note25 epilogue


 

 
 あれから一週間、玖珂が滞在していたのが嘘のように今はすっかり日常に戻っていた。久々に大きな用事のない週末の休みである。 
 
体調は相変わらずであるが、寝込むほど具合が悪くなることもなく、昨日聞いた検査の結果もまずまず順調といった所だった。高木がくれたお守りは恋愛成就だそうだが、もしかして健康祈願もやはり含まれているのかもしれない、澪はそんな事を考えながら、目の前の鍋をぐるぐるとかき混ぜた。 
 
 朝食を終えた後から、ずっと食卓で資料を広げ勉強している椎堂の集中力は流石に凄い。もう昼であるが、今まで一度も席を立たないし、ブツブツと暗記するように何か独り言を言ってはいるが、勿論話しかけても来ない。 
 そんな真剣な様子の椎堂をキッチンからこっそり眺めていると、何度目かの視線で澪に気付いた椎堂が、頬杖をついてキッチンの方へ向いた。 
 
「澪? もしかして今、僕の事見てた?」 
 
 そう言って尋ねるように首を傾げる自然な動作でさえ、ふんわりとした優しさが充ちていて椎堂を観察しているだけで穏やかな気持ちになる。「見てないよ」としれっと嘘を言うと、椎堂は期待していた答えを返して貰えなかった事に落胆して肩を落とした。 
 
「あれ、そっか……。じゃぁ、いいや。……見ててくれてたのかなって思ったんだけど……」 
 
 最後の方は、聞こえないほどの小声だ。心の声と言った方が良いのかも知れない。 
 
「嘘、本当は……見てた」 
「気を遣ってくれなくてもいいよ」 
 
 本当は見ていたけれど、集中出来なくなるかと思いわざわざ「見てない」発言をしたというのに、椎堂は期待した自分を恥じるようにまたペンを手にして資料に視線を落とした。 
 
 火を止めてキッチンから出て椎堂の側へ行き、「拗ねるなよ。見てたって」と澪が悪戯に椎堂の耳元で囁くと椎堂の耳はたちまち赤く染まった。熱を持ったようなその耳を唇で優しく食んだだけで、椎堂はびくっとして「ダメ」と二回連続で言い肩を竦める。困ったように澪を見上げて「……もうっ」と小声で不満を漏らした。 
 
 澪は、自分の一言で表情を変える椎堂の隣に座り、気を取り直してノートへ視線を落とす椎堂の顔をわざと覗き込んだ。最初の内は澪の視線をあえて気にせずそのまま勉強を続けていたが、椎堂の伏せ気味の長い睫をマジマジと至近距離で見続けていると、椎堂は降参とでも言うようにフゥと息を吐き、俯きつつ澪の方へチラッと視線を送る。 
 
「な、なんか……僕についてる?」 
「別に? ……見てて欲しいって言ったから」 
「言ったけど……。その……こんな近くで見られたら恥ずかしいよ……」 
「うん、知ってる」 
「コラっ」 
 
 椎堂はペン先で澪の鼻をツンとつつくと、資料を閉じてテーブルの脇へと揃えて置いた。 
 今日の昼食は澪が作っているのだが、簡単なメニューにしたためとっくに出来上がっている。そろそろ時間なので椎堂の区切りの良いところで声をかけるつもりだったのだ。 
 
「もう出来てるけど、飯にする?」 
「うん、そうだね。お腹空いちゃった」 
 
 最近自分でも料理のレパートリーがだいぶ増えたと思う。ただたんに色々作れるようになったというよりは、食欲がない治療中でも比較的食が進むメニューがわかるようになったという方が正解かも知れない。普段は平気な食べ物でも、抗癌剤を飲んでいると何故か味覚が変わり鼻について食べられなくなる物もいくつかあるのだ。その細かい選別は実際に経験してみないとわからないものばかりだが、それが少しずつ把握できてきている。 
 
 今日の昼食は豆乳で作ったリゾットで、味付けは至ってシンプル、多めの胡椒とチキンスープのコンソメ顆粒をいれ、柔らかく煮ただけの物である。野菜は冷蔵庫にあったブロッコリーとインゲン豆を使ったが、その時々で何でも入れるので特にこれといったレシピがあるわけではない。その日の気分で椎堂は上にパルメザンチーズを振ったりしている。 
 シンプルながらも美味しいし、消化にも良い。最近は作る回数が多いメニューの一つだった。 
 
 
 
