GAME -13-


 

 
 朝だけは晴れていた物の徐々に雲が多くなり、店の最寄り駅に着く頃にはすっかり暗くなっていた。 
 どんよりと垂れ下がった雲は、含んだ水分を今にも地上に落としそうである。湿気たような重い空気を肺の奥へと留め、足を止める。 
 一つ目の曲がり角も、いつも通っていく映画館も、何も変わっていなかった。信二はゆっくりと辺りを見渡し、その息を静かに吐き出す。自分がこうして立ち止まっても周りは動き続けていて、時間だって、取り巻く環境だって、変化し続けていく。 
 
 今歩いてきた道に、見た目の変化はなかった。 
 だけど、それは自分にそう見えているだけで、本当のところは変化が起こっているのかも知れない。本人じゃない限り全てを知りうる事が出来ないように、自分もまた楠原の全てを知ることは出来ないのだろう。 
 止めていた足を再び動かし、あと僅かな店までの道のりを歩く。 
 
 図書館で調べ上げた事を後悔なんてしていない。だけど、調べたことで何が変わったかと問われれば、多分何も変わっていない気がして、信二は人知れず溜め息をつきながら、すぐに辿り着いた店の階段を上り、ドアを開けた。 
 
 静まりかえっているフロアは、客が一人も居ない状態だととても広い。磨かれた鏡に映る店内、その中の鏡に映る店内、まるで無限のループに飲みこまれたようだ。 
 まだ早い時間なのに、奥の方で人の気配がする。何人かはもう店に来ているらしい。 
 晶が今日から三日間留守な事は事前に知っているが、その中に楠原はもういるのだろうか。 
 自分の見える世界だけでもいいから、何も変わっていて欲しくないと切に願う。 
 信二は廊下の先の待機室を思いきって開いた。 
 
「おはようございます」 
 
 挨拶を口にしつつ、部屋を見渡すと部屋に居たのは康生と後輩二人だけだった。 
 
「信二さん、おはようございます!」 
「あー、おはよ」 
 
 いつも通り片手を挙げるだけの康生の方を向かずに、ロッカーでコートを脱ぐ。口にした言葉は、名前こそ出さずとも康生へ向けた物だ。 
 
「今日って、まだ蒼先輩来てないんだ?」 
 
 出来るだけさりげなくそう聞いてみると、康生が見ていた携帯をポケットへとしまって、眠そうに欠伸をした。 
 
「ん~。蒼先輩、休みだってよ」 
「……え?」 
 
――休み? 
 
 早くも変化が起きているように感じて、信二はロッカーの脇にあるシフト表に目をやった。 
 楠原の予定表では、今日も出勤になっている。杞憂では終わらせることが出来ない嫌な予感が忍び寄り、信二はそれを消し去るように頭を振った。 
 楠原のロッカーに差し込まれているネームタグ、人のロッカーを勝手に開けるわけにはいかないが、その中にはもう何も入っていないのではないか……。 
 
「さっき店に電話あってよ。体調悪いから休むってさ」 
「あ……、そうなんだ。体調悪いって、風邪……とか? なんか言ってた?」 
 
 そう、周囲には悟られないように。 
 只管それを意識して、だけど、つい詳細を確認してしまう。 
 
「さぁ、それは知らねーけど。どっか外からだったみたいで、雑音ひどくて聞き取りづらくてさ、でも、あれはかなり具合悪いとみたね。俺は」 
「……そんなに?」 
「ああ。だって慌てて早く切ろうとしてるっぽかったし。そんなに余裕がない蒼先輩、珍しかねぇか? だから相当具合悪いんじゃねーかなって」 
「…………」 
 
 「最近、結構風邪流行ってるみたいですもんね」と後輩が付け加えると、康生が「気合いが足りないから風邪なんか引くんだ」とかなんとか。お得意の根性論を口にし、後輩に苦笑いされていた。 
 
 楠原が風邪ではない事はわかっている……。だとしたら、例の発作が? ……。薬をきらしているとも言っていたので、気になりだすとどうしても悪い方へばかり考えが向いてしまう。店に来る途中で具合が悪くなったのかも知れない。今も何処かで、苦しんでいるのでは……、そう考えると居ても立っても居られなくなった。 
 時刻はまだ早く、店が開くまでに一時間以上ある。信二は一瞬迷ったがすぐにそれを振り切って康生へと振り向いた。 
 
