GAME -17-


 

 
 
*     *     * 
 
 
 晶達が帰ってから一時間。 
 長かった一日の終焉は静寂に充ちていた。 
 
 隣で眠る信二が静かな寝息を立てているのを、楠原はずっと見続けていた。佐伯の処置のおかげで出血も止まり、無事に朝を迎えられる事に心から安堵する。 
 しかし、自分ももう体力が限界を迎えそうだった。 
 晶達が帰って気が緩んだのか、座っているだけなのに強い倦怠感が襲う。一昨日からほぼ寝ていないので気を抜くと意識が落ちそうになった。 
 
「……困りましたね」 
 
 楠原は、薄暗い部屋の中、自嘲気味にそう呟いて眉を寄せた。鏡を見てはいないが、多分自分は今酷い顔なのだろう。 
 晶達の帰り際玄関まで見送った際、さすが医者だと言うだけあり、佐伯には見抜かれていたようで「明日、君も病院でちゃんと診て貰え」と忠告をされたぐらいなのだから。 
 
 眠る信二の手をそっと掴んで温かさを何度も確認し、その度に、信二が生きている事に感謝する。だけど、信二が目を覚ましたら、多分自分はその手を自らが掴むことは出来なくなるだろう。 
 もう二度と、……大切な人が傷つく姿を見たくないから。 
 
「……ん、……」 
 
 信二が目を覚ましたようで、その瞼がゆっくりとあがる。楠原は握っていた手を咄嗟に離し布団へとそっと戻した。 
 
「信二君、目が覚めましたか?」 
「蒼……先輩? ……あれ、……すみません。俺、寝ちゃってました?」 
「ええ、痛み止めのせいでしょう。眠れるなら、眠った方がいいですよ。傷の痛みはどうですか? 他にも、何かあったらちゃんと教えて下さいね」 
 
 心配そうにそう言う楠原に、信二は「……いや」と一言返し、目を擦った。 
 
「大丈夫です。痛み止めが効いてるからかな……そんなに痛く無いっす」 
「そうですか、……良かった。何か飲みますか? 佐伯さんが、水分は摂ってもいいと仰っていましたし」 
「あ、じゃぁ、ちょっと喉渇いたし。なんか貰おうかな」 
「待ってて下さい。持ってきます」 
 
 冷蔵庫へと飲み物を取りに行き、唯一残っていたミネラルウォーターを取り出す。 
 コップに注ぐ際、急に手に力が入らなくなり、あっと思う間もなく手元からコップが滑り落ちた。床に落下した硝子が足下で割れ、途中まで汲まれた水が零れる。深夜の音のない部屋には、その音がやけに大きく響いた。 
 
「蒼先輩!?」 
 
 信二がビックリしたように声を掛ける。今にも駆け寄ってきそうな信二を楠原は慌てて声で制止させた。痛みは薬で抑えられていても、動けば傷にさわる。 
 
「大丈夫です。そこにいて下さい。……手が滑っただけですから」 
「……本当に、平気っすか……?」 
「ええ。片付けたら持っていくので、少し待ってて下さい……」 
 
 楠原は、破片を拾うために床へ腰を下ろすと、信二に背を向けたまま隠すように押し殺して呼吸を整えた。いつもの発作とは違う症状なのはこれが薬によるものだからなのだろう。不安感等はなく、気持ちは落ち着いているのに、ふらついて手足に力が入らない。 
 破片を拾おうと伸ばした指先は、目標地点と外れた場所で床をかすめた。 
 暫く落ちつくまで待っていようと目を閉じて座り込んでいると、足下の破片を集める音がして、楠原は目を開けた。 
 
「……信二君!? 動いたらいけないと言われているでしょう」 
「これぐらい、平気っすよ。硝子踏んだら危ないでしょ」 
 
 信二は側にあったビニールに欠片を全ていれると、床を拭いて流し台へと置いた。ついでに別のコップで水を飲むと、信二は楠原の後ろに腰を下ろして背中からその身体をそっと抱いた。 
 
