GAME -4-


 

 
 ガーリックとハーブで香り付けされているたっぷりのオリーブオイル。 
 それが満たされた鍋が目の前に運び込まれ、卓上のコンロに火がともる。野菜を中心とした具材に、大きめのベーコンや鶏肉、軽く茹でてあるジャガイモや海老などが綺麗に盛り付けられて、それぞれの目の前に置かれる。 
 楠原がブロッコリーを串に刺して鍋にそっと入れると、その後信二は自分の串も同じように中へと入れた。小さな気泡を発して、素揚げされる素材から弾けるような音がする。 
 
 待つ間、同じく運ばれてきたパンを先にちぎって食べていると。鍋の中を少し覗き込むようにして、楠原が苦笑する。何かおかしな事があったのかと思い、信二も鍋の中を覗き込んでみたが特別笑うような事態は起きていないように見える。 
 鍋の中では海老がみるみるうちに真っ赤になっているだけだった。 
 
「ん? 俺、なんか変な事してます?」 
「いえ、別に……。気にしなくていいですよ」 
「えぇ……? 気になりますって。教えて下さいよ」 
「……信二君は、豪快だなと思っただけです」 
「……え」 
 
 最初意味が分からなかったが、もう一度鍋の中を覗き込んで気付く。楠原は一本の串に一つの具材のみを刺して油へ入れているが、自分の串には四種類が刺さっている。四つめになる一番上は半分しか油へ浸かっていないが、火を通さなくても食べられそうな野菜だったので問題ないと踏んだのだ。 
 
「あ……。コレのことっすね?」 
 
 中を指さす信二に、楠原がくすりと笑い「そうです」という。 
 
「いや、だって、一個ずつとか面倒じゃないっすかね? こう、次のが出来上がるまで待ってるのがだるいっていうか。俺は寧ろ、六個ぐらい一気にいきたいみたいな」 
「確かに、それはありますけど。これは、そういう過程も楽しむ料理なのでは?」 
 
 本当に楠原の言う通りである。周りを見渡すと男性客もそれなりにいたが、みんな少しずつ刺してはいれているようだ。信二はごまかすように笑って、出来上がった串から一気に四つの具材を皿へと抜いた。 
 こういう適当な所が、女性にモテない理由なのかも知れない。 
 楠原は男なので特に気にしていないだろうが、女性はそういう部分でも冷めることがあるのは一応知ってはいた。 
 信二は皿に置いた具材を口に入れて、「うーん」と眉間に皺を寄せた。 
 
「俺、店は別として、プライベートで全然モテないんっすよ……」 
「そうなんですか?」 
 
 楠原が意外だとでもいうように驚き、その後「信二君みたいな男性は人気がありそうですけど……」と付け加えた。 
 
「いや、全然っす。寧ろ俺のフラれっぷり聞いたら驚くと思いますよ」 
「そんなに? 不思議ですね……。例えば、どういう感じでフられるんですか?」 
「そうっすねぇ……。まぁ、だいたい最初は、コンパとか行っても、自分で言うのもおかしいっすけどそれなりに好感触なんですよ。んで、その後連絡先交換して後日会うとするじゃないっすか?」 
「はい」 
「二回目ぐらいでフられます。酷い時とかは、次会った時とか……」 
「それは……」 
 
 楠原の表情に、少しだけ同情の色が乗る。 
 
「最近では、結構マジモードで気に入った子が居て、三回ぐらいデートしたのかな……。で、三回目の時に彼女が酔い潰れちゃって終電も無いから、ラブホ行こうって言われたんっすよ」 
「なるほど、積極的な女性ですね。それで?」 
 
 楠原が感心したように頷いている。 
 
「で、俺そん時その誘いを断っちゃって……。タクシーで家まで送ろうと思ってたから……。そしたらすげぇ怒っちゃって、謝ったんっすけどもう会いたくないって言われて……」 
 
 信二は納得いかない様子で、再び串に……今度は二つだけ具材を刺すと油へといれた。 
 
「何故断ったのですか? 信二君も、その女性が好きだったのでしょう?」 
「だからっすよ」 
 
 信二は続きの言葉の内容を考えて、楠原にしか聞こえない程度に声のトーンを数段階落とした。 
 
「キスもしてない相手っすよ? いきなりホテルとか。俺ヤリ目とか思われたくなかったし……。もっと彼女のこと大切にして、ゆっくり進めたかったっていうか……。俺の考え、間違ってますかね……?」 
 