 二人で昼食を済ませ、椎堂が後片付けをしている間。 
 澪は食べ終えた皿をキッチンへと運んでからダイニングにある飾り棚の引き出しを開けた。 
 
 中には澪の薬が何種類も入っている。プラスチックの瓶を幾つか取り出し、目的の物を探し出すと二錠ほど取り出して口に含む。これは薬ではなく処方されているビタミン剤だ。治療中に必ず出来てしまう口内炎や鼻血が出やすいのを防ぐ目的だが、防げたためしがないのでちょっとした気休めにしかなっていない。それでも、なるべく早く痛みが引いて欲しいので毎日飲んでいる。 
 チュアブル錠のそれをかみ砕いていると、飾り棚に置かれている写真立てが目に入った。 
 ここ以外にも何カ所か写真を飾っているが、玖珂が来てから飾り棚の写真立てが二つ増えたのだ。 
 
 一枚は先日玖珂が来た時に三人で撮影した写真で、もう一枚は、玖珂が澪へ渡す為に持ってきた物である。何十年も前のその写真は流石に少し色褪せており、サイズも一回り小さくて時代を感じさせる。別にそれを飾らなくてもいいと言ったのに、椎堂が大切な物だからと言って写真立てを新たに買ってきたのだ。 
 澪はその写真立てを手に取って先日のことを思い出していた。 
 
 
 写真の中には、産まれたばかりの澪を抱く母親と、小学生の兄。――そして、父親が写っている。 
 
 
 こちらへ来る前に、玖珂に渡したい物があると言われていたが、この写真がその『渡したい物』だったのだ。玖珂が澪の自宅へ泊まった最後の晩、夕食後に三人で話していた時にそれは渡された。 
 
 一瞬意味が分からなかった。 
 いつ聞いたのかは思い出せないが、父親が写っている写真は澪が物心がつく前に全て処分して一枚もないと聞いていたのだ。母親と玖珂がそう話していたのを聞いただけかもしれないが記憶が定かじゃない。 
 自分の父親がどんな人間なのか、興味が無かったわけでは無い。その見た事の無い姿を何度も想像した事もある。あまり母親に似ていない自分が父親に似ているのではないかともずっと思っていた。 
 
 ただそれは、好奇心の域を出る物でも無くて……。ずっと一緒に暮らしていて、突然いなくなったわけじゃない。最初からいなかった人間にそれ以上の感情もないというのが正直なところだった。 
 だから余計に動揺した。 
 
「お前に渡すかどうか色々考えたんだがな……。今はもう澪も大人になったし、この写真を捨てるのも保管するのも、その判断はお前に任せようと思って持ってきたんだ。俺達家族の、唯一の写真だよ」 
 
 玖珂はそう言った。 
 差し出された写真を受け取る時に、思わず手が震えた。どこかで自分には関係が無いと思い込んでいた家族という姿が、そこには目を背けられぬほどハッキリと写っている。 
 見慣れた懐かしい母親の笑顔。父親の足下に嬉しそうに抱きついているまだとても幼い兄。母親の腕の中で眠る自分。どこにでもありそうな、だけど、澪にとっては初めての、家族が揃った写真だった。 
 
 父親は、想像していたよりもっとずっと澪に似ていて、まるで髪型を変えただけの自分を見ているようだった。写真が苦手なのか、少し照れくさそうに写っているのも、オレンジがかった髪の色も、目の辺りもそっくりで……。 
 
 覗き込んで一緒に見ていた椎堂も驚いている様子だった。 
 この男が自分の父親なのだ、写真に写っている年齢が今の澪とそんなには変わらないのもあって実感はわかなかった。写真は日付が入っており、澪が産まれて間もない時期の物だ。この後すぐ、――父親は家族を置いて出て行った。 
 
 写真を渡した後、父親の話なんて覚えている限り口にしたことが無かった玖珂がぽつりぽつりと話をするのを聞いて、徐々に実感が湧いてくる。 
 椎堂が淹れてくれた紅茶は、最初は湯気をのぼらせていたが話が続くにつれその温度を落としていく。 
 カメラマンで世界中を飛び回っており、ほとんど家に帰ってこなかった事。洋画が好きで、兄がまだ小さい時から家では常に映画が流されていた事。母親より年下だった事。 
 
 ぬるくなった紅茶で渇いた喉を湿らせ、澪はもう一度じっくりと写真を片手で取った。 
 初めて知る様々な情報が、写真の男に重なってその人物像を浮かび上がらせる。 
 
「この人が……」無意識に口に出した一言。テーブルの下でいつのまにか握りしめていたもう片方の拳に、椎堂が黙って自分の手を重ね、そっとさする。 
 話を聞く限り、父親はとても優しかったらしく。一度も怒られた事が無いと玖珂は言う。そんな温和な父親に何があったか知る術もないが、もし……。 
 