「俺より、蒼先輩の方が具合悪そうっすよ。薬、一気に飲んだからじゃないんっすか?」 
「違いますよ。少し疲れているせいで……」 
「……心配なんで、暫く落ち着くまでこうしてていいっすか」 
「…………」 
 
 古びたアパートの台所の床は、年季を感じさせる板張りで少し動けばギシギシと音を立てる。硬い床の上で、回された腕が自分を包み、耳元で信二の息遣いが聞こえる。安静にしていなければいけない信二を無理させていると思うと、気が焦った。 
 
「……すみません。もう大丈夫です。身体が冷えますよ、布団に戻りましょう……」 
 
 信二に手を借りて立ち上がり、これではどちらが怪我人なのかわからないなと情けなくなる。 
 部屋の隅に敷いた布団に戻ると、信二は壁にもたれて長く息を吐いた。 
 
 信二が先程まで眠っていたので電気は常夜灯のみで、視界が暗い。信二が俯いている事はわかるが、その表情までは見えなかった。本当はやはり相当に痛むのだろうか。信二の様子がいつもと少し違うように感じ、楠原は心配気に眉を顰めた。 
 こんなに大きな音だったのだろうかと思うほど、目覚まし時計の秒針の音が大きく聞こえる。 
 
「晶先輩達、……帰ったんっすね」 
「ええ。一時間ぐらい前に。……オーナーと佐伯さんに助けて頂いて本当に良かった……。信二君の怪我の事もそうですが、オーナーにはいくら感謝しても足りないぐらいですね」 
「……そうっすね。さっき、晶先輩が取り乱してるの初めて見て、マジ驚きました。あんなに俺の事心配してくれて……。佐伯さんもいい先生で……。俺、凄い幸せなんだなって……改めて実感したっつーか」 
「そうですね……。オーナーは、帰る間際まで、ずっと信二君の事を心配していましたよ。貴方が本当に大切なんですね」 
 
 信二が少し間を開けて、思い出すように言葉を続ける。 
 
「向こうは、覚えてなかったっぽいけど。……俺、佐伯さんに前に一度、会った事あるんすよ」 
 
 信二の意外な言葉に少し驚き、楠原は「そうなんですか?」と返した。 
 
「二年ぐらい前かな……。麻布にいた頃、晶先輩の忘れ物。……時計だったんっすけど、それを店に届けに来た事があって……」 
「そんな前に……。信二君が、その時受け取ったんですか?」 
「そうです。…………。あの人、多分、晶先輩の、……恋人っすよね……。何か雰囲気で、さっきわかりました。晶先輩は、この前ごまかしてたけど、大阪から友人が来るって嬉しそうだったんっすよ……」 
「……時々下の名前で呼んでいましたし、そうなのかもしれませんね……」 
「蒼先輩……」 
 
 信二がゆっくりと顔を上げ楠原を見つめる。 
 
「……はい……、?」 
「俺、……晶先輩が好きだったんです。……そういう意味で……」 
「…………それは」 
 
 楠原は信二のその言葉に動揺している自分を知る。しかし、晶はあんなに魅力的な人間なのだから、それも自然な事なのかも知れない……。そう思った楠原の心を読むように信二が言葉を続けた。 
 
「でも……、今日、晶先輩に恋人がいるってわかった時、俺、そういう意味ではショック受けて無くて……。その時も……、今も……、蒼先輩の事で頭がいっぱいです……」 
「……信二君」 
 
 真っ直ぐ見つめられる視線を受け止められず、楠原は思わず睫を伏せた。静かに続ける信二の言葉が、何もない部屋に優しく響く。 
 
「街で、蒼先輩見つけた時、すげぇ嬉しくて、だけど……同じぐらい不安で。……もう、俺の手が届かない所に、行っちゃったんじゃないかって……。また、間に合わなかったのかなって」 
「…………」 
 
