Bitter & Sweetness -後編 –


 

 
 店を出てからホテルまでは通常なら十五分程度の距離なのでタクシーを拾うまでもない。しかし、予想外に晶が酔っているので歩くのに時間がかかった。 
 
「真っ直ぐ歩けないなら、抱き上げて運んでやっても構わんが?」 
 後ろからついてくる晶に振り返ってそう言うと、晶は「冗談じゃねぇよ」と悪態をついて、わざと早足で佐伯の横に並んだ。 
「要こそ、ふらついてんじゃねぇの? お兄さんが、おんぶしてやってもいーんだぜ?」 
「……フッ……、バカを言え」 
 
 革靴は雪には不向きで、歩きづらい。先程一度深い雪の部分に足を取られたのを後ろから見ていたらしい晶がすかさず返してくる。慎重に歩いたせいで、ゆうに三十分はかかってしまったが、何とか無事にホテルに着くことが出来た。 
 随分遅い時間なのでチェックインをしている客も全くおらず、ロビーは静かだった。カウンターで鍵を受け取り、預けていた荷物を引き取ると晶を連れて部屋へと向かう。 
 
 そういえば、晶と都内のホテルへ泊まるのは初めてだ。電子キーを翳しドアを開くと、生活感のないモデルルームのような部屋が広がっていた。濡れたコートを脱いで椅子の背もたれへかけ洗面に向かう。 
 この季節はうっかりすると風邪をもらうので手洗いうがいは必ずするようにしているのだ。面倒臭がる晶にもそれをさせ、漸く一段落つく。ベッドはセミダブルが二つ、セミスイートのツインなので部屋の半分はベッドが占めている。 
 
 大きく開かれたカーテンから眩しく差し込むのは陽射しではなく、隣接するビルの華やかなネオンだ。窓際に寄って一日の疲れが溜まっている首に手を当て揉んでいると、傍に来た晶がジャケットを脱いで、佐伯のネクタイを強く引っ張った。 
 
「セックス、……するだろ? 今すぐしよ?」 
 
 誘うように囁き、晶は佐伯のシャツのボタンに手を掛けた。晶もまだ酔っているので、風呂にでも入って休んでからと考えていたが、本人に誘われては断る理由もない。 
 
 佐伯は、シャツに伸ばされた晶の腕を掴んでそのまま晶の指先を口に含んだ。入り込んでくるネオンで鮮やかに色を変える晶をじっとみつめたまま舌で指を舐め絡ませる。 
 
「ん……、エッロい舐めかた……。指じゃ無くて、こっちにしろよ」 
 
 晶が佐伯の唇から指をスッと抜いて、代わりに自らの唇で塞ぐ。すぐに差し込まれた舌が、今晶の指を舐めたのと同じ動きをして佐伯の口内をなぞりあげた。久々に味わう晶との口付けは、熱くて、甘くて、交わる度に熱を帯びてくる。 
 
「……要」 
 
 吐息と共に名を呼ばれ、もつれ合うようにベッドサイドへ寄り佐伯は気付くと晶をベッドへと押し倒していた。ゆっくりと吐き出される晶の呼吸と自身の心音が交互に耳に届く、次第に乱れていくだろう晶の呼吸音を想像するとゾクゾクする。 
 慣れた手つきで衣服を剥ぎ取り、裸の胸に耳を当て佐伯はしばし目を閉じた。確かな鼓動、吸い付くような白い肌、首元までのぼれば、晶の付けているいつもの香水のラストノートが鼻腔を掠める。ほどよくのった筋肉は、佐伯がする愛撫で時々痙攣したように動く。 
 佐伯の脳内には、立体的な人体の構図が刷り込まれている。普段それを気にする事も無く、ごく自然に捉えているというのに、晶の肢体に同じように指を這わせれば、その感覚はいつもとは全く違った。 
 
 いつにも増して敏感な晶の躯。挑発的なその瞳に魅入られれば、その全てを支配したくなる。晶の髪に指を潜らせたまま強く口付ければ、晶の唇の隙間から吐息混じりの喘ぎが漏れた。 
 
「……足りねぇよ」 
「窒息するぞ、良いのか」 
「それ、最高だろ」 
 
 くっと佐伯が小さく笑い、晶の両手首をきつく掴んでベッドへ押しつける。覆い被さるように言葉通りの激しいキスを繰り返して口内を犯す。――窒息しても構わないと言うなら、お望み通りするまでだ。 
 
