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「今日は病院側の研修と合同なんだって」 
「へぇ、そうなんだ」 
 
 午後になって、実習に参加するために訪れた院内の受付の前で、澪は同じくボランティアに参加しているクロエと話していた。椎堂の勤務する病院の系列なので、合同で行う医療チームの人間は当然椎堂と同じ病院の医師を含むチームである。 
 しかし、チームは幾つかあって、未だに合同の際に椎堂のチームとあたったことはない。今日もそんなとこだろうと思っていると、少し離れた廊下から、椎堂の声が聞こえた気がして、澪はその方向へと視線を向けた。 
 
 澪達を引率するチームリーダーの後ろに二人並んで歩いてきた医師側のチームは、椎堂達のようである。向こうはまだこちらに気付いていないのをいい事に暫く見ていると、椎堂の隣には見慣れない医師がいた。横に並んでいるその飛び抜けてハンサムな医師と椎堂がやけに親しげに話している。 
 
 椎堂にも親しくしている仲間がいる事はいい事だと思うし、余計な事を言うつもりはないけれど、少し距離が近くないか……。 
 
 そんな事を思っている自分の気持ちが嫉妬なのだと気付けば、柄でも無いなと久々の慣れない感情を受け入れがたい気持ちが湧いた。 
 
「わぁ! 今日はギャレット先生のチームと一緒なのね。最高!」 
 
 クロエは澪より四つ年下の明るい女の子だ。気さくな性格であり、英語があまり喋れない事もあって最初あまり馴染めていなかった澪にも良く話しかけてくれ、今ではすっかり親しくなって時々二人で昼食を食べに行くこともある。 
 
 はしゃいだ様子で声を上げているクロエをみて、澪は苦笑する。年頃の女性の格好良い男に対しての反応は世界各国共通だなと思ったからだ。ギャレット先生というのは間違いなく椎堂と話しているあの男だろう。確かに目を引く派手な色男なのでクロエがはしゃぐのも無理はない。 
 
「ねぇ、ミオ?」 
「なに?」 
 
 澪が腰を屈めてやると、ひそひそ話のように耳元へ近づいたクロエが小声で囁く。 
 
「ギャレット先生の横に居る日本人って、ミオとルームシェアしてるっていう先生?」 
 
 関係を話す必要は無いが、誤魔化すわけにもいかず澪は「そうだよ」と教える。数分前までギャレットに熱い視線を送っていたクロエは、いつのまにかターゲットを椎堂に変えたようで、次々に澪に椎堂の事を聞いては「素敵!」と大絶賛を始めた。 
 
「ギャレット先生はもういいのかよ」 
 
 澪が笑ってクロエにそう返すと、クロエは噂大好きの女の子特有の悪戯な笑みを浮かべ、少し得意げに澪へと振り向いた。 
 
「ミオ、知らないの~?」 
「何を?」 
「あのね、ギャレット先生ってゲイなのをカミングアウトしてるのよ。今はパートナーはいないみたいだけど……。だから私にはチャンスがゼロって事」 
 
――え……、彼がゲイ? 
 
 こういうネタに関しては情報通のクロエの言う事なので本当なのだろう。思わず椎堂を見ると、その視線に気付いた椎堂が此方に向かって控えめに胸元で手を振ってくる。 
 
 恥ずかしそうにそんなそぶりを見せる椎堂はやはりどうしようもなく可愛いのだが――そんな顔をこんな所で見せられると周りの目もありどう反応して良いかわからないのが正直なところだ。手を振り替えしているクロエの横で澪は軽く頭を下げた。 
 脈なしという事でギャレットから椎堂へシフトチェンジしたクロエには申し訳ないが、椎堂も同じだよと言いたくなってしまう。 
 
 全員揃ったところで、すぐに今日の流れのざっくりした説明がされ、同じマイクロバスへ乗り込むために駐車場へ向かった。今日は今から二件訪問する予定なのだ。 
 
 バスに乗り込む手前で名前を呼ばれ、振り向くとギャレットがニコニコして澪の前に立っていた。 
 
「君がクガ君かい?」 
「そうです。初めまして」 
「うん! 初めまして。俺はギャレット、シドウと同じチームなんだ。君の話はシドウから聞いているよ。噂通りかっこいいね、会えて嬉しいな。今日はよろしく!」 
 