 もし、ずっとそのまま一緒にいてくれたら……。今更そう願っても叶うわけもないのに、心の何処かで願ってしまいそうになる自分がいた。切り取られたその一枚の写真。その瞬間が、あまりに幸せそうで……。だけど、その先を想像してみてもやはり何も浮かばなかった。見つめている写真から、すーっと父親が消えて、次に母親が消える。空白の多くなった写真は、別の可能性なんてなかったと、澪に突きつけてくる。 
 澪は一度小さく息を吸って、写真をテーブルへとそっと置いた。 
 
「兄貴は……、知ってるの? この人が、何で俺達を置いて出て行ったのか……」 
 
 玖珂は静かに首を振った。母親だけがその理由を知っていて、理由を抱いたまま逝ってしまったのだ。今思い返せば、母親に父のことを聞いても絶対に悪く言わず、何処か一緒にいないその時でも父を想っているかのような素振りだった。子供の頃は意味が分からなかったが、母はずっと父と離れてからも愛し続けていたのだろう。 
 
「出て行った理由は俺も知らないが、何かそうせざるを得ない事情があったんだろうな。……なぁ、澪」 
「……なに」 
「俺の名前もお前の名前も、名付けたのは父親だそうだ。亮という字も、澪という字も、どちらも『リョウ』って読めるのを知っていたか?」 
「え? ……俺の、名前も……?」 
「ああ、そうだ。子供ができたら男でも女でも『リョウ』って名前にしようって二人で決めてたって。俺が生まれて亮という字を使ったけど、次にお前が生まれた時にも、同じぐらい大切だから他の名前が考えられなくて、やっぱりリョウにしたいって話になったそうだ。でも、兄弟で同じじゃおかしいだろう? だから、お前はリョウとも読める別の字を選んで名付けた。一度だけ、昔母さんから聞いた話だ」 
 
――同じぐらい大切で……。 
 
 生まれてすぐいなくなったことから、自分は父親には要らなかった存在なのかと思っていた澪には、驚きの事実だった。それが本当なのか確かめる相手がいなくなった今でも、素直に嬉しかったし、知れて良かったとも思う。今まで生きてきてずっと霧のかかっていた部分が晴れていくような気分だった。 
 
 思わず強く握り返していた椎堂の手に気付いて、澪はその力を慌ててとく。 
 「悪い……、痛かった?」と聞く澪に、椎堂は「ううん」と首を振った。今まで口を挟まず、黙って見守るような視線を向ける椎堂が静かに口を開く。 
 
「澪も、お兄さんの名前も、どちらもとっても素敵な名前。名前は、生まれて初めて親から送られる贈り物だって言うから、きっとご両親の願いが一杯つまっているんだろうね」 
 
 椎堂が優しく微笑んで、澪の横顔を見つめる。澪は安心したように少し笑みを浮かべると「……そうだといいな」と一言だけ呟いた。そして、玖珂が自分と二人の時ではなく、椎堂がいる今、この話をした事。その意味を考えて辿り着いた答えにハッとして視線を送ると、玖珂は目を細めて相好を崩した。 
 
 
 少し時間が経って、写真を渡された日のような動揺は今はない。先日旅行先の海辺で椎堂の言っていた言葉が蘇る。 
『何が幸せで、何が幸せじゃないかなんて。過ぎ去ったずーっと先にしか本当の事は分からない物なんだと僕は思う。だからね、澪の言う仮初めの幸せも、本当の幸せなんだよ』 
 別に椎堂がこの事について言ったわけではないが、その通りだと思う。過去は過去で、その瞬間に偽りは無かったのだ。本当に幸せな瞬間がそこにはちゃんとあった。それだけでいい。 
 
 
 
 
 澪が写真立てを元の場所に戻すと、いつのまにか椎堂が傍に来ていて置かれた写真立てを再び手に取る。 
 
「澪のお父さん、ほんと、そっくりだね。澪も何年かしたら、こんな風になるのかな」 
「……さぁ、どうかな」 
 
 すっかり出かける準備を済ませた様子の椎堂を見て、食後からだいぶ時間が経っている事に気付く。今日は今から少し外出をする予定なのだ。 
 
「俺も着替えてくる。ちょっと待ってて」 
「うん、ゆっくりでいいよ」 
 
 日が落ちる前に到着したいので、やはり少し急いだ方が良いだろう。 
 澪は階段を上って自室で着替えを済ますと、鞄を肩に掛ける。すぐに椎堂の元へ戻ろうとしたが、忘れ物に気付いて慌ててもう一度自室へと戻った。ベッド脇のサイドチェストの奥から、用意していた物を取り出すと鞄へとしまい込む。 
 
