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 フロントガラスを軽く拭きながら椎堂が出てくるのを待つ事十分。 
 澪の体調もだいぶ落ち着いているので、今日は前に約束していた海を見に行く事になっている。 
 
 「すぐ行くね」と言っていたはずの椎堂は中々外へ出てこなかった。特に誰かと待ち合わせをしている事もないので急ぐ必要は無い。しかし、泊まりがけではないので、財布さえ持っていれば事は足りるはずであった。 
 薬と最低限の所持品をいれた小さめの鞄を、澪は既に車に積んである。 
 わざとゆっくり拭いていたフロントガラスも綺麗になり、サイドミラーまで拭いた頃、椎堂は漸く「ごめん! 遅くなっちゃった」と言って玄関から姿を現した。その姿を見て思わず澪は呆れた声を出した。 
 
「何だよ、その荷物」 
 
 一体何を持ってきたらそんな大荷物になるのか。椎堂は大きなバッグを二つも手に持っていた。何泊の旅行へ行くつもりなのだろう。 
 
「え? うーん。色々入ってるよ? 着替えとか、バスタオルとか。耳に水が入った時のために綿棒もいれておいたよ」 
 これに浮き輪でもプラスされれば、それはもう海水浴へいく装備である。 
「なんで濡れる前提なわけ」 
「だって……、大波が押し寄せた時……とか?」 
 
 ビーチで二人で寛ぐだけのはずが、どこをどうしたら押し寄せる大波をかぶる事態になるのか……。 
澪は思わず「……要らないだろ」と率直に呟く。 
 
 椎堂は今日二人で海を見に行くというのをとても楽しみにしていて、昨夜から準備を始めていた。昨夜は先に寝てしまったし、朝起きると椎堂はもうとっくに起きていてあれやこれやと動き回っていて落ち着かない様子だった。その間、椎堂が何をしていたかはわからず。知らぬ間にこんなに大荷物になっているとは思わなかったわけだが……。 
 
 澪に要らないと言われたことで、椎堂は少しガッカリしたように肩を落とした。 
「じゃぁ……減らしてこようか。澪の分も一応入れてあるけど」 
 
――濡れないとは思う。思う……けれど……。 
 
 椎堂のその残念そうな表情には弱い。心の中でもう一人の自分が、折角用意したのを否定するなんて狭量だろ、と責めてくるので、澪は軽く溜め息をついて後部座席のドアを開けた。 
 
「……。まぁ、車だから持ってくか」 
「え、このままでいいの? じゃぁ、乗せちゃうよ?」 
「うん」 
 
 今からまた、『これは要る・要らない』とやっていたら時間のロスでもあるし、万が一何かの拍子で濡れる事があったら役に立つかも知れない。大波を被らなくても大雨が降ってくる可能性は皆無ではない、かもしれない。 
 
 荷物を二つ後ろへ積んで、澪は運転席のドアをあけて乗り込んだ。今の所は雨が降る気配はなく、天気予報の降水確率もゼロだったはずだ。 
 少し乾燥気味の晴れ渡った空気を吸い込んで車のエンジンをかける。行きは澪が運転して、帰りは椎堂が運転する事になっている。カーナビに予め入れていた目的地を設定すると所要時間二時間十分と表示された。まずはフリーウェイ四〇五号線に向かう為に市内を走らせる。遅めの朝食を家で食べたので、昼飯は遅くてもいいかという話になっている。よって現地には昼過ぎに到着予定である。 
 市内は空いていて、信号以外で停車することもなく順調に流れている。 
 
 日が高くなってきて陽射しが眩しいので、途中グローブボックスにいれてあるサングラスを取り出してかけると、助手席の椎堂は澪の方をじっと見つめて、「いいな~。サングラス」と呟いた。 
 アクセルを踏み込み、澪はフロントミラーの角度を調整すると椎堂へと口を開く。 
 
