愛鍵2


 

 味付けを済ませ、火の加減を調節したあと、渋谷も玖珂の待つ居間へと回った。
ホテルの夜景が見える部屋で玖珂と二人でいるのもとても好きではあるが、こうして自宅で過ごすのも渋谷は気に入っていた。
 自分の家でもあるせいか、いつもより寛いだ感じの玖珂を見られるのも嬉しい。
「お疲れ様。祐一朗も一服するか?」
煙草の箱ごと玖珂が渋谷に手渡す。
「じゃぁ、一本だけ」
 渡された箱から一本煙草を抜き取り口へと咥えると玖珂がさっとライターを翳してくれる。

 いつもこうして火を点けてもらうのが今や習慣にもなっているのに、いつまで経ってもこの瞬間は少し気恥ずかしい物がある。元ホストである玖珂の行動はスマートで、隙が無い。
 自分も玖珂へ同じようにしてみたいのだが、玖珂はヘビースモーカーで気付くともう煙草を吸い始めている。だから、なかなかそのタイミングが合わないのだ。KOOLならではのビターなメンソールを吸い込み、渋谷は天井に向かって紫煙を吐き出した。

チラリと壁に掛かっている時計を見ると、まだ6時半になったばかりだった。
夜はまだまだこれから長い。渋谷と同じく玖珂も時計を見ていたようで、「まだ今日は6時半か。ゆっくりできて良かったな」と渋谷に微笑んだ。

「あ、そういえば。さっき買い物した時、何を買ったんですか?」
「あぁ、アレね。たいしたものじゃない。後で使う物だ」
「使う、物……?」

 まだ答えを聞いていないので質問をしようとした所、遮るようにして玖珂が立ち上がる。どうやら一杯になった灰皿を交換しにいこうとしているらしい。
 タイミングを逃して、渋谷は結局、玖珂が買った物がなんだったのかを聞きそびれてしまった。

キッチンへ灰皿を交換しに行った玖珂が座っていた先に、今まで気付かなかったが写真立てがあることに気付く。少し遠いのでどんな写真なのかは渋谷にははっ きりせず立ち上がって写真立てに近づいてみる。アクリルのシンプルな写真立てに飾られていたのは、どうやら玖珂の家族らしい。

 学生服を着た玖珂と、小学生くらいの男の子、そして優しそうな母親が写っていた。男の子は以前に玖珂が話していた弟なのだろう。まだ子供だがやはり、玖 珂と似ている。玖珂は今とそんなに変わっておらず、髪が短めなので若いといえば若いが、相変わらずいい男には違いなかった。学生の時からきっとモテていた んだろうと容易に想像が付く。
父親は……、写真を撮影でもしているのだろうか。その写真には父親の姿はなかった。

 新しい灰皿を持ってきた玖珂は写真を見ている渋谷へ近づくと、恥ずかしいからそんなにじっくりと見ないでくれといい苦笑している。前に弟の話をきいた 時にも凄く嬉しそうに話していたし、こうして家族の写真を飾っているのと合わせると、玖珂は家族思いなのだなと渋谷は思っていた。

「この写真の男の子、弟さんですか?」
「あぁ、そうだよ」
「可愛いですね。玖珂さんによく似ています」
「そうか?今はもう俺と同じくらいでかいからな、可愛いとはお世辞にも言えないが、その当時は――まぁ、可愛かったよ」

 玖珂はそう言って思い出すように新しい煙草に火を点けた。
渋谷の家族の話は、今までの経緯があったため玖珂に話す機会は多いが玖珂の家族の話しはほとんど聞いたことがなかった。元の場所へ腰を下ろし、渋谷は隣にいる玖珂に軽い気持ちで家族の事を問いかける。

「玖珂さんのご家族は、どちらに?」
「あぁ……そういえば、話した事はなかったかもしれないな」

 その台詞で、自分はもしかして聞いてはいけない事を聞いてしまったのではないかと渋谷は思う。そしてその予感は、見事に当たってしまった。

「母親は、随分昔に亡くしていてね……父親は、弟が生まれる前しか一緒に住んでいなかったからな……」
「あ……、すみません……。俺、変な事聞いてしまって」
「いや、もう昔の話しだ。何とも思っていない……だから、弟だけが今は家族って事になる」
「そうだったんですか」

