GAME -9-


 

 
 昨日は、どうやって家に帰ったのかも分からないほどに混乱していた。 
 帰りのタクシーに乗って自宅に帰り鍵を開ける。電気を付ける。靴を脱ぐ。見慣れた自分の部屋にあがる。溜め息さえでなかった。 
 
 家を出た際に途中まで読んでいたファッション誌、灰皿に残る吸い殻、目に入ってくる全てが何も変わっていない。 
 なのに、何もかもが違って見えた。 
 
 着替えるのも忘れ、買ってきた物をそこらに放ったまま、冷蔵庫にある酒を何本か煽った。冷たく胃に落ちていく酒すらも、そう簡単には酔わせてくれず、三本目を飲んだ時点で虚しくなり、酒の缶を握り潰すとそのまま横になった。 
 そんな気分でも時間はいつも通り進んでいて、染みこんでいる生活習慣が『風呂へ入れ』『そろそろ寝ろ』と指示を出してくる。頭の中を空にしてその命令のみに耳を傾け、早々に布団に入る。いつもは気にならない目覚まし時計の秒針の音が耳障りで、信二は電池を抜くと携帯のアラームをセットして掛け布団を頭から被った。 
 
 案の定、翌朝の目覚めは最悪だった。 
 
 
 
 一晩経ってみると、昨日のことが夢だったのではないかと本気で考えてしまう。 
 今日店に出たら、いつもと同じように楠原がいて、「信二君」と優しい笑みを浮かべ呼んでくれるのではないかと……。 
 くだらない話をして、楠原の言う冗談を信じる自分に、彼が小さく笑う。そんな平凡な日がまだそこにあるのではないかと……。 
 だけど、夢ではない証拠がある。楠原の胸に触れた指先、鎖骨に這わせた唇。夢なら知らないはずの感触は残酷にもちゃんと残っているし、……目を閉じると、紅く色付いた楠原の鎖骨下の傷跡が瞼の裏に浮かんだ。 
 
――僕を好きだというなら、抱いてみて下さい。 
 
 挑発するようにそう言って自らの肌をさらしていく楠原は、その大胆な行動の危うさと対照的に、どこか悲しそうで、その奥底では怯えているようにも見えた。 
 これがコインなら答えは二つしか無いというのに。表と裏だけじゃない、もっと絡み合った感情が邪魔をして、楠原の考えている事も、本来の素顔も全てを隠していた。 
 楠原を好きだと自覚した日にふられるとか、自分は本当に呪われているのではないかと思う。 
 
 
 
 鮮明に思い返すのが怖くて、なるべく一人にならないように早めに家を出た。いつもは素通りする本屋に立ち寄ってみたり、借りもしないレンタルショップを物色してみたり。 
 ある程度時間を潰した後で、店へ向かった。 
 
 運良く何人かはもう店に居たので、待機室でまるで何もなかったように会話をしていると、途中で晶もやって来て昨日の話で盛り上がっていた。その輪の中にいながらも、どこか遠くからその様子を見ているような感覚。聞いている話は理解できているのに、相槌を打つのが精一杯だった。 
 暫くして、店に来た楠原が顔を出す頃には、誰の話も頭に入ってこないような状態で……。 
 皆に交ざって挨拶をした物の、彼を見ることも出来なかった。 
――初めて、楠原がどんなネクタイをしているのかわからないまま店に出た。 
 澱のように残っている楠原の全ての言葉が、重く重くのしかかり、潰されそうだった。 
 
 
 
 今日最後の客の前で、信二はひたすら早く店が終わることを望んでいた。 
 
「でね、みんなの前で、お前今まで何人とやったの? とか言ってくるんだよ~? 信じられる?」 
「…………」 
「信二?」 
 
 見ないようにしているが、声はどうしても聞こえてしまう。接客中の穏やかないつもと寸分変わらぬ楠原の声、時々客と笑い合うその声に、自分だけが取り残されている気分になる。 
 楠原が自らの手でCUBEを廃業に追い込んでいたこと。 
 あんなに懐かしそうに店に居た頃の話をしていたのは数時間前のことだったはずなのに。しかも、その事を玖珂と晶は知っているという。知っていて尚普通に接しているのだ。 
 それと比べ、すぐに受け入れられず、楠原への態度にも出てしまっている狭量な自分。 
 