「お待たせ。じゃぁ行くか」 
「うん」 
 
 椎堂が写真立てを大切そうにそっと飾り棚へと戻す。置かれた写真立ての中に閉じ込められた時間はこれからもずっとあの日のまま。 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 澪の体調の事を心配して椎堂が運転すると言い張るので、澪は席を譲って助手席へと回った。予め設定していた目的地は初めて行く場所で、助手席から窓の外を眺めていると段々と知らない景色へと移り変わっていく。あまりこちらの方面には行くことが無いが、広大な農園が増えてきて街中とは様子が違った。 
 
 椎堂からつい二日前に聞いた話。 
 ボランティアで澪が何度か訪れていた、花の名前を教えてくれた彼が亡くなったという事を。 
 最後に家を訪問した際にはもう話す事も出来ず、人工呼吸器でかろうじて生きている状態だった。彼の死期が間近な事は、誰の目にも明らかだった。澪が訪問した二日後、彼は息を引き取ったらしい。 
 
 ずっと会っていない自分の息子によく似ていると話していたその彼を、自分の父親と重ねていたせいもあり、椎堂に無理を言って墓の場所を聞いて貰ったのだ。此方へ来て、色々な人と出会い、その生き方、それぞれの想い。――そして、生きるという意味。 
 
 教えられた事、考えさせられた事、数え切れないほどあるその大切な出会い。その一つが彼だった。 
 アメリカでは日本のように墓参りの習慣がなく、椎堂が墓の場所を聞いた時には少し驚かれたようだが、理由を話し墓参りの承諾はちゃんともらってある。 
 息子を懐かしそうに思い出していた彼に、最後に別れを言いたかったのだ。自分が彼の息子の代理が務まるなんて傲った事を考えているわけではないが、少なくとも、出会えたことの感謝だけは伝えておきたかった。 
 
「あ、グリーンメモリアルパークって看板が見えてきたよ。あれだね」 
 
 運転しながら、椎堂が先に見える深緑の看板を指す。少し走って到着した霊園は、よく映画などで見る広大な敷地に墓石が整然と並べられているだけの殺風景な物と少し違った。 
 
 駐車場へ車を止めて、用意してあった花束を持って降り立つと、そこは、墓石こそ想像通りだったが、その他はまるで公園のような作りで、彼の好きそうな花がきちんと手入れされて咲き乱れていた。大きな銅像が真ん中に建っており、その横には樹齢何百年もありそうな大木がそびえ立っている。強い陽射しを受けて影をくっきりと地面へうつすそれは、死んだ人間の魂は墓にはいないというアメリカの習慣を表すように、出来るだけ天に近く枝を伸ばしているように見えた。きっとその枝の向かう先に亡くなった人間がいるとの意味なのだろう。 
 
「誰もいないね……。凄く広いし」 
 
 圧倒されたようにそう言う椎堂に澪も同意する。 
 ゆっくりと芝生を踏みつつ、墓石に刻まれた文字を見ると、日本のように家名ではなく好きな言葉が書かれていたりとその様相も様々だった。途中休まないと息が上がるぐらい敷地が広く、椎堂が心配げに声をかける。 
 
「澪、大丈夫? もう一回、休憩しようか?」 
 
 さすがに今の体調では結構堪えるが、そろそろ着くはずである。「大丈夫」と返し、澪の速度に合わせて歩みを緩める椎堂と共に再び歩く。 
 教えて貰った場所の近くへ漸くさしかかった所で、通りの先に一人の若者がいるのが目に映った。 
 
 ここへ来て初めて会ったその人物は、前が見えないのではないかと思うほど目深に帽子を被っており、長身で痩せた体躯の青年だ。長めに伸ばしたオレンジ色の髪は丁度澪と同じくらいで、多分年齢もそう違わない。着ている服装からしてもバンド関係の者だと想像がついた。 
 
 足を止めている椎堂達に気付いた青年は、一度こちらをちらっと見たあと立ち上がって足早に通りの向こう側から去って行った。思わず椎堂と顔を見合わせ、再び墓を探しながら通りを歩いていると椎堂が立ち止まって驚いたように振り返った。 
 