「康生、悪い」 
「ん?」 
「俺、ちょっと出てくるわ。店開く前までには戻るから、準備とか任せていい?」 
 
 一度脱いだコートを再び羽織ると、信二はロッカーをやや乱暴に閉めた。 
 
「いいけど……。ちゃんと戻ってこいよ? 今日晶先輩も蒼先輩もいなくて人数少ないんだからさ」 
「わかってる。じゃぁ、頼むわ」 
「オレもいるんで! 任せて下さいっ」 
 
 胸を張ってそう言ってくる後輩が何だかおかしいやら可愛いやら。それでも、その小さな頼もしさが今は有難い。信二は「宜しく」と後輩の頭にポンと手を置き笑みを浮かべた。「任されました!」といって照れ笑いする後輩と、あえて理由を問いただしてこない康生に感謝しつつ部屋を出る。 
 
 たった今来た道を逆戻りしつつ、店を出て早足で歩きながら携帯を取りだす。楠原の番号をアドレス帳から探す。以前は、あまりしつこくするのも良くないかと思い控えていたが、今はそんな悠長なことを言っていられない。楠原が電話に出れば、ただの思い過ごしで笑って終わらせればいい。ついでに、体調のことも聞けばそれで安心出来る。 
 
 何百件もあるアドレスから楠原を探し出し、すぐに通話ボタンを押す。 
 ツーツーという電子音を聞きながら、どう切り出そうかを頭の中で整理する。念の為に受話音量を最大に上げた途端、聞こえてきたアナウンスに、信二は呆然として足を止めた。 
 
 繰り返し流れているアナウンスはどこか予感はしていた物の、それでも衝撃を受けるには十分で。 
 
【お客様のおかけになった電話番号は現在使われておりません】 
 
――……嘘……だろ。 
 
 間違えた番号へ掛けたのかもと望みを掛けたいところだが、ディスプレイには楠原の名前がハッキリと表示されていた。通話のままカウントされていく数字。ほんのこの前まで、いや、多分昨日までなら繋がっていたはず。――解約……されている……。 
 これは、何処かで具合が悪くなっているより最悪な事態だ。 
 
 すぐにもう一つの番号へも掛けてみる、今の番号は、プライベートで使用していた物で、今掛けようとしているのは客へ教えているはずの番号だ。 
 もしこの番号が繋がらなかった場合……、それは楠原が全部を切り捨てたという事に他ならない。 
 
 「……蒼先輩」 
 
 そこまで考えて、信二は先日の楠原の様子を思い出し悔しげに唇を噛んだ。 
 あの夜。楠原が腕を振り払わなかった時、ほんの僅かだとしても受け入れてくれたのだと少し期待した。 
 だけど本当は、これで最後になる。と知っていたから……? 
 
「……、……」 
 
 また自分は間に合わないのだろうか。 
 迎えに行くと約束したのに。 
 どんなに追いかけても、楠原は常にその先にいて追いつく事が出来ない。 
 
 数秒の後、携帯からは先程と同じアナウンスが流れ、信二はずるずると耳から携帯を離した。この番号も使われていない……。楠原がもう全てを捨てたのだと信じたくなかった。 
 しかし、まだ望みはある。店側から配られている従業員連絡用の一台は、契約も店がしている物なので個人で解約などは出来ないはずだ。康生が受けた電話も、多分店用の携帯から掛けた物なのだろう。 
 
 最後の番号を押しながら駆け出し、信二は大通りでタクシーを拾った。乗り込んですぐに告げた目的地は、先日一度だけ行った楠原の自宅アパートの住所だ。 
 信号が青になるのを待って発進したタクシーのシートに浅く腰掛け、今度は解約されていないのを確認する。しかし、予想通り電源が落とされているようだ。もしかしたら、もう手元に置いていないのかも知れない。 
 電話を握りしめたまま、信二は頭を垂れた。楠原が目の前からゆっくりと姿を消すビジュアルが勝手に浮かび、気持ちが焦る。 
 