 全てを知らなくても好きになるのに関係ないと、そう思っていた。なのに、何故、どうして、と疑問符が脳内を駆け巡って思考を支配する。 
 
 康生が言うように、楠原は本当に心ない人間で、自分に言ってきた言葉は全て嘘……何もかもが虚構で塗り固められていただけ。いっそ、本当にそうだったらその方がいいと思った。 
 だけど、どうしてもそうは思えない。 
 時々見せる楠原の辛そうな表情、一緒に居た喫茶店で見た涙、昨日、街でやっと楠原を見つけた時……抱き留めた腕の中で、自分に体を預けたその重みは嘘なんかじゃない。 
 とても演技だとは思えなかった。思いたくなかった。それが都合の良い解釈だとしても。 
 
「ねぇってば、信二、聞いてんの?」 
 
 客に顔を覗き込まれて信二は我に返った。 
 接客中は考えないようにしていたのに最後の客で気が緩んでいたのかも知れない。近づく長い睫が不思議そうに瞬かれ、口紅で綺麗に彩られた小さな口元が僅かに不満そうに形を変える。信二は慌てて笑みを浮かべ、客の方へ向きなおった。 
 
――何を話している途中だったんだっけ……。 
 
「……えーっと……」 
 
 焦って思い返そうとしていると、背後から晶の声がかかった。 
 
「そりゃ、ひでーな。そういう場合はさ、五十人目になってみる? とかジョークで返しときゃいいんだよ。真面目に答えるだけバカバカしいじゃん?」 
「……あ、晶先輩」 
「晶くんじゃ~ん、久し振り! オーナーなのに、こんな所でブラブラしてていーの~?」 
「いーのいーの。俺、可愛い女の子見るの趣味だからさ。つい我慢出来なくて、声掛けちゃってごめんね~」 
「ううん。晶くんに会えて私もラッキーだよ」 
「マジで? 嬉しいな。いつでも呼ばれたらくるからさ、信二のヘルプで」 
「やだ~、晶くんがヘルプとか、贅沢すぎて他の客に刺されちゃうじゃん」 
「んな事ないって。麻衣ちゃんに呼ばれた俺が、嫉妬した信二に刺されるかもしんないけどね」 
 
 冗談を言って場を和ます晶に、客も楽しそうに笑う。 
 店があと少しで終わる時間、晶が時々こうして店内の接客を確認することがあるのだ。笑顔のまま、晶が信二の肩を客に見られないように叩く。 
 
「麻衣ちゃん、ごめんねついでにさ、ちょっとこの馬鹿借りていい? すぐ返すからさ」 
「え? 信二? ……うん。いいけど」 
 
 晶が他の指名が入っていないホストを呼び、席に着かせる。 
 
「すぐ、戻すからさ。信二借りるね~。こいつとゆっくりしてて」 
「……麻衣ちゃん、ごめん。ちょっと行ってくるね」 
 
 ぎこちなく客に挨拶して、晶に腕をひかれる。さっきは咄嗟に近くに居た晶がフォローを入れたからいいものの、あのまま接客していたら話をまるで聞いていなかった事がばれてしまったかもしれない。 
 
 
 黙ったまま廊下を進み、誰もいない待機室へ放り込まれると、晶が部屋のドアを閉めて信二の方を振り返った。 
 
「信二、お前、何やってんだよ」 
 
 ソファの背もたれへ立ったまま寄りかかると、晶が眉間の皺を深くする。 
 
「……す、すみません。ちょっと、ぼーっとしてて……」 
「ボーっとしてて? 何だよそれ。そんな言い訳通用するわけねぇだろ! 何年ホストやってんだ。客が話してる最中に上の空とか、最悪だぞ」 
「……はい」 
「いいか、俺達は客を楽しませて、その対価として金を貰ってる。ボーっと座ってるだけなら、お前じゃなくたって、マネキンでも一緒なんだよ。さっきのお前は、そのマネキン以下だったけどな」 
 