 上背は澪と同じか少し低いくらいだが、鍛えられた体のせいで体格はかなり大きく見える。どこの噂だよと思いつつも差し伸べられた手に澪も手を差し出すと、力強すぎる握手で返された。 
 
「宜しくお願いします」 
 
 椎堂がいつのまにか隣に並んで、「この前のカレーの……」と一言呟く。その言葉だけで澪は全てに気付いた。椎堂が先日言っていた自分との関係を話した医師というのが、このギャレットであり、自分達が恋人同士だと知っているという事を。 
 横に居る椎堂が澪を見上げて嬉しそうに笑みを浮かべる。 
 
「今日は、玖珂くんと一緒のチームなんだね。初めてだよね」 
「そう、ですね。今日は宜しく」 
 
 職場では公私混同しないように、名前で呼び合うのは禁止にしようと最初から決めているので、椎堂は澪では無くて玖珂くんと呼んでいるのだが……。 
 
 初めて一緒になった事に喜んで嬉しそうにしている椎堂が自分に向ける視線は、当の本人である澪から見ても恋人同士のソレである。高木が会った瞬間から気付いていたというのもこれでは仕方がない。 
 
 澪が最後にバスに乗り込むと、クロエはちゃっかり椎堂の隣の席に着いていて、澪は斜め後ろの席へと座った。椎堂とクロエは楽しげで、何かを言い合っては笑い、その様子が澪からも見える。恋愛感情を含まないとは言え、椎堂は基本的に皆に優しいので、これは暫く今後もクロエからの質問攻めの日々が続きそうだと思うと若干気が重かった。  
 
 一件目の訪問を済ませ、その先にある二件目へ向かう。 
 
 近くにマイクロバスを止める場所がないとの事で、手前に駐車してそこから歩いて向かうことになった。どうやら細い路地の先にあるらしく、途中にも何度か階段があり向かうだけで一苦労だ。 
 今日は陽射しが強く、こうしてゆっくり歩いているだけでもじわりと汗が滲んでくる。 
 
 昼食を摂ってから丁度二時間と少し。気になるほどではないが頭の片隅に嫌な痛みが走り、澪は眉を顰めた。軽い後期ダンピング症候群の症状ではあるが、慣れているからと言って甘く見ていると一気に悪化し、下手をすれば気を失うこともある。澪は念の為にポケットから飴を取り出して口に放り込んだ。 
 
 本来なら初期であれば暫く横になった方がより早く回復するが、今はそうもいかない。澪は気付かれない程度に少しだけ歩くペースを落としてみる。 
 
 今口に入れたオレンジの飴は派手な色をしていて結構大きい。オレンジジュースを固めましたという見た目に反して果汁0%なのに驚くが、糖分さえ補えば良いのでそこは問題なかった。 
 毎日ポケットに飴を入れて持ち歩く癖はもうかなり定着していて、今ではポケットにそれがないと不安になるくらいである。 
 
 この時はまだ、最後尾を歩いている澪に気付き、ギャレットが足を止めて自分をじっと見ていることに澪は気付いていなかった。 
 
 早めの対処で引いていった頭痛にほっとして顔を上げると同時に声をかけられ、驚いて足を止める。いつのまにかギャレットが至近距離に来ていたのだ。心配そうに顔を覗き込まれ、澪はそれを避けるように再び歩き出す。 
 
「大丈夫かい? 少し顔色が悪いようだけど」 
 
 椎堂にバレないように死角になる真後ろを歩いていたのだが、医師は椎堂だけではない事をすっかり失念していた。さすがといった所か鋭く見抜いてくるギャレットに舌を巻く思いで、澪は愛想笑いを少し浮かべて歩く速度を元に戻した。 
 
「大丈夫です」 
 
 自身の病気の事は、必要が無ければ周りに知られたくなかった。気を遣われたくないし、病気の事でボランティアの仲間や患者に負担を掛ける事も避けたかったからだ。椎堂にもそう言ってあるのでギャレットは澪の病気を知らないはずだ。 
 