 玖珂が弟を大切にしているのも、家族の写真を飾っているのも、その理由が渋谷にも伝わってやりきれない思いになった。母親が亡くなっているというのは自分と同じ境遇だとしても、義理とはいえ今はちゃんとした母親もいる。
父親も健在で妹もいる、自分の都合で疎遠になっていなかったのなら普通の家庭として十分な環境が自分にはあった。

「…………」

 おかしな事をきいてしまった為に次に話す言葉が見つからず、渋谷はそのまま俯いていた。三十三年も生きていれば、人は何かしらを背負っている物だとは思う。玖珂の背負っている物はどんな物なのだろうか、渋谷は想像もつかなかった。

「どうした?本当に気にすることはないぞ?」
「ええ、……」
「それに、俺はちゃんと幸せだったと思っている」
「……え?」
「だってそうだろう。生まれてから一度も母親や父親に抱かれる事のないまま育つ子供だっている。そうは思わないか?」
「それは……その、そうだと思いますけど……。あの、ひとつ聞いても良いですか?」
「あぁ、構わないよ」
「玖珂さんは、今、お父さんに会ってみたいとか……思いませんか?」
「父親か……そうだな……。もっと若かった頃は会ってみたかったな。会って、何で母親を捨てたんだって殴ってやろうかと思っていた」

 玖珂がそういって少し寂しそうに笑うのを見て、渋谷の胸は締め付けられた。自分が玖珂の立場でも、きっと同じような考えをしていたかも知れないと、置き 換えてみる。殴ってやる等、玖珂らしくない発言だが、逆にそれが、その当時の本当の気持ちである事を痛感させられる。いくら、昔の話しだとしてもそう簡単 に片づけられるような事ではないことは渋谷にもわかり、玖珂の想いを考えると複雑な気持ちになる。
煙を吐き出した後、玖珂は言葉を続けた。

「……だが、今は別の意味で会ってみたいとは思うよ」
「別の、意味ですか……?」
「あぁ。俺ももうこの歳だ。当時の父親と同じくらいだろう?多分だが……今なら、何故母親と俺達を置いて出て行ったのか理解できそうな気がする。父親とし ては見られないが、同じ男としてなら、別の意味でわかる事もあるんじゃないかと思うんだ。きっとそれなりの理由があったはずだからね。信じられない話しか もしれないが……俺は父親には一度も怒られた記憶がなくてね、それぐらい優しい父親だったんだ。だから、余計に理由が知りたいと思う」

 いくら冷静に考えたとしても自分ならそうは達観できないのではないかと思うと、渋谷は情けない気分にもなる。憎しみや後悔は何も産み出さないばかりか、結果的に自分の人生を間違った方向へ流してしまう可能性がある。
 どんなに時間を掛けても、真実を許し事実を認めると言うことはそれだけ大切な事なのだ。それと同時に一番勇気のいる事でもあり、なかなか出来ることではない。
 玖珂の滲み出る優しさは、こんな所からも窺え、渋谷は心の底から玖珂を尊敬せずにはいられなかった。

「………やっぱり、玖珂さんは凄いですね……、俺だったら、そこまで冷静になれるかどうか……」
「別に、凄いわけじゃない。祐一朗も、育った環境や今いる環境がまた違ったら考え方も変わるだろう?そういう事だけの違いだよ」
「そう……、でしょうか」
「あぁ、それだけだ。……さて、こんな話しはクリスマスの今日に似つかわしくないな。ここらでやめておこう」
「………はい」

 今まで玖珂が一言も家族の話をしなかった理由は、当初渋谷が考えていたより、もっと深い物だった。しかし、そんな心の内を自分に聞かせてくれた事。渋谷 はその事をしっかりと刻んでおこうと思っていた。そして、いつか玖珂がこの事で悩んだり、行き詰まる事があれば傍で支えてあげたいと心から思った。





 話し込んでいたせいで、時間はあっという間に過ぎ、キッチンから良い匂いが漂ってくる。そろそろ煮物も出来上がったのかも知れない。
ちょっと見てきます、と言い残し、渋谷はキッチンへと入っていく。少しずらしておいた鍋の蓋の隙間から湯気がもくもくと昇っている。渋谷が蓋を取ってみると美味しそうに煮えた煮物が出来上がっていた。

