note19


 

 
 
 名も知らぬ雑草を踏みつけながら少しだけ奥へ進み、ギャレットは足を止めた澪と少し距離をおいて一度立ち止まった。フェンスから遠ざかって建物側の壁へと寄りかかろうとし、その汚さに大仰に眉を顰めてその動作を途中で止める。 
 
「相変わらず汚い場所だなぁ、ここは。こんな所で話し合いなんて、ナンセンスだと思わないかい?」 
「好きでこんな所にきてるわけないだろ」 
 
 本音を見せないギャレットと二人きりになった所で口から出た言葉は、取り繕わない物だった。仕事中は立場を弁えた言動をしているが、もうここでそれは必要ないと判断したからだ。ギャレットに対して構えているせいで、踏み込む領域の瀬戸際で、様々な言葉が通り過ぎては消えていく。 
 先程までの実習中との澪の違いに、ギャレットは少し面食らった後、一度手を鳴らし苦笑した。 
 
「クガ君も、そんな話し方するんだね!? ちょっと驚いたな。ママの言いつけをちゃんと守って、夜にはクローゼットを覗かない、そんないい子ちゃんなのかと思ってたよ」 
 
 面白くもないアメリカンジョークをまくし立てるギャレットはいつもと変わらないが、落ち着かない態度に少しだけ余裕がないように見える。感情の機微にはそんなに聡い方ではないが、それでも、そう感じた。 
 
「……、誠二のことであんたに話がある」 
 
 あえて椎堂の事を名前で呼び、澪はギャレットにゆっくり視線を合わせた。そんな澪の様子にギャレットは肩を竦めて「どうぞ」とでも言わんばかりに話を促した。何故少し笑ったような表情なのか、その顔を見ているだけで腹が立つし、理性で抑えなければ思わず辛辣な言葉を吐きそうな衝動に駆られる。 
 
 しかし、そんな子供じみた喧嘩をするためにこんな所に呼び出したわけではない。澪はぐっと堪えて言葉を飲みこみ、一度俯いた。椎堂の為じゃなく、自分の為に今こうして話しているのだと思ってはいるが、これが正解なのかどうか逡巡する気持ちが次の言葉を迷わせる。 
 
――正しい? 正しくない? ――今話すべきでは無かったのか? 
 
 そんな事を考えながら何度か咳き込む澪の様子をギャレットは興味深そうに観察し、顔を覗き込んで考察するように一人で勝手に話出した。 
 
「君はあれだな。胃の手術でもしたのかい? 持ち歩いている飴は低血糖の際の予防薬、この前のパーティーでの症状はダンピング症状といった所かな。そして、何らかの副作用がある薬を今も飲み続けてる。その咳も風邪ではなくその薬の副作用だね。そうだなぁ……飲んでいる薬をあててみようか?」 
 
 ベラベラと話すギャレットは、クイズ番組の回答者にでもなったつもりなのか。幾つかの薬の名前を口にした所で、正解か不正解かを面白そうに訊ねてくる。澪は、何度目かの繰り返しの後、その言葉を強く遮った。 
 
「いい加減黙れよ」 
「そんなに怒らないでくれ。医者として興味があるじゃないか。わかるだろう? 研究熱心なのは褒められるべき事で、責められる筋合いはないと思うよ?」 
 
 医者として? 医者の片隅にも置けないあんなデリカシーのない態度をみた後ではその言葉は薄っぺらで透けてみえそうなくらいである。別に自身の病気の事を話に来たわけではないが、会う度にこの話題を繰り返す事にも辟易していた。本題に入る前に、澪は呆れたように口を開いた。 
 
「そんなに気になるなら教えてやるよ……。俺は……、胃癌で全摘手術を受けた体だ。今も抗癌剤を飲んでるし、まだ術後半年も経ってない。医者なら、これだけ言えば、……後はわかるだろ」 
 