 楠原も話を聞きながら、食事を進める。信二の硬派な部分を見た気がして、驚くと共に何故かとても彼らしいなと安心した。以前信二の事を、実直だと褒めたことがあったが、こんな部分でもそれはあてはまっていたのだ。真っ直ぐで、自分の信念を持っている。そんな信二の事を羨ましいとも思った。 
 楠原は少し考えて、溜め息をついている様子の信二に返事をする。 
 
「僕は、どのような場合でも、基本的に女性のことを悪く言うのは好みません。なので、信二君の好きだったその女性も、性に対して積極的な女性だったなら、……当然そのような誘いをするだろうなと思う、とだけ言っておきます。誘ったのは、そんな彼女でも勇気が要ったでしょうから、断った事でプライドを傷つけた可能性が高いですね」 
 
 以前晶にも同じ事を相談した時に全く同じ返事が返ってきた。信二はそれを思いだして、やはり自分が間違っていたのかと肩を落とした。 
 
「信二君」 
「……はい」 
「今言ったのは、ホストとしての僕の言葉です。今から言うのは、僕個人の一意見です」 
「……え?」 
「信二君は、なにひとつ間違っていない」 
「……蒼先輩?」 
「それはフられたのではなくて、考え方や価値観が合わなかったから、そこでお別れした。ただそれだけです。一つ一つは聞いていないので断言は出来ませんが、たまたま今まで好きになった女性が、信二君と合わなかっただけかと。モテないわけじゃないんじゃないですか」 
「そ、そう……ですかね」 
「きっと、恋愛に対して曇りがないのでしょう。信二君の考え方が、ね。同じ考えの女性も沢山いると思います。そういう女性となら、きっとうまくいくと思いますよ」 
 
 楠原にそう言われると、本当にそうなのかもという気持ちになる。女運がないというか、プライベートでうまくいかない理由は全て自分にあるとずっと思っていただけに、楠原の言葉に救われた気がした。 
 
「有難うございます。そう言って貰えてちょっと元気でました。いや、だからって、俺も駄目な所いっぱいあるんで、ちゃんと直すように努力はしますけど」 
「頑張って下さい。今度恋が実ったら、またお話聞かせて下さいね」 
「はい!」 
 
 何故か自分の恋愛話をした結果になってしまったが、さすが聞き上手というか、楠原にはとても話しやすかった。今まで少し気難しい印象があったのは、自分で勝手にそう決めて楠原との距離をとろうとしていたからなのかもしれない。 
 
 楽しい夕食の時間はあっという間に過ぎて、最後に出されたシャーベットを食べる頃には九時近くなっていた。随分体が温まったが、外は寒いんだろうなと思い、信二は入り口の硝子窓から覗く外の景色に視線を向ける。終電間近というわけでもないので、人通りは店に入った頃より多いぐらいである。 
 
「そろそろ、帰りますか」 
「はい、そうっすね。腹も一杯になったし」 
「ええ。美味しかったです」 
 
 再びコートとマフラーを互いに着込んで、会計を済ませて外の通りへと出る。 
 夕方より俄然眩しいネオンが輝く大通り。肩を竦めた楠原の隣でゆっくりと駅の方面へと足を向ける。 
 
「やっぱ夜は寒いっすよね。蒼先輩、体温低いから余計にこたえるんじゃないっすか?」 
「寒いですけど、でも、食事を摂って体も温まったので、今は平気ですよ。今日は、まさか信二君の恋の話を聞かせて貰えるとは、思っていませんでした」 
「あー。すみません。何か俺ばっか色々くだらない話しちゃって」 
「いえ、楽しかったという意味です。仕事関係以外で人と食事をしたのも久々なので……。美味しい食事と楽しい話、誘って下さって感謝しています」 
「また、いつか機会があったら一緒に飯食いにいきましょう。また誘うんで」 
「はい、楽しみにしていますね」 
 
 大通りを抜けると、流石に人が若干少なくなってくる。 
 店に出ている日なら、今はもうとっくに営業が始まっている時間だ。呼び込みをしている同業らしき店舗の前を横目で見ながら、楠原と二人で町を歩く。 
 最初は目の前に楠原がいて一緒に出かけているのが、幹事の仕事だからという建前があったとしても不思議な感じがしたが、今はそんな違和感も薄らいでいる。 
 
