自宅じゃ真似できない味なんだ。……だけど、シドウ?」 
「はい?」 
「俺はここに人を連れて来店した事は一度も無いんだ。たったの一度も、ね」 
「……? そう、なんですか? そんなお気に入りの場所に連れてきて貰えて嬉しいな」 
 
 どういう意味で、自分にそんな事を言ってきたのか分かりかねて椎堂は曖昧な笑みを浮かべた。あまりに美味しいので内緒にしておきたいといった所なのだろうか。悪戯な笑みを浮かべる彼の前でそう考える。 
 
「おっと、うっかり余計な事をいってしまったようだ。俺の悪い癖でね。思った事をすぐ口にしてしまう。ダメだなぁ、俺は」 
 
 ギャレットが大袈裟に肩を竦め首を振る仕草をした後、誤魔化すようにここのカレーについての蘊蓄を話し出した。話好きのギャレットは、こういった料理に関しての知識や雑学にも詳しくて、椎堂は感心しながらその話に耳を傾けていた。 
 
 注文したココナッツカレーが運ばれてきて、早速互いに食べ始める。ギャレットのいう通り家庭のカレーとはやはりだいぶ違い、スパイスの香りが強く鼻に抜ける。すっかり溶け込んでしまった具材が見当たらないほどにルーはなめらかであり確かにとても美味しい。 
 
 少しして椎堂はスプーンを持つ手を止めて自分を見つめているギャレットに気付き、自分も手を止めた。もくもくと食べてしまったが、早めに味の感想を言わないと失礼だったのかもしれない。 
 椎堂は一度チャイで口の中の物を飲みこむと、慌てて感想を伝えた。 
 
「とっても美味しいです。日本でもこんなに美味しいココナッツカレーは食べた事が無いかも」 
「そう、それは良かった! 連れてきた甲斐があったね」 
 
 椎堂が感想を述べた後も、ギャレットが視線を外す事は無かった。その視線に少し戸惑い、椎堂が尋ねるような視線を向ける。 
 
「あの、何か……僕おかしいですか?」 
「いや、そんな事は無いさ」 
「……?」 
 
 漸くギャレットもカレーに手を付け、椎堂もほっとして残りを食べる。最初はさほど辛くないと思っていたが、食べ続けていると最後には結構な辛さが舌に残る。今度機会があったら澪を連れてこようかと思ったが、ここまで香辛料が強いと負担になりそうなので、連れてくるのは止めた方が良いかもしれない。 
 
 全部を食べ終わった所で、ギャレットに改めて礼を言う。すると、同じく食べ終わった彼が真剣な眼差しで椎堂を見つめ、少し思い詰めたように切り出した。 
 
「ひとつ俺の質問に答えて欲しいんだけど、OK?」 
「……? 何でしょう?」 
「その、シドウは日本から恋人と一緒にこっちへ来たっていうのは本当なのかい?」 
「え!?」 
 
 隠しているわけではないが、澪の事は、表向きには同じ志を持った後輩という体で紹介しているのだ。バレるのは時間の問題だと思うが、あえて皆に言い回る必要も感じないので今までそうしてきた。 
 
 ギャレットはそう言う偏見で見る目を変えてくる人物とも思えないが……。ここは、正直に話した方がいいのか……。椎堂が返事に窮していると、ギャレットは椎堂の目の前で、困らせるのは本意で無かったとでもいうように手を振って見せた。 
 
「いや、すまない。ちょっと唐突過ぎたかな。プライベートを詮索しようとかそういう気はないんだ。ただ、もしそれが本当なら少し俺にとっては嬉しい事だなと思ってね」 
「嬉しい? どういう意味ですか?」 
「ああ、俺はゲイなんだ。周りの人間は勿論皆知っている。今はパートナーはいないけどね」 
「――え」 
 
 突然のカミングアウト。しかもギャレットはカレーの蘊蓄と同じ程度のテンションでその事実を告げてくる。日本では考えられないこの状況に面食らって椎堂は慌ててもう一度飲み物を口にした。 
 
