note13


 

 
 ――木曜日。  
 昼休みの医局内。椎堂は窓際にあるデスクの椅子に腰掛けていた。  
 昼食後というのもあって、浅い眠気が瞼を重くする。さっきから、同じ行を二度読んでいたり、その逆に何行も飛ばしていたりと集中力が散漫になっているのが自分でも何となく分かっていた。  
 
「シドウ先生!? 指から血が出てるわ」 
 
 捲っている患者の資料を見るともなしに眺めていたら看護師に声をかけられ、椎堂はハッとして指先に目をやった。カルテの厚紙で指先を切っていたらしく、指先に細長く傷が出来ており、血が滲んでいる。 
 
「あ、本当だ。気が付かなかった……」 
 慌てて切っていない方の手でカルテを机へ置く。怪我をしたと自覚すると少しだけ指先の痛みを感じた。 
「ちょっと待っててね、これ。はい」 
 
 処置室から持ってきた絆創膏を渡されて、椎堂は照れたように眼鏡を押し上げた。ボーッとして指を切っている事にも気付かないなんて、何だか恥ずかしいところを見られてしまった。今はまだ昼休み中で気が抜けていたせいもあるが……。 
 受け取った絆創膏を指へと巻いていると、その様子を見ていた看護師が珍しい物を見たというように肩を竦めてクスリと笑う。 
 
「何か考え事でも?」 
「あ、いえ……。ちょっとうっかりしただけです」 
「そう? もう少しでお昼の休憩も終わりだし、午後の診察に回るまで仮眠でもするといいわ」 
 
 椎堂は笑って「それもいいですね」と返した。別に疲れているわけではなく、至って体調は良いのだが、若干寝不足気味なのは否めない。巻いた絆創膏を眺めて、椎堂は澪の事を思い浮かべていた。 
 
 月曜日は何とか言い聞かせて休ませる事が出来た物の……、火曜日から澪はもう大丈夫だと言い張るので通常通りスクールへ通い出してしまったのだ。 
 先週末の夜以来続いていた貧血は、澪が主治医と電話で相談し、金曜日にある次の診察までの間は、一錠を二錠に増やすという形で様子を見る事になったのだ。なので、薬のおかげではあるが、今の所症状は軽減されている。 
 
 だけど、日に日に澪の食事量は減る一方で、その様子は明らかに抗癌剤の副作用を思わせた。一緒にいる時間の中で、食事以外に澪に表だった変化はないように見えるが、その実、深夜に起きてはベッドへ腰掛け、しんどそうにしているのも知っている。 
 
 気分が悪くて眠れないのか、息を殺して自身の手で胃の辺りを宥めるようにさすっている澪に、何度も声をかけようと思って手を伸ばしかけた。 
 しかし、声をかければ、澪は自分が起こしたことを気にして我慢してしまうかも知れない。それならば、気付かないふりでいてあげた方が余計な気遣いをしないで済むだろう。 
 十分ほどそうやって起き上がっては再び音を立てないようにベッドへ入り、隣に横になる澪に、寝ぼけたふりをしてそっと腕を回し、冷えた身体を温めてやる事しか出来ないでいる。 
 そして、そんな夜は澪が再び眠りに落ちるまで気が気じゃ無くて自分も眠れないのだ。 
 
 火曜の夜に一度だけ、澪が気を遣わないで済むように、暫く自分の部屋で寝ようか? と提案してみた事があった。一人で寝る方が自分といるより何かと自由に出来るだろうと思っての言葉だったのだが、澪は「何で?」と少し悲しそうな顔で返事をしてきた。 
 澪もそう望んでいると思っていたから意外な反応に少し驚いたのは確かだ。 
 その後すぐに「誠二がそうしたいなら、それでいいけど」と付け加えた澪に、咄嗟に本音を言ってしまった。 
 