「誠二も掛ければいいじゃん。眩しくないの?」 
「すっごく眩しい……」 
 
 椎堂はそういって前を向くと目を眇める。角度にもよるのだろうが、椎堂の顔には直射日光が直撃していて、椎堂が言わずとも見るからに眩しそうである。 
 
「でも僕、眼鏡してるから、サングラス出来ないんだよ。眼鏡の上に眼鏡掛けることになっちゃうよ」 
「確かに」 
「度付きのサングラス作っても良いけど、普段使わないしね……。僕似合わないし……。いいよ、こうしてるから」 
 
 椎堂は目を半分だけ閉じるようにして薄目で前を見ている。現地に着くまでずっとそんな事をしていたら疲れるだろうし、そんな状態で我慢している椎堂の姿がおかしくて運転に集中出来ない。澪は手を伸ばして助手席側のサンバイザーを下げて椎堂の視界を遮った。 
 
「これでちょっとはマシになるんじゃない」 
 
 影になった目を開いて、椎堂は「あ、本当だね」とニッコリ笑う。途中、意味もなく辺りを見渡したりと、椎堂はこうした初めての遠出に浮き足立っているようである。 
 ラジオからノリのいい音楽がひっきりなしにかかるので、ついスピードを出し過ぎてしまい、澪自身も「人のことは言えないな」と苦笑してスピードを落とす。しかし、そのラジオも、内容はほとんど聞き取れていなかった。何故なら椎堂が話し続けているからである。 
 
 運転中だからと言うのもあるが、相槌を打つ以外でそんなに喋らない澪相手にも、椎堂はお構いなしだった。もうすっかりこの関係性に慣れているし、これはいつものことなのだ。 
 全く科学的な根拠から対極にあるような『空は何故青いのか』の絵本のような話から始まり、最近椎堂が独学で勉強している栄養管理学の話まで、椎堂は日頃から患者にわかりやすく説明をする癖が身についているので、どんな話もすんなりと頭の中で理解に結びつく。楽しそうに話を聞かせる椎堂の声は、おっとりしていて聞く者の耳にも優しかった。 
 
「それでね、」 
 
 椎堂が話の途中で、一度言葉を止めて澪をチラッと見る。先程からの何度目かのそれに気付いて椎堂の方をみると、椎堂は慌てて目を逸らした。何か言いたい事があるのか、澪は不思議に思って横目で椎堂に視線を送った。 
 
「ちゃんと聞いてるけど」 
「えっ、あ……。うん、それはわかってる」 
「じゃぁ、何でさっきから、こっちしょっちゅう見てんの」 
「いや、あの……別に……」 
 
 急に視線を落として指を弄り始めた椎堂に、フと思い当たった事を澪は口にした。 
 
「あ、トイレ行きたいとかなら、早めに言えよ? ドライブインに入るから」 
「そんなんじゃないよ! その……」 
「……?」 
「澪が、……かっこいいなって思って。……ちょっとドキドキしてた……」 
 
 すぐに返事をせず信号で停車してから椎堂の方に向き直ると、椎堂は耳まで赤くなって俯いていた。そんなに恥ずかしいなら言わなければ良いと思うのだが……。素直に口にしてしまう所が椎堂らしい。 
 
「耳まで真っ赤だな」 
 
 指先で椎堂の耳朶をちょこっとつついて小さく笑い、青になった信号を視線の隅でとらえて再び発進しだす。椎堂は「気のせいだよ」と小さく否定してみて、その後ごまかすようにラジオのボリュームを上げた。 
 デートらしい事をしたことがないという椎堂は、こういった小さな事ですぐに赤面する所が初々しい。 
 
 一緒に住み始めてそれなりの月日が経過し、お互いが傍にいる事が今では普通である。それでも、飽きた事もないし……、起きた瞬間、眠る間際、椎堂の存在が隣に居る事が今でも一番幸せな瞬間だとも思っている。 
 
