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 この地域では店舗の大半がかけているラジオ番組、102.7 KIIS FM。ヒットチャートを中心に若者向けの曲が常に流れている。多分に漏れず、この店でも同番組にチャンネルが合わされており、朝からノリのいいロックミュージックが店内にも大きな音量でかかっていた。 
 
『続いてのリクエストは! 先週Sunset Houseでデビューライヴを行ったばかりのHot!! なBAND。Slack glow の1st Album から。【Kiss My Heat!!】』 
 
 耳に残るギターリフの音を聴きながら、澪は一番奥の席に座っていた。口を付けていないアイスコーヒーに刺さっている、赤と白のストライプのストローを指でつまみ、ラジオの音の大きさに僅かに眉を寄せる。重い気持ちを溶かし込むようにグラスを悪戯にかき混ぜた。 
 
「……、……はぁ……」 
 
 少し溶けてきた氷がバランスを崩し、形を変えてグラスの底に沈んでいく。 
 グラスの周りについた水滴がコースターへと落ちていくのを目で追いながら、熱っぽい息を吐けば、頭が刺しこむように痛んだ。 
 
 ここが日本であったならば、二十四時間営業のファミレスやカラオケBOX等、駅の側へ行けば時間を潰せる場所など選択し放題だが、ここは違う。コンビニはあるにはあるが遠いし、二十四時間営業の大型スーパーには、座って時間を潰すような場所が無い。 
 澪は仕方なく自宅から少し離れた場所にあるダイナーの店内にいた。ガソリンスタンドに併設されているここは朝の六時から開店していて、日本で言うならばドライブインのような場所である。 
 
 そう広くもない店内を見渡して視界に入るのは、カウンターの中に居るストローと同じストライプの柄の制服を着たウェイトレス二人。夕食かと思うような量の朝食を食べている男性客四人組。それと、胸元を大きく開け短いスカートで足を組んで煙草を吸っている女性客がカウンターに一人。 
 先程まで一番近くにいた若い男は、五分ほど前に店を出て行ったので澪のテーブル席の近くには、とりあえず今の所人はいない。 
 
 澪は座っている真っ赤なテーブルに視線を落とし、恋人同士が落書きしたらしきハートの絵柄の部分を指でなぞった。起床した時よりだいぶ頭が重い。熱が上がっているのかも知れない……。 
 座っているのも辛くて、テーブルに両腕を置いて鈍く痛む頭をのせ目を閉じた。 
 
 昨夜の事を思い出すと同時に、椎堂の事を思い浮かべる。どんな顔をして、何を話せば良いのかさえわからなくなっていた。どうせ一時間ほど早いだけだからと思い、椎堂が起きる前に顔を合わせぬよう家を出て来たのだ。 
 家を出る前の時点では、昨夜より熱は少し下がっていたが、体調は最悪だった。 
 先程まで隣にいた客が食べていた、崩れる程に積み重ねられたポテトフライ。ケチャップを大量にかけているそれを目にするだけで吐き気がして、慌てて視線を外した。 
 店内も油っぽい匂いが充満しており、店の選択肢をここにした事に早くも後悔しかない。 
 
 食欲が無い上に、あったとしてもここのメニューで今食べられそうな物は無いに等しい。 
 しかし、水だけというわけにもいかないので仕方なく飲み物だけを注文したのだ。必ず食後に飲むように言われている抗癌剤の為に、持っていたビスケットを一つだけ何とか口に入れる。 
 注文したアイスコーヒーには手を付けず、汲まれた水を口に含み、朝の薬だけを飲みこんだ。引っかかりながらも体内へ落ちていく薬、こんな物に頼らないと先の生活でさえ失ってしまう身体にうんざりする。 
 
「……何の罰ゲームだよ……、……」 
 
 苦し紛れの悪態を小さく口にしてみても、何も変わらない。 
 暫くそうしていたが、ずっと伏せていると店員に声をかけられる可能性もあるので、持参していた本を取り出し、読んでもいないのにテーブルへと広げてみる。 
 雑に鞄にしまっていたせいで端の折れているページがあり、澪はそのページに指をのせて暫く時間を置いて次のページへ捲る事を繰り返していた。 
 卓上に置いてある携帯の時計を見て、まだそんなに時間が経っていない事に肩を落とす。 
 