「ん? どうした?」 
「さっきの人……。彼のお墓に、花を供えてたみたい」 
「……え」 
 
 澪も驚いて、青年が去った方を振り返る。もうその姿は遠く、もう一度彼の様子を確認することは出来なかったが。あの青年が彼の息子なのは明らかだった。その証拠が目の前にある。澪が持ってきた花束と全く同じ花を使った花束がそこには飾られていた。あの日、教えて貰った真っ白なその花は彼の好きな花だった。 
 可憐な小さい花びらが幾つも重なって、芝生のグリーンを際立たせる。 
 
「……会えたんだな」 
 
 澪が小さく呟く。他人の、ましてや数回しか会ったことの無い人間の家族がどんな関係なのか、全く知らない。だけど、父親の好きだった花を覚えていて墓に供えるその行為に愛情が全く無いとは思えなかった。 
 
「良かったね。きっと、彼も喜んでるよ」 
 椎堂がしゃがんで花束をそっと置き微笑む。 
「……ああ」 
 
 二つ並べられた白い花束は、日の光を受けて眩しく輝いている。澪は目を閉じて、彼に礼を言い少しだけ近況も報告した。貴方に出会えて良かった、とも。そっと目を開けると、一瞬だけ、見た事の無いはずの元気だった時の彼が見えた気がした。車椅子もなく、自分の足で立っている彼は、今頃、天国で好きな花を集めてまた育てているのかも知れない。そんな彼の笑顔が、ふっと空に溶け込んで――消えた。 
 
「……戻るか」 
「うん」 
 
 もう訪れることはないだろう。彼との想い出は残り続けるけれど……。 
 
 
 
 駐車場へ戻る道は、来た時より長く感じて、ようやく戻ってきた頃には二人とも疲れ切っていた。助手席のシートに座って、飴を口に放り込むと、澪は滲んできた汗を手の甲で拭った。 
 
「……広すぎだろ……。アメリカの霊園ちょっと舐めてた」 
「ほんとだね……。流石に僕も足が痛いよ」 
 
 椎堂が苦笑する。暫くシートを倒して休憩した後何気なく近くに立っていた案内看板を見ると……。駐車場は実は幾つもあり、椎堂達が停めていた場所は一番遠い場所だったという事実を知った。今更知ってももう遅いが、知らずに歩き回ってこんなに疲れている自分達を思うと急におかしくなり澪は小さく笑った。 
 
 
 段々と日が落ちてきて、そろそろ夕方である。折角出て来たから、買い物してから帰ろうかという椎堂に、買い物は明日にして、ちょっと寄って欲しい場所があるからと伝える。一度車を脇へ寄せて停車させると途中から運転を代わった。 
 
「澪、平気なの? 疲れてるのに」 
「もうそんなに時間かからないし。それに、誠二、場所知らないだろ」 
「それはそうだけど……。どこに行くの?」 
「ついてからのお楽しみ」 
「えー、何だろう???」 
 
 椎堂はカーナビをまじまじとみては、澪の行く先を見つけるように指で辿ったりしている。あちこちを触る椎堂がそのうち何かやらかすのではないかと様子を見ていたら、澪の予想は的中した。 
 
 突然のカーナビの音声『目的地を再設定しました』 
 
 椎堂が慌てたように「あれ? あれ?」と言いながら元に戻そうとするが、元々行く先を知らないので戻しようがない。椎堂が画面をタッチする度に目的地は新たに設定され、しまいには『目的地周辺です。ナビを終了します』と流れる始末だ。笑いを我慢出来なくなり澪が苦笑していると、椎堂が申し訳なさそうに視線を向ける。 
 
「ごめん……何か別の目的地、設定しちゃったみたいだ」 
 
 予想通りの展開すぎて文句を言う気にもならなかった。 
 
「変なとこ触るからだろ」 
「うぅ……ごめん」 
 
 澪は腕を伸ばしてカーナビを消すと、そのままラジオへと切り替えた。 
 
「覚えてるから、ナビなくてもいいよ。念の為につけてただけだから」 
「そうなんだ? 澪って道覚えるの得意だよね」 
「普通だと思うけど」 
 
 妙な所で感心している椎堂は、そういえばよく道を間違えている。学習能力のほとんどを仕事関係に使っているせいなのかもしれない。 
 前を行く車がライトを点灯し、辺りを見るともう結構暗くなってきている。澪も車のライトを点けてアクセルを踏むとスピードをあげた。市内に入る少し前、自宅へと戻る道とは異なる方向へ数十分走らせ、澪は車を停めた。道路沿いのパーキングへ寄せて、後部座席から鞄を取ると車から降りる。 
 助手席から降り立った椎堂は、辺りを一度見渡して、澪の側へと駆け寄った。 
 