 ギャレットは澪が正直に話した事に多少なりとも驚いた様子を見せた。「なるほど……。そうだったんだね!?」と何度も頷くギャレットに構わず、澪が先の言葉を続ける。 
 
「パーティーの日の夜、あんた言ったよな。俺が誠二を苦しめてるって……」 
「うん、言ったね。君、記憶力がいいんだね? 覚えていてくれて嬉しいよ!」 
「あの言葉、その通りだよ。俺はこんな体だから、いつどうなるかわからないし、心配だって掛けてる。それが誠二を苦しませてるっていうなら、そうなんだと思う……。だけど、それは俺達のほんの一部でしかないし、あんたにどうこう言われる事じゃない」 
 
 ギャレットは少し苛立ったように腕を組んで澪をじっと見つめた。 
 
「……そんなのは、君の都合の良い言い分じゃないのかい? それが全てじゃないって何故言い切れるんだい? シドウはそう思ってないかも知れないじゃないか。彼の優しさに甘えているだけなのかもしれないよ?」 
 
 組んだ腕の上で、指を忙しなく動かすギャレットの様子に、やはり気のせいではなく確実に余裕がない事を知る。 
 
「俺の都合の良い言い分……。そうなのかもな。確かにそう言う面では誠二に甘えているのかも知れない。――だけど、……俺は、少なくとも……あんたより誠二を幸せにする自信がある」 
「へぇ、それは凄いね。その根拠のない自信に拍手を送らせてもらうよ」 
 
 茶化すように拍手をする音が、二人きりの空間に鳴り響く。ギャレットは最後に一度大きな音で手を叩くと横目で澪をみて、フッと笑った。 
 
「君わかってるのかい? 全摘って事は、君のステージはⅢもしくはⅣに限りなく近いⅢだったはずだ。どんな敏腕なドクターが執刀したか知らないけど。そのステージの胃癌は再発率四割を超えてる。データではそうなってるけど、体感的には半数は再発や転移をしてるんじゃないかな。君は残りの半分の中に確実に入って、生涯シドウを幸せに出来る自信があるのかい?」 
「それは、……。だけど、自分が死ぬかも知れないって事はあんたに言われなくてもわかってる。だから何? それが何だって言うんだよ。誰だって、いつどうなるか、わからないはずだろ。それは、あんたも同じなはずだ。いつ死んでも、相手が「幸せだった」って思って貰えるように毎日を過ごしてる。そうする事しか、俺には出来ないし、そうすべきだと思ってるから」 
「……、……」 
「だから、もう俺達のことに、今後余計な口出しをしないでくれ」 
 
 ギャレットは澪の言葉を聞いて、長く息を吐いて唇を閉ざした。ここまで言って折れないとは予想もしていなかったのだろう。首を振って視線を落とすギャレットは、少しして全く彼らしくない言葉を口にした。 
 
「羨ましいよ。そんな事が言えるほど、シドウに愛されてるって事だよね。それとも、俺が介入する余地はないって牽制のつもりかな?」 
「……どうとでも」 
 
 ギャレットの戯れ言に取り合わないどころか、椎堂との関係に自信があるという態度を見せつけられて、ギャレットは見るからに今までの攻撃的な態度を軟化させた。ギャレットがこうして素の感情を表に出すのを見るのは初めてで、そんな姿を見てしまえば、それはまるで手に入らない物をだだをこねて欲しがる子供のようにも見えた。 
 