 先程三回連続で椎堂から携帯に電話が来た。丁度起きて、自分がいない事に気付いたのだろう。電話に出て安心させてやりたいという気持ちもあるが、もう少し一人で頭を冷やしたいという気持ちもあって……、結局電話には出られなかった。携帯越しに椎堂が名前を呼び、何処にいるの、と切なげな声をかけるのを聞いて咄嗟に通話を切った。 
 その後、二度、三度と椎堂の名前がディスプレイに表示される度に指が通話ボタンに伸びそうになり、その都度胸がチクリと痛む。三度目の呼び出し音の後、椎堂からの電話はかかってこなくなった。 
 
 どんな理由があったとしても、自分のとった行動と言葉が椎堂を傷つけてしまったのは間違いない。涙を堪える椎堂の横顔、二階に上がってきてドア越に声をかけてきた椎堂の声は僅かに震えていた……。 
 気分の悪さを言い訳にして耳を塞いでベッドに潜った。椎堂のかけてくる心配げな声を聞かないようにしていたのは、自分の弱さを見たくなかったからだ。一つでも綻びが出来てしまえば、そこからなし崩しに崩れて動けなくなりそうで怖かった。 
 多分、椎堂が言うとおり自分は逃げているのだと思う。 
 体調が悪いのを隠して普通に振る舞うことで、あたかもそれが現実であると、澪自身が錯覚したいと一番望んでいるのだから……。 
 澪は何度も咳き込み、その度に頭に響く咳に眉を顰める。何もかも思い通りにいかない。そんなに贅沢な望みを持っているわけでもないというのに。 
 
 月曜にはまだあった余裕が日を追うごとに失われ、今自分が外でこうしていられる事自体が不思議に思うくらいである。 
 毎朝、目が覚めたら少しは体調が戻っているのではと期待をしては、裏切られ。結局今もずるずると抜け出せないでいる。 
 
 澪は、咳を抑える為に重い頭を持ち上げ、一緒に持ってきたグラスの水に口を付けた。冷たいグラスを手にしただけで悪寒が走ったが、冷えた水が喉を通るとほんの少し吐き気も治まる気がした。 
 
 
 こちらでは仕事の始まりがかなり早い職場も多く、今の時間にはもう通勤の人達が通りを沢山歩いている。併設しているガソリンスタンドに大型のトラックが入ってくるのを硝子越しにぼんやり眺め、澪は溜め息を一つついた。 
 何度目かの携帯を見て時刻を確認すると、やっと店を出て病院へ向かっても良い時間になっていた。 
 
 とてもじゃないが歩いては行けないので、来た時と同じようにタクシーを拾って行くしか無い。雑誌をしまい、トレーを片手に持ってダストカウンターへと持っていき、その後入り口へ向かう。 
 ドアを押さえるように置いてある塗装が剥げかかっているマスコット人形は、ポニーテールに真っ赤なリボン、着ている物はウェイトレスの制服で、手には【Welcome】というボードを掲げていた。如何にもアメリカだなと、その人形を見て思った所で視界が急に狭くなってくる。 
 
「……ッゥ、……」 
 澪は一度足を止めて深く息を吸った。 
――……こんな所で……。 
 
 平衡感覚を失う身体を支えるために壁に手を突くと、明るい茶色の前髪がバサリと視界にかかる。 
 その視界の隙間からレジ隣の冷蔵ケースが見え、毒々しいまでの赤い色をしたチェリーパイが目に飛び込んでくる。その赤がどす黒く変色していくように見え、澪は吐き気を堪えて口元を手の甲で塞ぎ、震える呼気を少しずつ吐き出した。 
 
 ガソリンスタンドと共用のトイレがすぐそこにある事は、最初に来た時に確認してある。壁に手を突いたまま足を引きずるようにして何とか歩く。身体が重くて思うように力が入らず、冷や汗が浮かぶ。店を出る時に店員に声をかけられた気もするが、立ち止まる余裕も無かった。 
 ハァハァと肩で息をし、やっとの思いでトイレの扉を開くと、開けるなり大柄の外人と肩がぶつかって思わずよろけた。 
 
「おっと、ごめんよ、平気!?」 
 
 大きな声でそう声をかけられたが、それも無視して澪は個室へ入ると後ろ手で鍵を閉めた。閉めたドアに背を預け、このまま治まらないだろうかと淡い期待をしつつ鳩尾をさする。 
 
