note7


 

 
 
 
 目覚ましが鳴る十分前、きっちりと閉めきっていなかったカーテンの隙間から朝日が差し込んで、丁度椎堂の顔を照らしている。閉じた瞼の裏側が赤く染まって、椎堂は眩しさにゆっくりと目を開けた。途端に鋭く射す光に目を眇め、影になる位置へとずれる。 
 
 手を伸ばしてカーテンを閉め直そうかと思ったが、時計を見るともう起きる時間である。伸ばしかけた腕をまたひっこめると、椎堂は隣で眠っている澪の近くにもう一度横になった。今日の予定では、澪は午後からの実習で、自分だけが朝から出勤なのだ。 
 
 寝息すら聞こえないほど静かな澪の横顔には前髪がかかっていて片目が見えない状態である。普段は真ん中で分けてセットしている髪も、そのままだとばさりと前に全て下りているスタイルなのだ。たまたま今は斜め分けになっていて、いつもと雰囲気が違う。 
 どちらも格好いいな、なんて思いながら椎堂は澪の髪をそっと指で後ろへと払う。癖毛の自分と違ってこうやって指で遊んでも、澪の髪はすぐにまた元に戻ってしまう。 
 
 二度目の挑戦をしようと再度指を伸ばすと、気付いた澪が目を閉じたままぎゅっと引き寄せるように腕を伸ばし、抱きしめられてしまった。澪の鎖骨に鼻の先が当たり、くすぐったさにもぞもぞと腕の中で動いていると、澪が抱き締める腕の力を緩めてポンポンと背中を叩いた。 
 
「――ちゃんと、眠れた?」 
 
 起き抜けの少しハスキーな澪の声が耳元に小さく届く。 
 
「うん、眠れたよ。今起きたとこ。――澪も、ちゃんと眠れた……?」 
 
 澪はけだるげに「ああ」と言って、漸く細く目を開けた。 
 
「今日は僕だけだし、澪はもうちょっとゆっくりしてたら?」 
「いや……、起きる……。朝飯の時一人だと、誠二泣くから」 
「えっ、泣かないよ!? っていうか、泣いた事ないよ? そんな事で」 
「知ってる」 
 
 澪が苦笑して椎堂の頭を撫でる。 
 
「真に受けるなよ、冗談だろ」 
「もうっ、澪はすぐ僕をからかうよね」 
 
 朝一でからかわれた事の仕返しで澪の鼻をつまもうと指を伸ばすと、澪はそれがまるでわかっているようなタイミングで椎堂の手首を掴んでそれを阻止した。「悪戯禁止」一言そういって澪は眠そうに何度か目を閉じる。 
 澪の冗談にすぐ引っかかってしまう自分も学習しないなと思うけれど、澪は多分他の人にはこういう事を言わないだろうとわかっているので、そう考えると少し嬉しいような複雑な気分である。 
 
 
 穏やかに迎えた朝は、まるで昨夜のことが夢だったのではないかと思わせる。 
 あの後、シャワーを浴びて澪があがってくるまでの間に安堵からか急に眠くなってちょっと眠ってしまったのだ。少ししてはっと気付いたときには澪は別のパジャマを着て隣でもう眠っていた。だから、澪のパジャマを着ていた事は当然ばれていて、実は今もそのままだったりするわけで……。 
 
 自分のパジャマの胸元を覗き込むと、澪が付けたキスマークがうっすらと残っているのが視界に飛び込む。体中に口付けられた昨晩の事を思いだして、椎堂は急に顔が熱くなるのを感じた。 
 
 全てを話しても受け入れてくれ、「愛してる」と言ってくれた澪。またこうして一緒に傍にいられる事は決して普通の事なんかじゃなくて、大切にしなければいけない出来事だから。 
 
 椎堂は澪の腕からゆっくり離れると澪の額へと軽く口付けてから起き上がる。 
 
「先に行って、朝食とか準備するね」 
「……後で行く」 
 
 ベッドをまわってカーテンだけを開け、椎堂はそのまま静かに部屋を出て行った。 
 
 
 
 
 
 
 椎堂が出て行って暫くしてから澪も体を起こすと、邪魔な前髪を何度か後ろへかきあげて首を回した。目線の先にある椅子へ掛けてあるのは、昨夜椎堂が着てきた水色のパジャマの上着だ。すっかり目が覚めると同時に、昨夜の事が思い浮かぶ。 
 
 
 シャワーを浴びて上がってくると椎堂は何故か澪のパジャマを着たまま寝ており、起こすのも可哀想なのでそのままズボンだけを履かせて自分も隣で寝たのだ。 
 
 眠っている椎堂は、澪のパジャマの袖に鼻先を埋めるようにして眠っていて、泣いたせいか目元が少し赤くなっていた。――反則だろ……。思わず声が漏れた。 
 どれだけ惚れさせるつもりなのか、自分の中で天井が見えないそれが怖くなるが、もう手遅れも良いところである。安心しきったように眠っている椎堂の寝顔を見ていると、自然と庇護欲が掻き立てられた。 
 