 晶の低く厳しい声が部屋に響く。こんなに晶に怒られるのは久々である。いつもなら、多少注意されることがあってもこんなにきつくは言われない。それだけ、目に余ったという事なのだ。 
 自分でも、先程の接客は最悪だとわかっていた。割り切っていつも通りにしようと思うのに、もう何を話していいか、いつも難なく浮かぶ会話がひとつも浮かばなかった。 
 
「すみません」 
 
 深く頭を下げたまま口を開く。 
 
「もう、大丈夫っす……戻ったら、ちゃんといつも通りやります」 
「……当たり前だ。最初からいつも通りやれ」 
「……すみません」 
 晶が胸元から一本煙草を取り出して火を点ける。 
 
――情けなかった。 
 
 プライベートのたった一つの出来事だけで、こんなにも影響が出てしまう自分の弱さが。 
 晶はゆっくり紫煙を吐き出したあと、張り詰めていた空気をといて長く息を吐いた。「……どうしたんだよ、信二」そう言って、下げたままの信二の頭を晶がくしゃっと撫でる。 
 その撫で方が本当に心配げで、晶の顔をまともにみられないまま信二は奥歯を噛んだ。 
 
「……お前らしくないじゃん。店開く前から元気なかったみてぇだけど、何かあったのか?」 
 
 晶の優しげな言葉に、胸の内を吐露したくなる。だけど、言えなかった。 
 
「……いえ……。何も、……何もないです」 
「何もないって顔じゃねぇな……。まぁ、今はいいや……」 
 
 晶は近くの灰皿へ煙草を捨て、寄りかかっていた腰を上げると、信二の肩にそっと手を置いた。 
 
「とりあえず戻って、待たせてる今の客だけは、お前が責任もって最後まで接客しろ。麻衣ちゃんで今日はもう終わりなんだろ?」 
「……はい」 
「ちゃんと見送って、その後オーナー室に顔出せ。OK?」 
「……わかりました。さっきはフォロー有難うございました……」 
 
 信二の言葉を聞いた後、晶が部屋を出て行く。 
 こんな情けない姿を晶に見られた事もショックである。きっと失望させた。 
 そう思うと余計に気が重くなる。オーナー室に呼ばれたという事は、その後もまた怒られるのかも知れない。普段優しい晶が、客に対して失礼な事をした時だけはめちゃくちゃ厳しい事も知っている。 
 
 信二は無理矢理気を取り直すと、洗面に寄って冷たい水で顔を洗った。 
 刺すように冷え切った水、顎から滴る水滴、拭わぬまま顔を上げて鏡を見ると、暗い表情の自分の顔が映っていた。晶が言うように、こんな顔で接客していたらマネキン以下だ……。 
 濡れた拳をきつく握りしめ、信二は「よしっ」と小さく呟いた。 
 身なりをもう一度整え、ネクタイを上に押し上げフロアのドアに手を掛けた。自分だって一人前のホストなのだから、できない筈はない……。 
 革靴が床を叩く硬質な音が響く。 
 戻った席で、臨時で相手をしていたホストに交代してもらい、信二は気合いを入れていつもの笑みを浮かべた。 
 
「さっきはごめんね、麻衣ちゃん。もう平気だから」 
「おかえりっ、信二」 
「ただいま」 
「信二さー、どうかしたの? あ! もしかして恋の悩みとか? ……いつも私、話聞いて貰ってるし、相談に乗ってあげよっか??」 
「麻衣ちゃん、今日も優しいな~。でも、残念!! 別に恋の悩みとかじゃないからさ」 
「そうなの?」 
「そうそう、だって恋の話だと、『どうしたら麻衣ちゃんに好きになって貰えるか』相談することになるけど、本人にそれ相談するって俺どうなの?」 
「なーにそれ、もうっ。信二、冗談ばっか言って」 
「冗談じゃないってば、ホントだよ。ってか、実はちょっと今日腹が痛くてさ。マジで賞味期限は守んないとやばいよね」 
 