 忙しなく酸素を求める晶も、応えるように佐伯の唇を追い続ける。こんなに何度も口付けをするのはいつぶりだろうか。佐伯との口付けで溜め込んだ寂しさが消えるというなら、何千回口付けを交わしてもきっと埋められやしない。だから、望むのだ。叶わないから尚欲しい。そして、繰り返す。 
 
「――晶」 
 
 朦朧としてくる頭の片隅で、佐伯が自分の名前を呼ぶ声がする。夢じゃないのを確認したくて佐伯の硬い背中に腕を回せば、そこにはちゃんと佐伯の体温が感じられた。繰り返す口付けで、日中に煙草の巻紙でうっかり傷つけた唇の傷が開き、少しの痛みを感じた。さすがに洒落にならない苦しさで、このままだと佐伯に本当に殺されそうである。 
 
 晶がそう思った所で、苦しそうに息を吸う晶の唇から繋がった銀糸が一筋光り、佐伯もあがった息を殺して一度唇を離した。鉄さびの味が舌に残っている。佐伯は晶の唇をみつめ、切れた晶の唇から僅かに滲んだ真っ赤な血を指の腹で伸ばして「煙草にもってかれたのか?」と苦笑する。 
 
「あたり。なぁ、要」 
「何だ」 
「他の奴とのキスで、ついた傷だったら……、どうするつもりだった?」 
 
 晶が佐伯の瞳をじっとみたままにやりと口元を歪める。望み通りの答えをもらえるのがわかっていて出された問いに、佐伯も満更でもないようにフッと薄い笑みをのせた。晶に対しての模範解答を告げるのは容易い。 
 
「相手が客なら、大目に見てやる」 
「おっとな~! ……んじゃ、客じゃなかったら」 
「――そうだな。その時は、俺がお前にもっと痛む傷を付けてやる」 
 
 そう言って佐伯は唇の傷に軽く爪を立てた。 
 
「この傷を、思い出す余裕がなくなる程の、一生消えない傷をな」 
 
 晶は自身の舌で佐伯の指先の載った唇を舐めると、「俺、殺されそう」と冗談で言い、いたずらに笑った。 
 
「俺に殺されるなら、本望だろう?」 
「ばーか、んなわけあるかよ。どこのマゾだよ」 
 
 そう反抗しながらも、佐伯からこういう言葉を聞けた事に安堵して、晶は再び軽く佐伯へと口付けると佐伯の首に腕を回した。腕で支えていた自分の体をのせてくる佐伯の体の重みも、縛った髪からこぼれて首元をくすぐる一筋の髪も、嗅ぎ慣れた僅かな消毒の匂いも、佐伯を表すその全てを刻んでおきたくて、晶は火照る身体中の神経を研ぎ澄ました。 
 
 尖った乳首を口に含まれ執拗にこね回されれば、感覚が麻痺してくる乳首と比例して股間がじわりと濡れてくる。焦らされたペニスが痛いほどに膨張し、布地を突き上げていた。 
 
 冷たく張り付く下着を不快に思っていると、それが伝わったように佐伯が下着を一気に脱がせる。自身も着衣を脱ぎ去ると、佐伯は晶のペニスに片手を添えて緩く扱いた。自慰行為はそれなりにしているが、その時に想像する佐伯と本物はやはり違う。手の大きさ、体温の低さ、指の動き、なぞらえているつもりで出来ていないそれを佐伯は教え込むようにゆっくりと動かす。 
 
 あっというまに募っていく射精感を耐えるようにして、晶は佐伯の腕を掴んだ。 
 
「っ、……ちょっと、待っ」 
「どうしてだ」 
「今夜は、最、初から……要で、イきてぇから……」 
「――ほう」 
「俺、上で……いい?」 
「ああ」 
 
 佐伯が手を離し、ベッドの背もたれに寄りかかると晶を乗せる。佐伯に跨がったまま、晶は佐伯の首筋に口付け耳朶を甘噛みした。濡れた晶の舌がくちゅくちゅと音を立てて耳の穴をなぞる。佐伯は、自分を愛撫していく晶の躯に手を伸ばした。しならせた腰のライン、男らしい骨格とは裏腹に柔らかな肢体。積極的に攻めてくる晶は、雄の匂いをまとって佐伯を誘惑する。 
 晶が攻めれば大抵の女なら落とせるだろう。優しい言葉に甘いマスク、上等なキスとセックス。どれをとっても流石No1ホストだと認めざるを得ない。 
 