 LA市内から南へ向かって進み、ナビの通りラグナキャニオン・ロードで降りて暫く走ると、辺りはリゾート地の様相を見せ始めた。海の街に似合う白い壁の建物が多くなり、通りを歩く人達もどこか開放的だ。 
 目的のラグーナビーチ付近は芸術の街でもあるため、ギャラリーや美術館などもあり他の観光地に比べて個性的な店が多い。ストリートパフォーマンスで音楽を奏でる者や、風景画をスケッチしている者。それぞれが自身の才能をあちらこちらで披露している。 
 
「綺麗な街だね。あ! あっちで何か日本語がかいてあるよ」 
 
 椎堂が指さす方へ視線を向けると、日本食の立派なレストランがあり、壁に書かれた食事処という文字の前で若者が記念撮影をしていた。 
 
「もうこの大通りの反対側は海だから、そろそろどっかに車停めるか」 
「うん、そうだね」 
 
 一度車を脇へと寄せて停車し、澪はパーキングをナビで探す。海と今居る通りの中間に大きめのパーキングを発見した。早速そこへ向かい、車を停めて最低限の手荷物だけを持って先程の通りへと戻る。 
 街には高いビル等はなく、それぞれの店やギャラリーが通りを埋めている。建築様式に関してはまったく知識が無いが、理解できずとも、何も考えずに見ているだけでそれなりに楽しい。ただ一つ難点もあった。 
 
 日本の街はそう高低差がないが、この付近はどこの店からも海を見渡せる設計に拘っているのか立地が階段状になっており坂が多い。一番下まで下れば海岸で、その途中でいくつかの細かい通りに別れているといった状態だ。普段平坦な道しか歩かない人間にとっては慣れるまで時間がかかりそうである。 
 
 あちこちに目を奪われ、フラフラとよそ見している椎堂の手を取ると、椎堂は少し恥ずかしそうに澪を見上げた。繋いだままでいいの? とでも聞きたそうに澪を見る椎堂に、澪は少し笑みを浮かべて頷いた。 
 この街で知り合いに会うこともないだろうし、問題はないはずだ。指を絡めて歩き出すと、椎堂は澪の手を離さないように、ぎゅっと力を入れた。 
 
 観光客もぼちぼちいるが、街はそんなに人が多くなくどちらかというと地元の人口が高いようで、騒がしい雰囲気のない落ち着いた街である。 
 
 いくつかの店を一緒に覗いて散策していると、椎堂が一軒の店の前で立ち止まった。小さな店構えの陶器店で、店内へ入ってみると手作りの食器類が所狭しと並べられている。真っ白な食器に紺色の筆で描かれた魚の絵、デフォルメなのでぱっと見は魚に見えない所もさりげないアクセントになっている。 
 
 手に取って食器を眺める椎堂と店員が話し始め、その間澪は店内の通り沿いに向けてディスプレイされたショーウィンドウの中の品物を眺めていた。暫くそうしていると澪の背中に椎堂の声がかかる。 
 
「澪、このお店の食器の絵ね。彼の娘さんが全部描いているんだって」 
 
 恰幅のよい髭を生やした店主が澪ににっこり笑って「全部素敵だろう?」と言葉を掛ける。「どれも素敵ですね」と返すと、店主は満足そうに何度も頷いた。 
 
 何に使うのかわからない謎の食器を見つけて澪がそっと手に取ってみると、店主曰く、ゆでたまごを置いておく器らしい。そのシリーズには先程と違って、小鳥が全部の皿に描かれており、色彩も華やかで愛らしい食器だった。手作業でひとつひとつ描いているから、同じ物は一つも無いという事だった。 
 折角なので記念に揃いのカップを買っていこうという話になり、椎堂は真剣な顔でもう一度店内を見渡し、奥の棚で足を止めた。 
 
「僕、これがいいな。どう?」 
「どれ?」 
 
 椎堂が立ち止まっている場所へ足を進め、隣に並んで椎堂が指さす食器を見る。白木で出来た棚の中段に飾ってあるそのシリーズは水玉と言うには不揃いのカラフルな玉模様が描かれている物だった。何種類かカラーバリエーションが揃っており、基調となっている玉の色がそれぞれ違う。 
 