 イタタと言うように、信二が自身の腹をさする真似をして眉を顰め苦笑する。 
 
「やだー、何食べたのよ。大丈夫? 信二って、そういうとこ本当ドジだよね~」 
「何って卵だって、普通だろ? 期限切れてから、十日経ってたけど」 
「それ、普通捨てるよ?」 
「だよね」 
 
 「マジ受ける」と笑っている客に、信二も笑う。痛いのは腹でもなくて、もっと別の場所で……。だけどそれも、痛いを通り越してぽっかり穴が空いている気分だった。 
 客がふざけて信二の腹に手を伸ばし、「よしよし」と言って何度か摩る。自分を指名してこうして足を運んでくれる、1分だって無駄にしてはいけない大切なお客様だ。 
 
「お腹痛いの、麻衣がこうやったら治らないかな?」 
「あ……!」 
「え?」 
「何か、治ったかもしんない。急に痛くなくなってきた。麻衣ちゃん、凄くない? 医者になったら?」 
「うそ、まじで? でも、良かった。信二が元気ないと、私も寂しいんだからね?」 
「――有難う。もうめちゃくちゃ元気だし! マジでさっきはごめんね」 
「いいってば。あー、じゃぁさ。今週の土曜日予定空いてたらアフターしようよ。行きたい所あるんだ」 
「いいけど、どこ? あ、もしかしてまたバッティングセンター……?」 
「あったり~! だってー、一人じゃ行きづらいんだもん。周り男の子ばっかりだし……」 
「はは、確かに。でも、良かったよ、誘ってくれて」 
「えぇ、どうして? 信二も好きなの?」 
「俺も好きだけどさ、それより、男が沢山居る場所に麻衣ちゃん一人で行ったらキケンじゃん。変な奴にナンパされっかもしんないし」 
 
 心配そうな表情を浮かべる信二に、客の頬が淡く色付く。 
 
「ふぅーん……一応、心配してくれんだ?」 
 
 満更でもなく照れたようにはにかむその顔に、信二が笑みを浮かべる。 
 
「当たり前だろ。当日は、俺が周りにガン飛ばして、他の男寄せ付けないようにするからさ。安心していいよ」 
「信二がガン飛ばしてもな~。全然怖くないと思うけど?」 
「ひどっ……、俺ってそんなに頼りない?」 
「そうじゃないけど~、信二、優しい男オーラ滲み出てるもん。でもね、……そこが好き」 
「下げてからの突然の告白! あざっす!」 
 
 嬉しそうに客が笑う。一緒になって笑っていると、ほんの少しだけ気が紛れる気がした。 
 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 
 最後の客を店の外まで送り、フロアへ戻る。ぼちぼち他のホストが接客していた客も帰り始め、何人かと店の入り口ですれ違った。 
 一度ロッカーへ行き、ネクタイだけを外して溜め息をつくと、部屋にいた後輩から声がかかる。 
 
「お疲れ様です! 信二さんも、もう終わりですか?」 
「あー、お疲れ。俺も終わり。お前らも?」 
「オレも、もう終わりです。ねぇ、信二さん! みてみて」 
「ん?」 
 