「……ッ……、」 
 
 願いも空しく、吐き気は徐々に濃厚になってきて、澪は何度か唾を飲みこみ覚悟を決めたように視線を落とした。 
 トイレは清掃されているのだろうが清潔とは程遠く、タイルは薄汚れ、便器に至っては黒ずんだ汚れや何だか分からない染みも残っていて、それが余計に吐き気を誘発させる。 
 汚いから出来れば近寄りたくないと思うのに、中腰のまま身体を支える事も出来ず、汚れた便器の前に仕方なく跪く。 
 
 こんなに気分が悪いのに、何度嘔吐いても出てくるのは唾液だけで何も出てこない。それはそうだろう……。胃の中にほとんど何も残っていないのだ。 
 透明な唾液が繰り返し溢れて、水面へぽたりぽたりと落下する。 
 
「……ォエッ、」 
 
 まるで最悪な二日酔いの朝のようだ。喉をやかれる苦しさに噎せて咳き込み、その拍子に先ほど一つだけ口にしたビスケットが塊になって吐き出された。 
 眦に生理的に涙が溜まるのを袖で拭い、絞り出すように便器に手をつき、何度目かでやっと吐き出せたのは、先程飲んだほんの少しの水と薬だけだった。便器の中で場違いにカラフルなカプセルが浮かぶ。薬を飲んで時間が経っていないのでまだ溶けていなかったのだろう。薬を吐いてしまったのはまずい。病院へ行ったらもう一度飲んだ方がいいか聞いてみないと……。何処か冷静にそんな事を考える。 
 暫く嘔吐いて苦い消化液を吐く。どうやってもこれ以上吐けないのは経験上分かっているので、澪は一度レバーをひいて流した後壁に寄りかかって目を閉じた。いつもと同じなら十分程こうしていれば動けるようになる。 
 
 繰り返す嘔吐のせいで、最初ほど動揺はしないし、どれくらいの時間でやり過ごせるかも覚えてきていた。常につき纏う再発の恐怖感でさえ麻痺してきているようにも思う。こんな事にも慣れてくるとは、人間はそう簡単に絶望して死ねないはずだ、と思う。 
 ただ、どんなに慣れても苦しさが変わるわけではないし、こんな汚い場所で吐いて動けなくなっている自分を思うと惨めだった。 
 
――何してんだ……、俺……。 
 
 馬鹿みたいだな、と心の中で呟けば、その滑稽さが身に染みる。トイレ内にも店内と同じラジオ番組が流れていて曲は流行のダンスミュージックに変わっていた。自分の今の状況と対極のようなDJの軽快な喋りが耳に障り、耳を塞ぎたくなる。 
 少しして呼吸を落ち着かせ、目を開けると徐々に視界に明るさが戻ってくるのがわかる。 
 澪は膝を払って立ち上がるとトイレの個室から出た。目の前が若干チカチカしているのは自分のせいでなく、鏡の横にある切れかかった蛍光灯のせいだ。口を漱ぎたいが、手洗い場の水は口にできる状態ではなさそうである。 
 
 ひとまずトイレを出て、脇にある自販機で水を買って再び戻り、それで十分にうがいをして口を漱いだ。まだ少し残っている水を洗面に流して、ペットボトルをゴミ箱へと捨てて時計を見ると、すっかり時間が迫っていた。吐いたりしなければ十分間に合ったが、この時間では遅れてしまうかも知れない。 
 澪はタクシーを探しに通りに出た。風が吹き付けると、寒くて唇が震える。もう身体のほとんどの機能が壊れているんじゃないかと思う。 
 大通りに面しているガソリンスタンドなので通行量が多いのが幸いし、タクシーはすぐに捕まった。病院名を告げて、澪はシートにぐったりともたれかかり、こめかみに滲む汗を拭った。 
 
 
     *     *     * 
 
 
 病院への到着はやはりだいぶ遅くなってしまい、折角早くに家を出た意味は全くなくなっていた。いつものように受付を済ませ、主治医のいる階へ向かうと、診察室の前に何故か既に高木が立っているのが見えた。 
 
「おーい、玖珂くん」 
 
 大きく手を振る姿に遠くから軽く会釈をする。通訳も兼ねて来てくれる事は多いが、いつもなら問診中に看護師に呼ばれてやってくるのが普通だ。高木も忙しい身なのだから、それが当然だと思っていたが今日はどうかしたのかと思う。声が届く距離になって澪は口を開いた。 
 
