GAME -10-


 

 
 大通りを歩いて居酒屋に向かう途中、街の様子を眺めて信二は思う。この界隈は前にいた麻布とは全く違うなと……。 
 相席Loungeを名乗る店から出てくる、明らかに未成年の女の子と会社員、頭上から聞こえてくる怒声に驚いてビルを見上げれば、その声は、どこかの組の傘下であろう街金の事務所から漏れているようだ。 
 朝も昼も夜も、変わらず蠢く性と欲と金の匂い。自分だって、その中の一人なのだ。 
 
 角を曲がる晶の背後から着いていくと、晶がフとその足を止めた。 
 側にあるキャバクラの客引きが勘違いをして呼び込みをかけてくる。晶は愛想良く手をヒラヒラさせながら「また今度ね~」とそれを流し、少し先にある路地に視線を移した。 
 
「――どうかしたんっすか?」 
「ああ、……」 
 
 一瞬飲みこまれる言葉、晶がビルの看板を指す。 
 
「お前、知ってるか? あそこのビル、楠原がいたCUBEがあったんだよ」 
「……え?」 
 
 晶の見ている方へ向くと、真っ暗な路地があり、奥に古いビルが建っていた。何度も通ったことのある通りだが、少し奥まったその場所へは用もないので、今まではそのビルの存在にすら気付かなかった。周囲が明るい分、その暗さが際立つ。側面にあるのは確かにCUBEの看板だった。 
 
 晶の話によると、CUBEがなくなってから、次々と入っていた店舗が抜けていって今は廃ビルなのだそうだ。事件があった当時は騒がしかったのかも知れないが、今は閑散としていた。 
 老朽化が進んだビルなので、来月取り壊される予定らしく、立ち入り禁止のテープで封鎖されている。 
 
 フと思い返すと、楠原と一緒に夕飯を食べた日も、ここの横を通りかかったはずだ。行った店がこの先だったのだから。 
 だけど、楠原はこの場所の事は一言も教えてくれなかったし、そんな素振りも一切見せなかった。 
 自分と違い、楠原はずっとここ新宿で生きてきたのだ。 
 
 すぐ隣の店だって、先程通り過ぎた店だって、もしかしたら幹事の際に何軒かまわった場所も、何かしら想い出があったのかもしれない。こんな小さな事でも、自分の知らない所で、楠原は幾つもの気持ちを隠してその上に笑顔を作っていた事がわかる。誰にも気付かせないように……。 
 切ない気分で信二も白い息を吐いた。 
 
「そう……なんっすね……」 
「なんかアレだな……。過去にどんな華やかネオンで着飾ってても、そこに人が居ねぇってだけで、こんなに寂れた感じになるもんなんだな。残酷っつーか……あっけないっていうかさ……」 
「……そうっすね……」 
 
 楠原が言っていた言葉、玖珂と晶は、楠原がCUBEを潰したことを知っているはずである。どんな気持ちで今の台詞をいったのか。晶は一つ溜め息をつくと、その話題を続けずに再び歩き出した。 
 
 
 暫く歩いて先程検索した居酒屋に到着すると、店内は終電を逃した会社員が大勢居て賑やかだった。 
 自分達と同じく、店の営業が終わってからきている同業らしき姿も見える。何気なく観察しつつ、テーブルの合間を縫って進む。 
 
 奥のテーブル席へ通されて晶と向かい合って座ると、すぐに熱いおしぼりが運ばれてきた。 
 手を拭いていると、晶がそのおしぼりを首筋に当てて「生き返った~」と天井を仰ぐ。熱いほどのおしぼりに対してそう言ったのだろうが、信二は苦笑して使い終わったおしぼりを脇へと寄せ頬杖をついた。 
 
「おっさんくさいなぁ。おしぼりで、手以外拭くのってやばくないっすか?」 
「何言ってんだよ。顔は拭いてねぇじゃん。つか、首はセーフだろ」 
「その線引き、微妙っすよね」 
 
 セーフだと言いながらも、すぐにその行動を止めた所を見るとちょっと気にしているらしい。 
 笑っている信二をよそに晶はメニューを開き「お前なんにする?」と聞いてくる。飲み物だけ決めてあとは晶に任せた。二人分の注文をした後、晶はメニューを立てかけ、その後、急に呼ばれたかのように奥の方へにっこり笑って手を振った。 
 