「こんな所があったんだね」 
 
 ぐるりとお洒落な店舗に囲まれた中央に、横に長く続く噴水があり、その周りは石畳が囲む広い通路になっている。先日、玖珂が見ていた観光案内の書籍に掲載されていたのをたまたま澪も見ただけなので、来るのは初めてだった。観光案内によると、噴水自体が観光名所なわけではなく、周りの店の中にいくつか有名な店が入っているらしいのだ。しかし、澪の目的は店ではない。 
 澪は椎堂の手を引いて噴水の側へいき、一定間隔で並んでいるアンティーク調の二人がけベンチへと腰掛けた。 
 
「綺麗な場所だね、澪は前から知ってたの?」 
「いや、俺もこの前、兄貴が持ってた本で初めて見ただけ。喉渇いたな……何か、飲み物でも買ってくる?」 
「ああ、うん」 
「じゃぁ、俺行ってくるから、ちょっと待ってて。コーヒーでいいよな」 
「うん、澪と同じので良いよ」 
 
 澪は、一度腕時計をちらっとみて、その後すぐそこにあるテイクアウトのコーヒーショップへ向かった。テラス席からも噴水が見えるので、店内よりテラスの方が混んでいる。二人分のホットコーヒーを買って戻り、それを椎堂へと渡す。 
 
「熱いから、指、火傷すんなよ」 
 
 うん、と嬉しそうに言って椎堂はコーヒーを受け取ると、案の定熱かったらしく、すぐにベンチへと置いた。 
 
「持てなかった……」 
「だから、熱いって言ったろ」 
 
 紙コップは確かに相当熱い、しかも結構薄手の紙で出来ているようで、その熱さは澪でもちょっと持つ手を時々変えたくなるほどだった。 
 早く冷めるように蓋をとってやると、椎堂がそれを見て「澪って結構世話焼きだよね」とくすりと笑う。「誰のせいだよ」と呆れたように澪が返すと、椎堂は「僕、かな」と当たり前のことを言って澪へと視線を向けた。自分の性格が世話焼きだと気付いたのは椎堂と付き合うようになってからなので、本来の性格なのかは自分でも分からない。しかし、椎堂を見ているとどうにも危なっかしくて色々してやりたくなってしまうのだ。 
 
 澪は自分のコーヒーを一口飲んで、もう一度腕時計を見た。 
 
「……そろそろかな」 
 
 椎堂も両手で出来るだけ触らないようにコップの端を持って口に運ぶ。「そろそろって?」と澪へ質問を返しながらコップを脇に置くと、その瞬間、辺りがパッと明るくなった。静かに流れ出すメロディ。 
 
 それに合わせて噴水から様々な形の水が湧き上がる。透き通るような水色から徐々に変化をしつつ明るい橙へ、そして眩しいほどの白へ……。噴水の中に仕掛けてあるイルミネーションが幻想的な世界観を作り出している。 
 左右から駆け上がるように水のカーテンが移動し、中央で花火のように弾ければ、周りの店舗も、外灯も、澪達のいるベンチも、その色に一斉に染まる。その美しさに何人もが足を止めて魅入っていた。写真に収めようと携帯をかざす者、嬉しそうに抱き合う恋人達。はしゃぐ子供は大きな歓声をあげ、噴水に手を浸しては目を輝かせていた。 
 
「この時間に点灯するって書いてあったから」 
 
 澪がそういって横に座る椎堂を見ると、椎堂はだまったまま噴水を見続けていた。椎堂の眼鏡のレンズにも光が映り込んでいる。 
 
「綺麗だろ?」 
「…………うん」 
 
 酷く感激している様子の椎堂を見て、間に合って良かったなと思う。本当はもう少し早くに到着して、何処かの店で休憩した後来るつもりだったのだが、予想外に霊園で時間をとられたので、いきなりここへ来るはめになったのだ。 
 
「誠二」 
 
 椎堂の名を呼ぶと、椎堂が我に返って澪へと振り向いた。 
 
「ごめん、あまりに綺麗だからつい魅入っちゃった……」 
「ちょっと派手だけど、たまにはこういうのもいいよな」 
「うんうん。凄く綺麗だよ……。こういうのを、夢の世界って言うのかな」 
「そうだな。……あのさ、今日は……付き合ってくれて有難う」 
「ううん、僕もお墓参りができて嬉しかったから。こういう機会でもないと中々行けないしね。それと、澪が少しでも体調が落ち着いててこういう風に二人で出かけられたのも嬉しいし」 
「……ああ」 
 