「おはようございます。遅くなって……すみません」 
 
 入り口の高木にそう言いながら挨拶をすると、高木は「おう、おはようさん!」と元気よく返した後、少し眉を顰めて心配そうに大きな身体を屈め澪の肩に手を置いた。 
 
「車椅子、持ってくるか?」 
「……え」 
 
 覗き込まれた視線に思わず視線を逸らした。パッと見ただけでも、車椅子が必要だと判断されるほど、やつれて見えたというのがショックだった。椎堂が気付くのも当然の結果だ。澪は、取り繕うように薄く笑みを浮かべた。 
 
「……いや……大丈夫です」 
「そうか? わかった。……よし! じゃぁ診察室へ入ろう」 
 
 高木に促されて診察室に入ると、主治医はもうすでにカルテを開いていて、澪は、高木に言ったのと同じ謝罪を繰り返す。 
 前と同じように、高木が側の椅子に腰掛けて澪と主治医の会話を円滑に進ませる形式である。 
 前回来たときは本当に体調もさほど悪くもなかったので、少しの嘘をついても問題なかったのだろうが、今日はきっともう誤魔化せない。 
 それに、何か方法があれば……、少しでも楽になれるならどんな薬でも良いから使って欲しいというのもあった。 
 
 検温の結果は38度7分。 
 朝と比べて急激に上がっている体温に澪も驚き、どうりでこうして座っているのもしんどいはずだと思う。主治医と高木は顔を見合わせて何度か深刻そうに頷き合い、何故か予め準備されていた様子ですぐに採血をされた。院内に血算をすぐに調べられる施設があるので結果は二十分ほどでわかるらしい。 
 
 その間問診を受け、ここに来る前に薬を吐いてしまった事。微熱が続いていて一昨日からは38度を超えている事、抗癌剤を飲んでから吐き気が酷くて食事が出来ない事、先週末後期ダンピングの症状で倒れて気を失った事等。洗いざらい全部を話した。 
 黙って頷きながら澪の話を聞いていた主治医が、澪の身体を優しくさすり、手を握って励ますようにゆっくり言葉を続ける。 
 訳されなくても意味はわかったが、高木は主治医の言葉を訳すと言うより、高木自身の言葉として主治医の訳に言葉を付け加えた。 
 
「だいぶ、辛かっただろう……。よく一週間頑張った」 
「……」 
 
 頑張った。本当にそうなのだろうか……。その言葉を聞いてふいに目頭が熱くなる。それが涙となって溢れることはなかったが、こんなにも精神的に参っていたのかと自覚するには十分だった。張り詰めていた糸が急に切れてしまったようで、澪は言葉を返さず黙って俯いた。 
 こうして今の自分の状態を一度認めてしまえば、やはり相当に堪えて。どんなにもがいても自身ではどうすることも出来ない悔しさに苛まれる。 
 高木が俯く澪の肩にそっと手を置く。 
 澪は俯いたまま苦しげに口を開き熱い息と共に言葉を吐き出した。 
 
「お願いします……。新薬でも、何でもいい。だから、……普通の生活が出来る薬に、変えられませんか……」 
「……玖珂くん、……」 
 
 懇願にも近い気持ちでそう口にする澪に、高木は労るような声で静かに名を呼んだ。しかし、その後に続く言葉はそう甘い物ではなかった。 
 
「残念だけど、……それは難しいな」 
 
 高木に先日行った検査の結果、他の臓器の数値に目立った異常はまだ出ていないが、腫瘍マーカーの数値が高くなっていた事を告げられる。このまま上昇するかどうかで転移や再発の有無を見るらしい。術後一年が一番危険とされているので、今抗癌剤をやめるリスクは高いというのが高木の意見だった。 
 
「……そう、ですか」 
 
 そう返すしか無かった。耳の奥でファンが回っているような籠もった音が微かに唸って聞こえる。澪が目を閉じると、先程の検査の結果がもう出たようで、忙しなく結果が印字された紙が主治医へと届けられた。高木が小さな声で「ノイトロジン準備して」と看護師に呟くのが聞こえた。その後指示された看護師が病室を出て行く。 
 
「玖珂くん」 
 名前を呼ばれ顔を上げると、高木は眉を寄せて検査の結果を澪へと向けた。 
「白血球の数値、ここをみてくれるか」 
 高木が指さす箇所に目を向けると、通常の平均値の横に澪の今調べた結果が印字されている。その数値は平均の最低値の半分以下を打ち出していた。 
 
「この数値がここまで下がっていると感染症になる危険がある。今開始して五日目だろう? 抗癌剤を服用して十日目ぐらいが、一番数値が下がるんだけどな。今の時点でこの数値は非常によくない。今日は今からその治療と点滴を受けてもらう事になる。いいね」 
「……はい」 
「じゃぁ早速だけど。病室が準備できているから移動しよう」 
 