 何やらメモを得意げに見せてくる後輩の側で腰を屈めると、メモにはメルアドと携帯の番号らしき数字が並んでいた。 
 
「これ、ヘルプ入った時に、お客さんの友達が教えてくれたんです。初めて携番ゲットしちゃいました」 
 
 嬉しそうな後輩に、信二も笑みを浮かべる。 
 
「良かったじゃん。今度は、指名して貰えると良いな」 
「はい! こういう番号って、いつ営業電話掛けたらいいんですかね?」 
「んー……、そうだな……。昼仕事の相手っぽかったら、夜七時~九時ぐらいかな。っていうか、一度メッセージ送ったか?」 
「あ、いえ。まださっき会ったばっかだから」 
「お見送りしたら、そういう場合一度すぐメッセージ送っておくんだよ。『またおいで』とか、『楽しかった』とかさ。こっちは好感触ですってアピールを一言だけしておく。向こうにも覚えて貰いやすくなるし、次に繋がるから」 
「なるほど……、そうなんですね」 
「そうそう、んで次回ぐらいに『何時ぐらいだったら電話しても迷惑になりませんか?』って聞けばいいんじゃない?」 
「そうしてみます!」 
「頑張れよっ。初指名貰ったらお祝いしてやるから」 
「はい!」 
 
 自分にもこんな時期があったんだなとフと昔を思い出す。そんな事を後輩と話していると、待機室のドアが静かに開いた。振り向くと接客を終えた楠原が丁度入ってくる所で、信二は思わず視線を落とした。 
 
「あ! 蒼さん、お疲れ様です」 
「お疲れ様です。お二人とも、もう帰る所ですか?」 
「オレは煙草吸い終えたら帰ります~」 
 
 信二は後輩の肩を一度「お疲れ」というようにポンポンと叩き、俯いてポケットに手を入れたまま部屋のドアへ向かった。入り口に立っている楠原と肩が触れる。 
 いつもの楠原の香り……。 
 
「お疲れ様です……。俺は、晶先輩に呼ばれてるんで……お先に失礼します」 
 
 楠原が何かを言いかけたのがわかったが、その言葉を聞く前に廊下に出て部屋のドアをしめた。廊下へ出て息を吐く。こんな避けるような事をしていても何も変わらない。だけど、今はまだ楠原と普通に話せる気がしなかった。 
 当然だが楠原が自分を追ってくることもなく、部屋の中から後輩と楠原の話し声が聞こえる。信二はそのまま晶のいるオーナー室へと向かうと、そのドアをノックした。 
 
「いいぞー入って」 
 
 怒られる覚悟で来たのに、晶の声は間が抜けていて怒っている様子はない。 
 オーナー室には滅多に入らないが、入ってみると結構綺麗にしてあって、晶がよく店に泊まった際に寝ているというソファは案外寝心地が良さそうだった。デスクワークの書類を積み上げた奥から、晶が歩いてくる。 
 
「あの、今日はすみませんでした。今後は気をつけます」 
 
 言われる前に頭を下げる信二に、晶が穏やかな笑みを浮かべる。 
 
「あの後はちゃんとやってたみたいだし、もういいって。別に説教するためにお前呼んだわけじゃねぇし」 
「……? 違うんっすか……?」 
「んないつまでも怒ってねーっつの。それより、お前もう帰るんだろ?」 
「その予定っすけど」 
「んじゃ、予定変更な。俺も時間あるし、久し振りに飲みにいこーぜ」 
「え? 俺と二人で?」 
「何だよ、不満そうじゃね? 信二君、酷いっ、傷つくわ~」 
「いや、違くて。嬉しいっすよ? ただ突然だったから」 
「ジョークよ、ジョーク。んじゃ、帰る準備したらフロアで待ってろ。俺も支度してからマネージャーに鍵渡してくるから」 
「了解っす」 
 
 時間があるというのは嘘で、晶はどう見ても仕事中だった。本当なら、飲みに行っている場合ではないのは明らかなのに、自分が元気がないことを心配して誘ってくれているのだろう。晶のその優しさが今は余計に堪える。こうして、晶にまで心配を掛けて、本当にどうしようもないなと思う。 
 
 信二が再び待機室へ戻ると、楠原と後輩はもう帰った後で誰も残っていなかった。康生がまだフロアにいたはずなので、帰り支度を整えた後、電気は消さずに部屋を出る。 
 店の入り口で待っていると、少しして晶がきた。 
 