 信二がゆっくりと息を吐く。 
 
「勘違いなんかじゃない。……蒼先輩が、好きです。俺じゃ、ダメですか」 
 
 信二が楠原の身体を引き寄せて、胸へと抱き締める。もう、前みたいに突き放す事も出来なかった。こんなにも誰かに想って貰った事も無い。先程の晶と交わした約束が脳裏に浮かぶ。 
――今の自分を、もっと大切にしろよ……。 
 どうやって? その方法すらわからない。自身を思い遣る事なんてしてきたことがなかった。 
 楠原は残る言い訳を自分に言い聞かせるように唇へと乗せる。 
 
「信二君は、とても魅力的です。僕も……、貴方の隣にいられたら、どんなに嬉しいか……。だけど、僕には貴方の手を取る資格がありません……。お願いです。……これ以上、……優しくしないで下さい……」 
「どうして……。俺、わかりません。資格って何ですか、そんなの要らないでしょ」 
「信二君も気付いているでしょう……? 現に貴方は、僕と関わったせいで傷を負った。命を落としていたかも知れないんですよ。……信二君。僕は、碌な生き方をしてこなかった人間です。そんな僕といて、幸せになれると思いますか……? いつかきっと、また貴方を傷つける……」 
 
 最後の壁を壊せないまま、楠原は信二から身体を離した。 
 自分でも気付かぬうちに静かに流れる涙が一筋頬に伝っていた。焦がれて愛しくて、一番欲しい場所なのに……。 
 頬を流れ落ちる涙を指先で拭い、顔を上げられないまま楠原は唇を噛んだ。 
 信二は楠原の手に腕を伸ばし、そっと重ねた。その手の優しさが痛いほどに胸を掻き乱す。 
 
「……蒼先輩」 
 
 楠原は、重ねられた信二の手の下で拳をきつく握りしめた。 
 
「……怖いんです。自分と関わって、不幸になる貴方を見続けるなんて……。僕には、もう、耐えられそうにありません……」 
 
 信二は切なげに眉を寄せると、薄明かりしかない部屋の中で楠原の頬に手を添え顔を上げさせた。 
 眦からこぼれ落ちた楠原の涙の跡を指で拭い、楠原の冷たい手を掴むと自分の胸へと強く押し当てた。掌に信二の体温や鼓動が伝わってくる。 
 
「蒼先輩、――わかりますか?」 
 
 静かにそういう信二の眼差しに吸い込まれる。楠原は信二の胸の上で指を僅かに動かした。 
 
「……」 
「俺、ちゃんと生きてます。怪我だって、すぐに治ります」 
「………………」 
「蒼先輩が、俺を不幸にするって言うなら、一緒に不幸になってもいい。だけど、俺が、……その三倍、幸せを連れてきます。そしたら、不幸なんて帳消しですよね」 
「……信二、君」 
「俺を信じて下さい。俺、年下だし全然頼りないっすけど。運だけはいいんですよ。だから、絶対に大丈夫……」 
 
 信二は痛みを堪えて、両腕で楠原を強く抱き締めた。縫われた傷口は確かに痛いけれど、今ここで楠原から手を離す痛みに比べればどうという事も無かった。 
 
 
「蒼先輩、――あなたが好きです。俺の傍にいて下さい」 
 
 
 信二は、楠原の眼鏡をそっと外すと、涙で濡れた頬、最後にその唇にも、自身の唇を重ねた。体調のせいで蒼白いその頬に手を添えれば滑らな感触が指先に伝わる。涙の通った後の少ししょっぱい楠原の薄い唇。ずっと口づけたくて仕方がなかった楠原の唇はやはり冷たくて、だけど想像以上に柔らかくて甘い味がする……。 
 