「僕は、ずっと隣にいたいけど、澪……、僕がいると気を遣わない?」 
 
 澪は「別に……俺は平気」と一言だけ返し、その後に言葉は続かなかった。その時、わかったのだ。 
 言葉で言ってくれないけれど、澪も不安なのだと……。 
 一緒に寝ているからと言って、何かをしてあげられるわけではないけど、傍にいることで安心できるのなら自分はずっと傍にいてあげたい。澪がそう望んでくれていることが何より嬉しかった。 
 結局別々に寝るという話はなくなり、今も一緒のベッドで眠っている。 
 
 
 
 今頃、澪も昼休みなのかな。どうやって過ごしているのだろう。今すぐ澪に会いたい、そう思っていると胸元の椎堂の医療用携帯が振動を伝えた。 
 電話に出ると、来客があると伝えられ名前も告げられた。咄嗟に誰だか分からず、椎堂はひとまず病院のロビーへと足を向ける事にした。前もって知らされていたならわかるが、アポなしの呼び出しなど初めてである。 
 
 階段を下りて廊下を歩いていると、大きくとられた窓から明るくて、ややもすると攻撃的なぐらいの陽射しが建物内に射し込んでいる。影の部分と陽の当たる部分の壁のコントラストはくっきりと分かれ、まるで別の色に塗られているかのようだった。 
 
 一階へ着いて受付が視界に入るところまで行くと若い女の子の後ろ姿が見える。何処かで見た背格好と髪型だなと思い、椎堂は「あっ」とすぐに顔を思い出した。 
 澪の友達で、先日訪問ケアの研修に行った際に一緒になったボランティアの……、名前は確かクロエと言っていたような気がする。彼女が自分に用事がある事については見当が付かないが。 
 
「こんにちは」 
 
 笑顔でその背中へ挨拶をすると、クロエは慌てたように振り向いて椎堂を見ると何度もお辞儀をした。 
 
「シドウ先生っ、ごめんなさい。突然呼び出しちゃって。あの、私の事覚えてますか?」 
「うん、クロエさん、だったよね? 先日一緒になったので勿論覚えてるよ。どうしたのかな? 僕に何かお話が?」 
 
 名前を覚えていた事にクロエは嬉しそうな顔を見せる。先日バスの中で話したときも気さくで人懐こくいい子だなと感じたのを、椎堂は思い出していた。しかし、その笑顔もすぐに消えてしまう。表情を曇らせたままクロエは小さな声で言った。 
 
「あの……。ミオ、えっと、クガ君の事でちょっとお話があって」 
「え、玖珂くんの?」 
 
 予想外の台詞に、椎堂は思わず目を丸くした。 
 
「はい。シドウ先生はルームシェアしている相手だし彼も先生にだけは何でも話しているみたいだから……、何か知ってるかなって……」 
 
 クロエは人の繋がりを敏感に察知できる鋭さを持っているのかも知れない。澪は少し気難しいところがあるし、やはり言葉がまだ完全に使いこなせないのもあって誰とでもすぐに打ち解けられる雰囲気ではない。そんな澪が自分には他と違って心を開いているというのを見抜いているのだから、クロエ自身もかなり澪に近い場所にいるのだろう。 
 今すぐ話を聞いてあげたいが、それには困った事が一つあった。 
 
「えっと、話はちゃんと聞かせてもらうけど、困ったな……」 
 
 椎堂がロビーにある大きな時計に視線を移す。 
 
「もう昼休みが終わっちゃうんだ。午後は往診に行く予定があって時間がとれないんだけど……」 
「……そうですよね。あ! じゃぁ、お仕事が終わった後、時間ありますか?」 
「うん、その頃なら時間はとれるけど、クロエさんはその時間で大丈夫なのかな? 折角今来てくれたのに、ごめんね」 
「大丈夫です! 私も三時半からまた講義があって戻るので、近いしまた後で来ます」 
「そう? 悪いね。じゃ、六時くらいにまたここで待ち合わせしようか。その後話を聞くって事でいいかな?」 
「はい! お願いします。あっ、シドウ先生」 
「うん?」 
「私がこうして来た事は、クガ君には言わないでおいてくれますか……」 
「そうなの? うん、わかったよ。内緒ね」 
 