 途中で大きな歩道橋があり、そこを渡るのだが、先に歩いていた楠原はその前で足を止めた。 
 思わず追い越してしまい、信二が振り向く。 
 
「あれ? どうかしたんっすか?」 
 
 楠原は、間を開けて「いえ、何でもありません」と笑みを浮かべた。 
 何だろうとは思ったが、何か用事でも思いだしたのかと思い、さほど気には留めなかった。中央の手摺りで左右に分かれ階段を上っていくと、信二の方からも少しだけ見える歩道橋の上で、小学生ぐらいの女の子が、小さなぬいぐるみを手にしたまま下の道路を興味深そうに覗き込んでいた。 
 
 こんな時間にあの歳の子供が一人な筈はないので少し辺りを見渡すと、やはり母親らしき人物がいて、随分先の階段をおりようとしている所だった。そのうち気付いた母親に「早く来なさい」などと怒られるんだろうなと、何となく想像が付く。 
 
 ゆっくり階段を上りながら母親の方に気を取られていると、階段を上りきった所で楠原が「……ダメ」と譫言のように口にし、急に駆けだした。 
 
「……えっ?」 
 
 声をかける間もない一瞬の出来事。 
 
 子供に駆け寄った楠原が、ぬいぐるみを追って身を乗り出す女の子を抱き留める。 
 楠原がそのまま膝を折るのと、子供が手にしたぬいぐるみが車道に落下するのはほぼ同時だった。何かが落ちてきたことで派手に鳴らされるクラクション。ビックリしてその後を追った信二は、途中で楠原が髪を結ぶのに使用していた黒の革紐が落ちているのに気づき、それを拾い上げて再び走る。 
 
 ぬいぐるみを落としてしまった事と驚きで泣き出した子供に、楠原が「怪我はしてませんか? ご両親はどこにいるの?」と訊ねているのが漸く耳に届いた。 
 
「大丈夫っすか!?」 
 
 漸く追いついた信二が息を切らして膝に手をつく。 
 二人とも無事な事に胸をなでおろした後、歩道橋から落下したぬいぐるみを探すために、身を乗り出した。ひっきりなしに車が通っている中で、小さなぬいぐるみを発見するのは難しい。なんとか目を凝らしていると、通過する車に轢かれて舞い上がったぬいぐるみを発見した。 
 
――あった!! 
 
 信二が背後に居る二人へと振り向く。 
「お兄ちゃんが取ってきてあげるから、ちょっと待ってな」 
 泣きじゃくる女の子を宥めるように撫で、信二は楠原へも声をかけた。 
「俺、ちょっと取ってきますね」 
 
 楠原からは返事が無かったが、泣いている子供をあやしているのでそのせいだろうと思い、信二は来た方向へ逆戻りすると階段を駆け下りた。 
 
 信号は中々青にならず、車の流れが止まらない。そうしている間にもぬいぐるみは何台もの車にはねられて、ついには分離帯の植え込みへと落下した。ぬいぐるみだから良いような物の、あれが落下した女の子だったらと思うと、考えただけでゾッとする。 
 
 漸く青になったので、信二は停車している車を縫って急いでそこまで走り、すっかり汚れてしまったそのぬいぐるみを拾い上げた。ふわふわした小さなぬいぐるみは、テディベアのようだが、腕の付け根の部分が衝撃で千切れそうになっており綿が縫い目から飛び出していた。 
 片手にそれを持って、女の子と楠原が居る場所へ戻ると、気付いた母親も側に来ていて楠原に何度も礼を言い頭を下げている。 
 
「はい、これ。ちょっと怪我しちゃってるみたいだから、おうち帰ったら治してあげな」 
 
 信二が女の子へそういって手渡すと、嬉しそうにぬいぐるみを抱き締めた女の子が「お兄ちゃん、有難う」と可愛らしい笑みを浮かべる。母親からも何度も礼を言われて信二が「気にしないで下さい」とかぶりをふる。楠原は特に何も言わず、子供を抱き留めたままの格好で座り込んでいる。 
 