 しかし、ひとつだけ誰も知らない顔があるのだ。 
 そして、そのひとつが晶の魅力が最大限に引き出される要素である事も。佐伯だけが知ることが出来るその顔が見たくて、佐伯は愛撫を続ける晶の腰を撫でた。一瞬晶は動きを止めて、抗議するように口を尖らせた。 
 
「……っ、大人しくしてろって」 
「断る」 
「……俺のテク全否定かよ、泣けるわ」 
「逆だ。俺もそんなに我慢強いわけじゃ無いからな」 
 
 佐伯は口ではそんな事を言っているが、そもそもそんな台詞を言えるぐらいは余裕があるわけで……。晶は少し悔しげに溜め息をついた。 
「見てわかるだろう」 
 佐伯が苦笑して、自身の張り詰めたペニスを指さす。いつにも増してでかく見える佐伯のペニスに、晶は思わず小さく吹き出した。 
「一応、感じてくれたんだ?」 
「当然だ」 
 
 ちょっと嬉しそうな晶を引き寄せ、尻の位置に手を伸ばすと佐伯はその後孔にそっと触れた。攻める側から一気に攻められる側に回った晶は、その急な変化に躯をびくりと震わせた。何度も佐伯に抱かれているので、その後の快感を躯が覚えている。 
 疼く中をひくつかせていることが自身でもわかり、晶の体温が上昇した。 
 
 佐伯が貴重品を纏めて置いているベッド脇の財布の中から片手で探ってコンドームを取り出すと、晶はその腕を掴んで首を振る。 
 
「中で出せよ、ちゃんと後で……自分でするから……」 
 
 佐伯は少し間を開けた後、コンドームを開封だけして指の間に挟むと一度扱く。潤滑剤付きコンドームのヌルヌルとしたそれを指に乗せ、そのままゴムを枕元へと置いた。甘い匂いつきのゴムの匂いが部屋に漂う。佐伯らしくないその甘い香りは何かの匂いに似ていて、それを考えていると一気に指を差し込まれた。 
 
「っ……、ぁ、……ぅ、すげ、甘いにお、い。それ……」 
「バレンタインだからな」 
 
 佐伯の言葉で、その香りがチョコレートの匂いだとわかる。やや人工的な匂いだがその独特の甘ったるさは確かにチョコレートだ。わざわざ、佐伯がそれを選んだのかと思い聞いてみると、さすがにそれはなく、待ち合わせの前に寄ったコンビニで適当に選んだら、たまたまバレンタイン仕様だったというだけらしい。 
 
「随分ほぐしやすくなったな」 
「……そ、う?」 
 
 佐伯が指を増やしつつ、少し感慨深そうにそんな事を言う。甘い香りに混じって時々香る佐伯のラストノートの匂い。そんなにどちらの匂いも強くないはずなのに、後孔をいじられながら嗅いでいると頭がクラクラしてくる。 
 上ってくる程よい酩酊感は、愉悦の前の前座のような物だ。佐伯の指が、奥へ入り快楽の在り処を撫でる度に、その技巧に翻弄されるように声が漏れそうになる。性感に煽られ、噛みしめる唇に再び血が滲む頃、佐伯は指をスッと抜き去った。 
 晶はゆっくり息を吐いて佐伯に跨がった腰を少しずつ沈める。 
 
「うっ……、は、っぁ……」 
 
 佐伯はほぐしやすくはなったと言うが、挿入時はやはりその大きさに緊張が走る。宥めるように腰をさする佐伯の手の動きに促され、少しして晶はすっかりと佐伯のペニスを咥え込んだ。震える呼気を唇から漏らし、晶はごくりと唾を飲みこんだ。自分が上になっている事で、まるで佐伯を組み敷いている気分にもなる。 
 
 躯を貫く佐伯のペニスの存在を感じながら腰を動かすと、その刺激で全身が蕩け出してくる。抜くのも奥へ迎えるのも自分の意思だというのに、快楽のコントロールが効かない。晶は腰を動かす度に荒い息を吐いて、その息に混じって切なげな喘ぎを佐伯の耳に届けた。晶の腰の動きに合わせて、突き上げる佐伯のタイミングがぴったりと合致して、たまらない愉悦をくまなく行き渡らせる。 
 