「いいんじゃない。じゃあ、これにしよう」 
「うん! 僕はどれにしようかな……」 
 
 椎堂はざっと全種類を眺めた後、鮮やかな緑を基調とした物を手に取った。澪は少し迷った後隣にあった群青色を基調とした物を選ぶ。揃いのデザインだがこれならそれぞれ間違うこともないだろう。 
 揃いの物を一緒に選んで買うというのは、いかにも恋人同士がしそうな事で、澪は少しの恥ずかしさを感じていたが椎堂は全く気にする事も無く、嬉しそうに二つのマグカップを会計して、先に店の外で待っている澪の所へ戻ってきた。 
 
「気に入った物が買えて良かったな」 
「うん。帰ったら早速使おうね」 
「ああ」 
「ねぇ、澪。運転して疲れてない? 休憩がてら、そろそろお昼ご飯にする?」 
 
 時計を見ると、もう三時である。一時半には来ていたので結構な時間通りの散策をしていたらしい。 
 
「そうだな、じゃぁ飯にするか」 
 
 椎堂が「澪は何が食べたい?」と聞いてくるが、自分はそんなに食べられないので主に食べる椎堂の好きな所で決める事にした。椎堂は通りを歩きながら、色々と迷い、結局シーフードの店に決めたようだ。海のある街なのでシーフードメインの店が多かったというのもある。 
 
 店内は通りの向こうに海が一望できるテラス席になっていて、昼間からビールやワインを飲んでいる客も大勢いる。丁度空席だった一番海側の端の席に二人で腰を下ろす。運ばれてきたメニューをみて、澪は魚介のトマトリゾット、椎堂はシーフードパスタを注文する。 
 
「澪、ご飯食べられそう?」 
「うん、なるべくさっぱりしてそうなのにしたし大丈夫じゃない。全部食えないと思うけど」 
「残ったら僕が食べるから、無理しちゃ駄目だよ?」 
 
 一人前を完食できないのは男として情けない気分であるが、食事に関しては仕方がない。澪は椎堂が気付かない程度に小さく息を吐くと、鞄から食前の薬を出して手元にある水で一気に飲み込んだ。 
 少し離れているにも関わらず、強く風が吹くと、その風に乗って海の匂いが鼻を掠める。日本の海とは全く違うからっとした、色で例えるならば透き通った青色の匂いだ。 
 
 周りの楽しそうな笑い声と、幸せそうな家族や恋人達の笑顔。普段紛れこむ事が中々ない空気は、旅行に来ているという気分を満喫させてくれる。 
 海へ向けていた視線をフと椎堂に向けると、椎堂も海の方を見ていた。その横顔は、周りの笑顔に負けないくらい幸せそうで、一緒に来られて良かったなとしみじみと感じる。 
 
「海、……綺麗だね……。透明で凄く青いし」 
「ああ……。後で砂浜に行くから、もっと近くで見れるよ」 
「うん、楽しみ」 
 
 椎堂が振り返って、嬉しそうに眉を下げる。テラスの屋根は布でできていて風が吹くとゆらゆらとその屋根をたゆたわせる。影も一緒に揺れれば、椎堂の髪の影もそれと同じようにゆったりと揺れて見えた。 
 海風に煽られて僅かに乱れる前髪をかき上げ、澪もゆっくりと流れる時間に身を任せる。 
 少しして運ばれてきた料理を前に二人で「いただきます」と手を合わせ、それが日本人特有の行動だという事に気付き顔を見合わせて少し笑った。 
 
 澪のリゾットに乗っているのは主に貝類だったので殻を外すだけで終わったが、椎堂のパスタの上には殻付きのロブスターがでかでかと乗っており、まずはそれをどうにかしないと下のパスタに行き届かない状態である。澪がリゾットにスプーンをいれて、椎堂の様子を見ていると、椎堂は眉間に皺を寄せて真剣な表情でロブスターを持ち上げ、そのまま慌てたように元の場所へと置いた。 
 