 椎堂の話した過去の出来事は、忘れたくても忘れられないかも知れない。 
 だけど今なら、自分が傍にいて、何かあったら手を差し伸べることが出来る。これ以上椎堂が傷を深くしないように……。 
 
 
 本当なら、何処かへ閉じ込めて鍵を掛けておきたいくらいだが、勿論そんな事が出来るわけもないし、するつもりもないけれど。 
 そこまで考えて、澪はくだらない妄想に終止符を打った。 
 
 いつからこんなに心配性になったのか。兄である玖珂が、驚く程の心配性である事を日頃馬鹿にしていたが、これでは自分も人のことは言えない。 
 
――血筋……? そう思うと苦笑いが思わず出てしまう。 
 
 そのままベッドから下りて椎堂が開けてくれたカーテンに手を潜らせて、その奥にある窓を開放する。爽やかな風が流れてくるのをそのままにし、着替えだけを済ませると、澪は椎堂の待つ一階へと下りていった。 
 
 
 
 
 顔を洗って準備を整えてから食卓へむかい、いつもの通り体温計を咥えてテーブルにつく。音が鳴るのを待ってノートを開き、澪は日付の欄を指で徐に数えた。 
 休薬期間は後七日。折角現在体調が良いのに、また抗癌剤服用期間に戻るのかと思うと気が滅入る。前回副作用がさほどなかったからといって、今度も全くないとは限らない。 
 嫌でもなんでも飲まなければいけないのが辛いところである。 
 今日も平熱で、ここ一周間ほぼ体温に変化は無かった。 
 
 ノートに体温を書いて閉じテーブルの脇へとのけると、椎堂が思い出したように「あ!」と声を上げた。 
 いつもの野菜ジュースをテーブルへ置きに来た椎堂が「そういえば」と切り出す。 
 
「アンナさんの誕生日パーティー、今週の土曜日になったんだよ」 
「日曜じゃなかったの?」 
 
 準備できている朝食を運ぶのを手伝いながら会話を続ける。 
 
「うん、日曜日は用事が出来たらしいよ。それでね、パーティーって言うくらいだから服装とかちゃんとするのかなって思って聞いてみたんだけど」 
「うん」 
「そんなに気にしないでって言われたんだけど、どうしよう?」 
「だったら、普通でいいんじゃない」 
 
 隣のロバート家は、澪達が住んでいるこの場所よりずっと広い。元々は澪達と同じ病院側からの借家だったのだが、買い取って建て直したという話である。凝り性のロバートがこつこつと作り上げた庭園も相当な物で、薔薇のアーチが入り口にあったりと、まるでどこかのガーデンウェディングのような有様なのだ。 
 
 しかし、夫婦揃って日本マニアなので、その洋風な庭の一角には盆栽コーナーがあったり、全く不似合いな狸の信楽焼なども置かれており、それを目にしてしまうと一気に景観が削がれるのは自分が日本人だからなのだろうか。 
 
「うん、そうだね。あ、彼女へのプレゼントは僕がもう買っておいたから」 
「そうなの?」 
「僕と澪からって言って渡すつもり。いいよね?」 
「俺はいいけど。言ってくれれば一緒に買いに行ったのに」 
「そうなんだけど、本だったから、職場でまとめて取り寄せたんだよ」 
「本……?」 
 
 椎堂の話によると、全部で百巻を超える日本の漫画を欲しがっていると聞いて、参加する皆で分担して買ってあげる事になったらしい。タイトルを聞くと、日頃漫画を読まない澪でさえも知っている有名な漫画だった。確か日本にいる頃には映画になったり実写化されたりしていたはずだが、そんな流行の物さえ椎堂は全く知らなかったらしい。 
 
 医療にかけては熱心に勉強しているのも知っているし、興味がある事は結構詳しいのに、流行の事については、椎堂は驚く程無知だった。出会う前は一体どんな過ごし方をしていたのだろうか、今度聞いてみようと思いつつ、澪は椅子を引いた。 
 席について「いただきます」と手を合わせた後も話は続いた。 
 