 再び噴水のイルミネーションへ視線を向ける椎堂の横顔は、澪にとっては目の前のそれよりもずっと綺麗で……。野外なので、時々吹き抜けるそよ風に髪を緩く靡かせ、椎堂が前髪をゆっくりとかきあげる。指の隙間からこぼれ落ちる髪がはらりと舞っては額へと落ちる。薄い色の椎堂の瞳がクルクルと色を変えるのを見ながら、澪は鞄から用意していた小さな包みを取り出した。 
 
 声をかけるのを僅かに躊躇い、息を呑む。 
 じっと見つめている澪に気付くと、椎堂は、柔らかな笑みを浮かべて「どうしたの?」と眉を下げた。 
 
「これ……。渡そうと思って」 
 
 もっと色々考えたはずなのに、何とも味気ない自分の言葉に心の中で呆れつつ、澪は包みを椎堂の掌を引き寄せてその上に乗せた。 
 
「……え?」 
 
 驚いている椎堂は掌の包みを見たまま固まって何度も瞬きをしている。 
 
「開けてみて」 
 
 澪の言葉を受けて、椎堂が細い指先でその包みの包装をほどいていく。ゆっくりと金色のシールを剥がし中から出て来た小さな箱を開けると、ほとんど飾り気はないが内側に一粒だけ宝石が埋められている指輪が入っていた。 
 
「あっ……この指輪……」 
 
 椎堂は思い出したように澪を見つめる。 
 この指輪は、先日二人で行った旅先で見たものなのだ。時計等も扱う宝飾品の店に置いてあった。互いの誕生石を埋め込んで交換するように出来ているペアリングであり、同じく店内にいた新婚旅行らしき二人が購入するのを丁度見ていたのだ。 
 どんなに愛し合っていても同性では結婚は難しい。そんな事は、自分が日本人でゲイである事を自覚したときから理解していたはずなのに、その二人を羨ましいと思ってしまう自分がいた。 
 
 思わず口にしてしまった「いいなぁ、新婚さんは……」といった言葉を澪は多分聞いていたのだ。 
 
 プラチナの色に、イルミネーションが重なり、まるで幾つもの想い出を閉じ込めたように輝く。内側で煌めくのは澪の誕生石だ。あまりにそれが眩しくて、椎堂の瞳には涙のベールがうっすらとかかった。法律で認められた契約なんてなくたって、ずっと傍にいるから……。澪のそういう気持ちが痛いほどに伝わってきて愛しさと嬉しさが溢れてくる。 
 
 椎堂は一度目を擦ると、隣で優しく微笑む澪の瞳を見つめた。何かを言おうとしてその言葉を探すけれど見つからなくて。言葉の代わりに椎堂の頬を一筋の涙が伝う。 
 
 澪の指先が自分の頬に触れる。その体温に覚える安堵感、軽く拭うように目元を掠めた澪の指先は、そのまま耳元の髪を撫でて離れた。 
 
 
「椎堂先生。……俺の、――家族になって下さい」 
 
 
 改まった口調でそんな事を言う澪の言葉を聞いてしまえば、堪らなくて、椎堂は澪の胸に顔をうずめた。周りの人が見ているかも知れない、そう思うのにどうしても顔が上げられない。嬉しくて次々と溢れる涙を止める方法すらわからなくて、椎堂は涙声で「はい」と精一杯の返事をすると澪のシャツをぎゅっと握った。震える背中をあやすように澪が撫でる。 
 
 想像もしていなかった。自分に大切なパートナーが出来る事も、こんなに愛されることも、そして、自分がここまで誰かを愛せることも……。 
 
「澪、……」 
 
 ゴシゴシと目を擦って、泣きながら照れ笑いをする椎堂に、澪は「鼻まで赤いけど」と冗談を言って少しだけ笑った。 
 
「指輪、かしてみ」 
 
 澪がポケットから細い鎖状のネックレスを取り出して、それに指輪を通す。椎堂の襟足を掻き分けてネックレスを閉じる。澪は、自分のシャツのボタンを一つ開けて胸元を見せた。そこには椎堂に贈った物とお揃いの指輪が同じように輝いていた。 
 
「お揃い……だね」 
 
 自分の胸元の指輪を指で掴んで椎堂が幸せそうに笑う。 
 澪はシャツのボタンを閉じると、椎堂の耳元で低く囁く。 
 
「車に戻るか。キス、したいから」 
「……うん」 
 
 じっと指輪を見つめたまま、椎堂の頬が淡く色付く。澪の大きな手をぎゅっと握って車へ戻る時、一度噴水の方を振り返る。イルミネーションの景色を見て夢のようだと思った。だけど、これは目覚めたら消えてしまう夢なんかじゃない。繋いだ澪の手はちゃんと温かくて、しっかりと椎堂と繋がっている。その手を離すことがないように、椎堂はぎゅっと力を入れた。 
 