 試しに一番上にあった野菜を菜箸で掴み、味見をしてみると中まで滲みておりとても美味しかった。そんな渋谷を見て、居間から玖珂が覗き込む。

「どうだ?うまくできたか?」
「はい、美味しいですよ。あ、玖珂さんも味見してみます?」
「そうだな、じゃぁ口に入れてくれ」
「え!?」
「いいだろう?誰も見ていないんだ。気にする事はない」

 玖珂は気にすることはないというが、そんな事をするのは初めてで、渋谷にとっては恥ずかしいことこの上ない。
今まで煮え立っていたので火傷しないように、渋谷は一つ野菜をつまむと何度か息を吹きかけ、玖珂の方を見ないようにし、覚悟を決めて菜箸を伸ばした。
こんな、まるで新婚夫婦のような事をする事になるとは思ってもおらず、平気そうな玖珂はやはり凄いと思う。
「うん、美味しくできているじゃないか。流石普段から料理を作っているだけはあるな」
「そ、そうですか。良かった」
「――祐一朗が冷ましてくれたから余計にな」
「玖珂さんっ、もう……」

 おもしろがってからかう玖珂を渋谷はまともに見られなかった。
キッチンは火を使っていたので、少し暑かったが、それとは別の意味で渋谷の耳までもが真っ赤になる。玖珂は渋谷のことを恥ずかしがり屋だと言うが、誰でもこんな場面では恥ずかしいに違いない。渋谷は意味もなく鍋の中身をかき混ぜながら、火照った頬に冷たい掌をあてた。

 そろそろ夕飯を食べても良いくらいの時間になったので、渋谷は用意してあった魚をチルドルームから取り出す。
煮物に合う料理をと最初は考えていたのだが、選んでいる際に玖珂が魚が好きだというのを聞き、もう一品はムニエルにすることになったのだ。
 渋谷も魚には詳しくはないが、パッケージにムニエルに最適というシールが貼ってあったので、それを選んで買ってきた。軽く塩コショウをふりかけ、イタリアンパセリの粉を少しまぶす、最後に小麦粉をつけて。
 運良く、シールに作り方が載っていたので、その手順通りに進めていく。
フライパンにバターをひき、味付けをした魚を二つ並べた。

「もうそろそろ、出来ます」

 居間にいる玖珂に声をかけると玖珂は用意をするためにキッチンへと顔を出した。
フライパンを覗き込み、順調か?と渋谷に微笑む。大丈夫です、かいてある通りですからと苦笑する渋谷に玖珂も笑う。

 そして、シャンパンを冷蔵庫から取り出しグラスと共に持つとダイニングへ並べに行った。
スーパーからの帰り道に聞いたのだが、今日のためにシャンパンを買ってあると玖珂は言っており、それが今の酒のことなのだろう。ちょうどムニエルも出来上がり、渋谷は皿へと盛りつけ、煮物も器へと移した。
 最後に、作った物だけだと失敗したら困るのでと渋谷が買ってきた惣菜を取り出し、セッティングがされているダイニングテーブルへと運び準備は整った。

 クリスマスらしいかといえば、疑問符が幾つか付きそうではあるが、それでも色々な物が並べられている食卓は賑わっていた。
席へと座った渋谷に、玖珂がシャンパンの栓を抜きグラスへと注ぐ。飾りのないシンプルなクリスタルのシャンパングラスに繊細な泡が立ちのぼり、とても綺麗だった。細く華奢なグラスを掲げ、玖珂はそれを少し傾ける。

「じゃぁ、乾杯、メリークリスマス」
「メリークリスマス」
 軽くグラスを合わせ、シャンパンを口へと含むと口の中で弾ける感覚と共に辛口の味わいがする。
「凄く美味しいです。このシャンパン」
「そうか?良かった。気に入ってくれて」

 玖珂は美味しいという渋谷を見て満足そうに微笑む。
日頃シャンパンをあまり飲む機会のない渋谷にも、このシャンパンはとても上品な味がして美味しく感じられた。ドライ感が強めなところも渋谷の好む所であ る。シャンパンにも種類は沢山ある。どこのものだろうと思い、何気なく脇へ置かれたシャンパンのラベルを見て、渋谷はそのラベルに釘付けになった。