 これ以上色々質問されれば誤魔化すのが大変そうだなと考えていると、丁度タイミングよくクロエが話に入ってきた事でほっとする。同じ医師でも椎堂と違ってギャレットの心配する視線は感情が読めない気がする。それはもしかしたら、気のせいなのかも知れないが……。 
 
「あ! ミオ、キャンディ舐めてる? いいな~。私にもひとつ頂戴」 
「いいよ、ほら」 
 
ポケットから同じ飴を取り出し、わざと軽い口調で答えてクロエへと飴を渡す。 
 
「ギャレット先生もいりますか?」 
 
 澪がそう聞くと、まだ澪を観察していた様子のギャレットは何か言いたそうだったが、話の流れが変わったことに肩を竦め、「じゃぁ、僕も貰おうかな」と手を差し出した。 
 三人で同じ飴を舐めながら暫く歩くと、漸く目的の家へと着いた。 
 
 玄関はどこだというような広い家で、鉄製の門が来る者を拒むように閉じられている。 
 チームリーダーの看護師が預かっていた鍵でそこをあけ、続いて敷地へと足を踏み入れた。 
 豪華な屋敷ではあるが、手入れされていないのか庭は荒れ放題で、玄関のポーチの日陰には苔が生えている。移動中にこの屋敷に住む患者の詳細が書かれた資料には目を通したが、確か彼は一人暮らしだったはずだ。 
 こんなに大きな屋敷で一人暮らしとは、家政婦でも雇っていなければ手入れが行き届かないのは当然である。 
 
 屋敷の鍵は誰も持っていないので、呼び鈴を鳴らすとだいぶ時間が経ってから酸素チューブを装着した車椅子の男が玄関のドアをあけた。病気のせいでかなり痩せており老けて見えるが、まだ60そこそこなはずである。挨拶をして中に入ると、屋敷の中も所々埃が被っていた。 
 
「あら、電話の声では心配しちゃったけど、随分今日は元気そうじゃない? 安心したわ。顔色もいいわね」 
 
 車椅子を押しながらチームリーダーが話しかけると、彼は「今日は庭の花が綺麗に咲いたからね。気分がいいんだよ」と言って笑っていた。 
 
 椎堂達医師のチームは普段は訪問することはないのだが、今日は折角だからと診察をする事になっている。現在投与している痛み止めのモルヒネの量について相談もあるそうだ。 
 患者がもうそれだけでは苦痛を感じるほどの痛みを訴えた場合、医師とチームリーダーで話し合って、今後量を増やすか、別の薬に変えるか、そしてそれによって危惧される様々なことを検討して決めなければいけないのだ。痛みのアシスメントはホスピスでは最重要項目である。 
 一階にあるベッドが置かれている部屋へと入って早速椎堂が鞄から器具を取り出す。 
 
「初めまして、僕は内科医の椎堂と言います。今日は僕が診察させてもらいますね」 
「宜しくお願いするよ、Dr.シドウ」 
「こちらこそ、宜しく。今日はいいお天気ですね」 
 
 そう言いながらパジャマのボタンを外すのを手伝って、椎堂は聴診器を掌で温めた。 
 
「はい、じゃぁ早速ですが、胸の音を聞かせて貰いますね、大きく息を吸って……。ゆっくり吐いて」 
 
 椎堂の英語は最初の頃より、流暢になった気がする。ゆっくりと話す椎堂の声は澪にも聞き取り易かった。 
 時々咳き込む患者にそっと添えている手は優しげにその背中を撫で、向けている笑みは慈愛に満ちている。澪はその様子をみて、敬愛会にいた頃の椎堂の姿を懐かしく思い出していた。自分が患者だった時もずっとそうしてくれていたのだろうが、最初はそれに気付かずにいた。今となっては当時の自分は本当に周りが見えていなかったように思う。 
 
