俺の言い訳彼の理由12


 

 出張先の香港を昼過ぎに発ち、成田へ7時頃到着した渋谷は、空港の手荷物受取所で旅行鞄が回ってくる間、携帯を取り出してメールを打っていた。
『今、成田へ到着しました。お仕事中だと思うので返信不要です。また連絡します。』
自分で読み返しても、全く愛想もなく事務的だとは思う。思うのだけど、文章を飾る絵文字の存在も知ってはいるが、使った事が無い。電話ならもう少し素直に自分の気持ちを口することも出来るが、時間的に玖珂は仕事中なのがわかっているのでかけるのも憚られる。
 渋谷は画面を見ながら考え込んでいた。『近いうちに会いたいです』と打ってみては消し、『お土産買ってきました』と打っては、別に今すぐ言う事ではないなと思い直し、また文字列を消す。溜息をつきながら結局先程の文面のまま送信ボタンを押した。

 中々流れてこない荷物に痺れを切らせていると、暫くしてポケットにしまった携帯が震えているのに気付く。慌てて取り出してスライドしてみれば、玖珂からのメールだった。返信不要と書いたのは自分にも関わらず、返してきてくれた事に素直に嬉しくなる。
『おかえり。今夜は疲れているだろうから、ゆっくり休むんだよ。』
 玖珂からのメールも簡素な物ではあったが、「おかえり」と言ってくれる人間がいるというだけで、こうも気持ちが落ち着く物なのかと画面を眺めながら思う。強行スケジュールで疲れた身体も軽くなる気がするのが不思議だ。
 漸く流れてきた手荷物を受け取ると、渋谷は自宅への帰路を急いだ。
 
 
 次の日からは出張で空けていた分の皺寄せが一気に来て、仕事は山積みの状態であった。留守の間、東谷に急ぎの仕事は変わって貰っていたが、彼は彼で自分 の仕事も有るので、徐々に貯まった仕事が蓄積したのは仕方無い事である。栄養ドリンクを片手に貯まった仕事を片付けながらも渋谷はそれが嫌だとは微塵も 思っていなかった。寧ろまたこうして仕事に打ち込める環境にいる事。今はもう煩わす物も一切ない現状に満足していた。それに、どんなに忙しく疲れていても 自分は今一人では無いのだと思うと幾らでも頑張れる。
 渋谷の中で玖珂の存在がどんどん大きくなっている事に自分でも気付いていた。まだ自分の気持ちを玖珂へ「返事」として伝えてはいないが、そう遠くない内にその日が訪れるだろう。
 忙しさに追われながらも、帰宅して眠る前には必ず玖珂の事を思い出す。玖珂の仕事は夕方から深夜、遅いときは明け方までという話しを聞いていたので、渋 谷から電話をかけるタイミングが掴めずにいたが。そんな渋谷を思ってか、3日に一度は、仕事の合間を縫って玖珂は電話をかけてくれた。
 特別な毎日を送っているわけでもない、一介の会社員である自分が面白い話題を提供できるわけもなく、今日の夕飯は何を食べたのかとか、渋谷のマンション の隣にいつもいる猫の話しだとか、そんなくだらない話しばかりになってしまうというのに、玖珂はいつも嬉しそうにその話を聞いてくれた。「もっと君の声を 聞かせて欲しい」、そう言われればやはり嬉しくて、つい時間を忘れて話し込んでしまう。

 電話の最後にいつも思う。早く会いたい……と。
 しかし、ここ数日とても忙しいという言葉を聞いてしまうと、その一言を口にするのは躊躇われ結局飲み込んでしまう。玖珂からの電話がない日は、その想いがもっと強くなった。
 いつでも電話に出られるようにと、枕元に携帯を準備して眠りながら渋谷は思う。誰かからの連絡をこんなに心待ちにしていた事等、今まではなかったはずだ。慣れないその感情はこれが恋なのだと自覚するには十分だった。
 男同士なのにとか、こんな自分では玖珂に釣り合わないのではないかとか、そんな幾つもの事を理由にして誤魔化してきた自らの気持ち。玖珂から口付けられたあの雨の日。それよりもっと前から胸にあったその気持ちを、抑える必要はもうないのだから……。
 