「危ないから、あんま上から体乗り出したらダメだよ」 
 
 しゃがんで優しく諭す信二に最後にもう一度頭を下げ、女の子は片手にはぬいぐるみ、そしてもう片方の手に、今度はちゃんと母親の手を握って遠ざかっていった。 
 
 自分の方からは、ぬいぐるみが落下しそうだったという事までは見えなかったのだが、本当に危なかった。小さな子供が身を乗り出したからといって、必ず転落するとは限らないが事故というのは何が起きるか分からないからだ。 
 何事もなく済んだのは、咄嗟に駆けだして女の子を引き留めた楠原の反応の早さのおかげでもある。 
 
「誰も怪我とかしなくて、ほんと、良かったっすね。……マジでビックリしました」 
「…………」 
「でも、蒼先輩、よく気付きましたよね? 急に駆け出すから、何があったのかって思いましたよ。――あ、これ。髪結んでた紐、落ちてました」 
 
 紐を楠原に差し出した所で、信二はその様子がおかしい事にやっと気付いた。 
 
「蒼先輩……?」 
 
 結んでいた髪がほどけたことで、長い髪が楠原の横顔を深く覆っておりその表情が信二からは見えない。コートを羽織ったまま座り込んでいる楠原は、全く動かず。信二が慌てたように楠原の肩を両手で掴み顔を覗き込んだ。 
 
「……どう、したんっすか? ――蒼先輩……??」 
 
 子供の件で動揺して? しかし、それだけではないだろう。楠原は酷く震えていて、堪えるように目を閉じている。ただでさえ色白の顔が全く血の気を失い。苦しげに息を吐く楠原の額には冷や汗が浮かんでいた。突然のその様子に恐怖を感じ、信二の手も僅かに震えてくる。 
 
 全く何が起きているのか理解できないが、こんな地面に座っていたら体が冷え切ってしまうと思った。信二は自身の来ていたコートを脱ぐと楠原にそれをかけて前に回り込み、強く肩を揺さぶった。 
 
「蒼先輩!! 大丈夫ですか! しっかりして下さい! 俺がわかりますか!?」 
 
 楠原の止まらない震えが、肩を掴んでいる手からも伝わってくる。頭の中でどうしたらいいのか考え、救急車を呼べばいいのだとやっと気付く。何故もっと早く思いつかなかったのだろう。普段ならすぐに考えつくであろう事を気付けない程の動揺を知り、指が強張る。 
 携帯をジーンズのポケットから取りだした所で、ずっと俯いていた楠原が信二の腕を力なく掴んだ。 
 
「……信二、君」 
「あ、蒼先輩、い、今、救急車呼びますから!」 
「ダメです……。僕なら、大丈夫。……ですから」 
「でも!!」 
「本当に、平気です……。それより……。何か……飲むもの、持っていませんか……?」 
 
 飲むもの? ――そういえば待ち合わせ前に喉が渇いたので小さなペットボトルのスポーツ飲料を自販機で買ったのを思い出す。全部飲みきっていないので鞄にまだ入っているはずである。信二は鞄の中から、ペットボトルの飲みかけを掴んで楠原へと渡した。 
 
「俺の飲みかけっすけど……」 
「有難う……」 
 
 何とか会話は出来ているが、一言喋る度に楠原の息が詰まる。楠原は時々胸を押さえながら、自身のコートから何か錠剤を取り出すとそれを口に含み、信二の渡したペットボトルで飲みこんだ。何の薬かはわからないが、楠原は持病があるのだろうか。薬を飲んだ後も中々回復はせず、楠原は立ち上がれないまま一言も口を開かなくなった。 
 
 視界の隅に映る歩いてきた大通り、絶え間なく続く喧噪。風が強くなってきて、乾いた冷たい街の空気が、体温も思考もかすめ取っていく。 
 
 歩道橋の柵を掴み、体を支えている楠原の手から力が抜け、ずるりと下へ落ちる。真っ白なその手が地面に落ちると、楠原は悔しげに地面に爪を立てた。 
 微かに届くジャリッというアスファルトを引っ掻くような音。 
 信二は堪らず、その指先をさらうように掴むと自身に引き寄せ、そのまま楠原の体に腕を回した。 
 