「……かな、め、……っっ、は、ぁ」 
 
 乱れた晶の髪が揺れる度に、その瞳をかくし、いやらしく妖艶な色を纏った唇が開く。肉を抉るように奥へ突き上げると開いた唇からは、低い呻きと色っぽい声が吐き出された。 
 動きを増す抽挿に晶の内壁が痙攣し絡みつく。 
 
「ぁあ、ぁ、ッ……っく」 
「……、……――っ」 
「も、……出、る。……んん」 
 
 晶がきつく眉を寄せ、前で揺れる自身のペニスを手で覆う。その瞬間勢いよく溢れ出した白濁が晶の掌を濡らした。追従するように佐伯も晶の中へと精を注いで詰めていた息を吐き出し、乱れた呼吸に息を呑む。小さく震える晶が佐伯へと倒れ込み、佐伯はそのまま晶を抱き留めて、優しい指先で汗に濡れた髪を撫でた。 
 腰を少しだけ上げさせペニスを引き抜くと、その刺激で晶のペニスの先からは残った残滓がどっと溢れ、晶が「んん」と僅かに腹に力を入れる。弾む胸が佐伯に密着した状態で上下し、晶は掠れた声で囁いた。 
 
「要……、このまま……ずっと……、」 
 
 最後まで口にしないまま、急激に睡魔に襲われ晶はストンと佐伯の胸の上で眠りに落ちた。 
 
「……晶?」 
 
 意味ありげに言いかけた言葉を放置したまま気持ちよさそうに静かな寝息を立てている晶は、脱力しているせいでぴくりともしない。でかい晶の躯を佐伯は起こさぬように横へと寝かせ、そのままそっとベッドから離れた。鞄から煙草を取り出して咥え、火を点ける。指に挟んだままベッドへ戻って腰掛けると、寝返りを打った晶がこちらへと顔を向けた。風呂へもまだ入っていないので起こした方がいいのかもしれないが、相当酔っていたので少し寝かせてやった方が良いだろう。 
 
 月明かりがベッドに届いているせいで窓辺は明るいが、部屋の明かりはそれだけだ。最初は点灯していたネオンも今は時間で消えてしまったようで、剥き出しのネオン管が佐伯の視界に入る。佐伯が煙草を吸い込むと、ジュッという音が部屋に響き紫煙がゆらりと立ち上った。 
 
 後ろで眠っている晶の顔を見ていると、汗なのか涙なのか、目尻にあとがのこっている。佐伯は煙草を持ち替えてそのあとを指でなぞった。晶は、最後、何を言いたかったのだろうか。 
 
 晶のように寂しがりな性格でもなく、自分の感情は常に制御できているし、大阪へ行っている間、晶の事を考えている時間もそう多くはない。予想以上に忙しく、新しい環境に順応するので精一杯だったというのもあるが、あまり考えないように、あえてしていたのだ。 
 
「気付きたくない事まで、お前は気付けと、そう言いたいのか……晶」 
 
 温かな晶の頬を撫で、佐伯は自嘲気味に笑みを浮かべる。この曖昧な感情が『寂しい』という感情だと……。 
 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 
 翌朝、天気は晴れ渡り、前日に降った雪を早くも陽射しが溶かし始めている。 
 すっかり支度を調えた佐伯が一通り朝のニュースを新聞で読み終えた頃、もぞもぞと動き出した晶は、その眩しさに目を覚ました。 
 
「んー……」 
 
 声にならない声をあげて、目を閉じたまま半身を起こす。佐伯は晶の方を新聞越しに一瞥すると苦笑した。 
 
「漸く起きたのか、早く顔を洗ってこい」 
「ん……。相変わらず、はえーなー……起きんの……」 
 
 ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜて晶はぶつぶつ何か言っているが、よく聞こえない。そのうちベッドからのろのろと足を下ろすと、両手で頭を抱えて停止した。 
 