「驚いたかい?」 
「はい。突然だったから……」 
「だからってわけじゃぁないんだけど、シドウも同じ仲間なのかなと、ね」 
 
 同じ同性愛者として親近感を抱いているという事なのだろう。気持ちはわからなくもない。ギャレットになら話しても良いかと思い、椎堂は照れたように笑みを浮かべてその質問に答えた。 
 
「……そうです。今一緒に住んでいるのは僕の大切な人ですよ」 
「やっぱり! そうなんだね」 
 
 ギャレットは嬉しそうににっこりすると「秘密にしておくよ」といって真っ白な歯を見せて笑った。透き通るような短い金髪に、青い瞳、爽やかな笑顔はまるでアメリカの青春映画にでも出てくる青年のようだ。そんな容姿のギャレットが院内でモテるという噂も本当なのだろうとこの時椎堂は思った。 
 
 澪は多分ギャレットには会ったことがないだろうけれど、ギャレットは澪を知っているような口ぶりが少し気になる。しかし、澪はボランティアの実習で椎堂の勤務先の病院へも時々顔を出すので噂で聞いていても不思議では無いのかも知れない。――こうして二人の関係を教えたと言ったら澪は何と言うだろうか。 
――別にいいんじゃない。 
 澪の声で再生される椎堂の予想する答え。 
 あぁみえて、そっけない返事を返すときは照れている事が多いのだ。そんな事を考えながら椎堂は思い出し笑いをしそうになるのを我慢した。 
 
「おっといけない。そろそろ戻った方が良いかな」 
 
 ギャレットに釣られて椎堂も腕時計を見ると、とっくに十二時を過ぎていた。一時には午後一軒目の訪問が入っているのだ。 
 
「あ、本当だ。もう戻った方がいいですね」 
「そうだね!今日はシドウとランチが出来て良かったよ。秘密の話も聞けたしね」 
「えぇと……秘密ってほどではないけど」 
 
 椎堂が照れて俯くのを面白そうにギャレットが見つめる。 
 
「ギャレットさん、今日は美味しいランチご一緒出来て僕も楽しかったです」 
「俺も楽しかったよ。そんなに喜ぶシドウが見れると、また誘いたくなってしまうね」 
「是非」 
 
 椎堂が笑って返事をし、ギャレットも笑みを浮かべる。会計をして席を立つと入れ替わるように客が入ってくる。 
 椎堂達が店を出る頃には、丁度ランチタイムも賑わってくる時間帯で客席もだいぶ埋まってきつつあった。店を出た椎堂達は、来た時より少しだけ早足で病院へと戻った。 
 
 
 
 
*     *    * 
 
 
 
 
 その頃澪は、午前の講義を終えて診察を予約している病院へ到着した所だった。日本と違い外来はないので、予約した時間がそうずれる事も無い。受け付けを済ませ、すぐに診察室へと呼ばれると主治医がもうすでに待っていた。 
 
 挨拶をし、診察椅子へと腰掛けると、すぐに検査室へ行くように言われる。英語に慣れない澪が来るときは決まって日本語が多少理解できる看護師がいて、色々と親切に教えてくれる。 
 CT検査や、腹部超音波検査、血液検査他を経て、漸く診察室へと戻れる。具合が悪くて病院に来たわけでもないのに、こうして一通り検査をされるとドッと疲れが増すのが辛い所である。 
 
 あちこちに回され、最後にあるのは主治医の問診だ。澪のカルテを念入りに見ながら何度もページをめくって確認している。今日は初診以来初めての検診なので色々と書類を持参したが、今後はこういった物は主治医側で管理されるため、投薬履歴も含め一切必要がなくなる。 
 
 そもそもこちらには処方箋薬局という概念もなく、いきつけのドラッグストアに病院側から情報が出されていて受け取るだけで良いのである。こういった所はやはり日本より先を行っていると思う。少し感心してその様子を見ていた澪に、主治医が振り返ってたどたどしい日本語で質問してくる。 
 