「さて、じゃあ、先生達が診察している間に私達は仕事をしましょ」 
 
 澪達ボランティアは、実は医師である椎堂達よりする事が沢山あるのだ。介護用品の在庫確認と、置いてある機器の調整、診察が終わった後の患者の身体の清拭等、そして今回は患者側の要望で庭の木々の水やりまである。訪問前の会議で決まるこの内容は各訪問先で全く異なる。 
 
 日々の病気に対してのケアはボランティアではなくホーム・ヘルス・エイドと称される医療に関わるケア専門で訪問をする仕事が別にあるので、そこは今回は省かれていた。 
 ボランティアは散歩に連れて行ったり、話し相手になったりと、患者の希望があれば受け入れて対応するのだが、逆を返せば患者が希望しないことはたとえ善意でも手を出さないのが決まりである。今はまだ研修中だが、最終的には一人、もしくは二人程度の人数で訪問してその全てをこなす事になる。 
 
「クロエは在庫の確認、ミオは庭の水やりをまずやってきて頂戴」 
 
 指示された通り患者の部屋から外に出ると、玄関へ向かうまでの庭とは違い綺麗な花が咲き乱れている小さな庭があった。この庭だけは大切に守っているのだろう。 
 先程言っていた「花が咲いた」というのもこの庭の事なのだ。 
 
 無理のきかない身体で精一杯余命を生きるその力強さが、育てている草木に現れている気がする。真っ直ぐに太陽へ向けて伸ばした茎の先の花は鮮やかに色付いて太陽の光をうけて耀いていた。 
 資料を見ると、患者は肺癌の末期だそうだ。次にこの花がもう一度咲くのをみられない可能性は十分あった。 
 
――ずっと咲いていれば……。そうすれば、彼ももしかしたら……。 
 
 そう考えながら、足下に気をつけてホースを手に取る。端に設置してあった蛇口を捻ると、手にしたホースの先に付けたシャワーのノズルから霧のような細かい水がふわっと舞い上がった。 
 全ての草花に満遍なく行き渡るように慎重に水をやっていると、いつのまに診察を終えたのか彼は車椅子のまま、庭先へ出てきていた。 
 
「綺麗だろう? 君は花の名前がわかる?」 
 
 澪は振り返って、「花には詳しくないので」と返す。すると彼は「それでいいんだよ」と言ってニッコリと笑みを浮かべた。 
 一通り水をやって部屋の中を見ると、椎堂達が何かの医療機器を確認してメモをとっている最中だった。 
 日陰にいる車椅子の彼の側によって、澪は腰を屈めて視線を合わせた。 
 
「少し日に当たりますか?」 
「ああ、そうだね。日向ぼっこはいいものだ」 
 
 車椅子を押して、数メートルだけ進み陽射しを受ける場所へと移動する。隣に並んで花を眺め、時々苦しげに咳き込む彼の背中を摩る。ゆっくりそうしていると彼は先程の澪の考えていた事がわかっているかのように口を開いた。 
 
「来年、この子達が花を咲かせる頃には、僕はここにいないんだ」 
 
 勿論本人も余命を知っているので、そう言っているのだろう。どう返すべきか迷っていると、彼は痩せて筋が浮き出た右手で澪の身体をトントンと叩いて笑みを浮かべた。 
 
「勘違いしないでくれ。僕は悲しんでいるわけじゃないんだ。――だから、沢山の時間この子達を見ていたくてね。こんなに咲いてくれて今日はなんていい日なんだろう。ウキウキするね」 
「……本当に綺麗ですね」 
「ああ。君が水をやってくれたからこの子達も嬉しそうだ」 
「そうですか、良かった」 
 
 澪が微笑んでそう返すと、彼は端から順番に花の名前を教えてくれた。 
 先ほどは、余命のない彼に同情心がわきかかったが、ホスピスのボランティアはもっと割り切ってやらないといけない。同情をするよりももっと重要な、いかに患者本人が満足して最期を迎えられるか。それを手助けするための仕事である。 
 
 ずっと咲いていないからこそ、咲いたときの喜びがある。彼はそう言いたいのかも知れない。順番に教えてくれていた花の名前は最後の花の前で止まった。 
 真っ白な花びらが愛らしい花である。 
 