「ん? ……知り合いでもいるんっすか?」 
「え? いーや。知らない女の子。手振ってきたから、振り返しただけだって」 
 
 信二も振り返ってちらっとその方向を見てみると、確かに少し離れた席に居る客が晶が手を振り返してくれたことに喜んでいた。晶は普通にしていても派手で目立つので、一緒に居ると結構逆ナンパをされたりもする。なので、これはそう驚くような事でも無い。 
 しかし、信二は一つ言いたかった。手を振り返すのはいい。だけど……。 
 
「……女の子……じゃなくないっすか?」 
 
 どう好意的に見ても母親に近い年齢である。下手すると孫が居てもおかしくないと思う。晶の言う「女の子」の範囲の広さに今更ながらに感心した。 
 
「何でだよ。男じゃなければ、全員女の子だろ」 
 
 極限まで判定ゾーンを広げた分類だ。媚びではなく、本当にそのまま思った事を言っている晶は、天然なのか。生まれながらにしてホストなのか。いや、どちらもか……。信二が、そんな晶を見て苦笑していると、注文した料理が一気に運ばれてきてテーブルへと並べられた。 
 
「んじゃ、まー乾杯!」 
「乾杯」 
 
 ジョッキの生ビールはガンガンに冷えていて、一気に半分ぐらい飲み干すと二人同時にテーブルへとジョッキを置く。ジョッキの中の泡がゆっくりと下にさがっていく。外は寒いとは言え店内は暑いので、渇いた喉にその冷たさがしみこんで美味く感じた。 
 晶が注文した焼き鳥や唐揚げ、モツ煮込み等が並ぶと狭いテーブルの上はもう一杯一杯である。中でも焼き鳥は店の売りらしいので、タレと塩を両方注文してあり量が多い。炭火焼きの少し焦げたそれは、香ばしい匂いがして食欲をそそられた。 
 
 さすがに一品は野菜もあった方がいいと思って注文したらしきサラダだけは、少し遅れて運ばれてきた。 
 料理を早速つまんでいると、晶がボウルに飾り付けられたサラダをみて「……これは……」と難しい顔をして顎に手をやった。空中で止まった箸。困難に立ち向かうようなその表情の原因はすぐにわかった。 
 晶の好き嫌いをだいたい把握している自分もどうかと思うが……、こんなに派手でかっこをつけているにも関わらず、晶は人参が嫌いなのだ。普通ならば、もの凄く格好悪いオチである。 
 
 真剣にサラダを凝視する晶の目の前で、信二はやれやれと上に散らばっている人参をかき集め、自分の取り皿へ取った。千切りなので100%はとりきれていないが、ほぼその姿はなくなっている。 
 
「もう、……マジ、子供っすか。ほら、これで食えますよね?」 
「おぉ、さっすが信二君! 頼れる後輩を持って、俺は嬉しいぜ」 
 
 賞賛してくれて嬉しいが、一応好き嫌いは駄目です! という釘を刺しておく。ただし、小声で。 
 
「人参も栄養あるんで、本当は食った方がいいんっすよ?」 
 
 晶は、言い訳をするように口を尖らせた。 
 
「相手がお前じゃなければ、我慢して食ってるって」 
「じゃぁ、何で俺と一緒だと食わないんっすか」 
「そりゃ、お前……。……甘えてるから?」 
「疑問形で俺に聞かれても困るんっすけど」 
「んだよ~。俺とお前の仲だろ~、人参の一つや二つで細かい事言うなって」 
 
 悪戯っぽい笑顔で晶にこんな風に言われたら、男の自分でも何でも許したくなるのだから、女性客なら尚更だろう。晶はかっこよくて大人の男だと思っては居るが、こうやってかっこ悪いところも隠さない所が可愛いと思うし、そういう部分も含めて魅力的だと思う。 
 パーフェクトな人間なんていないのだから、誰だってかっこ悪いところも、情けない部分もあるのが当然で。その方がずっと人間らしい。 
 もはやサラダでもなく、人参だけのそれを箸でつまんで口に入れながら信二が徐に口を開く。 
 
「……晶先輩」 
「ん? なんだ?」 
「例えばですけど……。俺にいっさい隙を見せない相手って、やっぱ俺の事が嫌い……って事なんっすかね……?」 
「いきなり、漠然とした事聞いてくるなぁ。客の話? それとも、一般的にか?」 
「客って事じゃなくて、個人的な付き合いっつーか。一応それなりに仲良くしてた場合の話です……」 
 