 
 二人で店を出ると、晶が大袈裟に寒がって両腕をさする。確かに今が一番冷え込む時間帯ではあるが、晶は寒いのが前から苦手なのだ。 
 
「俺、北極には住めねぇわ……。今すでに一瞬凍りかけたし」 
「大袈裟っすよ。ってか、今日、結構あったかくないっすか?」 
「どこがだよっ。めちゃくちゃ寒いつーの」 
「ほんと、晶先輩って薄着のくせに寒がりっすよね。そんなに寒いなら、……俺が温めてもいいっすよ?」 
「マジで? んじゃ、お言葉に甘えて温め……って、んなわけねーだろっ」 
「…………深夜にも関わらず、きれのあるノリツッコミっすね」 
 
 笑っている信二に、晶がふざけて肘で突いてくる。 
 こうしてふざけ合って街を歩くのも久し振りである。麻布店に居た頃は、時々二人で店が終わった後に飲みに行くことはあったが、こちらへきてからは主に晶がそんな暇も無くなってしまったので、そういう機会もなくなっていた。 
 
 両方の手をポケットにいれた晶が、長身を屈め真っ暗な空を見上げて白い息を吐く。同じように空を見上げると二つだけ輝く星が見えたが、月は見えなかった。地上が明るいので、気持ち空が白んでいるようにも見える。 
 
「……お前と二人で、こうして飲みに行くの、……久々じゃね?」 
「……そうっすね。晶先輩、忙しいから」 
「まぁな……そうなんだけどさぁ。忙しくしてると……、何つーか、色々見ているようで見えてねぇ事って多いんだよな……」 
「どういう意味……っすか?」 
「――そう、例えばさ」 
 
 晶が信二の方を見ると、少し困ったように眉を下げる。 
 
「お前が、元気がねぇなって事とか」 
「……え」 
「前だったら、……もっと、早く気付いてフォローしてやれてた」 
「……今日だって、店始まる前から気付いてたって、言ってたじゃないっすか……」 
「そりゃ、ちょっとはな……。でも、お前が接客中にあんなヘマするなんて相当だろ? そこまでは見えてなかったっていうかさ」 
「…………晶先輩」 
「俺が知ってるお前は、ちょっとやそっとじゃそんな事にならないプロのホストだ。俺がずっと育ててきたんだからさ……。それぐらい、――わかってんだよ」 
「…………」 
「ごめんな、信二。ちゃんと気付いてやれなくて」 
「……、……」 
 
 返す言葉がみつからないわけではない。何かを口にしたら本当に泣いてしまいそうで、何も言えなかった。鼻の奥がツンとするのは、この寒さのせいで。何度もそう言い聞かせてみても、噛みしめた唇が僅かに震える。冷たい空気を思い切り吸い込んで、その冷たさで感情を殺す。 
 これ以上、心配も掛けたくないし、晶にみっともない姿を見せたくなかった。 
 
「……何すか、俺の事泣かせようとしても無駄っすよ? 俺、そんなに人情派じゃないんで」 
「こら、先輩が『ごめんな』って言ってんのに、その返しはねぇだろ」 
 
 晶がそう言いながらも、優しい笑みを浮かべる。よく人のことをお人好しだなんだと言ってくる晶だが、誰よりもお人好しなのは晶だと思う。こんなに相手を気遣える人間もそうそういない。 
 信二が長く息を吐いて、晶へと振り向く。 
 
「ってか、今日どこに飲みに行くんっすか?」 
「あ、そうだな~、んじゃ。ちょっと調べるわ、グルメサイトで」 
 
 携帯を取り出す晶に思わず苦笑する。飲みに行くと誘ったくせに、どこに行くかは考えていなかったらしい。晶の携帯を覗き込んで、一緒にここがいいだの、やっぱりこっちにしようだのと一通り言い合った後、結局は無難な居酒屋に決まった。 
 
 大通りに入り、昨夜、楠原を見つけたビルの横を通る。 
 そこには誰も居なくて、真っ暗で……。 
 その闇に今も楠原が立っているような気がして、信二はしばし闇に目をこらした。