 十分と少し、楠原の住んでいる場所は店から近いので、すぐに到着した。 
 タクシーから降り、走ってアパートの前に辿り着く。あの日、楠原と共にのぼった寂れた階段を一段ずつあがる。ざらついた手摺りの感触もあの日と変わらない。あまり思い出したくない記憶を振り払うようにして、信二は階段を一気にかけあがった。奥から二番目のドアの前で立ち止まり、表札を一応確認する。 
 
 インターフォンを鳴らして暫く待ってみたが、中からは人の気配は一切しなかった。 
 もしかして、部屋の中で倒れているのではないか……。非常識なのを承知で、信二は玄関のドアノブを掴むとガチャガチャと回しながら中へと声を掛けた。 
 
「蒼先輩、いないんですか? 蒼先輩!!」 
 
 鍵がかかっていない事に望みを掛けたが、さすがに鍵は施錠されていた。電話も解約されていて、自宅にも居ない。頭の中が真っ白になる。 
 
「……蒼先輩、……どこに、いるんっすか……」 
 
 反応のないドアに拳をあてると、信二は悔しまぎれに、その拳を何度か打ち付けた。 
 
「あの……?」 
 
 落胆して途方に暮れていると背後から急に声を掛けられ、信二は驚いて振り向いた。いつのまに側に来ていたのか、信二の腰ほどしかない小さな老人が杖に寄りかかりつつ自分を見上げていた。八十は越えていそうなおばぁさんである。 
 
「あ、えっと……騒がしくしてすみません」 
 
 怪しい人物だと思われたかも知れない。信二はすぐに謝って頭を下げた。 
 
「いえいえ、楠原さんなら今お留守ですよ」 
「え……。そ、そうなんですか。失礼ですが、ご近所の方、……ですか?」 
「ええ。一階に住んでる大家です。貴方は? 楠原さんの、お知り合いなの?」 
「あ、はい。職場の同僚で、中山と言います」 
 
 少し訝しげな視線を向けていた老人がほっとしたように笑みを浮かべる。 
 
「四時間ぐらい前だったかしら。お出かけになられましたよ」 
 
 四時間前という事は、まだ楠原はここに住んでいる。一つだけでも繋がっている場所が残っている事に心底ホッとする。 
 
「わかりました。じゃぁ。また、出直します……。あ、そうだ……。あの一つお願いがあるんですが」 
「はいはい、何でしょう?」 
 
 皺々の優しげな目元が細められる。信二は老人と視線を合わせるようにしゃがむと、取り出した名刺の自分の携帯番号の部分に、胸ポケットにさしていたペンで大きく丸をつけた。 
 
「気付いたらでいいんで、楠原さんが戻られたら、この番号に連絡して頂けますか?」 
「ここに、お電話したらいいの?」 
「はい。何時でも構わないんで……って、夜は、もう寝ちゃいますよね」 
 
 さすがにこの歳で、深夜まで起きていることはないと思い、信二が苦笑すると老人もふふふと笑みを浮かべた。 
 
「寝ちゃったら、そうねぇ。ちゃんと朝にお電話しますよ」 
「有難うございます!」 
 
 老人は信二の顔を見るとニッコリと笑った。 
 
「楠原さんにはねぇ、よくしてもらっているの、わたし」 
「そうなんですか?」 
「ええ。こんなおばぁちゃんに贈り物をしても、なーんにもいい事なんてないのにね……。コレ」 
 
 嬉しそうにそう言って取り出して見せてくれたのは、首元へと巻かれている花柄のスカーフだった。 
 
「たまたま下でお会いした時ににね、少しお話ししたの。その時に、私が誕生日だって言ったら次の日に届けてくれてね」 
 
 女性らしい色合いの上品なスカーフは、如何にも楠原らしい贈り物で……。そのやりとりが目に浮かぶようだった。ほんのこの前までは、その笑顔を自分も見ることが出来てたいたのに……。腰を屈め、優しい眼差しを浮かべていたであろう楠原を思い浮かべると胸がギュッと痛くなる。 
 
「そうなんですね……。凄く、お似合いです。素敵ですね」 
「そう? おばぁちゃんには少し華やかじゃぁないかしら?」 
「いえ、そんな事ないですよ。女性は何歳になっても華やかな物が似合うから」 
 