「超頭いてぇし……気持ち悪ぃ……。完全に二日酔いかも……俺……」 
「だろうな。昨晩は相当酔っていたし当然の結果だ」 
 
 晶はシャツだけ羽織って佐伯の向かい側のソファに腰掛けると、まだ半分夢の中のような様子で煙草に火を点けた。昨晩はあのあと暫くして晶を起こし、風呂へ入った後にすぐ寝たが、それでももう時刻は三時近かったはずだ。寝不足と二日酔いといった所だろう。ぼーっとしている晶がおかしくて笑いを堪えていると、晶は眉を寄せてこめかみを揉みながら片目を開けて佐伯を睨んだ。 
 
「大丈夫か? ぐらい言えねーのかよ。可愛い恋人がこんなに具合悪いのにっ」 
「大丈夫に決まってるからな。たかが二日酔いで甘えたことを言うな」 
「なにそれ、これって甘えとかじゃなくね? 要の基準厳しすぎだろ。この、鬼畜外科医」 
「何とでも言ってろ」 
 
 怒っている晶に取り合わず、佐伯は何やら手持ちの鞄を探っている。医者のくせに、思い遣りの欠片もない所が腹が立つ。大きな声を出したことで頭痛が酷くなり、晶は呻いて机に伏せた。確かに昨晩は飲み過ぎたのはわかっている。普段滅多に飲まない日本酒のせいだ。ガンガン容赦なく痛みを伝えてくる頭に早くも打ちのめされ、もうこのまま夕方までベッドで寝ていたい気分だった。しかし、自宅でもないのでそういうわけにもいかない。 
 
「早く用意しろ。朝飯を食いに行くぞ」 
 
 急かし立てる佐伯に、晶は伏せたままで溜め息をついた。出す声も弱々しい。 
 
「あのな……、俺の話聞いてた? 気持ち悪ぃって言ってんだろ、朝飯とか食ったら吐くっつーの」 
 
 佐伯が、やれやれと息を吐いて再び腰を下ろす。と同時に、何か小さな包みが伏せている晶の目の前に投げ置かれた。痛む頭をなるべく揺らさないようにして顔を上げると、目の前に薬が置いてある。晶は手を伸ばしてそれをつまむと、「なにこれ」と呟いて佐伯を見上げた。 
 
「二日酔いにも効果のある胃薬だ。多少はスッキリするだろう。頭痛はそのうち治る、さっさと飲め」 
「…………。……サンキュ」 
 
 見た事も無い薬だが、市販薬ではないので当然かも知れない。鬼畜外科医だなんだと罵った後で、結局薬を貰ってしまった自分がちょっと情けないが、そんな事はちっとも気にしていない佐伯をみていると、自分も多少気が楽になる。 
 晶は貰った薬を風呂上がりに飲んだペットボトルの水の残りで飲むと、立ち上がって用意を始めた。 
 
 
 
 
 晶のせいで相当な時間のロスがあったものの、何とかホテルの朝食の時間には間に合った。朝食はバイキングで、朝食とは思えないほどの豪華なメニューがずらりと並んでいる。 
 
 一通り好きな物を取り終え席に戻った佐伯の目の前には、ごく一般的な和風の朝食が並んでいる。佐伯とて昨夜少し飲み過ぎたのは同じなので、あっさりとした物が食べたかったのだ。中々戻ってこない晶を待っていても仕方がないので先に食べ始めていると、少しして晶がトレイに朝食をよそって戻ってきた。 
 
「いや~、こんなに種類があるとすげぇ迷うよな!」 
 
 そういって目の前に置かれたトレイをみて佐伯は絶句した。 
 ほんの先ほどまで気持ちが悪いと言っていた人間が選んだとは思えない量がそこにはある。しかも、それだけではない。量もさることながら、綺麗に並べられてはいるが和風洋風の纏まりを完全無視したチョイスだったからである。 
 中華粥の横にはハッシュドポテト、隣の皿には一口サイズのケーキが二つ、サーモンを挟んだクロワッサンとフレンチトーストにはベーコンが何枚も乗っており。目玉焼きにゆで卵、味噌汁もあるがコーンポタージュもある。そして飲み物はコーヒーとジュースとコーラだ。 
 世の中『食べ合わせ』という言葉がある事を晶は知らないのかも知れない。 
 
「……全部食えるんだろうな」 
 
 呆れて眉を顰める佐伯に、晶が箸を割りながら顔を上げる。 
 
「え? 何で? 余裕っしょ」 
「…………」 
「要がさっきくれた薬、めっちゃ効いたかも。頭痛いのももう平気だし、腹減ったし」 
「……良かったな」 
「おう! 助かったぜ。んじゃ、いただきまーす!」 
 