 
 
 それから一週間後、漸く会う予定を作る事が出来た。といっても玖珂は休みな訳ではなく夜からは仕事なので日中の短い時間だけになる。渋谷の休みに合わせ て逢いに来てくれる事になったのだ。自由がきく仕事だから、気にしなくていいと玖珂は言っていたが、都合を合わせて貰うのに多少罪悪感が湧く。
 土日が定休の渋谷と違い、 平日休みがメインな玖珂とはやはり中々時間が合わない。「今は少し仕事も落ち着いているから大丈夫」そう言った玖珂は、会った時に話したい事があるとも 言っていた。何の事なのかはわからないが、久々に会えると言うだけで待ち遠しい。土曜よりは日曜の方が都合がいいとの事で、会うのは日曜日に決まった。
 
 
 
― 日曜日の朝 
 普段から早くに起きつけている癖で、会社が休みでも自然に目が覚めてしまう。玖珂が訪ねてくるのは昼過ぎだとわかっているというのに、渋谷は8時にはすでに起き出していた。
折角の休みなのだからもっとゆっくりと眠ればいいのだが、玖珂と会う予定があるというだけで何となく落ち着かない。それはこの前会った時に、あんな事があったからというのも勿論あるし、いつも会っていたのは夜で昼に会うのが初めてだというのもある。
 どうでもいい朝の情報番組にチャンネルを合わせ、渋谷はそれを眺めながらただトースターで焼いただけのパンを珈琲で流し込む。番組の途中で挟まれる星座 占いを流し見していると、自分の星座は10位という微妙な位置だった。10位だという事には何も感じず、玖珂はいつが誕生日なのだろうと考える。
 玖珂とは結構話しているとはいえ、案外色々な事を知らない事に気付く。いつか聞いてみようと思いながら、渋谷はテレビを消すと、食器を持って立ち上がった。

 スーツ姿以外で会うのは初めてなので、渋谷は少ない私服の中からどれを着るかしばらく考えていた。8割方スーツ姿で外出する事ばかりなのでプライベート で着る服はあまり数がない。考えながらクローゼットをかきわけて渋谷はもう何ヶ月も服を買ってない事に気付いていた。そもそも休日にショッピングに行くと いう事事態が滅多にないのだからそれは当然とも言える。
 流行の服の情報などは勿論仕事上では必ずチェックはするものの、いざ自分が着るとなるとそういうものには手が出ない。渋谷は無難な濃紺のシャツを引っ張り出すとベージュのズボンと合わせ鏡の前で苦笑した。
 お洒落に気を遣った事などない自分が何を気にしているというのだろうと地味な自分が滑稽に思えてくる。

  11時近くなって掃除も終わり、後は待つだけの時間になった。時間が空いたので仕事の資料整理をするためにつけたパソコン画面の前で渋谷は頬杖をついていた。目の前の資料を眺めてはいる物のマウスに乗せた指は動くことはない。
 しかし、何かをしていないと人を待つ時間というのは酷く長く感じるものである。デジタル時計が点滅しているのをただ見ながら渋谷は時間が過ぎるのを待った。
 そうこうしているうちにやっと昼が過ぎ、軽い昼食をとった後、渋谷はパソコンを消し立ち上がった。
約束の時間の5分前、玖珂がチャイムを鳴らす。渋谷はモニターでその姿を確認した後、玄関へと向かった。
鍵をあけ、ドアをあけた渋谷の前には見慣れない姿の玖珂が立っていた。

「いらっしゃい。どうぞ、あがって下さい」
「こんにちは、お邪魔するよ」

 玖珂の私服は思っていたよりシンプルなものだった。真っ白なシャツの襟元を大きくあけ、細身のスラックスをはいている立ち姿はスーツ姿の時より幾分若く見える。髪型もいつもと違い下ろしているので雰囲気も違う。

「今日も暑いですね。ちょうど今は日差しがきついから」
「あぁ、そうだな。久々に早起きして日中に外に出たが、……やはり夜とは違うもんだね」
「そうですね。昨晩も遅かったんですよね?早起きさせてしまってすみません……。寝不足じゃないですか?」
「あぁ、いや。それは大丈夫。渋谷君は?昨日はゆっくり眠れたかい?」
「あ、……はい。俺は大丈夫です」
「そうか、それなら良かった」