 随分と準備がいいなと思いながら、高木に身体を支えられ、病室へと移動する。歩きながら高木は抗癌剤服用中の発熱の意味する事を丁寧に教えてくれた。今の状態で感染症に罹患すると重篤化するという事も。だからこそ体温の変化には慎重になるべきだとも。 
 在宅治療での感染の兆候はみつけづらいため、体温の上昇でその兆候を見極めるのが重要だという言葉を聞いて、澪は昨日の事を思い浮かべていた。 
 
 昨夜発熱がある事を隠していた事を椎堂が知った時、顔色が変わったのも。 
 倒れた日に微熱がある事がわかってからしつこく休むように言われていた意味も……。全てがこのせいだったという事。 
 澪は、毎日ノートに体温を記載させられていた――本当の意味を知る。 
 
 医者である椎堂は、最初からその危険性を知っているからこそ気にかけてくれていたのだ。なのに……自分は嘘を書いた。それがどういう意味を持つのかも知らないままに……。 
 空きベッドがある個室へと通されてすぐに感じたのは鼻を掠める消毒の匂い。白を基調とした病室の内装。それは入院していた敬愛会総合病院を思い出させた。 
 
 靴を脱いでベッドへあがり、看護師に点滴をセットされているとまた性懲りも無く吐き気に襲われ身体が強張った。口元を覆って身体を折り、側にいる高木の名を呼ぶ。 
 
「……っ、高、木さん。……、」 
「おっと、気持ち悪いか? ちょっと待ってな」 
 
 澪が頷くと、高木が側に置いてあった容器を差し出して背中を摩する。渡された容器をきつく掴んで下を向くと今回はすぐに上がってきて、少量の水っぽい吐瀉物が吐き出された。続けざまに二度ほど嘔吐し、唇を濡らす。 
 
「我慢しなくていいからな。そうそう、吐き出せるだけ吐いた方が楽になるから出しちまえ」 
 
 あまりに喉が痛くて、看護師に差し出された吸い飲みから水分を一口飲みこむと、それさえ即座にあがってきて戻してしまった。何も吐くことが出来ない状態で数分呻きやっと落ち着く。嘔吐することで益々体力は使われ、僅かに残る気力まで奪われそうになる。飲みこまぬように再び水で口を漱いで容器へ吐き出すと、看護師はそれを片付ける為に病室を出て行った。 
 
「……、……」 
「……大丈夫か? 少しは落ち着いた?」 
 
 声を発する事もままならず高木のその言葉に頷いてみせると、半分起こされた状態のベッドへ横になるように言われ背中を支えられた。冷たくて硬いベッドではあるが、横になると座っている時よりやはり楽で、全身の力を漸く抜くことが出来た。すぐに新しい容器を持ってきた看護師が、優しい笑みを浮かべて枕元にそれを置き出て行く。 
 
「……玖珂くん。そのままでいいから少し話を聞いてくれ」 
 
 澪が顔だけを向けると、高木は側の椅子へと腰掛け、大きな腕を目の前で組んだ。 
 
「楽にしてていいからな。……それで、話というのは、さっき診察室で、抗癌剤を変えることは難しいって事を俺は言っただろ……? ただ、選択肢はひとつではないって事も一応話しておこうかなと思ってね」 
「……どういう、意味ですか?」 
 
 声を発するとその声は酷く掠れていて、自分の声じゃないみたいだった。 
 
「ここでは、患者本人の希望を尊重する事が出来るんだ。玖珂くんも終末治療に携わっているから理解していると思うが……。『抗癌剤をやめる』という選択肢がある」 
「……、……やめる?」 
「ああ。薬を変えることは出来ないけど、飲まないっていう選択肢があるよって意味だ。抗癌剤を止めれば、当然だが再発や転移が起きる可能性はずっと高くなるよ? だけど、治療を続けていても100%防げるとも言えない。そして、抗癌剤治療をやめても九十歳まで生きる患者もいる。必ず再発や転移をするってわけではないって事だな」 
「……」 
「こればっかりは、医者だろうが神だろうが、わからない。酷なようだがハッキリ言うと、この先もずっと抗癌剤を飲んでいく中で、今回みたいな状態になる事は何度もあるかも知れない。入院しないと続けられない状態になる事もある。だけど……、これもまた個人差があってだな、副作用に影響を受けず抗癌剤治療を続けられる患者も沢山いるんだ。次のクールは何ともなかったり、な」 
「……はい」 
「そこでだ。玖珂くんが生きていく上で、何を尊重したいかって話になるんだ。再発や転移を防ぐ事を優先し、今回のような状況になる事を覚悟した上で治療を続けるか。再発と転移のリスクを覚悟して、薬を止めて普通の生活を送るか。それを決めるのは俺達じゃない、玖珂くんだって話だ」 
 