「……あんた、本当に誠二が好きなのか?」 
 
 澪に真面目にそう問われると、ギャレットは視線を彷徨わせた。普段の自信家の面影は一切なく、一度剥がれ出した仮面を取り繕う事も出来ないままギャレットが悔しげに呟く。 
 
「それを聞いてどうするつもりだい?」 
「どうするかは、俺の自由だろ」 
「……信じないかも知れないけど、本当さ。少しずつ距離を詰めて、告白するつもりだったよ。だから……君という恋人がいると知った時、酷く俺は動揺した。だけど、君に持病があると確信したとき、それなら俺にもチャンスがあるんじゃないかってさ、思ったんだよ。君とシドウの関係は同情で繋がっている部分が多いだろうってね」 
「…………」 
「そういう関係はちょっとつつけば面白いほどすぐに崩壊する。そんな光景を何度も見てきたよ。――俺が相手なら純粋な恋愛感情のみでシドウとの関係を作ることが出来る。だから、君から奪うのは容易だと判断した。まさか、大人しい恋人だと思っていた君が、直接こんな事を言ってくるとは誤算だったけどね」 
 
 演技なのか? 一瞬そう思えたが、ギャレットの表情を見ればそれが本音なのだとすぐにわかった。澪に対して向けた敵意の全ては、椎堂への思いがそれだけ強かったからだ。ギャレットにとって澪が一番邪魔な存在なのだから。 
 
 それと、ギャレットの台詞でひっかかる部分もある。ギャレット本人の過去なのか、それとも身近な別の誰かの事なのかはわからない。だけど、澪と椎堂のような関係が目の前でいとも簡単に崩れていくのを彼は見てきたのだろう。だから自分も同じように奪えると思ったと……。そんな経験が彼の恋愛観を歪めているのかも知れない。それに気付いていない彼も又、別の意味で不器用な男だ。 
 何故か急に怒りが静まり、ギャレットに同情すらわいてきそうになる。 
 
 だからといって、椎堂を手放せと言われてもそれは出来る相談ではないが、少なくとも本気で椎堂を好きだと聞いて、ギャレットも自分と変わらないただの男なのだと思えた。 
 本音を晒したあと、ギャレットは口を噤み、最初は汚れるからと嫌がっていた壁に、どうとでもなれというように背中を押しつけた。澪は一度咳払いをし、ギャレットへと視線を向けた。 
 
「ひとつ……頼みがある」 
「俺にかい? こんな話をした後で、俺が君の頼みを素直に聞くとでも?」 
「誠二は……。あんたの事、心から尊敬してる……。いつも聞かされてるよ。頼りになる仲間で信頼してるって……」 
「…………」 
「俺には、どんな態度で接してもいい。だけど……。誠二にだけは今まで通りいい仲間で居てやって欲しい……。あんたが俺に言った事もしたことも、話してないし、今日の事も含めてこれからも誠二に話すつもりはないよ。だから頼む……誠二の信頼を、裏切らないでやってくれ……」 
「……っ、そんな事、……」 
「あんたなら出来るだろ? 演技は得意なんじゃなかったのかよ」 
 
 澪が嫌味を込めてそう言うと、ギャレットは眉を下げて少し笑った。 
 
「この先、もし俺がシドウに迫ったらどうするんだい? 勿論、君の居ない場所でね」 
「俺が誠二を苦しめてる。そう言ったあんたが『ソレ』をするのか?」 
「…………」 
「それに、ああみえて誠二は、あんたが想像しているより、ずっと強い男だよ。流されて受け入れるような事にはまずならない。今までの関係を全て失うのと、今のままいい関係を続けるのと……。俺に言われなくても、頭の良いあんたならどっちを選択した方が良いか、わかるんじゃない?」 
 
 ギャレットはもう言い返してこなかった。ギャレット自身ももうわかっているのだ。これ以上自分の入る余地はないのだと。 
 ここへ来た時の険悪なムードも影を潜め、サマータイムで未だ落ちない太陽の陽射しと反比例するようにその激しさが消えていく。 
 
「クガ君、俺はね。やっぱり君みたいな男が嫌いだよ。一番苦手なタイプだ」 
「それはどうも」 
 
 寄りかかっていた背を離し、来た道へ戻ろうとするギャレットが笑いながらそう告げる。その台詞は、言葉とは裏腹に全く悪意を感じさせない物だった。 
 ギャレットは一度だけ澪の方をみないで手を振り、錆びたフェンスの入り口を出て行った。ギギギッという不快な音を立てて開いた入り口が閉じる前に、澪もその間をすり抜ける。 
 