 信二にかけられた沢山の言葉は、楠原の最後の壁をすり抜けて胸の真ん中にふんわりと灯りをともした。 
 楠原は自分の胸の中を確かめるようにシャツを掴む。 
 冷えた心は、その熱で溶け出し……、今まであった、空虚感と混ざり合いながら雪解けのように流れ出す。 
 刺さっていた棘にヒビが入り、抜けていく……。聞こえるのは、今はもう、信二の声だけ。 
 役目を終えた仮面は砕けるわけでもなく、眩しいほどの光の中になじんで、信二の腕の中で――その姿を消した。 
 
「……、信二君」 
 
 楠原から信二の唇へと口付けを落とす。その口付けは、言葉より饒舌に楠原の本気を語った。 
 
「――僕も、貴方が好きです」 
 
 ずっと言えなかった言葉を口にすれば、もう自分に嘘がつけなかった。信二の優しげな目元が、愛しさを滲ませて嬉しそうに細められる。自分とは無縁だと思っていた人を愛するという遠い記憶が揺り起こされる。信二と一緒なら、もう、過去を振り返らない生き方が出来る。そう思った。 
 
「蒼先輩」 
 
 自分の名を呼ぶ信二の声。信二のいる場所はやはり自分には眩しくて、だけど今はもう手が届く。夢ではない事を確認したくて指先で信二に触れれば、その指は温かい手でそっと包まれた。 
 
「相変わらず冷たいっすね、手」 
「……温めて、くれるのでしょう?」 
「もちろん」 
 
 指を絡めたまま繋ぎ、啄むように悪戯な口付けを繰り返す。 
 深さを増していく口付けに時を忘れ、互いの舌を絡め合う。夢中になったまま信二が楠原を畳へと押し倒すと、その瞬間信二は動きを止めた。 
 
「……痛って、っ……」 
「……!? 大丈夫ですか? あまり動くと傷が開きますよ」 
「ぅ……、……そうっすね……。怪我してるの、忘れてました……」 
 
 信二が照れたように頭を掻くのを見て、楠原が小さく笑う。 
 
「今夜は、大人しくしていないと」 
 
 やや不満そうな信二が、腰を押さえて渋々楠原から離れた。まだ夜が明けるまでには時間がある。 
 
「蒼先輩も、体調悪いんだから無理しちゃダメっすよ。こっち来て」 
 信二が布団に戻り、自分の隣をあける。 
「……え?」 
 
 誰かと一緒に寝るなんて、考えた事も無かった楠原が迷っていると、信二に腕を引っ張られ強引に布団へと連れ込まれた。 
 楠原の背中を抱くようにして信二が腕を回しぎゅっと抱き締める。 
 
「蒼先輩、つかまえてないと……すぐ、どっか行っちゃうから……」 
 
 耳元で甘く囁く信二の声がくすぐったくて楠原は僅かに肩を竦めた。 
 
「……寝相はいい方なので、安心して下さい」 
「そういう意味で言ったんじゃないっす」 
「……知ってますよ。……。――信二君」 
「はい……?」 
 
「――迎えに来てくれて、有難う……。信二君に出会えて…………幸せです……」 
 
「えっ、」 
 
 信二が「急にそんな事言うとか、反則っすよ」と照れたように返す。後ろでその顔が見えないのは互いに良かったのかも知れない。 
 信二は、小さく笑う楠原の項に悪戯で口付け「蒼先輩、おやすみなさい」と呟いた。少しして信二の穏やかな寝息が聞こえてくる。背中越しに伝わる体温は、さながら湯たんぽのようだった。 
 
 目を閉じると、外はまだ雨が降っているようで窓硝子を小さく叩く音がする。 
 冷え切った外の空気とは真逆の温度、そこが自分の居場所になった事が幸せで、楠原は伸ばされた信二の手に指を絡めて目を閉じた。 
 
「……おやすみなさい」 
 
 今夜は睡眠薬は必要なさそうである。 
 疲れ切った身体は、信二の腕の中で静かに意識を落とした。