 信二がそう言って笑みを浮かべると、恥ずかしそうに、だけど大切そうにまたそれを首へとしまった老人が「有難うね」と口にする。 
 帰り際、杖をつく老人の手を取って一緒に階段を降り、アパートの前で一度お辞儀をすると信二は再び通りへと戻った。 
 ひとまず、今日か明日か、楠原が自宅へ戻ったならば、連絡を貰える。それだけでも幾分気持ちが落ち着いた。 
 やみくもに探すより、連絡を待っていた方がいいだろう。夜になったら楠原だって店の携帯に気付くかもしれない。 
 
 信二が腕時計で時刻を確認すると、もう時間が無い事に気付く。店へ戻るために再びタクシーを拾おうと通りを歩いていると、胸元の携帯が振動を伝えた。信二はすぐにその携帯を取りだして相手を見る。相手は楠原ではなく客からだった。 
 気持ちを切り替えるために、一度深呼吸し、携帯を耳に当てる。 
 
「もしもし、麻衣ちゃん? どうしたの、こんな時間に電話くれるなんて珍しいね」 
『うん。今平気?』 
「平気だけど。どうした?」 
『信二、もう今お店??』 
「いや、今向かってるとこ。って、……あれ? 麻衣ちゃん、なんか鼻声じゃない?」 
『よくわかったね。そうなの。もうー、聞いてよ。明日折角楽しみにしてたのにさ~。今朝起きたら熱あって、風邪引いちゃったみたいなの……。最悪だよ~』 
 
 明日店が終わったらアフターに付き合う約束をしていたので、その事を言っているのだろう。大丈夫なのかを訊ねる信二に、彼女は少し甘えた声で「あまり大丈夫じゃない」と受話口で口ごもった。 
 
「アフターは別の日にすればいいから、気にしなくていいけど。それより、病院ちゃんと行った?」 
『ううん……。でも、市販の風邪薬飲んだから』 
「……心配だな。風邪薬足りる? 店終わってからになるけど、買って行ってあげよっか?」 
『やーだぁ。パジャマだしすっぴん見られちゃうじゃん!』 
「あ、そこ一応気にするんだ?」 
『信二酷い! 私だって女の子なんだからね~?』 
 
 話しながら途中でタクシーをつかまえて乗り込む。なんとか店の開店には間に合いそうである。 
 
「うそうそ、すっぴんでもきっと可愛いだろうから、問題ないんじゃない? って意味だって」 
『そういう事にしておいてあげるけど~。ん、でも弟が後で来てくれるって言うから大丈夫だよ。心配してくれてありがとね』 
「そかそか、弟さんが来てくれるなら安心だね。それまでちゃんとあったかくして寝てなきゃダメだよ? 早く良くなるといいな」 
『うん! ……でも、信二に会いたかったな……。明日楽しみだったのに』 
 
 信二はその返事を聞いて、電話越しに優しい笑みを浮かべる。カメラのレンズを袖で軽く拭うと再び携帯を耳に戻した。 
 
「今さ、ビデオ通話に切り替えられる? 麻衣ちゃんは、すっぴん見せたくないなら足下とか写してていいからさ」 
『え? うん。ちょっと待ってて』 
 
 画面が切り替わり、パジャマの裾と真っ白な足が画面に映される。綺麗に施されたペディキュアを塗った小指が、画面内でぴくりと動く。信二はカメラを自分にむけると、早く良くなりますように! と人差し指を唇に当てた後、その指で画面に触れた。「……ぇ」と戸惑ったような彼女の声が聞こえる。 
 
「届いた? 俺からの電波キス」 
『……う、うん。やだ……。信二のせいで熱があがっちゃったじゃん……。どうすんのよ、もう……』 
 
 画面が揺れると同時に、彼女の顔が映し出される。いつもとはまるで雰囲気が違うパジャマ姿の麻衣は、言葉通り真っ赤になっていて、照れ隠しのように唇を尖らせていた。 
 
「あれ? いいんだ? 俺にすっぴんみせて」 
『……うん。キスの御礼っ、特別サービスだかんね』 
「有難う。予想通り、そのままでも……、すごく可愛いよ」 
『今日の信二、なんか無駄にかっこよくない? 調子狂うし……』 
「俺は、いつもかっこよくしてるつもりなんだけど」 
 