 微笑んでそう返すと、クロエはホッとしたように息を吐いた。仕事終わりに会う約束をしたので、ひとまず一度別れて、椎堂は午後の準備をするために医局へと戻った。 
 わざわざ自分を訪ねてくるなんて、余程の事があるとみえる。表情からするに楽しい話題でもなさそうであるが……。澪がスクール内で何か問題を起こしているのか……、それとも、やはりここ最近の体調のことだろうか。 
 気がかりではあるが、とりあえず話を聞いてみない事には始まらない。椎堂は落ち着かない気分で、午後に回る患者のカルテを手に取った。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 
 六時より少し前、椎堂は着替えを済ませてクロエとの待ち合わせ場所へ向かっていた。といっても一階のロビーなので階下へ降りていくだけである。 
 外で立ち話と言うわけにも行かないし、近場のカフェにでも入って話を聞いた方が良いのかな……。そんな事を考えつつ、場所へ到着するとクロエはもう既に到着していたようで、椎堂を見つけると手を振ってきた。 
 
 クロエを見ていると、もう何年も会っていない妹のことをふと思い出した。歳も丁度クロエと同じくらいだと思う。 
 
「ごめんね、待たせちゃったかな?」 
「いえ、大丈夫です。今日は無理言ってごめんなさい!」 
「いや、全然大丈夫だよ。じゃあ、場所を変えて……、と言いたい所なんだけど、僕はあまり女の子が行くようなカフェを知らないんだ。クロエさんは詳しいの?」 
「えっと、そんなに詳しくは無いけど……、この辺だと、少し行ったところに美味しいジェラートが食べられるお店があります。この時間だときっと人もそんなにいないと思うんですけど」 
「そうなの? じゃぁ、そこに行こうか」 
「はい!」 
 
 病院を出て並んで歩き出すと、クロエは少し距離を開けて歩き俯いている。そわそわした様子のクロエは前から来た自転車に寸前まで気付かず、思わず椎堂がクロエの腕を引っ張った。 
 クロエの肩からかけている鞄をほんの少し擦って自転車は猛スピードで通り過ぎていった。 
 
「危ないよ、大丈夫だった?」 
「あ、あの。有難うございます!!」  
 
 そう言ってやっと顔をあげたクロエは困ったような笑顔を見せて耳まで赤くなっていた。 
 
「シドウ先生と二人で並んで歩くなんて、私ドキドキしちゃって」 
「え……。あ、えっと……」 
 
 あまり深く考えずにいたが、言われてみるとこんな若い女の子と二人で並んで歩いていれば恋人同士だと思われても不思議ではない。それに気付くと椎堂も急に恥ずかしくなってきて、話題を変えるように話を切り出した。 
 
「ボランティアの方はどう? 大変な仕事だと思うし、覚えることも沢山あるよね」 
「はい、……そう、ですね。でも私ずっと子供の頃からこの職に就きたくて、だから全然苦じゃないんです」 
「そうなんだ。子供の頃からって事はなにかきっかけが?」 
「ええ。私の母が同じボランティアをしていて、小さい頃からずっと見ていたので憧れてたんです。……みんなを笑顔に出来る素敵なお仕事なのよってずっと聞いていたので……。母は今も現役なんですよ。でも……」 
「うん?」 
「実際こうして学んでいくと、私はまだ全然患者さんを笑顔に出来る余裕なんかなくて……逆に励まして貰う事もあったりして、まだまだだなぁって、私今のままじゃダメなんじゃないかって……最近はちょっと落ち込むこともあって……」 
 
 真面目に取り組んでいるクロエは本当に素敵な女の子だと思った。それは患者側にも絶対伝わっているはずである。 
 
「僕は、そのままでいいと思うけどな」 
「え?」 
「知識的な意味ではもっと色々な事を知っていく必要はあると思うけど。クロエさんを励ましてくれるその人達は、いつも有難うって意味で見守ってくれているんじゃないかな。君が頑張っているのは、きっと伝わっているからね。だから、無理しないで、今のままのクロエさんで十分だと僕は思う。君が知らなくても、クロエさんのおかげで笑顔を取り戻した患者さんはきっと沢山いると思うよ」 
「……シドウ先生」 
「あ、ごめんね……。僕もまだ研修中だから偉そうに言える立場ではないんだけどね」 
 