「気になるの。今、症状ありますか? 具体的に」 
 
 若干怪しい日本語だが、意味はわかる。澪はあらかじめメモしてきていた症状を見せてこちらもまたおぼつかない英語で話す。 
 看護師がそのメモを覗き込んで、「please don’t worry」と澪に笑顔をむける。通じているから安心してという意味だろう。 
 
 医師がそのメモを指さして少し首を傾げている。もしかしておかしな意味の言葉でも書いてきただろうか。椎堂に聞いてくれば良かったのだが、これぐらいは自分でも出来るようにしたかったので辞書で調べて記載してきたのだ。 
 澪が手持ちの鞄から辞書を取り出そうとしていると、その背中にいきなり流暢な日本語が降りかかった。 
 
「やぁ、玖珂くん! 久し振りだね」 
「え?」 
 
 澪が鞄に手を入れたまま振り向くと、高木がその大きな体躯を屈めて診察室へ入ってきたところだった。すぐに主治医と二言三言会話をしだす。聞き取る限り、どうやら高木は澪が検査に回っている間にここに助っ人で呼ばれたらしい。 
 
「どうも、ご無沙汰してます」 
 
 軽く頭を下げる澪に高木は少し照れくさそうに頭を掻いた。 
 
「堅苦しい挨拶はぬきぬき! さーて、ここは俺の出番だな?」 
 
 高木はどこからか椅子を引っ張ってきて、主治医と澪の間にどんと腰掛けた。渡されたメモをみて、何度か頷くと澪へと笑みを浮かべる。 
 
「代わりに俺が詳細を聞くけどいいかな?」 
「はい」 
「えー、それじゃ、今気になる後遺症はあるかい? 些細な事でもちゃんと教えて欲しい」 
「口内炎が中々治らないのと、……後、ここ最近ちょっと貧血気味で……」 
「うんうん。あとは? ダンピングの症状はどうかな? 頻繁に嘔吐があるとか、食後に動悸や目眩がはげしくなるとか」 
「……頻繁にはない、かな。たまにあるけど」 
 
 食事の量を誤った場合や、急いで食べてしまった時などに現れるその症状は、数回はあるが、それを言うと何だか悪化したように思われるのも嫌なので、澪は曖昧に答えた。しかし高木はそれをすぐに見抜いたのか鋭くそこを突いてくる。 
 
「たまに、って。具体的にはどれくらいの頻度? 毎回結構酷いとか?」 
 
 ここはやはり嘘を言っても無駄なのかもしれない。澪は軽く溜め息をつくと仕方がなく本当の事を口にする。 
 
「軽いのは時々……、吐くまでの不調は越してきてから三回ぐらいです」 
「なるほど。いや! 優秀だよ。さすが椎堂が付いているだけはあるな」 
 
 高木は豪快に笑ってそう言い、澪も「そう、ですか」と苦笑する。 
 
「いや、本当だよ? 君みたいに全摘した患者の場合は特にね。若い人ほど、以前と同じように食事をしてしまう傾向があるから、嘔吐はもう日常茶飯事みたいな人もいる。だってまだ半年も経過していないだろう? だから、玖珂くんは十分褒めるに値するぞ。食事の回数はどんな感じにしているんだ?」 
「基本は三食を少なめに摂って、間に低血糖にならないように軽く何か口にしています……飴とか、そういうの」 
「素晴らしいね! 模範解答だな」 
「……どうも」 
 
 椎堂がそうするようにと指導してくるのでその通りにしているのだが、内科医の椎堂の指示なので当然それは正しかったわけで……。 
 話した内容をその都度英語で主治医へ伝えてくれる高木がいてくれて本当に助かったと澪は思っていた。今の事を全て英語で完璧に伝えることは難しいからだ。 
 
 残り幾つか質問を受けたところで診察は終わった。ダンピングの症状を抑える薬はないらしく、これからも暫くはまだ今まで通り気をつけて食事をするようにと念を押される。元からの体質もあるが、貧血の症状が少しよくないとの事で、薬が出されることになったが他は後日検査結果がわかる。当然だが、抗癌剤の治療は続行らしい。 
 