「俺に、寄りかかってて下さい……ちゃんと支えてるんで」 
 
 コートを楠原にかけているので寒いはずが、何も感じない。ただただ心配で、誰に見られるか分からないこんな状況でも腕を放すことが出来なかった。コートを二枚も着て、中にも服を着ているというのに、腕の中の楠原は想像よりももっと華奢で、震えるその体がこのまま壊れてしまうのではないかと不安になる。 
 信二はマフラーも外して、楠原へとそれも巻き付けた。 
 
「……蒼先輩」 
 
 何度も楠原の背中を摩り、暫くそうしていると楠原の震えも治まり、乱れていた呼吸音が戻ってきた。時間にしたら二十分程度なのかも知れないが、永遠に続く不安感は、その時間をとてつもなく長いものに感じさせた。 
 
「もう、大丈夫です……。驚かせてしまいましたね。すみません……」 
 
 楠原は小さくそう呟くと、信二の腕から離れゆっくりと呼吸を整え、腰を上げた。かけてもらっていたコートとマフラーを外し、信二の肩へとかける。 
 
「寒かったでしょう。早く着て下さい。風邪を引いてしまったら大変ですから……」 
「俺は……大丈夫……っすよ」 
 
 いつも通りに振る舞う楠原が、無理をしているのが分かる。信二は返ってきたコートを羽織り、だけどマフラーだけはもう一度楠原へと戻した。楠原の薄手のマフラーより自分がしている方が幾分暖かいだろうと思ったからだ。手摺りに寄りかかって俯く楠原の首に、今度はしっかりとマフラーを結ぶと、二重になっているマフラーは楠原のマフラーをすっかり隠した。 
 
「ちょっとは暖かいっすよね。そのまましてて下さい。あの……、気分悪いとか、どっか痛いとかないっすか? 病院行くんなら、俺が連れて行きますから」 
 
 心配そうにそういう信二に楠原は首を振った。 
 
「いえ……。どこも悪くないので。僕はいたって健康体ですから……」 
「え、でも……さっき、薬……」 
 
 楠原は、自虐的な笑みを浮かべ、静かにその話題を絶った。 
 
「これ以上は、聞かない方がいいですよ。信二君のためにも……。迷惑を掛けた上に、こんな言い方しか出来なくてすみません……。でも、本当に助かりました。有難う……」 
「俺、迷惑とか全く思って無いっすよ。ただ……すげぇ心配です……。理由とか嫌ならもう聞かないけど、もうちょっと落ち着くまで一緒に居ます。断られても……一緒に居ます」 
「……困りましたね。僕は押しに弱いんですよ……」 
 
 こんな時にも冗談交じりの返事をする楠原は、心の内を知られる事を頑なに拒絶しているように見えた。 
 
「……ここで立ってるのもしんどいっすよね……? どっか人の少ない店に入って休みましょう」 
「……わかりました」 
 
 言っても聞いてくれないだろうと判断したのか、楠原は素直に信二の言葉に従った。ゆっくりと歩いて歩道橋を渡る際にも足下が幾分ふらついていて、完全に復調したわけではないのが伝わってくる。 
 
 降りきった先に喫茶店があるのを見つけ、楠原をそこで待たせて信二が店内の様子を窺う。特に洒落た店でもなく、古そうな喫茶店は案の定ほとんど人が入っておらず、信二は楠原を呼ぶと中に入るように促した。 
 
 少し薄暗い店内に足を踏み入れ、通りから一番離れた奥の席へと腰を下ろす。注文を聞きに来た店員にコーヒーを二つ勝手に頼むと、信二は長く溜め息をついた。今頃になって、先程の不安が蒸し返されて、掌がじっとりと汗ばむ。 
 すぐに運ばれてきたコーヒーを一口だけ飲んで、信二は向かい側の楠原へと顔を上げた。 
 
「でも、良かった……。俺、あのまま、蒼先輩がどうにかなっちゃうんじゃないかって……思って……」 
「……、……大袈裟ですよ。あの女の子の事でちょっと動揺しただけです」 
 
 楠原はいつも通りの笑みを浮かべて、コーヒーへと手を伸ばす。 
 
「あれがちょっと、ですか? あんなに震えてたのに……」 
「それは……」 
「あ、……いいっす。すみません。別に聞き出そうとしてるとか、そういうんじゃないんで。ただ、今は無理して欲しくないから……。話すのもしんどかったら、伏せて休んでて下さい。俺勝手に話すんでスルーしてくれていいですから」 
 