 椎堂はそういって優しい笑みを浮かべる。クロエは嬉しそうにはにかむと椎堂との距離を少しだけ詰めた。 
 
「ううん。シドウ先生にそう言ってもらえて、元気が出ました。シドウ先生ってほんとに優しいんですね……」 
「ええ? 僕は普通だよ」 
 
 困ったように眉を下げて笑う椎堂に、クロエは「クガ君が尊敬してる理由が私もわかるな~」と微笑んだ。何と返して良いかわからず苦笑していると、目的のジェラートの店へと到着した。エメラルドグリーンのパステルカラーのドアから始まり、店内もポップな内装である。如何にもお洒落で女性客が好みそうな店だった。 
 絶対一人だったら来る事が無いその店に入ると、甘いバニラとフルーツのいい香りが鼻腔をくすぐる。 
 テイクアウトも出来るようになっているが、店内もそれなりに広く数人の客がジェラートを食べていた。勿論客は全て女性である。 
 
「わー、今日はどれにしようかな」 
 
 ガラスケースに並ぶ何十種類ものジェラートの前でクロエは目を輝かせていた。 
 
「好きな物を頼んでいいよ。僕がまとめて払うから」 
「え? いいんですか? 私が誘ったのに」 
「勿論、選べないなら二種類でも三種類でもどうぞ」 
「やったぁ!」 
 
 クロエは暫く右へ行ったり左へ行ったりして悩んでいたが、漸く決まったようで店員にコレとコレと、と指さしている。果汁たっぷりのカシスと、チョコレートに決めたようだ。二種類をこんもりと盛り付けたカップが手渡され、クロエはそれを受け取ると、「シドウ先生は?」と聞いてきた。 
 
「んー、そうだなぁ。じゃぁ、僕はマロンで」 
 
 栗の粒が入っているらしいそれは今月の新商品なのだそうだ。二人でカップを受け取って支払いを済ませるとクロエに続いて窓際の奥の席へと腰を下ろした。 
 
「私、マロンはまだ食べたことないんです。この前来た時にはなかったから」 
「そうなの? 良かったら少し食べてみるかい?」 
「いいんですか?」 
「うん、どうぞ」 
 
 自分が食べる前にカップを差し出すと、クロエは遠慮がちに少しだけスプーンですくって口へと運んだ。 
 
「美味しい!」 
「それは何より」 
「あ、シドウ先生も私の、少し食べてみますか?」 
「そうだね。じゃぁ少しだけ貰おうかな」 
 
 チョコレートはだいたい味がわかるので、カシスの方を少し貰った。口溶けの良い滑らかなジェラートはいれた瞬間スッと溶けて果実感が口一杯に広がる。甘さを抑えて素材の味を大切にしているのか、酸味は強い方だった。 
 
「カシスもさっぱりしていて美味しいね」 
「美味しいですよね、私いつも迷うと一種類はカシスにしちゃうんです」 
 
 クロエのような年代の女の子の流行は全くわからないが、人気のある店らしいので全種類を制覇している客もいそうな気がする。椎堂の選んだマロンは、アメリカにしては上品な甘さで、これもとても美味しかった。ただ、サイズはやはりアメリカといった所か、カップにそびえ立つジェラートの山は結構高い。 
 
 半分ほど食べた所で、クロエは一度それをテーブルへと置いた。 
 
「シドウ先生、ミオの……。あ、クガ君の事なんですけど……」 
「いつも呼んでいるように話していいよ。そうじゃないと話しづらいでしょ?」 
「そうですか? えっと、じゃぁミオのまま話しますね」 
「うん、玖珂くんがどうかした??」 
「その……、月曜にミオ、お休みしたじゃないですか? あの日私達実習だったんですけど」 
「ああ、うん。そうだね」 
「それで……、火曜日からはまた来てるんだけど……」 
「……うん?」 
 