 主治医と高木に礼を言い、帰宅するために診察室を出て廊下を歩いていると、高木から大声で呼び止められた。 
 
「おーい! 玖珂くん、ちょっといいかな」 
 
 大きな歩幅で追いかけてくる高木に澪は振り向いて足を止めた。 
 
「もう昼飯は食べちゃった?」 
「いや、食べる暇が無くて……まだ」 
 
 講義が少しおしてしまい予約の時間に間に合いそうも無かったので速効で病院へ向かい、今日はまだ昼を食べていないのだ。現在時刻は二時半。遅い昼飯を帰宅してから摂るつもりだった。 
 
「そりゃ、ちょうどよかった! どうだい。一緒に飯を食わないか?」 
「……え?」 
 
 高木と二人で食事をするなど考えてもいなかったので、澪は少し驚いて返事をせず考えるように視線を逸らした。それをどう勘違いしたのか高木が慌てて言葉を付け加える。 
 
「ああ、大丈夫! ちゃんと玖珂くんの体の負担にならない店に連れていくから」 
 
 確かにピザの食べ放題等に連れて行かれても、一度に多く食べられない澪からすると困る。澪は苦笑いしつつ、高木の誘いを受ける事にした。これからの予定もないし、椎堂の知り合いでもある高木から何か椎堂の話が聞けるかも知れないと思ったというのもある。 
 
 
 
 
 
 そのまま高木に連れられて向かった店は、一見日本食の店に見えた。入り口には暖簾がかかっており、日本語で【お食事処】と書いてある。日本で言えば定食屋のような物なのだろうが、本来の意味で使われているかはまだわからなかった。 
 
 入ってすぐに高木は勝手に奥の席につくと、出されたおしぼりで顔を拭った。何だかよくみる日本の光景であり、澪が思わず小さく笑う。 
 
 高木は全くその事には気付いていない様子でメニューを広げて澪へと差し出して説明しだした。 
 なんとこの店は日本で言う『お茶漬け』の専門店らしい。だし汁をご飯にかけて食べるのが最近この辺ではブームなのだそうだ。そう言われて店内を見ると、確かに店は繁盛しているようだ。日本人なのは自分達だけのようだが……。 
 
 メニューを見ていると、一般的な物からアメリカナイズされたようなアボカドやマヨネーズがのっている物、クリームシチューがかかっている物にいたっては、もうお茶漬けというよりリゾットのようでもある。しかし、確かに基本の物を選べば茶漬けはさっぱりしている。高木が澪の体を気遣って選択した店なのだろう。 
 
 高木は上にチーズが乗っている物を注文し、澪は懐かしさもあって普通の鮭茶漬けを注文した。ご飯を少し少なめにするように高木が伝えてくれたのだが、それを伝えたあと店員が笑っていたので、どうかしたのかと高木に尋ねてみると……。 
 
「玖珂くんの飯を減らす代わりに、俺にその分を足して大盛りにしてくれって頼んだんだよ。見た目通り、俺は大食漢なんだ」 
「なるほど」 
 
 よく笑う高木の周りには自然に笑い声がいつもあって、関わる周囲を明るい気持ちにさせるようだ。少しがさつな性格なのかと思っていたが、細かいところではよく気遣ってくれるし、人としてその大きさに憧れる部分が多い事に気付く。 
 
「こんな店、あったの知らなかった」 
「だろう? 俺も最近見つけたばかりなんだ。今度椎堂も連れてきてやったらいい」 
「――そうですね」 
 
 洋食に全く飽きていない椎堂でも、この店は気に入りそうな気がする。たまにはいいかもしれない。さすが日本料理の店なだけはあり、食事の前には緑茶が振る舞われている。澪はそれに口を付けながら、向かい側で同じように茶をすする高木の指先に視線を止め、その薬指に結婚指輪がはめられている事に初めて気付いた。 
 