 晶が、焼き鳥の串を手にしたまま「うーん」と考えこむように視線を一点で止める。 
 
「仲いいんだったら好敵手って事じゃねぇよな……。だったら、そうだな……、嫌いとかじゃなくて、何か理由があって、お前の言うその隙ってやつに、入ってきて欲しくないだけなんじゃねぇの?」 
「……警戒されてるって事っすかね……」 
「そうじゃなくてさ。俺は自慢じゃないけど、隙だらけの人間だから。今から言う事があってるかはわかんねーよ?」 
 
 晶はそう前置いて、言葉を続ける。 
 
「隙を見せないって言うのはさ、勿論格好をつけたいっていうのもあるんだろうけど、それよりも、本人がそうすることが怖いんじゃねぇかな」 
「……怖い? 俺にそういう隙を見せるのが……ですか?」 
「そう、お前に隙を見せて、そこにつっこまれるとするだろ? どっか一カ所でも綻びが出来ると……そういう人間って一気に崩れんだよ。普段が完璧であればあるほど脆い。そうなるのは、本人にとって不安でしかないわけじゃん」 
「なるほど……そう、ですね。でも、そういう生き方って、窮屈じゃないんっすかね……」 
「そりゃ窮屈っしょ。だけどさ、そういう生き方してる内に、本当に苦しくなっても、もうその頃には……隙の見せ方もわかんなくなってんだよな。誰か一人でも、全てを見せられる相手がいればいいけどさ」 
 
 名前など一切出していない。何も知らないはずの晶が言う言葉は、まるで楠原のことを言っているように思えた。普段が完璧であればあるほど脆い……。楠原といてよく感じる事だ。 
 いつも冷静で余裕があるように見えるのに、時々危ういほどにギリギリの場所に立っていて……。その刹那的な笑みを見ていると怖くなる。 
 何度もその場所から手を引いて引き戻そうと思った。だけど、未だに自分の手は楠原には届いていなくて……。掴もうとすればするほど、相手は遠ざかっていく。 
 
――信二君、貴方の立っている場所には、僕は行けないんです。 
 
 楠原が言った印象的な言葉が、今も脳裏に焼き付いていている。 
 晶は煙草を取り出して咥えると、ふぅと紫煙を吐き出して言葉を続けた。 
 
「隙を見せるって、相手に気を許して甘えるって意味もあるからな。その人はきっと甘え下手なんじゃね。……で? 今お前の好きな子がそういうタイプって事でOK?」 
「えっ! いや、別にそうじゃないっすけど」 
 
 楠原のことを思い浮かべていた信二は慌てて食べていたつまみを喉に詰まらせて軽く咳き込んだ。ビールで流し込んでいる信二を見て、晶が吹き出す。 
 
「お前、わっかりやすいな~。まぁ、これ以上はつっこまないでやるけど。大人だから」 
「だから、別にそういうんじゃないって……言ってるじゃないっすか」 
「あ、そうだ。お前最近、楠原と仲良いだろ。あいつに相談してみれば? 俺より恋愛経験豊富そうだしさ」 
 
 晶の発言は、こんなにも鋭いのに、惜しいところで鈍い。いや、鈍くなくてはこの場合困るのだが……。 
 
「そ、……そうっすね」 
 
 言葉を濁したまま、信二はごまかすように笑った。飲みきった空のグラスと引き換えに、新しい酒が運ばれてきて、すぐにそれにも口を付ける。 
 残り少ない煙草を咥えて、落ち着かせるように煙を吸い込む。慣れ親しんだ自分の煙草の匂いに混じって嗅いだことのある匂いが鼻孔を掠めた。 
 
――これって……。 
 
 隣の宅へ何気なく視線を向け、信二はドキリとしてすぐに視線を戻した。パーラメントのクリスタルブラスト、楠原が吸っているのと同じ煙草を吸っている男が近くにいたのだ。 
 唇に触れた楠原の指先、隣の男は楠原には似ても似つかないのに、その煙草の匂いだけで蘇る記憶。人の五感は、こういう時にやっかいだと思う。遮断したい情報が気を抜くとひょんな所から入り込んでくる。 
 信二は話題を変えるように、吸いかけの煙草を一度灰皿へ置いた。 
 
「そういえば、晶先輩、週末って連休取ってますよね?」 
「あ、うん。よく知ってんじゃん」 
「この前晶先輩が自分で言ったんじゃないっすか。俺、週末いねーからって」 
「あれ? そう……だったっけ? そういや、言ったかもな」 
「どっか行くんっすか? 三連休だと国内なら旅行とか行けますよね」 
「や、えーっと。旅行行くわけじゃねぇから。あー、うん。大阪からダチが来る事になってて、それで定休日と繋げて連休にしたって言うか……」 
「あ、そうなんっすね。晶先輩働き過ぎなんで、ちょっとは羽伸ばした方がいいっすよ。でも、東京観光か……、いいなぁ。東京住んでても、全然行かない場所とか多いっすよね。――あ、じゃぁ……、」 
 