「玖珂さん、……コレって……」
「ん?……どうかしたのか?」
「この年……」

玖珂が、それの事かとでも言うように口を開く。

「祐一朗の生まれ年に作られた物だ。ちょうどいいかと思ってね、取り寄せたんだよ」

 玖珂は何でもないことのように言っているが、渋谷の生まれ年ともなるとそうとう高級な物だろうし、簡単には見つけられない気もする。それだけでも驚いている渋谷はボトルを引き寄せて見て、さらなる発見に言葉を失った。
 サロンのシャンパーニュと言えば、生産量が少なく「幻のシャンパン」と言われている種類である。以前何かの雑誌で見た時に、多分一生自分には縁がないのだろうと思っていたのだ。
それが今飲んでいる物で、しかもオプションで自分の生まれ年の製造ときたら、もう驚くより他に仕方がない。押し黙ってしまった渋谷に玖珂は不思議そうな顔をして視線を向けた。

「祐一朗、どうかしたのか?」
「あ……いえ、このシャンパンがあまりに高級なんでちょっと驚いて……」
「そうか?」
「そうですよ。普通の人はあまり飲まないような物だと思います。大変だったんじゃないですか?年代も指定だと……」
「いや、そんな事はない。店の仕入れ先の業者に親しくしている人がいてね。探して貰ったんだ。本当は、次の年が当たり年だったから、迷ったんだが……やはり生まれ年にして良かったな。祐一朗が気に入ってくれれば、それでいい」
「その知人の方にも御礼を言っておいて下さいね……、でも、そういう大事な事は最初から言ってくれないと……。俺、危うく気付かない所でしたよ?」
「気付かなくても、別にいいんじゃないか?俺の自己満足だからな」
「そんな、勿体ないですよ」

 わざわざ渋谷のために取り寄せたという、年代物のシャンパンは渋谷がラベルに気付かなければそのまま飲み終えて片づけられていたのは間違いない。それではせっかくの玖珂の気遣いが無駄になってしまうと言うのに……。

 自分からは何も言わない玖珂に渋谷は少し苦笑し、もう一度グラスに口を付け、「本当に、美味しいです」と玖珂へ微笑みかける。ラベルに気付いた自分を今ばかりは褒めてやりたい気分だった。

「あぁ、そうだ。祐一朗、ちょっと待っていてくれ」
「え?あぁ、はい」

 高級シャンパンに不似合いなおかずに割り箸を伸ばした渋谷を止めると、玖珂はキッチンへと入っていく。
何か出し忘れたのかと思って待っていると、玖珂はすぐに戻ってきた。手に持っているソレを見て、渋谷は首を傾げる。

「――お箸……ですか?」

 手渡されたのは、塗り箸だった。
渋谷は使おうとしていた割り箸をテーブルへ置くと、玖珂の渡してくれた箸を持ってみる。スーパーで玖珂が買ってきたのはこの箸の事なのだとこの時に気付いた。玖珂の手元を見ると同じ箸が用意されている。
玖珂の持っているのは黒で渋谷に渡された物は深緑でデザインは全く同じ物のようである。

「夫婦箸を買うのもおかしいからな、結局は二つとも同じ物だが」
「………」

 玖珂が買ってきてくれた箸を見ながら渋谷は俯いていた。さきほどの玖珂の家族の話が脳裏へと浮かび、食卓の風景と重なっては消えていく。小さな事かも知れないが、渋谷専用の箸を用意してくれた玖珂の想いに胸が急に苦しくなった。

「この箸、持ちづらいか?」

 玖珂が、箸を掴んで合わせを確認している。勿論、持ちづらいなどと言うことはなかった。
箸を指に挟んだまま、込み上げる感情を胸の内にしまうのに苦労する。

「いえ、持ちやすいですよ……。俺専用の……箸、ですね」
「あぁ、そうだよ」

 玖珂が自分を愛しそうに見ているのを感じ、渋谷も顔を上げた。
自分は玖珂の家族にはなれない、それでも一番近い場所にずっといられたら……。この箸をいつまでも使うことが出来たらいいなと思わずにはいられなかった。 渋谷は新しく用意された箸でおかずを皿へとり、口へ運ぶ。さきほど味見したときより、甘い気がしたのはきっとこの箸のせいだ。
 その後、玖珂は渋谷の作った煮物やムニエルを食べ、「本当に美味しい」と嬉しそうに何度も言うのを見ていて、渋谷は、明日家に帰る時に和食の料理の本を買って帰る事を心に決めた。