 背後で再び閉まるドア。意識もなく握り込んでいた拳には汗が滲んでいて、自分の緊張が計り知れる。 
 
――これで……。良かったんだよな……。 
 
 正解がわからなくても、自身で行動をしなければ何も変えられない。澪はゆっくり歩き出しながら腕を捲って時計を見る。夕方には帰ると言ったが、もう時刻は六時を過ぎていた。すっかり日が暮れる七時までには帰宅しないときっと椎堂が心配するだろう。 
 澪は少し足を速めると帰路へと急いだ。 
 
 
 
 
    *     *     * 
 
 
 
 
 自宅へ着いてチャイムを鳴らして少し待ってみたが、一向に玄関が開かれる様子がないので、澪は鞄から鍵を取り出して鍵穴へと差し込んだ。 
 
「ただいま」 
 
 声をかけて部屋の中を見渡すと、椎堂の姿がない。しかし、玄関に置いてある靴を見ると椎堂は帰宅しているようである。靴を脱いで部屋へ上がると、風呂場の方で人が動く気配がした。こんな早くに風呂へ入っているのは珍しいので、居間で鞄を置いて上着を脱ぎ、音のする方を覗いてみると、浴室から鼻歌が聞こえてきた。以前聞いた事のある椎堂自作のその曲がおかしくて澪は苦笑する。 
 
「誠二、風呂入ってんの?」 
 
 軽くノックし声をかけ、浴室のドアをあけると、髪を泡だらけにした椎堂が目を瞑ったまま前を隠すように慌てて澪に背を向けた。 
 
「あれ!? 澪なの!?」 
「……俺以外誰がいるんだよ」 
「そ、そうだよね。おかえり! あ、ちょっと待って」 
 
 椎堂は泡だらけの手で手探りでシャワーの場所を探る。目を瞑ったままなのでその向きが全く逆なのに気付かず、澪がその後を察知して取り上げる前に勢いよく手元の切り替えスイッチを押した。 
 凄い勢いで熱い湯が一気にシャワーヘッドから放出され、天井に向かって吹き上げた後澪の頭上から降りかかる。 
 
「…………、……」 
「うわっ!!! 澪、ごめん……」 
 
 気付いた椎堂は自分の顔の泡だけを洗い流して目を開けると、もろにシャワーを被ってしまった澪に何度も謝ってやっと湯を止める。側にあったタオルで拭いてくれようとしたのだが、そのタオルも勿論濡れていて役に立たないどころか、泡もついていて余計に悲惨な結果になった。 
 
「……えっと……ごめん、なさい……」 
 
 びしょ濡れになった髪をかき上げて、澪が長く溜め息をつく。肩へポタポタと滴る雫と服についた泡を払うと、澪は小さく笑いを漏らした。椎堂と一緒に居ると、こうしたとんでもないハプニングにもかなり免疫がついてくる。 
 
「……澪? ……大丈夫?」 
「大丈夫じゃないから、俺も、このままもう風呂入るわ」 
「え!?」 
「誠二のせいなんだから、嫌とか言うなよ」 
「…………」 
 
 濡れて張り付いたシャツや下着を脱ぎ、靴下やズボンも脱いでドアの外へととりあえず放る。後ろ手で浴室のドアを閉めると、椎堂はすまなそうに俯いていた。そんなに広い浴室ではないので、二人でいるのは多少窮屈である。澪が入ってきた途端、また背を向けている椎堂は恥ずかしいのか澪の方を向こうとしない。 
 