 何かを思い浮かべたように続けようとする信二に、晶が突然ストップをかけた。「待て」というように突き出された大きな手にビックリして信二は口を噤む。 
 
「違うからなっ!? 全然そういうんじゃねーから。本当に! ただの……友達で、いやもう腐れ縁っつーか……喧嘩しかしねぇっていうか。とにかく、そういう相手だから!!」 
「…………そ、そうなんっすね? ってかスカイツリーとか行ったらどうっすかって言おうとしたんですけど……」 
「えっ、あ……。そっち? ……すかいつりいって? あのスカイツリー?」 
「他にどのスカイツリーがあるんっすか」 
「そ、そうだよな! あー! そういう事か。うんうん。そうだな、それもいいかもな!」 
 
 明らかに慌てている晶は、吸っている煙草がもう短くなっているのに、それに再度火を点け、すぐに気付いて気まずそうに頬を掻いた。晶も大概隠し事の出来ない性格だと思った。 
 
「なんで慌ててるのか、何となく想像つきますけど、俺もつっこまないであげますよ。大人なんで」 
 
 先程の晶の真似をして信二がそう言うと、「生意気言うな」と晶が苦笑する。実際に晶に恋人がいるのかどうかは知らない。聞いてもいつも「いない」と返され今までずっと安心していたが、最近になって思う。晶のような男に恋人がいないわけはないのではないかと。ただそれを確認してしまうのが今まで怖かっただけだ。きっと晶が選んだ相手なのだから素敵な女性なんだろうなと思う。 
 
 暫く東京の観光名所について話し、一区切りが着いた所で信二は時計を見た。晶と話していると時間があっという間で、店に来てから相当時間が経っていた。 
 ほとんどを平らげ空になった皿を重ねていると、晶が信二の顔を覗き込むように首を傾げた。 
 
「……なぁ、信二。お前が元気ねぇ理由、そろそろ教えてくれてもいーんじゃねーの?」 
「…………え」 
 
 突然振られた話題に面食らってしまう。こうして話して酒を一緒に飲む事が、気を晴らすという事だと勝手に思っていたからだ。実は、最初からずっと切り出したかったのか、晶は心配げな表情を浮かべて見つめてくる。 
 
「俺には言えないような事とか? まぁ、……無理強いはしねぇけどさ」 
「言えないっていうか……。その……」 
 
 楠原本人が晶も知っていると言っていたのだから、話を聞いて貰うぐらいは問題ないのかも知れない。だけど、もしそれも嘘で、晶が知らなかったとしたら……。そう考えると口にするのも躊躇われる。先の言葉を止めたまま考えあぐねている信二は、晶の台詞に耳を疑った。 
 
「あれか、……楠原のことか」 
「え!? な、なんで、蒼先輩が急に出てくるんっすか」 
「あ、違った?」 
「いや……。えっと……違、くもないっすけど……」 
「別に俺は何も聞いてねぇよ? ただ、今日お前達二人がなーんかよそよそしかったからさ。どうした、楠原と喧嘩でもしたのか?」 
「……喧嘩なんかしないっすよ」 
 
 元気がないことは勿論ばれていて、だからこうして誘ってくれたのは分かるが、楠原との間の出来事が原因だと分かっているようなその口ぶり。晶の観察力に驚きを隠せない。 
 
「まぁ、あいつもお前も、喧嘩とかするようなタイプじゃねぇしな」 
「そうっすよ。ただ……ちょっと気になる事聞いちゃって……」 
 
 残りのジョッキに残ったビールを一気に飲み干すと、晶はサワーを追加注文して、煙草を咥えた。一人で抱え込むには重すぎるその事実が、本当なのかだけでも確かめたい。信二は、頭の中で整理したことを思い浮かべた。 
 
「気になる事って?」 
「あの……」 
「うん」 
 
 何度か逡巡した後、信二が呟く。 
 
「蒼先輩が、前にいた店の事件の詳細、……晶先輩も知ってるんっすよね?」 
「詳細っていうと……、世間で知られている事以外のって意味か?」 
「……そう、です」 
 
 窺うように言葉を濁す信二に、晶が小さく溜め息をつく。やはり、晶にとってもそう簡単に話せるような内容じゃないのだろう。テーブルを人差し指でトントンと叩きながら、晶は暫く黙って考え、ゆっくり顔を上げた。 
 