 靴を揃えてあがった玖珂は渋谷のあとに続いて部屋へと入る。「狭いですけど」と迎え入れた渋谷は玖珂にソファに座るように促すと用意しておいた飲み物を テーブルへと置いて自分も向かい側へ腰を下ろす。外が暑いので氷をいれた冷たいお茶にしたが、珈琲の方が良かったかと少し心配になる。
 何せ来客をもてなす事など、ほぼ初めてに近いのだ。そんな渋谷の心配は取り越し苦労のようで、玖珂が出されたお茶に口を付ける。「暑いから冷たい物にし てくれたんだろう?美味しいよ」そう言って微笑む玖珂に気持ちを見透かされたようで少し恥ずかしく思い、渋谷は曖昧な笑みで返す。部屋をグルリと見回し、 玖珂は少し笑った。

「うん、想像以上に渋谷君らしい部屋だな」
「そうですか?……物が何もないんですけど」

 必要最低限の物で揃えられた渋谷の部屋はスッキリとしており、掃除の行き届いた部屋は清潔感がある。並べられている本なども、大きさを揃えて収納されて いて、渋谷の几帳面さを表していると玖珂は思った。ここで渋谷が生活してるのかと思うと、やや殺風景な部屋でさえ意味のある物に思えてくる。
 玖珂はそう思いながらグラスへもう一度手を伸ばしお茶を飲むと、横に置いてある紙袋を渋谷へと差し出した。

「あぁ、そうだ。はい、コレお土産。来る時に買ってきたんだが……。確か、渋谷君は甘い物が好きだって言ってただろう?」
「覚えていてくれたんですね……。すみません、気を遣って頂いて有難うございます」

 玖珂が土産に買ってきたという紙袋を渡され、渋谷は覗き込むと驚いた表情で玖珂を見返した。それは銀座にある有名な洋菓子店の焼き菓子で、並ばないと買 えないという噂の物であった。会社で女子社員が一ヶ月にに一度は必ず食べたくなると話していたのを聞いた事があるし、情報雑誌でも何度か取り上げられてい た。なので名前だけは知っていたが、勿論食べた事はない。

「ここのお菓子……並ばないと買えないって言われているお店のですよね?」
「そうなのか?あぁ、だからあんなに列が出来ていたのかな。俺は甘い物はあまり食べないから知らなかったが」
「もしかして玖珂さん、相当並んだんじゃ……」
「時間もあったし、行列ができるほど美味しいのかと思ってね。でも、さすがに女性ばかりで少し恥ずかしかったかな」

 玖珂はそういって苦笑した。女性だけの列に玖珂が並んでいた図を想像して渋谷も苦笑する。間違いなく目立ったに違いない。そんな恥ずかしい思いをしてまで買ってきてくれた事を渋谷は嬉しく思った。

「一度食べてみたかったんです。嬉しいです」
「そうか、それは何より」
「あ、お持たせで申し訳ないですが、良かったら一緒にどうですか?」
「あぁ、いや。俺はいいから、後で君が全部食べて良いよ。こんなに渋谷君が喜んでくれるなら、今度また並んでもいいって気になるな」

 嬉しそうな渋谷を見て玖珂も目を細めた。向かい側に座っている玖珂がテーブルにおいてあるグラスを手に取る際に、正面の渋谷から玖珂の胸元が僅かに見える。鍛えているのか、引き締まったその胸板は、渋谷のものと全く違う。
同性のそんな姿を見たとしても何も感じないはずなのに、渋谷は何故か目のやり場に困り、その度にわざと視線を外していた。そんな渋谷を見て玖珂は「どうした?」と不思議そうな顔をしている。