 そんなに即効性のある強い薬ではないはずだが、本人が元気になったのならまぁ問題ないだろう。晶の強靱な体力は若さ故なのか、それとも……。佐伯が煮魚とご飯を食べている前で、晶は言葉通り次々と朝食を平らげ、残りのケーキに至っては追加でもうひとつ持ってきてそれも全部食べた。 
 
 
 
 朝食を食べ終えるまでは、いつもの調子で冗談を言っていた晶は、部屋へ戻りチェックアウトの時間が近づくと口数が減っていった。また気分でも悪くなったのかと佐伯が様子を窺うとそういうわけではないらしい。 
 用意を済ませた晶が窓際に立って街を眺めながら一服している。佐伯も用意を済ませ、ルームキーを持ったまま晶の隣へと並んで最後の一服をする。この後、帰りの電車に乗る前に一カ所顔を出す用事があるので、晶とはホテルを出た所で別れるという旨は前から話してあった。 
 
「お前は、このまま帰るのか?」 
「ああ……。うん、一回家帰って夜は店に出るから」 
「そうか」 
「あ、もう時間ねぇし、そろそろ行こうぜ」 
「そうだな」 
 
 晶はエレベーターに乗っている間にも「今日雪が止んで良かったな」と話すだけで、昨夜酔った際に言った言葉も忘れているように見えた。ロビーで晶を待たせ、チェックアウトを済ませる。 
 昨夜は遅くにロビーを通ったので人がほとんどいなかったが、今は時間帯が丁度チェックアウトの最終時刻と重なるせいか、こんなに沢山宿泊していたのかと思うほどにいる。 
 
「じゃぁ、行くか」 
「うん」 
 
 ホテルのエントランスを抜けて大通りへ出ると、車道はその通行量の多さもあって雪はほとんど残っておらず歩道の脇に寄せられた溶けかけの雪だけが昨日の天候を思い出させるに過ぎない状態だった。それでも、気温は低いので日陰になっている場所は結構寒い。 
 タクシーで帰るという晶と別れる路地で、佐伯は一度足を止めた。それに気付いた晶もゆっくりと足を止める。 
 
「どした?」 
 
 佐伯は黙ったまま自分のしていたマフラーを外すと、晶の肩へとかけた。 
 
「……え?」 
「一つより、二つの方がいいだろう。ほら、これも持っていけ」 
 
 晶の手を引っ張ると、その掌に佐伯はポケットに入っていたハンカチを乗せた。昨夜の事を忘れていたわけではない証拠に、晶の顔がほんのり赤く色付く。 
 
「……あのさ。昨日のことはジョークだって言っただろ……」 
「だから何だ」 
「いや、何だって言うか……」 
「俺がしたいようにしてるだけだ。気にするな」 
「……要」 
「そろそろ俺は行く。またな」 
「うん……。気をつけて帰れよ。有難う」 
 
 佐伯は一度笑みを浮かべると、すぐに背中を向けて歩き出した。何ともあっさりとした別れである。次にいつ会えるのか約束も何もないのは出会った時から変わっていなくて……。そんな所は変えても良いのにと晶は思いつつ、佐伯がくれたマフラーを首に巻き直すと鼻をうずめた。 
 
 さっきまで佐伯がしていたマフラーは、やはり佐伯の匂いが残っていて嬉しくなる。 
 濃いグレー一色のマフラーは地味で、とても佐伯らしい。タクシーをつかまえるために、通りに出ようとした晶は、貰ったハンカチの中に硬い物が入っているのに気付いて足を止めた。 
 鍵か何かが間違って紛れているなら、ダッシュで届けに行かないと思い開いてみると……。中には小さなチョコレートが一粒入っていた。 
 コンビニのレジの脇においてあるような、特別バレンタインを意識していない普通のチョコレートだ。 
 
 何故佐伯がこれを持っていたのかはわからないが、その小さな一粒が晶の胸の中をポッと温かくする。晶はチョコレートを包みから取り出して口に放り込むと、貰ったハンカチを大切そうに胸ポケットへとしまいこむ。 
 
 
 
 口いっぱいに広がる甘さ控えめのビターチョコは、何処か佐伯との口付けを思い出させた。 
 
 
 
 
 
 
 
~Fin~