「……お前は? 本人に聞いたのか?」 
「……はい」 
 
 晶は「そっか」と一言だけ小さく呟いて、煙草を挟んだ手で前髪を掻き上げた。 
 
「で、その事を知ってショック受けてるのが理由か」 
「……まぁ、それだけってわけじゃないんっすけど……。本当だとしたらやっぱり……」 
 
 信二は思わずばつが悪そうに視線を逸らした。晶は一本たばこを吸い終わるまでたっぷり時間を置くと、それを灰皿で揉み消す。テーブルの上で両腕を組んだ後、意を決したように信二に視線を送った。 
 
「信二、お前はさ。楠原のした事、どう思う?」 
「どうって……、事情を知らないんで……、何とも言えないっすけど。もし、俺なら……今居る店の皆を警察に売るとか……出来ないっす」 
 
 晶は、真剣に聞いて静かに頷く。 
 
「そうだな。お前の言いたい事は、よくわかるよ。楠原は仲間思いの奴だって信じてたのに、例のことを聞かされて、裏切られた気分なんだろ?」 
「……そう……なんっすかね……。蒼先輩が、どうしてそんな事をしたのかとか色々考えちゃって」 
「そかそか……。なぁ、信二。そういう感情をさ、一度抜きにして考えて見ろ。どんな理由があっても、薬に手ぇ出すとかやっちゃいけねぇことだろ? そういう所で仲間を庇って馴れ合ってさ、どんどん薬に手ぇ出す奴が増えていったら、店はどうなる?」 
「それは……」 
「そんな内部の崩壊があったら、必ず店は潰れる。CUBEは、楠原が行動を起こしても、起こさなくても、薬に手ぇ染めてた時点で早かれ遅かれ終わってたって事なんだよ。あいつのやった事は、間違ってない」 
 
 晶の正論に何も言えなかった。 
 
「…………」 
「でも、そうは言ってもやっぱり人間だからさ、割り切れない感情はそこにどうしても絡んでくるよな……。印象も悪くなるし、楠原からそれを聞いて、お前が動揺してるのもわかる」 
「…………、……」 
「だけどさ、……」 
 
 晶は、面接の時を思い返すように優しげな溜め息をそっと吐き、一度睫を伏せた。 
 
「あいつな。面接の時、自分からそれを言ったんだよ」 
「え、……自分が情報を流したって、事をですか?」 
「ああ。どう考えても不利になるそれを、あえて面接の時に言うって事は、勇気が要ることだろ? 楠原はその時点で、自分のした事を背負う覚悟があって、後悔してないってことなんだよ。多くの店は、それを聞いた時点で採用しねぇ事は本人もわかってただろうからな」 
「そう……ですよね」 
「甘い考えだって思われるかも知れないけど、俺は、楠原にもう一度チャンスをやりたかった。お前も知っての通り、楠原は一流のホストだ。正しい事をした奴が、世間体だけで潰されるなんて間違ってんだろ。悪意があったのかもしれない。でも、あいつの行動は正しかった。確実なのはその事実だけだ。玖珂先輩もな、同じ意見だったんだよ。だから、うちで採用した」 
「そう……だったんっすね……」 
「ただ、まぁ……。ちゃんと楠原にもそれなりの条件をのんで貰ってる。そこら辺は詳しくはお前には言えないけど。経営者として、リスクを背負うわけにはいかないからな」 
 
 感情だけで楠原の行動にショックを受けていた自分と違い、晶はちゃんと公平な目で見て判断し楠原を店に迎え入れたのだ。 
 
「あいつさ、お前と話してる時、すげぇ楽しそうだよな」 
「……え?」 
「気付いてねーの? 愛想は良いし、いつも穏やかだけど、……楠原ってなんか寂しそうなんだよな……。最初からそれは感じてたんだけど、俺はただの店の上司だし。あいつのプライベートにまで踏み込む権利はねぇからさ。だけど、お前と話してる時だけは、あいつすげぇ安心したような顔してて。だから俺も、楠原にそういう仲間が出来て良かったなって思ってたんだけどさ……」 
 
 晶の言葉が胸にズシリと乗る。近くで見てきたはずの自分は、楠原のそんな変化をきちんと受け取れていたのだろうか。晶の言うひとつひとつの言葉が、信二の心を冷静に導いていく。もしそれが本当なら、望みがなくなったわけじゃないのではないかと思う。……他に自分がまだ出来る事がきっとあるはずだから。 
 