 椎堂の手からシャワーを奪うと、澪は一度体に湯を掛けてから、椎堂へとそれを返した。 
 半分流され半分は泡をつけたままの椎堂が、直立している。 
 
「髪、途中じゃないの? 洗い終えたのかよ?」 
 椎堂の毛先を悪戯につまんで引っ張ると、椎堂は恥ずかしそうに頬を掻いた。 
「えっと、実はまだ途中で……」 
「シャンプーとって」 
「……え?」 
「洗ってやるから」 
 
 椎堂は手を伸ばして「自分で洗うしいいよ」と言いながらも澪へとシャンプーを渡す。椎堂を座らせ、適量を掌にとって、椎堂の髪へ再度滑り込ませれば、すぐに沢山の泡がたっていい香りが浴室へと満ちた。 
 最初は遠慮していた椎堂も、澪が器用に髪を洗うのに対して「凄い上手だね」と感心している。もくもくと湯気が立つ浴室では眼鏡のない椎堂の視界はかなり限られた範囲しか見えないのだろう。時々確認するようにシャワーを掴んでみたり落ち着かない様子である。 
 
「澪が帰って来たの知らなかったよ」 
「ちょっと遅くなったから」 
「どっか寄ってたの?」 
「まぁ……。そんなとこ」 
 
 話しながらも、椎堂はしきりに動くので泡があらぬ方に付着して椎堂の片耳は泡だらけになった。 
 
「ほら、動くなって。洗いづらいだろ」 
「……ごめん」 
 
 人の髪を洗うのは嫌いじゃない。洗い残しのないように優しく地肌をマッサージし、指の間を髪がするりと抜けていく感覚。円を描くように動かせば泡立ちが良いのだと以前美容師をしている客に教わった。 
 
「よし、これで終わり。流すから目瞑ってて」 
「うん」 
 
 洗い終えた椎堂の頭の上から、ガンガンシャワーをかける澪に、何が可笑しいのか椎堂はクスクスと笑い始めた。 
 
「洗うのは丁寧だったのに、流すのは豪快だね。何だか澪っぽい」 
「どういう意味、それ」 
 
 澪が苦笑しながら全てを流し終えると、椎堂は左右に首を振って水を落とし、背後に居る澪に振り向いた。よく見えないからなのか至近距離に顔を近づけた椎堂の視線と目が合う。くるんと丸まって濡れた髪が、重い雫を落とすと軽くなってピョンと跳ね上がる。 
 
「僕も、澪の髪洗ってあげようか?」 
 
 首を傾げてそう聞く椎堂の姿は本人の意思とは無関係に、澪を掻き立てた。椎堂の真っ白な体が湯を弾いている。なだらかな腰のラインに澪はそっと手を伸ばすと、あてがって少し引き寄せそのまま体を抱き締めた。濡れた互いの肌が吸い付くように密着する。布一枚挟まないこの距離で椎堂を抱きしめる事はほとんどない。 
 
 椎堂の早くなった心音が澪にも伝わって、自身の鼓動と混ざり合う。 
 
 この腕の中に居る椎堂を誰にも渡したくない。そう強く願うからこそ、ギャレットにもはっきり言う事が出来たのだ。自信があるかないかなんて事じゃない。ただただ、――そう、手放したくなくて。それだけだった。「澪? ……風邪引いちゃうよ……?」小さくそう呟いて、椎堂は空いた手でシャワーを掴んで澪の背中へと湯を掛けた。自分の背中を流れ落ちる熱めの湯が、ギャレットに指摘された幾つかの不安を洗い流していく。溶け込んで流れていく湯を感じながら、澪は椎堂の濡れて妖艶に艶めく唇を静かに塞いだ。 
 
「……平気だよ」 
 
 椎堂の首筋に指を這わせながら、澪は何度も口付けを落とす。つるりと滑る唇に舌を侵入させ、椎堂の口腔で絡め合えば、シャワーの音に混じって椎堂の吐息が漏れ出す。激しい口付けに息をつく間もないまま呑み込まれる……。溺れていく感覚に舌をもつれさせ、椎堂は口付けを一度ずらすと大きく息を吸った。 
 