 互いに無言で居るというのも、それはそれで楠原が気を遣うと思った信二は、独り言の体で静かに話しながら煙草を取り出した。 
 
「……信二君」 
 
 咥えた煙草を深く吸い込み、信二は強引に気持ちを切り替えるように勢いよく紫煙を吐き出した。楠原が答えずに済むよう、尋ねるような疑問符を一切挟まず語り出す。 
 
「やっぱ子供って乗り物とか好きっすよね。ああやって行き交う車とか、きっと何時間見てても飽きないんだろうな……。うちの一番下の弟も、車とか電車とかガキの頃凄い好きで。実家の近所に交通公園があるんっすけど、そこに見るからに安っぽい機関車が置いてあって、……すげぇボロボロなのにそれを毎日見たがるんっすよ。 
 うち共働きだったんで、親は連れて行ってやれないから、学校終わったら俺が毎日連れて行ってたんです。動きもしないその機関車に乗って手を振ってくるのに振り返してやったり。雨の日とか、マジ誰も来てないんっすよ。傘さしてまで来てるの俺と弟だけで、笑っちゃいますよね。もうめんどくさくて、しょっちゅう親に何とかしてくれって文句言ってましたもん、俺」 
 
 どうでもいい話題を口にしては、吸い終える度に新しい煙草に火を点ける。どんどん増えていく灰皿の中の吸い殻。 
 
「あと、全然話変わるんっすけど、俺、食パンが好きなんですよね。他の惣菜パンとか菓子パンも好きっちゃ好きなんっすけど、一番は何も付けない食パンなんです。晶先輩にそれ話したら、変な奴扱いされたし、ほとんど人に同意を得られないんっすけどね……。何かこう、耳の部分が硬くて、中はふわふわで一枚で二度美味しいみたいな。得した気分じゃないっすか。って……こうやって力説してもわかってもらえないんで、多分俺が変なんだと思うんっすけど」 
 
 五本目の新しい煙草に火を点ける。次の話題を探そうと頭の中で考えていると、楠原が呟いた。 
 
「僕も……食パンは好きですよ……。美味しい、ですよね……」 
 
 顔をあげないまま一言そう言った楠原の声は、――ほんの少しだけ、涙声だった。 
 すっかり冷めたコーヒーを口に運ぶ。最初に飲んだ時より、苦く口に残る。 
 信二は気付かないふりをして少しだけ笑った。 
 
 
 
     *     *     * 
 
 
 
 あの後、顔色も良くなり落ち着いた様子の楠原を家まで送っていこうと思ったが、電車ではなくタクシーで帰るから大丈夫だと言い張るので、結局タクシー乗り場まで見送ってそのまま別れた。 
 楠原がどこに住んでいるのかも知らないので、どれくらいで自宅に到着したかもわからない。自宅に着いたら連絡をくれるように頼もうかとも一瞬考えたが、しつこくしてそれが負担になっても嫌なので口に出来なかった。 
 
――無事に帰れた……よな……。 
 
 帰りの電車に揺られながら、どっと疲れを感じる。だからといって、座席も空いていないので、信二はドア付近を確保すると椅子の端に背を預けて目を閉じた。 
 
 一度も見る勇気がなかったけれど、喫茶店で楠原は多分泣いていたと思う。理由は分からないし、今後も今日の涙の理由を問うつもりも無いけれど、気にならないと言えば嘘になる。 
 いつも気丈な楠原のあんな姿を見てしまったのは、衝撃だった。タクシーに乗り込んで別れるまで何度も今夜のことに礼を言い謝る楠原を見ていると、本当なら誰にも知られたくなかった姿なんだろうとわかる。自分の前で体調を崩したことも、その後の涙も、見られた事が楠原の中では失態なのかもしれない。 
 
 健康体だと言い切った楠原が飲んでいた白い錠剤。持病の薬ではないとしたら、何の薬なのだろう。ビタミン剤などのサプリメントでは当然無いだろうし……。 
 最寄り駅の一つ前の駅名アナウンスが車内に響く中、信二の脳裏に嫌な想像が湧き出る。 
 
――……何、馬鹿なこと考えてるんだろう……。 
 
 自分の考えを否定して、信二は混乱する頭の中から一瞬考えてしまった可能性を追い出そうと再びぎゅっと目を瞑った。