「なぁ、信二」 
「……はい」 
「お前さっき、このこと、本人から直接聞いたって言ったよな?」 
「言いましたけど」 
「正直、ちょっと驚いたわ」 
「……どうして……ですか?」 
「だってさ、きっとあいつにとって……一番知られたくない過去だぜ? お前にそんな事を教えたら、不信感を抱かれるのもわかってたはずだしな。それでも、お前に教えた。……その理由が、何かあるんじゃねぇかな」 
 
 晶はそう言うと、すっかり氷の溶けたサワーを飲み干した。 
 すっと落ち着いていく感情と共に、自分の気持ちを伝えることに必死だった今までの行動を振り返る。 楠原がどう思っているのか、事件のことを教えてまで自分を遠ざけるその理由、……。楠原が言う、『彼の立つ場所』を知るには、もっとちゃんと考えるべきだったのかも知れない。 
 
 晶に言われるまで、それに気付けなかった自分はやっぱり未熟で、だけど、今すぐ晶のように大人にもなれなくて……。もしかしたら、自分の行動が楠原を追い詰めていたのではないかと思うと、怖くなる。このままで終わるわけには行かないと思った。 
 
「信二」 
「……はい」 
 
 名前を呼んだ晶が、机の上で握りしめていた信二の手に自分の手を伸ばして重ねる。 
 
「元気出せって、何があったかはわからねーけど、お前が向かう方向は、今までだっていつも明るかったじゃねーか。そうだろ?」 
「…………」 
「それは偶然じゃなくてさ……。気付かねぇうちに、お前自身が周りを照らしてるんだって俺は思ってる」 
「……晶先輩」 
「――お前が前を向いてる限り、物事そう悪いことにはなんねーって。な?」 
「……はい……。そう、なれるように、頑張ります……。話聞いて貰って、元気でました……」 
「おう!」 
 
 酔っているせいなのか、揺れる感情のせいで目頭が熱くなる。一度だけ誤魔化すように指で目を擦ると指先がほんの少し湿った。見ているはずの晶は、それに気付かないフリをして悪戯な笑みを浮かべた。 
 
「今度から指名料取るから、覚悟しとけよ? 俺は高いぜ~?」 
「一時間100円っすよね?」 
「そうそう、……て、俺は子供相談室かよっ」 
「冗談ですって。……めちゃくちゃ……感謝してます……」 
 
 こんなに頼れる先輩と巡り会えただけで、ホストをしていて良かったと思う。店に来たときの鬱々としたやり場のない気持ちは、信二の中でいつのまにか薄らいでいた。 
 
 
 
 
*     *    * 
 
 
 
 
 晶と飲みに行ってから二日が経った。その間特に変化は無いけれど、楠原を避けるような事はもうしていない。前と同じように多少の会話もしている。もしかしたら、楠原の中では『漸く諦めてくれた』と思われているかも知れないが。今はそれでも、構わなかった。 
 ここ数日、寝る間も惜しんで調べているのは、CUBEの事件のことだ。ネットを駆使して新聞社や他の怪しいサイトからも情報を集めているが、そろそろ調べ尽くしそうである。 
 信二があたりをつけている情報は中々探し出せず、自分一人での限界を感じざるを得ない。だけど、諦めるわけにはいかないのだ。信二には、どうしても……知りたいことがあった。 
 
 
「お前まだ帰らねーの?」 
 
 ほとんどが帰った後、待機室に戻ってきて帰り支度を整えている康生が、ソファで一服している信二へと声をかける。信二は煙草を咥えたまま背もたれへ首を預けると天井へ向かってゆるく煙を吐いた。 
 
「ちょっと休憩、そろそろ帰るけど……。あ、そうだ!」 
 
 信二が思いだしたように、体を起こして康生を見る。 
 
「さっきの話だけどさ。お前、同棲してるってマジ?」 
「ふふーん」 
 
 康生はいつになく幸せそうで、デレデレとした顔を隠しもしないで「マジマジ」と何度も頷いた。 
 数時間前、客の入れ替えの時に用を足しに戻ってくる途中、康生が廊下で電話をしていた所を通りかかった。別に聞こうと思っていたわけではないが、偶然会話が耳に入ってしまったのだ……。 
 どう聞いても一緒に住んでいる相手との話のようで、待機室へ戻ってきた康生に聞くと「同棲している」と拍子抜けするぐらいにあっさり認めたのだ。 
 