「それ、どんな話なの? あらすじは?」 
 
 椎堂が少し興味を持ったようで澪に尋ねる。 
 
「多分、主人公が旅して、途中で敵と戦うやつ」 
 
 我ながら大雑把すぎる説明だとは思うが、詳しくは知らないので言いようがない。それを聞いた椎堂が、顎に手をやって難しそうに首を傾げる。 
 
「うーん……。澪のあらすじで内容を把握するのは、難易度が高いね」 
「……悪かったな」 
 
 そういえば、子供の頃から読書感想文やら作文が苦手で、規定の文字数の半分ににも満たない時点で終わってしまい、よく玖珂に泣きついて半分書き足してもらったりしていたのを澪はふと思い出していた。子供の自分ともう既に大人だった玖珂が書く文章が違いすぎて、「とってもかっこいいとおもいました」の後に「主人公が得ていく仲間という絆に、感銘を受けました」と続いていたりしてとんでもない文章が出来上がっていたものだ。 
 
 玖珂は教育学部で塾の講師のバイトもしていたのに、わざとバレるような文を書いて寄越したのにはわけがあったらしい。 
 本人が書いた部分が重要で、たとえ短くても伝えたいところは自らの言葉で綴るのが重要。だから澪が書いた部分には一切手を加えないという事だったらしい。ただ、規定枚数に届いていないとそれだけで弾かれるから書き足してやっているのだと笑っていた。当時の担任もそれをわかっていたようで、特にやり直しを命じられた記憶も無い。 
 
 そんな昔のことを思い出していると、先週玖珂から電話があったのを言っていないことに気付いた。まだ日程は連絡が無いが、前もって椎堂へ言っておくべきだろう。 
 
「誠二」 
 
 名を呼べばパンを咥えたままの椎堂が顔を上げる。 
 
「この前、兄貴から電話があって近いうちにこっちに来るらしい」 
「うん。知ってるよ」 
「は?」 
 
 言った覚えもない事を椎堂が知っていた事に驚いて思わず澪は手にしていたマグカップをテーブルへと置いて椎堂の顔を再度見た。 
 
「玖珂さんがメールでそう書いてたから、会えるの楽しみですって僕も返信したんだ。お兄さんに会うの久し振りだね」 
「……マジで」 
 
 いつのまに椎堂と玖珂はメールアドレスを交換していたのか。そこも疑問だが、この話しぶりでは、初めてのメールでもなさそうである。いつから、そして何をメールしているのか。想像はつくが、嫌な予感しかしない。 
 
「兄貴とメールとかしてたんだ。俺、知らなかったんだけど」 
「あれ? そうだっけ。澪が手術してすぐメールアドレス交換して、今も時々澪の事でメールしてるよ」 
「そんな前からかよ……。あんま余計な事話すなよ? 兄貴うるさいから」 
「大丈夫だよ。余計な事なんて書いてないし。澪の体調の事とか、後はね、頑張って夜遅くまで勉強してて努力家だなって思ってるって事とか。後は、そうだなー……」 
「……いや、もういい」 
「……?」 
 
 知らなかった。二人してそんな事をメールしあっていたなんて、これではまるで担任と母親がやりとりする連絡ノートみたいで恥ずかし過ぎる。もうここは、何も聞かなかったことにしようと澪は険しい表情で覚悟を決めていた。 
 思っていたより頻繁に心配をしてこなくて安心していたというのに、どうやら勘違いだったようである。知らない所で椎堂から色々聞いていたから自分には連絡してこなかったのだ。納得した所で、呆れている気持ちには変わらないが、自分を心配してのことだと思うと「やめろ」とは言えなかった。 
 
 いつまでもこの話題を続けていると要らないことまで耳にしてしまいそうなので、澪は黙って部屋の時計に目を向けた。 
 
「時間いいの?」 
 
 澪がそう言って時計を指さすと、椎堂が慌てて席を立つ。残りのコーヒーを一気に飲み干して、食器を手に取ったのをみて澪が慌てる様子の椎堂に少し笑う。 
 
「いいよ、後は俺が片付けておくから」 
「ごめん! じゃ、お願い。僕は用意してくるね」 
 
 平日の朝はだいたいいつもこんな感じである。用意を済ませて駆け足で出て行った椎堂を見送ったあと、食卓の食器をキッチンへ運びながら澪は、食事の時に言おうと思っていたことを思い出した。 
 
 
 昨夜から一緒に寝ようと提案したのは自分だが、よく考えたら二人で寝るにはベッドが狭いのだ。たまにならそれも気にならなかったが、毎晩となるとやはりもっと広いものに買い換えた方がいいだろう。 
 
 というのも、澪は一度寝てしまうとほぼ朝まで動かず寝ていることが多いが、椎堂は結構ちょこちょこと寝返りを打つのだ。まぁ、そこまで酷いというわけではないが今後寝返りを打った拍子に床へ落ちたりしたら大変である。 
 なので、今度一緒に買いに行った方が良いと言おうと思っていたのだ。 
 
――夜にでもそれは話すか……。 
 
 澪が食器を洗い終え、水道をきゅっとしめてキッチンから見える窓の外へ視線を向けると、隣のロバート家の庭に真っ白な名前の知らない花が咲いているのが見えた。