 ストレートに事実だけを口にする高木の言葉で、今まで訪問ケアで自分の目で見てきた患者たちの顔が浮かぶ。抗癌剤を止めて痛み止めだけで最期まで過ごす事を選択した患者も、今も定期的に抗癌剤治療を受けている患者もいる。 
 そして、共通して言えることは、誰もその選択を後悔していないという事だった。 
 それは、医者に強制されたわけでもなく、自分で決めた人生だからだ。 
 日頃、スクールで学んできていた事の意味を反芻する。今置かれているのは患者の立場。選択するのが自分だという事。今後の生活で何を尊重するか。そう考えて、答えを出せるのは……、その責任を負えるのは……、他人ではなく、椎堂でもなく自分自身だという事。 
 
 今後も繰り返しこんな状態が続くのだとしたら……。薬を一切やめれば、今よりずっと充実した毎日を送れるかも知れない。澪は越してきたばかりの頃を思い浮かべていた。 
 まだここまで体調が悪くなかった最初は、それなりに普通の生活を送れていた。椎堂との関係も今よりずっとうまくいくはずだ。 
 椎堂が見せる笑顔を思い浮かべれば、その選択肢は今の澪にとってはとてつもなく魅力的に思えた。 
 しかし、その一方では、それで再発や転移をするなら何の為に成功率の低い全摘の手術を受けたかわからないとも思う。いつになるかわからなくてもそれを乗り越えれば、永遠に普通の日常が送れるようになる。 
 精神的にも参っている今、すぐに答えは出せなかった。 
 
「……少し……、考えてみます」 
「うん、よく考えて。そういう選択肢もあるよって事だけどこかに覚えておいて欲しい。後悔の無い選択が出来るように俺もいつでも相談に乗るからな」 
「……有難うございます」 
「だが今日はまず、玖珂くんの今の状態を楽にする事を優先しよう。まずは吐き気止めの薬を別の物へ変更している。今している点滴にもう入っているからね。それが効果があれば、少しずつ食事が出来るようになるから消化器官全般も働くようになる。働くようになれば、もっと多く食えるようになるだろう? 今より楽になるはずだと思うよ。抗癌剤は今日含めて体調が落ち着くまで数日お休みして、まずは体力を戻そう」 
「……はい」 
「ただ、今日は仕方がないとして……。暫く点滴治療を続けたいんだが……。入院するのはやっぱり嫌か?」 
「……え」 
 
 入院……。またかという気持ちと、それしか方法がないなら仕方がないのかという気持ちが入り交じる。だけど、今椎堂と距離が離れる事にはやはり不安があった。顔を曇らせる澪に高木が言葉を続ける。 
 
「通院でも可能ではあるけど、毎日長時間かかるからなぁ……。入院していた方が楽だと思うが……どうする?」 
「通院で可能なら、通います……」 
「そう? じゃあ少しの間それで様子を見るか……。その代わり、毎日ここへきて点滴を受けてもらう必要がある。あと、通院以外の外出は暫く禁止だ。ここにくる時は必ずマスクをして他は絶対安静にする事。入院しない代わりに自宅療養をとるんだから、そこは必ず守って欲しい」 
「……はい」 
 
 高木はその後、今している点滴の内容を丁寧に説明してくれた。 
 中でも白血球の数値をあげる薬に関しては一日一回は最低でも投与しないといけないらしい。その治療で一時期熱は下がるが夜になったら熱が上がる可能性が高い事、点滴後しばらくしてから背中痛や胸痛等が表れる事を聞く。後は、変更された制吐剤が自分に合っているかどうか、効くように祈るしかなかった。制吐剤の効果はまだあらわれなくて、相変わらずムカムカする。 
 
 倦怠感を強く感じ目を閉じると、高木が「後でまた様子を見に来るから暫く眠っていていいよ」といって、上掛けをそっと引きあげてくれる。 
 その事に返事をしようと思ったが急激に睡魔に襲われてままならず、澪はそのまま深い眠りへ落ちていった。