「あの花の名前は?」 
「知りたいかい?」 
「はい」 
 
 彼は、悪戯に笑って見せた後「秘密だよ」と言った。 
 
「君はボランティアの子だろう?」 
「そうです」 
 
 澪をじっとみて目を細めると彼は穏やかな笑みを浮かべた。 
 
「……僕の息子に良く似ているよ」 
「そう……、ですか?」 
「うんうん。……そうだ。僕と約束しないか?」 
「約束?」 
「そう。君が次にここに来た時に、僕は君に、あの花の名前を教えよう。だからまた会いに来て欲しい」 
「わかりました。じゃぁ、次の機会に……。楽しみにしています」 
 
 息子と似ていると言われ、会った事はない父親のことを澪は考えていた。自分の父親も多分彼と同じくらいの年齢なのだろうと思うと不思議な感覚がする。生まれた時からもう父親という物はいなかったせいで、それが当たり前だったし、そのぶん母親や兄が愛情をかけてくれたので寂しいと感じた事もなかった。 
 それに母親から一度も父親の愚痴のようなものを聞かされたことも無いので恨んでいると言った感情も持った事が無い。 
 
 もしかしたら、どこかでこの彼と同じように病で余命が迫り一人で苦しんでいるのかも知れないし、再婚して新しい家族と幸せにやっている可能性もある。その全てが想像でしかない事で、寂しさよりは「どうしているのか」という興味はあった。 
 
 あまり長い時間直射日光に当たっているとよくないので、澪は車椅子を押して部屋の中へと移動する。他の部屋で作業しているのか周りの人達はおらず、椎堂だけが部屋に残っていた。 
 車椅子から降りてベッドへとあがるのを二人で補助し、椎堂が澪へ視線を投げた後、彼へと話しかける。 
 
「二人で秘密のお話ですか?」 
 
 上掛けをかけながら椎堂がそう尋ねると彼は嬉しそうに笑みをこぼした。 
 
「そうだよ。といいたい所だが、そういうわけではないよ。彼にね、花の名前を教えていたんだ」 
「花の名前を……? なるほど、綺麗に咲いていますもんね。僕も教えて欲しかったな」 
「そうかい? 帰り道にでも彼から聞くといいよ。一つだけ知らない花があるけどね」 
 
 そう言って澪を見ると、彼は秘密の話を共有するようにウィンクした。 
 
「そうなんですか? 玖珂くん、じゃぁ後で教えてくれるかな?」 
「いいですよ」 
 
 椎堂とこうして他人行儀に会話するのはやはりおかしな物だが、慣れていくしかない。 
 その後、戻ってきたスタッフと共に患者の身体の清拭をして、二件目の全ての仕事が終わった。 
 
 帰り際、玄関まで見送りに来た彼は、澪に「今日はとても楽しかったよ」と言い、手を握って別れを惜しんだ。その握る力のあまりの弱々しさに、割り切れない痛みが胸に宿る。それを隠して、澪は「また来ます」とだけ言って笑みを浮かべ屋敷を後にした。 
 バスが停車している場所まで来た道を戻る間に、クロエが呟く。 
 
「私のおじぃちゃんも同じ病気で去年亡くなったの。……ちょっと思い出しちゃった」 
 
 少し寂しそうなクロエもまた、様々な思いを抱きながらこのボランティアという仕事をやっているのだ。人の生死に動揺を一切みせないようにみえるリーダーも、表には出さないだけで同じように感じているのだろう。 
 
 澪が一度振り向いて屋敷の方をみると、門の上に一羽の鳥がとまっているのが見える。 
 暫く見ていると、羽安めをしていただけだったのか、鳥は再び大きく羽ばたいて空へと飛んでいった。 
 
「飴、もう一個食べる?」 
 
 同じように振り返って鳥を見ていたクロエの背中に、励ますように静かに手を当てると、クロエが澪を見上げて「うん」と頷く。 
 
 彼女の掌に飴をのせると、早速クロエはそれを口に入れていつもの笑顔をみせた。片方に大きな飴を入れているので頬がぷくりと膨らみ、そんな様子が彼女を少し幼く見せる。 
 
「ミオって飴が好きなの? よく舐めてるよね」 
「まぁ……。嫌いじゃない、かな」 
「ふぅーん。じゃぁまた頂戴ね。今度はオレンジじゃないのがいいな」 
「考えとく」 
 