「どうした?」 
「どうしようこれ、めちゃくちゃ熱いんだ、……持てない……」 
「そんなに?」 
「うん、指火傷したかも」 
「マジで?」 
 
 椎堂の指先を見ると確かに少し赤くなっている。 
 
「どれ、ちょっとかしてみ」 
 
 澪が椎堂の皿を引き寄せて、上に乗っているロブスターを掴むと、確かにかなり熱いが火傷するほどではない。裏返して中身をフォークで器用にとり出し、皿に載せて殻を別の皿へと置いて椎堂へと返すと、椎堂はその一部始終を見て「澪凄い!」と驚いている。 
 
「いや……そこまで熱くなかったけど」 
「えぇ??」 
「誠二の指が、猫舌みたいなもんなんじゃないの」 
「指なのに猫舌っておかしいね」 
「じゃあ、何て言えばいいわけ?」 
「うーん……猫手……とか」 
 
 それはどう考えても可笑しい。答えは結局分からなくて二人で笑ってしまう。無事にパスタに辿り着いた椎堂は一口食べてとても美味しいと目を細める。 
 
 澪の頼んだリゾットも、魚介の出汁にトマトの酸味があっていてとても美味しかった。旅先で不味い店に入ってしまうのはよくある失敗ではあるが、今回はどうやら二人とも成功だったらしい。そんなに量は多くなかったので、椎堂が自分の分を食べ終えた後、澪の少しの残りを食べ、残すこともなく食事が終わった。セットだったので最後に飲み物が運ばれてくる。 
 結構外が暑いので冷たい飲み物を選んで正解だった。果物100%のジュースはトロピカルな飾りがついていて、いかにもリゾート地らしい見た目だった。 
 
 真上に昇っていた太陽も大分傾き、時刻は四時を過ぎている。日没は七時過ぎなので椎堂が見たがっている夕日の景色は六時過ぎから待機していれば大丈夫だろう。 
 ゆっくり休憩を取ったあと、再び通りに戻って海の側へ歩いて行く事にした。 
 
 先程の通りは、地元の所謂洒落た大通りとでもいうような場所だったが、海へ近づくにつれて観光客相手の店やホテルが目立つようになる。椰子の木や、海辺の植物が多く植えられ、海岸までの歩道を飾っている。海辺のホテルは豪華な物もあればこぢんまりとした物もあるが、どこも雰囲気が良さそうだった。 
 
 土産物屋を何軒かまわって、瓶に入った変わったスパイス等を買いながらブラブラしていると、椎堂が歩いてきた階段の上を振り返って一度足を止めた。 
 
「こんなに素敵なホテルが沢山有るなら、一泊すれば良かったかな」 
「泊まりたかった?」 
「最初は日帰りでもいいかなって思ってたんだけどね。でも、また今度来ればいいよね」 
 
 椎堂は少しだけ名残惜しそうにホテルを見上げた。確かに滅多にない機会だから一泊ぐらい宿をとればよかったかもしれない。そういえば、着替えやタオルなどを椎堂が一通り揃えてきていたのを思いだし、宿さえ取れれば一泊出来るのではないかと澪は考えた。 
 
 通りに戻って歩いている途中、喉が渇いたと椎堂が言う。確かに空気も乾燥しているし陽射しも強いので喉も渇く。何件かテイクアウト出来そうな軽食店が並んでいて二人で足を止めた。 
 
「俺、ちょっとトイレ行ってくるから、そこのベンチで待ってて」 
「うん、わかった。飲み物買ったらそこに座ってるね」 
 
 椎堂をその場で待たせて、澪は三軒ほど先にあるコンビニへ行く素振りを見せつつ、先程のホテルの前へ足を運んだ。海岸へ降りられる程海の側に建っているそのホテルはすでに客が沢山居て、ちらっと覗いた駐車場もかなり埋まっている。しかし、聞くだけ聞いてみようと思い、フロントで部屋の空きがないか訊ねてみる事にしたのだ。 
 