 苦笑する信二の声で彼女も笑う。ゆっくり休むように最後に言って、通話を切った。仕事は仕事で、ちゃんと割り切ってこなす覚悟は出来ている。 
 それにしても、店で後輩が風邪が流行っていると言っていたが、これは本当なのかも知れないと思う。 
 
 タクシーから降りて店へ向かう途中、ついに、ポツリポツリと雨が降ってきた。傘を持っていないので走って店まで向かう。ビルに入って濡れた肩と頭をハンカチで拭きながらフロアへ戻る。 
 
 店が開くまで後十分。 
 フロアは既に準備が終わっていて、カウンターへ腰掛けて一服をしていた康生が笑いながら振り向く。 
 
「はい、遅刻~!」 
「何でだよ。まだ十分前だろ」 
「出来る奴は『十分前行動』って知ってんだろ? お前の分の磨く灰皿残してあるから」 
「……マジで」 
「ばーか。嘘に決まってんだろーが。全部とっくに終わってるって安心しろ」 
「さすが康生。出来る奴は言う事が違うな」 
 
 冷やかしてそう返すと康生に頭をはたかれた。 
 
「でも、助かった。ほんと、有難う」 
「殊勝なお前怖いつの。ってか……。もう雨降ってんの?」 
「ああ、丁度降ってきたとこ。まだ小雨だけど」 
 
 康生の隣に腰掛け、信二も煙草を取り出して咥える。「そっか」と呟くと、康生は妙に長い溜め息をついて、何か言いたげに信二を見つめた。 
 もしかしたら、自分が楠原を探しにいった事に気付いているのかも知れない。だけど、康生はその事に関しては何も言わなかった。「風邪引くなよ」と一言だけ言って、吸い殻を残したまま奥へと戻る。 
 信二は康生の残した吸い殻の横で、自分も煙草をもみ消すと、胸元から携帯を取りだし、変化のない着信履歴に溜め息をついた。 
 
 
 
 
 
 店が始まってからわかった事だが、後輩の一人も風邪で休んでいて、忙しさに拍車を掛けていた。いつもはヘルプ以外で席に着く事の少ないホストもこの日ばかりは大活躍である。途切れることなく卓を移動しながら、その多忙さに楠原の事を考えている暇も無い。 
 
 しかし、終盤になって信二は気付いていた。いつもなら楠原を指名する客が途切れることがないというのに、今夜は誰一人として楠原を指名する客がいない事に……。 
 これは偶然なんかじゃない。楠原が予めフォローをいれた結果なのだろう。 
 
 客との携帯が解約されている時点で少し考えればわかったはずだ。 
 突然楠原が姿を消せば、客の間で騒ぎになる事は想像が付く。そうなっても店に迷惑がかからないように、自分がいなくなった後のフォローを入れた。前もって準備していなければ出来ない事だ。 
 こんな事からも、楠原はもうずっと前から、このことを決めていたのだとわかる。そして、二度と店に戻ってこないのではという不安は色を濃くした……。 
 ギリギリまで待って、明日も楠原から連絡が来なかったら、晶へと連絡を入れてみるしかない。 
 
 
 結局、店が終わるまで携帯が鳴ることはなく、楠原を見失ったまま日付が変わっていた。 
 
「お疲れさん~。やばい、流石に俺も酒回ってきた」 
 
 待機室へ戻ってきて開口一番康生が疲れ切ったようにそう言い、首の後ろを揉む。酒にまだ慣れていない後輩のぶんを康生と信二でフォローしていたのだから当然だろう。そのフォローを持ってしても相当堪えたらしい。後輩達はグッタリしていて、一人はソファでダウンしていた。全員がアフターへ行く気力も無く待機室へ揃っているのは珍しい。 
 
 それぞれが早く酔いを覚まそうと、営業中の合間合間にペットボトルの水を裏でがぶ飲みしていたせいで、テーブルには空になったペットボトルが散乱していた。 
 
「オレも、ちょっとやばいです。……吐きそう」 
 
 真っ青な顔でそんな事を言う後輩に、康生が露骨に眉を顰める。 
 
「ここでぶちまけんなよ? トイレ行ってこい、トイレ」 
「大丈夫ですよ、……今はまだ」 
 
 後輩がふてくされて頬を膨らます。最初の頃に比べたら、康生もだいぶ後輩の扱いにも慣れてきたようだ。 
 確かに今夜は自分も相当飲んだとは思う。だけど、全く酔っていなかった。フとした時に楠原の事を何度も考えていたせいで、とても酔える気分になれなかった。 
 