「……澪、っ……」 
 
 澪の下腹部に手を伸ばすと、頭をもたげている高ぶりがすぐに椎堂の指先に当たる。感じてくれているのがわかっただけで嬉しくなる。刹那的な行為では感じる事の出来なかった、愛しているからこその嬉しさ。それを掌で握ると、澪は口付けを解いて眉を寄せ小さく息を漏らした。 
 
「……こら、触んなって……。我慢、できなくなんだろ……」 
「だって……」 
 
 澪は椎堂の手を掴んで引き離すと、最後にもう一度唇に口付けをし、その後椎堂の前髪をかきわけてその額へも軽く口づけた。あの日交わした約束は未だ守られていて、今までも数回機会はあったものの最後まではしていない。 
 手でする事も口でする事も望んでいるし簡単な事ではあるが、それによって澪が自分を責めるのがわかっているのにその行為に及ぶことは出来ない。頑なに約束を守る澪を、これ以上困らせたくはなかった。 
 
「背中、流してあげるね……」 
 
 椎堂は手にしたタオルを泡立てると、澪の背中へとあてた。自分より大きなその背中をゆっくりこする。そのまま長い腕に移動し、自身を抱き締めてくれるその腕を辿れば、その腕の感触が蘇って愛しくなる。両腕を洗い終える頃、澪は椎堂の手からタオルをとって「有難う」と優しい笑みを向けた。 
 
「髪はいいの?」 
「誠二、あんま見えてないだろ? 眼鏡ないし」 
「それはそうだけど……」 
「目に指入れられそうだから、遠慮しとく」 
「そんな事しないよ!?」 
 
 澪は全身を洗い終えてシャワーで流しながら笑っている。 
 
「先に上がったらさ、そこに脱いでる俺の服。洗濯機につっこんどいて」 
「うん、わかった。ああ……僕も服濡れちゃったしついでに洗濯仕掛けちゃおうかな」 
「濡れたって、なんで?」 
「うん。帰りにね、お花屋さんの前を通ったら丁度ホースで水をやってて……」 
 
 椎堂が言うには、そのホースをトラックが踏みつけて水がありえない勢いで出てきて椎堂に直撃したというのだ。中々ない経験である。同時に何故椎堂がこんな時間に風呂に入っていたのかも合点がいった。もし自分がそんな目に遭ったら、不運を嘆くところだが……。 
 
「でも、濡れて良かったよ。お店の人がお詫びに好きな花を持っていっていいってプレゼントしてくれたんだ。花の種類はよく知らないけど、好きな花を何本か貰ってきたから後で水にさして居間に飾ろうと思ってる」 
「……良かったな」 
「うん!」 
 
 椎堂が嬉しそうなので、これはこれでまぁ良かったのかも知れない。先に上がった椎堂がごそごそと洗濯の準備をして、直後洗濯機が回り始めた音を聞きながら、澪はシャンプーを洗い流す。 
 
 帰宅も少し遅かったし、あがった頃には七時は過ぎているだろう。昼食の弁当を食べて以来今日は何も口にしていないので少し腹も減っている。顔を最後に洗って、シャワーを壁に掛け、浴室を片付けてあがる。バスタオルで体を拭いていると、キッチンの方から夕食の準備をする音が微かに聞こえてくる。 
 突然風呂へ入ることになり下着を持ってきていないので腰にタオルを巻いて脱衣所からでると、椎堂がそれに気付いて階段を上る澪に声をかけてきた。 
 
「夕飯すぐ出来るから、着替えたら下りてきてね」 
「わかった。俺も手伝うからゆっくりやってて」 
「うん」 
 
 今日の夕飯は何なのか、そんな事を考えた瞬間、自分の体調のことを忘れている自分に気付く。これが、望んでいた日常なんだ……。自然に返した何気ない会話を反芻して、澪はふっと笑みを浮かべた。