「い、いえ……。何でもないです」
「そう?それにしても渋谷君は私服だと若く見えるな……。こうして見ていると大学生と言われても信じてしまうね」
「え?そうですか?」
「あぁ。でも、若く見られるのは嫌なんだったかな?」
「玖珂さんになら……別に構わないです。でも、どうしてだろう……そこまでではないと思うんですけど……」
「そうだな……どうしてだろうな?まぁ、俺が渋谷君を可愛いと思っているからかもしれないな」
「か、可愛いとか……そういうのはさすがにないかと……、俺もう30過ぎているんですよ?」
「30過ぎたら可愛いはダメなのかい?困ったね……。じゃぁ、綺麗に変えておこうかな」
「そういう意味じゃないですけど……」

 返事に窮し、顔を紅潮させる渋谷に玖珂は「ごめんごめん」と笑いながら謝る。玖珂のこういう突然の甘い台詞には中々慣れることは出来ない。その度にドキ リとするし、動揺もしてしまう。多分こればっかりはいつになっても『慣れる』という事はないのかもしれない。渋谷は顔を上げるとその話題を強引に玖珂へと 向ける。

「でも、玖珂さんもスーツ姿じゃないと雰囲気変わりますよね。最初見た時、少し驚きました」
「それは、いつもよりいいって取っていいのかな?」
「えぇと……スーツも今も、どっちも……その……似合ってます……」

 精一杯の言葉を告げる渋谷に玖珂は嬉しそうに微笑む。玖珂は私服ではシンプルな物が好きなのだと言う。本来、男性は自分自身が目立つのではなく、いかに 隣の女性を引き立て綺麗に見せれるかが重要であり、女性より目立つような服装はあまり好ましくないと思っていると玖珂は付け加えた。
 渋谷は玖珂の言う一歩引いた所での控えめなセンスに感心し、格好いいのに気取った所のない玖珂の居心地の良さは、そういう所からもきているのだろうと考えた。
 しかし、いくらシンプルにしていてもよほどの女性でないかぎり玖珂の隣りに並んだら負けてしまいそうではある。その事を玖珂自身は気付いていないようであった。

 他愛もない会話はあちこちと話題を変え、話しは渋谷の出張先での話になる。行きの飛行機が酷く揺れて墜落しないか心配した事や、泊まっていたホテルの窓 から見えた香港の夜景がとても綺麗だった事。相槌を打ちながら楽しそうにそれを聞く玖珂は、こんな自分の話を聞いていて本当に楽しいのだろうかと考える。

「俺のこんな話ばかり聞いてもつまらないですよね……」
「どうしてそう思うんだ?俺は楽しいよ」
「そ、そうですか?」
「あぁ、凄く楽しいね。ただ、揺れた飛行機に一緒に乗っていたら、手を握る事も出来たし。綺麗な夜景も一緒に観られれば……。そう思うと、その場にいなかった事が悔やまれるけどね……。まぁ、それはこれからいくらでも機会はある。そうだろう?」
「……そうですね。機会があれば……。あ、そうだ」
「……うん?」

 出張の話しをした事で、渋谷は渡そうと思っていた土産をすっかり忘れていたことに気付く。「ちょっと待ってて下さい」と言い残し部屋へとそれを取りに行くと綺麗にラッピングされたそれを玖珂の前に差し出した。

「たいしたものじゃないんですけど、お土産です」
「俺に買ってきてくれたのか?」
「はい」
「悪かったね、わざわざ。でも、嬉しいよ。有難う」
「開けてみて下さい。趣味に合うかちょっと不安なんで……」
「何かな?じゃぁ、あけてみようか」

  玖珂は包装をはずすと中の物を取り出す。渋谷が買ってきたのはネクタイで、濃いグレーの地に小さめの柄が入っている。普段シックな色合いのカラーシャツを 合わせている事が多い玖珂に似合うだろうと考えて選んだのだ。ネクタイを取り出して玖珂は嬉しそうに胸元に当ててみせた。

「使えそう……ですか?」
「あぁ、勿論。今度会うときに締めてくるよ。濃い色のスーツが多いから、丁度合わせやすそうだ。有難う。大切にするよ」
「……気に入って貰えて良かったです」