 
 
 

 
 
epilogue
 
 
 

 

 
 季節はあっという間に過ぎてもうすぐ秋である。 
 澪達の日常は相変わらずで、今日もまた一日が始まっていた。 
 
「澪、ちゃんと薬のんだ?」 
「飲んだって。さっき見てなかったのかよ」 
「一応確認!」 
 
 やれやれというように溜め息をつく澪は、続いて体温計をくわえるとそのまま目を閉じる。ピピッという電子音のあと、体温を確認するとノートを引き寄せ、今日の日付の場所を開いて記載した。 
 今はもうほとんど治ったが、少し前まで体調を崩して熱があったのだ。一週間ほど入院する羽目になり散々な目に遭った。些細な事で悪化する体調をコントロールするのにもだいぶ慣れたとは言え、どうしてもそういう事態は時々起こってしまう。 
 
 澪はノートを最初のページからめくって、想いを馳せるように視線を落とした。 
 このノートを作った最初は、自分が体温を記載して、それを椎堂が確認すると花丸をつけるというだけのものだった。ページを捲っていくと、ずっと発熱があって隠していた時の物になり、その前後は空白が目立つ。そしてまた通常通りになり、暫くしてから椎堂は花丸をやめて澪へメッセージを書くようになっていた。 
 
 それは体調についての注意であったり、ただの覚え書きっぽいものだったり、時々は『大好き』なんて告白があったりする。交換日記のようでもあるが、澪は体温しか書いた事が無いので、基本椎堂の独り言のような有様だ。 
 
――三十六度二分 
 
 今日の体温を記載したページまで戻って、澪は一度置いたペンを再び手に取った。一言だけ走り書きを残して、ノートを元の場所へと戻す。 
 
「誠二、早く。何やってんだよ」 
「待って、もう行くから」 
 
 既に用意を済ませてある澪は、椎堂が準備して下りてくるのを待機している状態だ。二階でバタバタと足音を響かせていた椎堂が、暫くして走って下りてきた。 
 
「ごめん、遅くなっちゃった。じゃぁ、出ようか」 
「……、……」 
「……え?」 
「そのまま出かけるつもり? 俺は別にいいけど」 
 
 椎堂が、え? と繰り返して自分の服装を見る。 
 
「あっ、裏返しだ。何で澪言ってくれないの!?」 
「面白いから」 
 
 椎堂は肩に掛けていた鞄を下ろして、慌てて薄手のベストを脱ぐ。面白いからと言う理由で教えてくれない意地悪な澪を少し上目で睨んで椎堂は口を尖らせた。 
 
「そんな意地悪ばっか言ってるなら、今度澪が裏返しになってても、僕も教えてあげないからね?」 
「いいよ、別に。そんなヘマしないから」 
「…………」 
 
 澪も鞄を手に取ると、揃って玄関で靴を履く。屈んでいる椎堂の胸元がちらっと見える。そこにはあの日贈った指輪が常にあって、大切に身につけていていてくれることが嬉しかった。自分の胸元にも同じ物がある。その場所がふんわり温かくなった気がした。 
 
 
 
 誰もいなくなった食卓のテーブルには、薬の瓶、読みかけの雑誌、半分ほどインクの減ったボールペンが無造作に転がっている。その横には、一緒に暮らすようになってからの時間と、同じだけの日々を重ねてきたいつものノート。 
 開いたまま置かれた最後のページには『三十六度二分』という体温の記載。その下にあるのは澪の走り書きだった。 
 
『いつも有難う、これからもよろしく』 
 
 続く明日の日付、一週間後の日付、一ヶ月後の日付、一年後の日付。ノートと時間が積み重なる。 
 
――まるで二人の記録を静かに見守るように。 
 
 
 
 
 
 
~fin~  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
後書き  
 
『俺の男に手を出すな05』を最後までお読み頂き有難うございました。 
05では、アメリカへ渡った後の二人を書いてきたわけですが、サブタイトルにもある通り、二人の生き方が少しずつ交わって重なっていく様子を丁寧に書いたつもりです。椎堂の過去の問題からくる恋愛面での成長や、澪の中で変化する家族への想いの形等、あまりBLっぽくはないお話でしたが、少しでも読んでくださった方の心に残ってくれたら嬉しいなぁと思います。 
随分長い物語になってしまいましたが、いつかまたその後の二人も書いていきたいです。 
読後、ご感想等があれば聞かせて頂けるととっても励みになります。 
 
2018/03/18  聖樹 紫音