 高木とこうして二人きりで食事をしたのも初めてなので当然ではあるが、高木の事を澪はほとんど知らなかった。椎堂の先輩と言うだけで正確な年齢も聞いたことが無い。 
 
「高木さん、結婚されてたんですね……」 
 
 そう言った澪に、高木は一瞬戸惑った様子を見せてすぐにいつもの表情に戻る。 
 
「あ、あぁ……。言ってなかったな。もう結婚して相当経つんだ」 
「そうなんですか、日本の方?」 
「いや、妻はここ現地の人間でアメリカ国籍だよ」 
「へえ。国際結婚か……。凄いですね」 
 
 澪が感心していると、丁度食事が運ばれてきた。朱塗りの盆に載せられた和食器に、ご飯と具材、それにかけるための急須が置かれている。 
 具材をご飯にかけて急須のだし汁を注ぐと、お茶漬けの出来上がりである。高木が予め言ってくれたおかげで、量は丁度よさそうである。 
 
 いただきます。と互いに手を合わせ、高木もやはり日本人なんだなと妙な所で親近感を覚える。 
 熱々のそれを少し冷まして口に運ぶ。だし汁はアメリカにしては珍しく薄味だったが、具材の鮭の塩気が強いので、一緒に食べる事で味付けは完璧だった。外は暑いが、店内の冷房は効きすぎる程度には効いているので、暖かい食事は心地よい。 
 
 一気に食べるとまずいので少量ずつ口に運び「美味しい」と告げると高木は満足そうに頷いた。 
 澪が半分ほど食べた時には、高木はもうすでにほとんどを食べ終えていた。 
 
「ところで、玖珂くんと椎堂は交際してどのくらいになるんだ? 恋人なんだろう?」 
 
 突然の高木の発言に驚き、澪は思わず噎せて咳き込んでしまい、高木が慌てて「ごめんごめん」とお茶を汲んで渡す。何とか咳が鎮まると澪は何度か咳払いをした。 
 
「大丈夫か? 悪いな、急に。いや、この前椎堂にも聞いたんだが上手い具合にはぐらかされちゃってね」 
「いや……あの。椎堂から何か聞いてますか?」 
「いーや? でも、君達バレバレだもんな。空港であった時にすぐにわかったよ」 
 
 そういえば、高木と椎堂と三人で会った時に同じような事を言われ椎堂が否定していたが、あれは澪から見ても全く誤魔化せていなかったように思う。澪は観念して苦笑いする。 
 
「一応……三ヶ月くらい。かな」 
「おぉ! そうか! いやぁ、でも良かったよ。俺はさ、空港で玖珂くんと椎堂に会ったとき、心から「良かったな!」って思ったもんだ」 
「……良かった?」 
 
 友人に恋人が出来たというのは、確かに『良かった』事には違いないが、高木の言い種はそんな軽い意味でもなさそうなのが気になった。 
 残った茶漬けを口に運びながら、高木がぽつぽつと話し出す。 
 
「付き合って三ヶ月なら、玖珂くんは知らないと思うが」 
「……?」 
「俺と椎堂は、椎堂がまだ新人だった頃にアルバイトで来ていた病院で知り合ったんだが……それは聞いたよな?」 
「……はい」 
「その頃の椎堂は、今と全然雰囲気が違ってね」 
「……え?」 
 澪もゆっくり箸を進めながら高木の話に耳を傾ける。 
「あいつ、患者の前以外では全く笑わなくてさ」 
 
――え? 
 
 自分の知っている椎堂とのあまりの違いに絶句して、澪は思わず箸を止めた。誰にでも優しく、それが患者でもそうじゃなくてもいつも笑みを浮かべていた穏やかな椎堂しか見たことが無い。 
 
「どういう事……ですか?」 
「ああ、厳密に言えばちょっと語弊があるな。患者だけじゃなくて、俺や他の医師に対しても椎堂はいっつもニコニコしていて。病院内では椎堂スマイルは癒やし効果があるなんて言われてたもんだ」 
 
 高木がそういって、すっかり食べきった茶漬けの残りを飲み干すと茶碗を置く。 
 
「だけどな。人といない時とか、……どこか思い詰めている感じだったんだ。何度もその顔を見ちゃってね。蒼ざめた顔でフラフラの状態でバイトに来る日もあって……だから俺は、結構心配してあいつの事を気に掛けていたんだが、結局理由も聞けないまま、アルバイトを辞めちゃってさ……。ずっと椎堂は無理をして笑っていたんだろうって……今思い返せばそう思う」 
「そう……だったんですか」 
 