「信二、お前全然平気そうじゃん。酒強くなったな」 
「え? ……ああ。んな事ないって。俺も、結構酔ってるよ」 
 
 苦笑して調子を合わせ、信二は腰を上げた。 
 
「じゃぁ、俺そろそろ帰るわ」 
「おう。俺も帰っかな~」 
 
 全員が言葉少なく、のろのろと腰を上げて帰り支度を始める。信二は一足先に支度を終えると、フロアに残っていたマネージャーへと挨拶をして店を後にした。 
 
 
 
 その足で、気付くと楠原のアパートの前に立っていた。 
 ほとんど無意識に来てしまった場所に、やはり相当酔っているのかと自分で考える。気分が悪いわけではないが腹の奥に鉛を埋め込まれたような重さがある。背後の大通りを轟音を立てたトラックが何台も通り過ぎる耳障りな音さえ、不安を掻き立てる要素になっていた。 
 
 隣の煌びやかにそびえ立つタワーマンションに光を全て吸い込まれたかのように、アパートは真っ暗だった。楠原が借りている二階の一室も、一階も全て……。 
 唯一繋がっている可能性がある店支給の携帯を握りしめ、信二は暫くその光景を呆然と眺めていた。 
 
――蒼先輩……、今、どこにいるんですか……。 
 
 落ちてくる雨粒を浴びるように夜空を見上げ、その居場所を探すように視線を動かす。厚い雲が、全ての星を隠しているせいで星は一つも無い。自分の前から姿を消した楠原のように。 
 
 今すぐ会いたい。 
 一言名前を呼んでくれるだけでもいい。 
 声が聞きたい。 
 
 こんな事になるなら、あの晩、楠原を傷つける結果になったとしても無理矢理にでも抱いて……。その手を離さないで居ればあるいは……。 
 出来もしないことを後悔している自分の非力さに嘆いてみても、何も変わらない。静かに降り続ける雨が信二の頬を濡らした。 
 
 
 
 
*     *     * 
 
 
 
 
 止まない雨を硝子越しに見ながら、楠原はもうかれこれ一時間以上街の様子をただ眺めていた。ビジネスホテルの一室、空調の音だけが静かに部屋に響いている。 
 糊のきいた皺一つ無いベッドカバー。その上で揃えられているルームウェア一着。どれも手を付けていない。 
 今夜は、普段服用している睡眠薬を飲んだとしても、きっと眠れないのはわかっている。ならばいっそ、夜が明けるまで眠らなければいいだけだ。 
 
 あまり吸わない煙草の本数も増え、今吸おうとしているのが最後の一本だった。少し爪の伸びた指先で最後の煙草を取り出し口に咥える。 
 片手をマッチの火に翳し、煙草の先へと炎を移す。暗い部屋で、真っ赤に燃える火種が瞳の中で滲む。ふいに、信二の煙草を一本貰って吸った事を想いだした。 
 そんなに昔のことでもないのに、酷く懐かしくなる。 
 
 きついメンソールを吸い込み、ふぅと吐き出せば視界に映る街の景色が煙る。通りのアスファルトに溜まった水たまりにネオンが反射して細長く伸びていた。 
 
 普段は嫌っているのに、街の喧騒も、まばゆい光も、今夜は愛しささえ感じる。感傷的になる事を避けてきたが、楠原はその感傷に浸ったままの自分を許した。 
 
――最後の夜ぐらいは、感情のまま想い出に浸ったっていい。 
 
 楠原は、側にある一人がけのソファに腰を下ろすと、結んでいた髪をほどいた。随分長くなった髪は、鎖骨の辺りまである。眼鏡を外して窓枠へと置き、そっと目を閉じる。 
 
 瞼の裏に浮かんで消えゆくのは、信二と過ごしてきた沢山の記憶だった。 
 
 
 
 
*     *     *