 その時はすぐに次の指名が入っていたのでそれ以上を聞ける時間も無く、それを今になって急に思い出した。 
 
「何だよ、信二。羨ましいのか? いいぞ~。同棲は。待ち合わせとかする手間もないしな」 
「そこかよ、もっといい所いっぱいあるだろ。……でも、お前がいつのまにか同棲してるとか、全然知らなかったし」 
「そりゃそうだろ、先週からだし」 
「え? そんな最近の話なのかよ」 
「うん、成り行きでって言うかさ。彼女が借りてるマンションの契約更新があるっていうから。更新しないで俺んとこ住めよ、って誘ったら一発OKもらったんだわ」 
「へぇ……。まぁ、良かったじゃん。そのまま結婚とかしちゃいそうだな」 
「いや、それは無理。っていうか、まだ無理」 
 
 行き当たりばったりの大雑把な性格の康生が、真顔ですぐさま否定する事に少し驚いた。それだけ真剣な恋愛だという事なのだろう。 
 
「康生のくせに、ちゃんと考えてんだ? 偉いじゃん」 
「お前なー。そりゃ俺だって結婚とか考えなくもないけどさ……相手年上だし」 
「うん……? 何か問題あんの?」 
 
 康生が恥ずかしそうに頭を掻いて小声で呟く。 
 
「結婚するって事は、父親になるって事だからさ……。そこは、ちゃんとしっかり自覚を持ちたいっていうかさ……」 
「……え? 何お前、出来婚!?」 
 
 信二は康生の驚きの告白に、思わず吸っていた煙草を落としそうになった。同棲から結婚の話をしていたのに、話が飛んだように感じたからだ。突然父親になるなんて言い出す康生に唖然とする。しかし、康生の次の言葉で納得した。 
 
「ちげーよ。その……なんだ。彼女、バツイチでさ。小学生の子供が居るんだよ」 
「…………そ、そうなんだ」 
「う、うん……」 
「……よく同棲OKしてくれたな」 
「まぁ、同居っぽい感じで今の所やってる。部屋とか別々だしな……」 
 
 同棲してるときいた瞬間、てっきり康生のことだから夜ごとに体力全開で……。なんて考えたが、そうでもないらしい。最初に「待ち合わせをしなくていい」という利点を一番に挙げたのはそういう理由からなのだろう。 
 
「でも、いいじゃん。好きな人の側にいられるんだからさ、お互い安心できるだろ」 
「まぁな。これでも、結構休みの日とか動物園連れて行ったりしてるんだぜ? すげぇ可愛いんだよ、ちょっと生意気だけどさ。彼女が一人増えたみたいな感じで」 
「お前が!? 動物園!?」 
 
 康生は「そんなに驚かなくてもいいだろ」と眉を顰める。衝撃の事実の連続。そして、極めつけが最後に告げられる。何も今こんなに一気に教えてくれなくてもいいのに。 
 
「彼女さ、美鈴ちゃんの妹なんだよ」 
「うん……え?」 
 
 待て待て待て、信二は固まったまま頭の中の整理をした。 
 先日行ったオカマバーのホステスをしていた美鈴、麻布店の時に世話になった茜の友人である。その美鈴と康生がやけに仲が良いのは見ていてわかった。しかしそれは、康生が行きつけの店だからなのだとすっかり思い込んでいたが、そうじゃなかったらしい。美鈴の妹は、バツイチで小学生の子供が居て、……今は康生と同棲している。凄い事のようだが、よく考えればそんなに驚く事も無いかも知れない。 
 
 そして、辿り着いた言葉は一つだった。 
 
「お前……将来どうすんの? 美鈴さんの事、『義姉さん』って呼ぶの? それとも『義兄さん』?」 
「それな……考え中……。お前なら、どうする……?」 
「う、うーん……。やっぱ『義姉さん』……かな」 
「…………参考にする……。『義兄さん』って呼んだら、殴られそうだしな……」 
「やばいな、今一瞬、康生の身の危険を感じたし……」 
 
 思わず吹き出す信二に、康生も釣られて笑う。その後、携帯の写真フォルダに入っている彼女の娘の写真を見せて貰った。笑顔の愛らしい女の子で……。隣でしゃがんでいる康生は、見た事も無いぐらい幸せそうに笑っていた。 
 
「うまくいくといいな、色々とさ」 
「ああ、……だな。信二も早く彼女作れよ。いつまでフラれ記録更新してんだよ」 
「好きで更新してるわけじゃねーつぅの」 
「まっ、応援してるからさ」 
「はいはい、そりゃどーも」 
 