 ポケットに片手を入れたまま階段を下りていく澪の後ろ姿を、椎堂は優しげな眼差しで見守っていた。 
 
 
 帰り道の車窓に街並みが流れていく。 
 出発時の病院のロビーで椎堂達と別れ、澪達ボランティアはコーディネーターへ報告する書類の書き方を教わるために場所を移した。 
 
 全てを終えて解散になった頃には、もう日が沈みかけていて昼の陽射しはすっかり影を潜めていた。病院前でクロエとも別れ、澪は夕日を背中に浴びながらゆっくりと歩き出す。 
 
 今夜は澪が先に自宅へ戻るので夕飯は澪が作る予定なのだ。帰り道で食材を買うためにスーパーへと立ち寄った。今日は車で来ていないので大量に買っても持ち帰ることが出来ない。 
 必要な物だけを探して、広大な店内をカートを引いて歩いた。自宅の冷蔵庫にある物を思い浮かべメニューを考えてみるが、元々作れる料理は限られているのでそう迷う余地も無かった。 
 澪は野菜をいくつかカートへ入れて、牛乳を手に取り、最後に菓子類のコーナーへと移動した。別にクロエがオレンジ以外の物がいいといったからではなく、同じ飴ばかりだと自分も飽きるので他の種類を買う事にしたのだ。 
 
 日本と違い、何にしても大量に入っている袋詰めのものしか売っていない。結局、色々なフルーツの味がミックスされている飴の袋を選んでそれを買う事にした。 
 レジに向かう途中で、椎堂の好きなジャムが挟んであるクッキーを見つけたのでそれも足しておく。 
 
 ベルトコンベアに商品をうつして会計を待つ間、ふとスーパーの外に目をやると日中に一緒にまわっていたチームのギャレットの姿を発見した。目立つ外見のギャレットは遠目でもすぐわかる。 
 
 ギャレットが何処に住んでいるかは知らないが、この辺の大型スーパーはここしかないので彼がいても別に不思議ではない。早番で今がもう帰りなのだろうか、隣には誰かがいて話しているようである。 
 クロエの言っていた噂ではパートナーは今はいないと言っていたので、恋人ではなく友人なのかもしれない。一緒にいるのは小柄で大人しそうな若い男だった。 
 ほんの少しだが椎堂と雰囲気が似ている気がして、澪はドキリとした。 
 
 目を逸らそうとした瞬間、澪はギャレットの様子に眉を顰めた。遠いので声までは勿論聞こえないが、ギャレットは酷く怒っている様子で、隣に並ぶ男が怯えるように身体を庇っているのをわかった上で乱暴に腕を掴み、引きずるようにして駐車場へ向かって行ったのを見てしまったのだ。 
 
 昼に一緒にいた時とあまりに違う雰囲気に思わず目で追ってしまう。愛想が良くて気の良いハンサムというイメージのギャレットからは想像もつかない強引なその場面、笑顔をすっかり消して冷酷な表情のギャレットにただ驚くばかりである。 
 
「紙袋にしますか? それともプラスチック?」 
 
 ビニール袋にいれるか、紙袋にするかを尋ねる店員に声を掛けられて、澪は我に返ってレジへと視線を戻した。 
 
「紙袋で」 
 
 会計を済ませ片手で食品の入った紙袋を抱えてスーパーの出口にむかう。出た後先程ギャレットがいた場所を見てみたが、もう彼の姿はなかった。 
 たまたま喧嘩でもしたのだろうと思わないと説明が付かない。しかし、そうだとしても怯えた様子の相手をあんな乱暴に扱うなど普通ではない。 
 
 不快な物を見た事で、何だか疲れがどっと増した気がして澪は長く溜め息をついた。 
 椎堂にもあまり深く関わって欲しくないが、仕事仲間だとそうもいかないか……。 
 
 暗くなった道路を街灯が照らす中、澪は自宅へ向けた足を少し速めた。