 渋谷は免税店でこのネクタイを選ぶのに相当迷ったのだ。玖珂が喜んでくれた事でホッと胸をなで下ろす。大切そうに元の箱へとそれを仕舞うと玖珂はもう一度礼を言い荷物の側へとそれを置いた。
 少しずつ夕刻へと近づき、昼のきつい日差しは影を潜める。玖珂が腕時計をチラリと確認したのをみて、もうそろそろ帰らないといけない時間なのかと渋谷は内心残念な気持ちになっていた。
  玖珂が煙草を吸っても構わないかと聞き、 渋谷はテーブルにおいてある灰皿を差し出す。煙草の先に火が灯り、ジジッという小さな音を立てる。玖珂は少し間を置いた後、徐に口を開いた。

「渋谷君」
「……はい」
「今日は、君にひとつ話しておきたいことがあってね。電話でも言ったと思うが……」
「……はい、何ですか?」
「……渋谷君のお母さん……朝子さんが亡くなったというのは本当なのかな……」
「え……何故、母の事を……」
「……今まで渋谷君に言わなかったのは、本当に申し訳ないと思ってる。俺は、渋谷君のご両親が経営していた塾で学生の頃アルバイトをしていたんだ……もう10年以上前になるが……」
「え……本当ですか……!?」
「……あぁ」

  渋谷は想像もしなかった玖珂の言葉に驚きを隠せなかった。こんな偶然が自分の身におこっているという事すら信じがたい。しかし、玖珂が偶然を装って嘘をつ くとは到底思えないし、玖珂が嘘を言うような人間ではないことくらい渋谷も百も承知だった。なので驚きはしたがそれを受け入れることにする。渋谷はこの先 に続く言葉をまだ知る術がなかった。

「凄い偶然ですね……玖珂さんの仰る通り、母は事故で……他界しました」
「そうか……やっぱり……」
「…………?」
「渋谷君が朝子さんの息子だとわかったのは、初めからじゃないんだ……。最初に会った日に名刺をくれただろう?その名前を見て気付いてね。俺も最初は信じられなかったが……」

 珍しく言い淀む玖珂に、渋谷は自分の中で何かが動くのを感じていた。母が亡くなったという事は、先日、塾のあった場所へと行った際に近所の人間から聞いたらしい。
 玖珂は何故、母の事を名前まで知っているのだろうか……。渋谷はこの先に続く話しを聞くのに不安を覚える。
 心の何処かでこの先を聞かない方がいいと囁く声が聞こえ、耳を塞いでしまいたくなる。
しかし、渋谷はそれをぐっと堪えて玖珂の話の先を促した。真剣な眼差しで語る玖珂から逃げる事だけはしてはいけないと思った。出した声が僅かに震えている事で玖珂も渋谷の想いを差し計る。

「あの……母の事……、バイトで知っていた……というだけではないんですか?……」

  玖珂は一瞬目を伏せて酷く辛そうな表情をした。初めて見る玖珂のその表情に胸が締め付けられる。自分の心音が煩いほどに耳に響き、渋谷は息を呑んだ。

「俺は……朝子さんの事を当時愛していた……」
「…………」
「……一度だけだが……関係を持った事もある……」
「え……それ……は……」

 渋谷の中に玖珂の言った台詞が何度も繰り返される。玖珂と母親が関係を持っていた事は驚きだった。朝子はとてもいい母親で不倫をしているなど想像した事も無い。その母親が、知らない所でこうしてアルバイトの学生と関係を持っていたなど信じられなかった。
だけど、その事が霞むくらいに渋谷はショックを受けていた。

──玖珂は自分に母を重ねて見ているのではないか。

 すぐに思い浮かんだその事が渋谷の胸を掻き乱す。母親にそっくりだといわれる容姿も、玖珂が好意をよせる理由には十分なり得るのではないか……。そう思 うと息が苦しくなるような錯覚に陥る。今まで手を伸ばせばそこにいてくれた玖珂の存在が途端に遠く感じ、渋谷は目の前が暗くなるのを感じていた。改めて激 しく痛む胸に手を当て渋谷は俯いたまま目を伏せる。

「……最初に……言っておくべきだったな。……本当にすまない」
「……別に……大丈夫ですよ……」
「……渋谷君」
「大丈夫……ですから……。俺も、もう子供じゃないし……」