 クロエは視線を椎堂へと向けると心配そうに顔を歪めた。 
 
「ミオって、何処か悪いんですか……?」 
「え……。どうして?」 
 
 やはりその話だったのかと思い、椎堂は頭の中でどこまで話すべきかの線引きを咄嗟に考えていた。 
 いくら月曜に休んだからといっても、普通の人間でも休む事はあるだろうし、クロエがそこまで心配するとは思えない。澪は昨日までの間も、日中に何かあった等の話はしていなかったし、クロエの気にするところがまだわからなかった。 
 顔色が悪いとかそういう事で先読みして心配しているのだろうか……。 
 
「火曜日に、講義の最中突然席を立っていなくなっちゃって……。休み時間には戻ってきたんですけど具合が悪そうで……、体調が悪いのか尋ねてもミオは「何でもない」って教えてくれなかったんです。その時は月曜もお休みしていたし風邪でも引いてるのかなって思ったんですが……」 
「……うん」 
「だけど午後の講義の時も、ずっと机に伏せてて……。ミオ、いつも講義とか凄い真剣に聞いてるから、よっぽどしんどかったんだと思うんです……」 
「……そうだったんだ」 
「それで、水曜日……、あ、昨日ですね。皆で昼食を食べに行く事になったんです。いつもミオはそういう食事会には参加したがらないんだけど、その日誕生日の子がいて皆でお祝いしようって盛り上がってて。だから私……、ミオがそういうの苦手なの知ってたのに強引に誘っちゃって……。その事、ミオは何か言ってなかったですか?」 
 
 クロエにそう聞かれても、食事会の事も澪からは一切聞いていなかった。皆との食事を避けているのは、一度ぐらいは聞いたかも知れないが……。 
 
「いや、僕は聞いてないかな……。それで、その食事会で何かあったのかな?」 
「はい……。そのお店、歩いて行くにはちょっと遠い場所で、バスに乗って行ったんです……。だけど、レストランについて食事中もミオはほとんど食べて無くて……。その後、皆でバスに乗る時にミオが『ちょっと連絡する所があるから先に帰ってて欲しい』って言ったんです。皆はそれで先に帰っちゃったんだけど。私、何だか心配でこっそり残ってミオのあとをつけてみたんです」 
「……うん」 
 
 目の前でクロエのジェラートがゆっくり溶けてチョコとカシスがじわりと混ざっていく。しかし、クロエはそれに目もくれず辛そうな顔をして声を詰まらせた。 
 
「店を出て少しした所に、昔バス停だった小屋があって、その場所は滅多に人が通らないんですけど……、ミオはそこに入っていって。追いかけていったら、裏の草むらで吐いてたんです。私、もうびっくりしちゃって、思わず声をかけたんですけど……。最初は返事もできないぐらい続けて戻してて、凄く苦しそうで……。暫く背中を摩ってたらやっと治まったみたいで。普通じゃない様子だったから、病院に行こうって言っても「バスに酔っただけだから、大丈夫」って……。でもバスに乗ったのは相当前だし、たった五分なんですよ? 私が、無理に誘ったせいで……、あんな事になるなんて思って無くて……。私、ミオに酷いことしちゃった……」 
 
 クロエは涙声になって自分が誘ったことを酷く後悔しているようだった。 
 
「クロエさん?大丈夫だよ。玖珂くんがそうなったのは君のせいじゃないから、そんなに気に病まないで大丈夫だから。ほら、泣かないで」 
 
 ハンカチを渡すとクロエはそれを受け取って零れる涙を一度拭った。 
 
「でも、私……」 
 
 口止めされているので本当の事を言うわけにはいかないが、こんなに心配してくれているクロエに全くの嘘をつくのが心苦しかった。そして、クロエがこうして話してくれなければ、澪がそこまで体調を崩している事も知ることは出来なかった。 
 
 一番近くにいて、支えているはずの自分は何も気付けなかったという事実が澱のようにたまって胃を重くする。それきり俯いてしまったクロエを安心させるように、椎堂は優しく肩を叩くと話しかけた。 
 