 昔の椎堂がそんな人間だったとは想像もつかなかった。澪は咄嗟に週末の事を思いだして、何か関係があるのかと思いを巡らせ口を噤んだ。椎堂から話してくるまで理由は聞かないという考えを変えるつもりはないけれど、過去の椎堂を知らなすぎる自分に不安が募る。 
 
 今までの恋愛相手であったならば、そういう隠された過去をこうして人づてに聞いたとしても心が痛むことは無かった。所詮過ぎた時間の出来事で、どうやってもその頃に戻れないのだから、考えても無駄だと割り切れていたはずだ。 
 だけど、今自分は、知らない椎堂を知っていく度にその当時出会っていなかった事に悔しさまで感じている。 
 
 いつのまにか考え込んでいたせいで視線が下がり、澪は手元の箸をじっとみたまま口を閉ざしていた。そんな様子の澪を見て、高木が場を和ますように声のトーンをあげる。 
 
「いかんな。本人のいない場所でこんな話をしたってバレたら怒られそうだ」 
 
 高木の台詞で考えに沈みかかっていた澪も慌てて顔を上げる。 
 
「いえ……本人には別に問うつもりはないんで……」 
「そうか。……だけどな。……玖珂くん」 
「……はい?」 
「君と椎堂が空港で一緒にいる時、話しかける前に俺は君達を暫く見ていたんだが……。椎堂があんな心から幸せそうな笑顔で笑っているのを……初めて見たよ」 
「……っ……」 
「もう昔の椎堂じゃないんだって、その時に感じた。君が、椎堂の笑顔を取り戻してあげたんだな」 
 
 高木はそういって穏やかで優しい眼差しで澪に視線を向けた。 
 
「俺が言うのもおかしな話だが……。本当に良かった。君達が幸せそうで」 
「……」 
 
 照れくさいような気分で、澪はすっかり冷めてしまった残りの食事をすくって終わらせる。だけど、ズシリと重みのある高木からの言葉は、澪の中に確実に刻まれていた。――君達が幸せそうで……――自らもそう信じていたい。 
 椎堂の過去に何があったとしても、今の笑顔を守ってやりたい。強くそう思う。 
 澪は顔を上げて椎堂を想い浮かべ、僅かに微笑んだ。 
 
「色々な話が聞けて……良かった。有難うございました」 
「いやいや、俺が勝手に話しただけだ。玖珂くん、もし良かったら、また俺の飯の相手をしてくれ。一人で食べる飯はどうも味気なくてね。こんなおっさんに付き合うのも面白くはないだろうけどな」 
「いえ、そんな。俺で良ければ、また……」 
「いい店を探しておくよ。あと、何かこっちの生活で困った事があればいつでも相談に乗るからいってくれよ!」 
 
 高木はそう言いながら、澪に携帯のメールアドレスと電話番号を教えた。こちらへ越してきて、話す程度の中の人間はいるが、友人とまで呼べる人はまだいない。 
 高木は友人と言うより先輩といった関係ではあるが、こうして話せる相手がいる事は心強かった。 
 
 
 二人で店を出て、澪は自宅へ、高木は病院へと、それぞれ別れる。 
 もうすぐ夕方だというのにまだまだ陽射しは強くて、澪は暑さに店で羽織っていた上着を脱いで手に持った。 
 
 歩きながら、先程高木が言っていた椎堂の事が気になってしまい何度も言葉を思い出す。眩しさに目を眇めて空を見上げ手をかざす、ただ空は今日も変わらずそこにあって……。 
 澪は足下がぐらりと揺れた気がして視線を戻した。 
 
 向かい側から走ってきた車のおこす風が澪の髪を静かに靡かせる。笑い合う若者達が澪の横をはしゃいで通り過ぎるのを横目で見て再びゆっくりと歩きだした。