 あえて、自分のもうひとつの気持ちのことは触れずに渋谷は顔を上げた。玖珂が僅かに眉根を寄せて渋谷の事をみつめている。性懲りもなくその視線にまた渋谷は縋りそうになるのを抑えて無理に微笑んで見せた。
玖珂は何も悪くはないのだ。
 自分を朝子と重ねていたとしても、渋谷の今を作ってくれた事には変わりない。それは感謝するに値する物で、その事には礼を感じるべきなのだから……。整理のつかない想いを押し込めると渋谷はその話しを自ら切った。

「話して下さって有難うございます……。流石に、驚きましたけど……俺は平気ですよ……」

 玖珂はそう言って微笑む渋谷を前に、自分が話した事で確実に渋谷を追いつめた事を感じていた。こうなることはわかっていたのに、何故渋谷に真実を告げてしまったのか。少しの後悔が押し寄せたが、すぐに間違っていないのだと自分に言い聞かせる。
 隠し事をしながら渋谷に向き合うのは裏切りでもある。もしもこれで、渋谷が自分を許せないと言うのなら身を引く覚悟もあった。
 だけど……、玖珂は無理に明るく勤める渋谷の横へと座ると、泣きそうなその笑顔に耐えられず腕を伸ばした。
 渋谷は拒絶するわけでもなく、あの日と同じように玖珂の腕の中にいる。なのに、感じなかった。渋谷の想いがもうそこには存在しない。体から伝わる温もりさえ存在しないように感じた。

「嫌な話しを聞かせて、すまなかった……」
「……玖珂さん……本当に気にしないで下さい……俺は」

 渋谷はそのまま言葉を続けることはなく、曖昧に微笑むと玖珂の腕の中からそっと自分のからだを離した。玖珂はそのままゆっくりと立ち上がると視線を合わせない渋谷を見下ろし下唇を噛む。
 急にこんな話しを聞かされれば、誰だって困惑するだろう。今は時間をおいたほうがいいのだ。全てを知った上で、先を決めるのは渋谷自身……。彼が決めた この先を自分は受け入れよう。そう決めてきたのだから……。玖珂は手荷物を持つと、渋谷の肩へと手を置く。見下ろした彼の背中が寂しそうで、その手を離せ なくなる前に、背を向けた。

「じゃぁ、今日はそろそろ帰るよ。色々と有難う」
「いえ……」

 力なく呟くと渋谷は黙って玄関まで見送りに来た。一度も視線を合わせないまま玖珂が出て行くのをただ呆然と見る。すっかり夕刻になり、沈みかけた太陽が眩しい夕日を開いたドアの隙間から照らす。目の前で大きな音を立ててドアがしまると同時に玄関は真っ暗になった。
 それはまるで自分と玖珂との関係までもを絶ってしまったように感じ、渋谷は玄関へとズルズルとしゃがみ込んだ。
もっと色々言い訳も出来たはずである。

──遊びだったのだとか。
──所詮昔の話しだから気にしないでくれだとか。
──朝子と君を重ねたことはないのだとか……。

 なのに、玖珂は一言も誤魔化しの言葉を吐かなかった。ただ真実だけを告げた。それは玖珂の誠意なのかもしれないが、今の渋谷は思う。優しい嘘でも良いから言って欲しかった……。そうしたらもっと……。
 玖珂が最後にまわしてきた腕はいつもと寸分変わらず暖かく渋谷を包んでいた。今でも、信じたいと願っている。 その腕の温もりを受け入れたかった。だけど、少し力が入った抱擁の中で渋谷はそれを受け入れることが出来なかった。そんな自分は臆病だと思う。
──こんな事になるなら……最初から玖珂の事を好きになんてならなければよかった……。
 今更はっきりと気付いても、もう何もかも手遅れなのなのはわかっている。自分がどんなに玖珂に想いを寄せていたのか。玖珂の隣の場所をどんなに欲しているのか。

「何で……今になって…………」

 自分で呟いた途端、渋谷の目から一筋の雫がこぼれ落ちた。不安と自身への苛立ちが涙になって伝わってくる。渋谷は涙を拭うこともなくそのままドアに拳を打ち付けた。