「話はわかったよ。僕も昼間の玖珂くんの事はよく知らないから……、教えてくれて助かった。今から彼のことを話すけど、その前にジェラートを食べちゃおう、ほら、もう溶けてきてるし、ね?」 
「あ……。本当だ……うん……」 
 
 溶けかかったジェラートを急いで食べる間。二人とも何を話して良いか分からず、店内に流れるアメリカのヒットチャートをただ聴きながら手を動かした。 
 マロンの甘い味は、こんな時に、澪が倒れた時の口付けを思い出させる。 
 
 冷たいそれは喉を通って、椎堂の澪を心配する気持ちさえも凍らせていくようだった。クロエよりショックを受けている自分を悟られたくなくて、椎堂は医者の仮面を無理矢理付ける。恋人である自分より主治医だった頃の自分でいる方が幾らか冷静でいられた。 
 空になったカップをことりとテーブルへ置くと、椎堂はなるべく心配させないように言葉を選んでクロエにゆっくりと話出した。 
 
「玖珂くんは、日本にいる時に一度病気をしてね。僕はその時、彼の主治医をしていたんだ。その縁があって今は共に終末医療を学ぶためにこっちへ来てる……。玖珂くんは、今もその病気の薬を飲んでいるんだ。だから体調が悪い日がどうしてもあって……。丁度先週からちょっと風邪気味なのもあって、その影響で今、具合が良くない時期なんだよ。だから、クロエさんが無理に誘ったとか、そういう事は関係ないから安心していいんだよ」 
「……ミオ、何の病気だったんですか」 
「あ、いや。そんなにクロエさんが心配するような重い病気じゃないよ。それに薬は飲んでるけど、今はもう治ってるから、心配は要らないよ」 
 
 余命宣告を受けるほどの大病の後、今も抗癌剤で転移や再発を防いでいる等と言ったらクロエがまた泣き出すのは目に見えていたのでここまでが話せる精一杯だと思った。だけど、澪に口止めされていなかったとしても、自分が今ここで本当の事を教えられるかというと自信が無い。現実を口する事で、改めて実感するのが少し怖くもあった。 
 
 椎堂からはっきりと、「重い病気ではない」と言う事を聞いて、クロエはだいぶ安心したように表情を和らげる。こういう気を配れる彼女のような存在が、澪の側にいてくれることは本当に有難いと思った。 
 
「この話の事なんだけど、玖珂くんはあまり病気の事を知られたくないみたいだから、出来ればクロエさんも、周りの皆には内緒にしておいてほしいんだ。今まで通り普通に付き合ってあげて欲しい。お願いできるかな?」 
「もちろんっ、他の人には言うつもりもないです。ミオは大切な友達だから。大丈夫です」 
「有難う。玖珂くんにクロエさんのような素敵なお友達がいて、僕も安心したよ」 
「そんな……」 
 
 照れるようにはにかむクロエに、椎堂も優しい笑みを浮かべる。 
 
「でも先生、ミオってね。私以外にも仲良くしている子いっぱいいるんですよ、講義の時とか隣に座りたがる女の子も沢山いて人気者です。まぁ、私が先に隣に座っちゃうんですけど」 
 
 クロエはそう言って、泣いた目を恥ずかしそうに擦ると明るく笑った。楽しい時間を友人達と過ごせているならそれは椎堂にとってもとても嬉しい事で。澪が一緒にこちらへ来て新しい道を選択したその事を後悔して欲しくないから……。 
 
「あ、シドウ先生、ミオの好きな子って誰だか知ってますか?」 
 
 急にそんな事を言われて、椎堂は慌てて「えっ!?」と声を漏らして顔を上げた。 
 
「いや……、し、知らないかな……。そんな話、玖珂くんとしたりするの?」 
「しますよ~。ミオってば秘密主義でぜーんぜん教えてくれないけど。好きな子がいるって事と、理想のタイプだけは聞き出しました!」 
 
 自慢げにそういったクロエに思わず笑ってしまう。女の子はこの手の話が好きなので、澪が困っている様子が目に浮かぶ。しかし、澪の理想のタイプなど、自分も聞いた事が無いので知らなかった。澪が過去にどんな女性と付き合ってきたのかも、そう言えば聞いた事が無い。 
 