 どの部屋でも良いから空きがないかと訊ねると、運良くキャンセルがあってひと部屋空いていた。しかも、海側の部屋だという。そのままその部屋をとって、急いで椎堂の元へ戻る。 
 椎堂は澪に言われたとおり近くのベンチに腰掛けて飲み物を飲んでおり、澪が早足で近づくと「澪!」と慌てたように腰を上げた。 
 
「悪い、遅くなって」 
「大丈夫なの?? 具合が悪くなったのかなって心配しちゃったよ」 
「ごめん、それは平気」 
「……良かった。トイレちゃんと探せた?」 
「ああ、うん。ついでに、折角だからホテル予約してきた」 
「え? ホテルって?」 
「泊まりたいんだろ? 一泊して、明日帰ろう」 
「ほんと!? あっ! でも……待って」 
「ん、なに?」 
「澪、薬は? 持って来てるの?」 
「うん、一応余分には持ってきてる」 
 
 椎堂はそれを聞いて、はしゃいだ様子で「嬉しい」と何度も言って、通りの人目も気にせず澪に抱きつき……、すぐに離れた。 
 
「ご、ごめん。つい嬉しくって」 
「大丈夫だよ。知り合いなんていないって」 
 
 澪はそういって椎堂の頬に悪戯に口付けを落とした。立ったまま真っ赤になって硬直している椎堂を置いて澪が先を行く。 
 
「早く来ないと、置いていくぞ」 
 
 澪が笑いながらそう声をかけると、椎堂は我に返って澪へと駆け寄った。飲み物を片手に持った椎堂は、澪と繋ぐ方の手からそれを持ち替えて、澪の手を掴む。氷入りのカップで冷たくなった椎堂の指先を温めるように澪は握りしめ、並ぶ椎堂を見下ろしてふと優しい笑みを浮かべた。 
 
 今度いつ来られるかわからないのだから、想い出は一つでも多い方が良い。 
 一緒に観る景色も、こうして繋いだ手も、笑い合って食べた食事も……。全て。過ぎていく一瞬が二度と戻らないと知っているから。 
 
「澪もこれ、飲んでみる? 聞いた事ない果物が入ってるミックスジュースだって」 
 
 椎堂が手に持つ透明なカップに入っているドリンクは、けばけばしい紫色をしていて原材料の予想がつかない。 
 
「……おいしいのかよ」 
「飲んでからのお楽しみ」 
 
 椎堂が笑ってストローを澪の方へ向ける。仕方なく、少し身を屈めて椎堂の手に持つそれから一口飲んでみる。 
 
「……まっず、……なにこれ」 
 
 妙に甘ったるくて果物と言うよりは溶かしたケーキのような味だった。椎堂もいまいち美味しくないのがわかっていて澪に飲ませたのか、口に残る甘さに眉を顰める澪を見て、愉快そうに笑う。 
 
「不味いのわかってて、わざと勧めただろ」 
「まさか~。そんな事するわけないよ」 
 
 白を切る椎堂の髪をぐしゃぐしゃと乱暴にかき混ぜると、椎堂は抵抗して頭を庇うように澪の手から逃げて先へ行き、くるりと振り向いた。 
 
「澪」 
 
 一度名前を呼び、その後椎堂が口にした言葉。 
 
――大好き……。 
 
 いつのまにか届く距離まで来ていた波の音が、椎堂のその最後の言葉をさらっていく。 
 本当は届いているその言葉をもう一度聞きたくて、澪は椎堂との距離を縮め耳元で囁く。 
 
「……聞こえなかったから、もう一回言って」 
 
 椎堂は悪戯に笑みを浮かべると、「だーめ」と笑いながら言い、澪の手をとった。