 恋愛はやっぱり誰にとっても一筋縄ではいかなくて、問題の全く無い恋愛なんてないのかもしれない。康生もそれは同じで、彼女と、その子供のために色々悩んで考えているのだ。自分だけじゃない。そう思うと、康生に勇気を貰った気がする。 
 「じゃぁ、お先」と帰って行く康生を見送って、最後の煙草を灰皿で消す。 
 
 言われたとおり、未だにフラれ記録は更新しているが、今まではこんなに諦めが悪いことはなかった。フラれてすぐは落ち込んでいたけれど、そのまま諦めてこれた。 
 今思えば、多分それは、その程度の好きだったという事なのかもしれない……。 
 
 そろそろ自分も帰ろうと思いロッカーで支度をしていると、背後のドアが開いた。 
 足音が聞こえなかったのを不思議に思ったが、フロアの方からではなく逆の廊下から入ってきたのならそれも納得がいく。ドアの方を振り向くと、そこには楠原が立っていた。 
 
「あ、……。蒼先輩……。お疲れ様です」 
「……信二君、まだ残っていたのですね。お疲れ様です」 
 
 当たり障りのない会話。深い溝は今だってそのまま目の前に横たわっている。多分楠原が最後で、ほかにはもう誰も残っていないだろう。二人きりなのだ。そう思うと、僅かに緊張が走った。 
 
「蒼先輩も、もう帰るんっすか?」 
「ええ。今日はアフターもないですから」 
 
 楠原は薄く笑みを浮かべると、ロッカーに向かい信二の隣へと並んだ。髪を一度ほどき結わきなおす楠原から甘い香りがする。細い革紐を器用に操る指先、肩口に零れる黒髪。その距離僅か30センチ程だというのに、楠原が遠く感じる。 
 信二が支度を終えてロッカーをバタンとしめると、楠原は信二の行動を窺うように一度手を止めた。 
 
「……蒼先輩」 
「はい……。なにか?」 
 
 視線を合わせないまま楠原が振り返り、小声で返す。 
 
 
 信二は楠原の体を挟むようにロッカーへ手をつくと、もう片方の手で楠原の腕を掴んだ。向かい合う形になっても尚、楠原は顔を上げない。何も言わないまま息を呑んで視線を彷徨わせるだけだ。掴んでいる腕は微動だにせず、自身の全ての感情をあえて消しているのがわかった。 
 
「……振り払わないんっすか?」 
 
 誰も居ない部屋の中で、小さく囁く信二の声が響く。 
 
「……俺、そんなに力入れてないでしょ。嫌なら、力尽くで逃げていいっすよ」 
「………………」 
 
 振り払うことも、かといって自らが手を伸ばすこともなく、楠原は数度瞬きをして、辛そうに短く息を吐く。信二は掴んでいた手を離すと一歩後ろへと下がり、距離を開けた。 
 
「すみません……冗談です。ちょっと、意地悪しました……」 
「……信二君」 
「――蒼先輩、この前、俺に言いましたよね……。俺の立ってる場所に、自分は行けないって……。だったら、そのままでいいっす。代わりに、俺が迎えに行きます……。蒼先輩の、立ってる場所に……」 
「……っ」 
「それじゃ、お先に失礼します。お疲れ様でした」 
 
 
 
 信二が帰った待機室。ロッカーに背を預けたまま楠原は動けずにいた。掴まれていた腕の部分に片手を重ね、その温もりが消えないようにスーツをクシャッと握る。 
 信二の言う通り、さっきは、その腕を払うのが正解だった。 
 
 あの日以来、ほとんど話らしい話もしておらず、よそよそしい態度を取るようになった信二にホッとしたのは本当だ。彼との距離が離れていく事への安堵、そして例えようのない淋しさ。それが望みであったはずなのに。気付けば信二の姿を目で追ってしまう。 
 今だって彼の熱がまだ残っていることがこんなに嬉しいなんて、本当にどうかしている……。 
 肩が触れあうほど側を通った時、信二はいつも一瞬だけ視線を向けてきた。何か言いたげなまま決して口を開くことはなかったけれど……。 
 
 楠原は、誰も居ない部屋で一人、自らの滑稽さに小さく笑う。何度塗りつぶしても本当の気持ちは消せなくて、鮮やかなそれの上に今夜も漆黒を重ねるしかないのだ。仮初めの漆黒がいつか、本物に変わるまで。 
 壁にかかっているシンプルな日付のみのカレンダー。日付を順に追い、楠原は視線を止めた。