「玖珂くんの理想のタイプってどんな人なの? 僕も聞いた事が無いから教えて欲しいな」 
「いいですよ! 確か……色が白くて、癖毛で、眼鏡をかけている子が好きだって言ってましたよ? 具体的すぎて友人とそれを聞いたとき大笑いしちゃいました。きっとその好きな子の特徴なんだろうな~」 
「…………そ、そうなんだね」 
 
 それは、もしかして自分の事を言っているのではないか。椎堂は急に恥ずかしくなって聞かなければ良かったと後悔した。あまり動揺してクロエに訝しく思われてもいけないので平静を保っているように見せかけているが、内心は、澪がそんな事を外で話していると知って嬉しい自分もいる。椎堂は気付かれないように小さく息を吐いた。 
 
「シドウ先生は?」 
「えっ!? な、なにかな?」 
「シドウ先生の、理想のタイプも教えて下さい!」 
「僕の? えっと……。そうだなぁ……。気が強くて、でも、気持ちが優しい子がいいかな……」 
 
 別に澪を想像して言ったわけではないが、口にしてみると澪に当てはまっていてこれまた失敗したと後悔する。 
 
「えっ、それだけですか?? 私それなら頑張れそう! 嬉しくなっちゃう」 
 
 クロエもそう言われれば当てはまっている気がする。冗談で喜んでくれているのだろうが、澪との事がバレていないようでひとまず胸をなで下ろした。 
 通りはもう暗くなっていて、店に来た時から結構時間が経っている。女の子が夜に一人で帰るのも危険だし、そろそろ店を出た方が良いだろう。 
 
「じゃぁ、そろそろ僕たちも帰ろうか。クロエさん一人で大丈夫?危ない所を通るなら、僕が途中まで送っていくけど」 
「いえ、全然平気です!今日は、急に押し掛けてごめんなさい。シドウ先生に話してみて良かった、私も安心しました。ジェラートも美味しかったし、ご馳走様でした」 
「どういたしまして。僕もこういう店には男一人では来られないから楽しい経験が出来たよ」 
「今度、ミオと三人で来れたらいいですね」 
「うん、そうだね。帰り道、もう暗いから気をつけて帰るんだよ」 
「はい!」 
 
 明るい店内を出て、クロエと別れる。 
 クロエは何度か振り返って大きく手を振りながら通りを歩いて行った。 
 
 
 
 
    *     *    * 
 
 
 
 
 自宅の近くまでバスにのって、歩いて自宅へ向かう。クロエと話していたのでもう時刻は八時を過ぎていた。街中の外灯は住宅街に近づくにつれその本数が減る。 
 しかし、街の賑やかな明るさとは違い、それぞれの家庭に灯る温かな光は、それはそれで穏やかな家族の時間を想像できる素敵な光景に映った。 
 
 路地を曲がり自宅が見えると、一階の電気と外灯が点いている。澪がちゃんと戻っている事にほっとして椎堂は足を速めた。 
 きっと帰宅して「今日はどうだった?」と聞いても、澪はいつもと同じように「何も変わらないけど」と言うだろう。今夜はそれでも……、確認しなくては……と考えていた。 
 
 椎堂は玄関の前で一度深呼吸をしてからチャイムを鳴らす。 
 澪が玄関へ歩いてくる足音が聞こえ、鍵が外される。 
「おかえり」という澪の声が玄関が開くと同時に聞こえた。朝と変わらない様子で立っている澪をみて「ただいま」と返す。ドアを開けてくれている澪の手に触れようと指を伸ばすと……澪は、椎堂に触れられる前にすっと手を引き背を向けた。 
 
――……澪……。 
 
 届かなかった指先は、まるで自分達が作った、――いつのまにか作ってしまった小さな距離のように思えて、椎堂は宙を掠めてその空虚さを握りしめる。 
 
「どうしたの?――早く、あがってくれば?」 
「……あ、うん、……そうだね」 
 
 
 目の前にある澪の背中が、やけに遠く見えた。